第1話 僕は転生モブです
これは乙女ゲーム『彼方の聖女』の世界だ。
聖女の力を持つ平民の少女が、貴族たちとの関わりを通じて運命を切り開いていく物語。
攻略対象は、王子や騎士、軍師に魔法使いと、多彩なイケメン揃い。
主人公クリスティーナが彼らと恋をし、時には成長しながら愛を深め、ハッピーエンドを迎える――そんな「王道の乙女ゲーム」だ。
……少なくとも、表向きは。
だが、このゲームには、もう一つの側面がある。
それが 「悪役令嬢リリアナ・フォン・エーベルハルト」 の存在だ。
彼女は王子の婚約者でありながら、聖女であるクリスティーナに嫉妬し、陰湿な嫌がらせを繰り返す悪役ポジション。
最終的には、貴族学校の卒業式で開催される王子の即位記念の場で、婚約破棄とともに断罪される。
そして、彼女に待っているのは 破滅。
それが『彼方の聖女』の定番ルートだ。
そんな『彼方の聖女』の世界に、僕はモブ貴族の少年として転生してしまった。
よりにもよって、断罪イベントの傍観者ポジションにいる名もなき貴族の子供に。
いや、待ってほしい。
こういうゲーム世界に転生するなら、主人公か攻略キャラじゃないのか?
……が、どれだけ嘆いても、現実は変わらない。
僕はただのモブ なのだ。
だけど、転生したからにはやりたいことがあった。
それは リリアナを救うこと。
彼女は確かに悪役として描かれていたけれど、原作ゲームでもアニメ版でも、どうしても納得がいかなかった。
彼女はそんなに悪いことをしていただろうか?
嫉妬したり、傲慢な態度を取ったりはしていたけれど、あそこまで理不尽に断罪されるほどの悪人ではなかった。
むしろ、彼女の存在が物語を盛り上げるために「都合のよい悪役にされた」としか思えなかった。
ならば、助けなければ。
モブだからって、できることはある。
剣を学び、魔法を学び、この世界の知識を集め、彼女を破滅の運命から救うために努力した。
そして迎えた運命の日――夏の帰省を終えた、卒業式の断罪イベント。
僕は、場違いだと知りながら、その煌びやかな大広間に立っていた。
光を反射する巨大なシャンデリア、足元に敷かれた赤い絨毯、貴族たちの豪華な衣装――すべてが異世界の「乙女ゲーム」の中で見た光景そのものだった。
だが、目の前に広がるのは華やかさよりも冷たさを感じさせる空間。
ここで行われるのは、悪役令嬢の「断罪」。
そして、罪を問われるのは――リリアナ・フォン・エーベルハルト。
彼女が処刑される運命の瞬間が、いま始まろうとしている。
「リリアナ・フォン・エーベルハルト!」
第一王子アレクシスの声が、大広間に響き渡る。
青い軍服を纏った彼は、剣の天才と謳われる男だ。
彼の隣には、主人公――黒髪の聖女クリスティーナ。
アレクシスはリリアナを冷たく見下ろし、厳かに宣告する。
「貴様の嫉妬深い行いにより、クリスティーナに多大な苦痛を与えた。
これ以上、貴族社会の恥を晒すわけにはいかぬ!
本日をもって、婚約を破棄する!」
周囲から嘲笑と非難の声が上がる。
(ここだ!ここで僕が声を上げるんだ!リリアナを救えるのは僕だけ…!?)
僕が声を上げる直前、リリアナと視線が合った。
僕を一瞥した後、金髪の縦ロールが静かに揺れた、唇には微かに笑みが浮かんでいる。
そして、彼女は――どこに隠していたのか――赤い剣を抜いた。
「なっ……!?」
大広間にどよめきが走る。
リリアナの手には、その細腕に似つかわしくない剛剣。
煌びやかなドレスの裾から、まるでずっとそこに隠していたかのように、それは現れた。
貴族たちは息を呑み、誰もが信じられないという目をしている。
悪役令嬢が剣を抜く――そんな展開、ゲームには存在しない。
「王子殿下に剣を向けるなど、狂ったか!?」
「自殺するつもりか!?」
「やめなさい、リリアナ! 罪を重ねるつもりなの!?」
クリスティーナの悲鳴のような声が響く。
しかし、リリアナはそんな彼女の言葉に一瞥もくれず、
まるでこの状況すら織り込み済みのように、王子アレクシスを見据えた。
そして、静かに口を開いた。
「アレクシス・フォン・レギウス殿下」
その声には、いつものわがままな響きも、媚びるような甘さもなかった。
ただ、凛とした冷たい響きだけがそこにあった。
「あなたは今、私に一方的な断罪を下しました。
ですが、貴族の名誉を奪うというのであれば――相応の覚悟をお持ちですわよね?」
アレクシスが眉をひそめる。
「貴様、何が言いたい?」
リリアナは静かに剣を構えた。
その動きは、貴族の令嬢が振るうにはあまりにも洗練されていた。
「決闘を申し込みます」
広間が静まり返る。
「決闘……だと?」
アレクシスの声が低く響く。
「婚約云々は、確かに王室に裁量がありましょう。
ですが、私とてエーベルハルト公爵家の娘。
貴族としての誇りを踏みにじられることを、ただ黙って受け入れるほど愚かではありませんわ」
リリアナは剣の切っ先をまっすぐ王子に向ける。
「私は婚約破棄を認めません。
もしあなたが本当に私を否定するというのなら――力で証明なさいませ」
「……っ!」
アレクシスの目が細められる。
その表情には、一瞬の驚きがあった。
周囲の貴族たちがざわめき出す。
「決闘……? 本気なのか?」
「いや、だが、貴族には名誉の決闘というものがある……」
「だが相手は王子殿下だぞ? あのアレクシス殿下に挑むなど……!」
「お待ちなさい! そんなこと、許されるわけが……!」
クリスティーナが声を上げるが、それを制するようにアレクシスが手を上げた。
「いいだろう」
「――え?」
クリスティーナが驚愕する中、アレクシスは薄く笑った。
「貴様がそこまで言うのなら、受けてやる」
静かに剣を抜きながら、アレクシスは言う。
「愚か者が。お望み通り、地獄へ送ってやろう」
その瞬間、空気が変わった。
リリアナが剣を構える。
彼女の目には、一切の迷いも恐怖もなかった。
「地獄ですか。――どうぞお一人で」
次の瞬間、銀閃が走る。
王子アレクシスの剣が弾き飛ばされる。
同時に、彼の体が一閃され――
「ぐ……っ!?」
衝撃の余波が広間に響き渡る。
王子の体は宙を舞い、数メートル後方の壁に叩きつけられた。
ドンッ――!
分厚い石造りの壁に激突し、鈍い音を立てながら崩れ落ちるアレクシス。
――悪役令嬢が、王子を倒した。
理解が追いつかないまま、さらに追い討ちをかけるように ドォォォォン! という轟音が響いた。
遠くから聞こえてくる、蹄の音。
剣戟の響き。
「な、なんだ……!?」
「エーベルハルト軍だ!!」
「公爵が王都に攻め込んできた!!」
その言葉が広間を駆け巡る。
僕の頭は混乱し、思考がついていかない。
――公爵軍が、王都を襲撃!?
そんな展開、ゲームにはなかった!
その時、リリアナがゆっくりと周囲を見渡した。
その顔には、勝者の余裕が浮かんでいた。
「この場にいる全員にお知らせしますわ。
これは、我が父――エーベルハルト公爵が主導する、新たな秩序の始まりです」
その言葉が響いた瞬間、大広間の扉が開かれる。
鎧を纏った公爵軍の兵士たちが、怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。
「リリアナ、お前の望み通り、王族どもを一掃する時が来た」
威厳ある声とともに、エーベルハルト公爵が歩み出る。
僕は息を呑み、ただ呆然とするしかなかった。
――これは、乙女ゲームの世界のはずだ。
目の前で起きているのは、完全に「ゲーム外」の出来事だった。
その時、彼女の鋭い視線が僕に向けられた。
「そこな少年」
リリアナがゆっくりと僕に近づいてくる。
まるで目の前にいるのが生きた人間ではなく、興味深い実験材料か何かであるかのような目で。
「先ほど私を助けようとしていましたわね。その理由を聞かせていただけます?」
剣の切っ先を下ろしたまま、彼女は淡々とした口調で言う。
僕は、口を開こうとするが、喉が張り付いたように声が出ない。
――ど、どうしよう。
ここでうかつに「ゲームの展開を知ってるから」とか言ったら、どうなる?
むしろ、リリアナに怪しまれる?
頭の中でぐるぐると思考が巡る。
「……まあ、いいですわ」
リリアナはすっと背を伸ばし、余裕たっぷりに微笑んだ。
「いずれ詳しく聞くことにします」
彼女が指を軽く振ると、公爵軍の兵士たちが近づいてくる。
鎧の擦れる音が、やけに大きく響いた。
「捕らえなさい。この者は、私自身が尋問いたします」
――えっ!?
「ちょっ、待っ――」
抗議する間もなく、がっしりと両腕を掴まれる。
がっちりとした兵士の腕は、大人と子供ほどの力の差があった。
じたばた暴れたところで、まるで歯が立たない。
……え、ちょっと待って、僕、助けるつもりだったんだけど……
どうして逆に捕まる流れになってるの!?
まるで悪役令嬢ルートじゃなくて、僕が処刑ルートに入ったみたいなんだけど!?
僕は公爵軍の兵士に両腕を押さえられたまま、王城の奥へと連行された。
――どうして、こんなことになった?
本来なら、リリアナはあの場で断罪され、婚約破棄されるはずだった。
それがどうして、王子をぶっ飛ばして、公爵軍がクーデターを起こす展開になっているのか。
僕は必死に状況を整理しようとするが、頭が追いつかない。
断罪イベントは確かに存在する。でも、公爵軍の奇襲なんて――ゲームにはなかった。
「……入れ」
兵士の声に促され、僕は重厚な扉をくぐった。
そこは、王子アレクシスの居室だった。
部屋の主はもういない。
今そこにいたのは――
「さて」
優雅に椅子に腰掛け、紅茶を口にしている一人の少女。
金色の髪を持つ、あの悪役令嬢――リリアナ・フォン・エーベルハルト。
まるで何もかも予定通りとでも言いたげに、余裕の笑みを浮かべている。
その佇まいは、もはや「悪役令嬢」ではない。
王国を乗っ取る女傑そのものだった。
扉が閉まり、僕とリリアナは二人きりになった。
リリアナはティーカップをソーサーに戻し、ゆっくりと僕に視線を向けた。
「先ほどの断罪の場……あなたは私を助けようとしていましたわね?」
その声には探るような色が混じっていた。
「……そう、です」
僕は正直に頷いた。
「どうして?」
リリアナの瞳が、じっと僕を射抜く。
どう答えるべきか迷った。
ゲームの知識があるから?
彼女が断罪される未来を変えたかったから?
――いや、それをそのまま言ってしまったら、僕がただの異常者みたいじゃないか。
言い淀む僕を見て、リリアナはフッと笑った。
「例えば……悪役令嬢がこのままだと断罪されるから助けようとした、とか?」
心臓が跳ねる。
「あるいは、その未来を変えるために動こうとした……とか?」
その言葉を聞いた瞬間、僕はガチッと歯を食いしばった。
――まるで、僕の考えを見透かしているみたいだ。
「ど、どうして……」
怯えた声が漏れる。
「そんなことを……」
「あなたの反応で、確信しましたわ」
リリアナは頬杖をつきながら、微笑む。
冷たい笑みでも、見下す笑みでもない。ただ、興味深いものを見るかのような、淡々とした表情だった。
「私は、日本から来た転生者です」
――やっぱり。
「……あなたも、そうなんでしょう?」
それを言われた瞬間、僕は観念した。
目の前のリリアナは、もはやゲームの中の悪役令嬢ではない。
僕と同じ、「転生者」なのだ。
「……そう、です」
僕はゆっくりと頷いた。
――ここからは、もう隠せない。
僕は、リリアナに向き合い、話し始めた。
自分がこの世界の「モブ」として転生したこと。
そして、リリアナを救おうと決めた理由を――。
リリアナは微笑を浮かべたまま、すっと背筋を伸ばし、椅子に深く腰掛けた。
その仕草は優雅でありながら、どこか測るような鋭さがある。
「……面白いですわね」
低く囁くような声だった。
「私以外にも転生者がいるとは思っていませんでしたわ」
紅茶のカップを指先で軽く回しながら、リリアナは僕を見つめる。
その表情は興味深げだったが、その奥にある感情は読み取れなかった。
「……あなたが転生者……」
彼女はふと視線を落とし、何かを考え込むように沈黙した。
室内の静寂が、さらに深まる。
やがて、リリアナは再び僕を見つめ、静かに口を開いた。
「私は、この世界を何度も繰り返してきましたけれど……」
何度も繰り返している…?
その言葉に、僕の心臓が跳ねた。
「……今回のように、私以外の転生者が現れたことは、一度もありませんでしたの」
「……そういえば、まだ聞いていませんでしたわね」
リリアナが唐突に話題を変えた。
「少年……あなた、お名前は?」
「……モブロック」
答えるべきか一瞬迷ったが、隠す理由もない。
「僕の名前は、モブロック」
リリアナは軽く頷き、微笑を深めた。
「モブロック…モブくんですわね。覚えておきますわ」
彼女の言葉は、なぜか威圧感すら感じさせた。
「まあ、それはそれとして」
リリアナは椅子に深く座り直し、静かに目を閉じる。
「話しておくべきことがありますわね」
空気が張り詰める。
「私が、どのようにしてここに至ったのかを」
僕は一瞬息を呑んだ。
「……これまでの経緯を、教えてほしい」
その言葉に、リリアナは満足そうに頷く。
「ええ、では話して差し上げますわ」
カップを置く音が響く。
そして彼女は、静かに語り始めた。
「――私が、何度この世界で殺され、そして、どのように生き延びてきたのかを」