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十二
五十槻は人生で初めて読書に没頭した。
──それがしは猫でござる。名はまだござらん。
そんな書き出しから始まるその物語は、猫の世界に侍として生まれた名無しの猫「それがし」を語り手とし、それがしの飼い主である人間の教師やその知り合い連中に、近所の猫たちの日常を描いた作品である。
五十槻は夜、八朔の屋敷の自室に閉じこもって読書に耽っている。本を読むと言えば、姉も父もさほど関わってはこなかった。軍務に関わる重要な書物かと思われたのかもしれないし、ただ家族として距離をはかりかねているのかもしれない。けれど干渉されない時間を持てるのは、五十槻には有り難かった。
五十槻はこんな奇妙な本を初めて読んだ。まず、文章が口語体である。
軽妙洒脱な語り口は、精一と鑑賞しに行った落語のしゃべり方を思わせる。また、物語に展開する事象自体はとりとめもない。飼い主が絵画を始めただとか、近所の親分猫が足を怪我しただとか、本当に些細な日常の切り取りである。
修養にも実学にも資する内容ではない。けれど。
五十槻は何日かかけて、この一冊の本を読んだ。
毎日軍務を終え、家に帰り、家族との会話は一言二言、お風呂の後に、自室にこもり。
物語には風刺と滑稽味が満ちている。残念ながら、爆笑を期して記されているユーモアには、五十槻の表情筋はピクリともしなかったが。このような読み物、香賀瀬修司のもとではきっと、一生読ませてもらえなかったであろう。
闊達な文章を読んでいると、不意に脳裏に香賀瀬の声がよぎることがあった。神祇研の物置で厳しく叱られているときの声だ。そういう夜は読書を中断して、布団の中でひっそり涙をこらえたこともあった。
しかし、「五十槻」という自己を離れて、猫の「それがし」の──他者の視点を介在しつつ、物語という事象を観測することは、少女にとってこれ以上ない未知の経験である。それはまるで、帰り道に躑躅の花の蜜を初めて吸ったような。
── ── ── ── ── ──
少女の知らないところで、もちろん家族は心配していた。けれど。
五十槻が軍務に出ている間、父や姉たちは、こういう会話をかわしている。
「ねえ奈月。本当に五十槻をこのまま放っておくの? 華道や着付けの稽古は……」
「そういうのは行く行くでいいんです、皐月姉さん。やはり私の見立て通り、獺越のところの神籠は五十槻に懸想しているようですわ。毎朝あの辻で、あの子のことを待ち構えているんですもの。もちろん今朝だって」
父の書斎に入り浸って、長女と次女はお茶に煎餅をぐびぐびバリバリしながら、末妹の身辺をあげつらっている。
万都里が毎朝八朔家近くで五十槻を待っているのは、奈月にはもうバレてしまった。けれど次女は冷静である。
「そして、様子を見るに……彼、あの子のことを男子と思い込んだまま好意を寄せてるようです」
「それなら、五十槻が女子だって打ち明ければ、もしかしたら──」
「けれど相手は獺越の家の者です。昔から何かと八朔を目の敵にしている家の、それも神籠に……もし打ち明けて、五十槻が不利益を被る結果になってはなりません」
「じゃ、じゃあどうすんのよ……」
「しばらくは静観しましょう。先日藤堂さんにしてしまったような轍を二度も踏む真似は御免です」
「うぐっ……まあ確かにあれは悪手だったわね」
「もしかしたら、五十槻に令嬢としての自覚を促す好機になるかもしれません。五十槻を恋に落とした上で、できれば向こうから駆け落ちを持ちかけてくれれば安泰です。その際は獺越本家に見つからぬよう、うちの離れに匿いましょう。がんばれ獺越負けるな獺越、五十槻を乙女にゴーゴーゴー」
「私は藤堂さんの方がいいと思うけどなぁ……」
姉妹の会話を横で聞きながら、家長の克樹は「はぁ……」と嘆息しきりである。
「ちょっと。父さまもため息ばっかり吐いてないで、手っ取り早く五十槻を軍隊から引き離す方法考えてよ」
「しかし……」
「なーにがしかしよ! まったく、獺越んとこの神籠にも迂闊に手を出せないとなると、やっぱりあの子を連れて海外逃亡くらいしか手がないじゃない!」
皐月の剣幕を浴びながら、克樹はもう一度ため息を吐いた。
父の耳には、あの晩の娘の怒声が蘇っている。
──いったい、姉さまも父上も、誰を見ながら話をしているのです?
──どうして、いまの僕を見てくれないんですか。どうして軍人である僕を受け入れてくれないんですか。
──どうして、神籠である僕を……。
── ── ── ── ── ──
七月下旬、光陰刻々。
五十槻は継母の部屋でも本を読んでいる。慣れない口語体に悪戦苦闘していて、まだ文庫の左手側の厚みはたっぷりあった。
開け放たれた障子戸、ときどき吹き込む風。ちりんと鳴る風鈴。
ときどき弓槻が泣く。なので、五十槻は読書の傍らでんでん太鼓を振ってやる。いまはもう、理不尽に弟をしかりつけることはなくなった。けれど弓槻にはしかられたときの記憶が残っているのか、五十槻と目が合うと時たまハイハイで逃げ出そうとする。
暑いでしょう、と、和緒が切ったスイカを持ってきてくれたりした。
甘いスイカを食べながら、『それがし』を読んだことがあるという和緒と、作品のことを少し話したり。
読書のさなかに襲撃してきた睡魔に打ち負かされるまま、畳の上で弟と並んで、午睡をむさぼったりした。
昼寝の間に、父が涙目で様子を見に来ていたことを五十槻は知らない。
姉たちは以前のように、女子の習い事を無理強いしてくることはなくなった。代わりに、綜士郎や万都里のことを詳しく尋ねてくるようになったのが不可解だ。何を企んでいるのかは分からないが、姉さまがたももう嫁いでいるのだし、節度を持ってほしいと思う五十槻である。
ミンミンと蝉の声が騒々しさを増す中で、屋敷の中に居場所が増えていく。
ときどき父と縁側で話をすることがあった。
「い、五十槻……本を読んでるんだって?」
不器用に話しかけてくる父に害意はなさそうだったので、五十槻は少しだけ会話に応じる。
「はい。中隊近くの書肆に、藤堂大尉と来訪した折に購入いたしました」
「藤堂さん、か……。それで、何を読んでいるのかな?」
「『それがしは猫でござる』です」
「ははぁ、ずいぶん古い本を買ってきたんだなぁ。昔はずいぶん流行ったなあ、それ」
「……父上は、お読みになったことがおありで?」
「ないねえ」
「…………」
「…………」
残念ながら話題は続かない。それでも、溝のあった家族と歩み寄りのあった時間は、かけがえのないもので。
八朔家で一番安心できる場所は、やはり継母のそばだった。父は「血縁のない者ばかりと」とちょっと不服そうであったが。
「この頃、おうちの中の雰囲気が柔らかくなってきたわね」
ハイハイで逃げる弓槻を追いかけているときに、和緒が話しかけてくれた。襖の隙間から部屋を出ようとする弟を捕まえて継母のもとへ連れて行くと、和緒は五十槻の頭をたおやかな手で撫でてくれる。
「一時期は、みんなどうしちゃったのかと思ったけど……よかったわね、五十槻さん。最近は安らいだお顔をしてるわ。もっと、みんなと楽しくお話しできるようになるといいわね」
「僕、家では母上とだけお話しできればいいです」
「もう、そんなこと言わないの。みんな、あなたのことが大好きなのは間違いないんだから」
継母からの純粋な善意が、五十槻にはありがたかった。弓槻を抱き上げながら母は明るく笑う。
その腕の中にいる赤子が、自分だったらどんなによかっただろう。弟を羨む気持ちはまだ消えない。
五十槻の手の内では、今日も文庫本の左側の厚みが減っていく。それがしの家に住む幼い人間の姉妹が甘味を巡って張り合う場面が、なんだか妙に心に残った。対等に競い合える関係とは、どういうものだろう。
また縁側での父との距離は、じりじりと膠着状態が続いていた。父が五十槻の側に尻を寄せれば、五十槻は逃げるように尻ひとつ分避ける、という具合に。それでもそんな無言の応酬のさなか、五十槻の喉元に──しばし皇都を離れます、という台詞がこみ上げることが多くなった。
──言わなきゃ。伝えなければ。
家にいるときに、軍営にいるときに、警邏で街へ出るときに。徐々に心は意を決していく。でも、いまの家庭の安らいだ雰囲気を壊すのが怖い。
それでも、段々と打ち解けてきた今だからこそ。不器用な歩み寄りをたしかに感じる、今だからこそ。
「僕、今日帰ったら──家族にちゃんと伝えようと思います」
決意したのは七月末日近くなってからだった。梧桐の影の落ちる石段で、綜士郎は五十槻の決断をにっと笑みを深めて受け止めてくれた。そんな彼に、五十槻は続ける。
「作戦のことだけじゃないです。……香賀瀬先生にされたことも、ぜんぶ」
「……お前が決めたんなら、俺はなにも言わないよ」
「ありがとうございます。なるべく父や姉が妙な気を起こさないよう、用心しながら伝えます」
「用心って……。まあ確かに、あの暴走ぶりだし、お前が懸念するのも無理はないが。でも家族の大事な話なんだ。まずは素直に話して、自分のしてほしいことを、きっちり伝えてみなさい。いいね」
「は、はい」
「よし、頑張れ!」
ばすっ、とひときわ強い力で背中を叩かれる。やっぱり、五十槻をどこかへ押し出すような力加減だ。でも今日はその力加減のおかげで、たしかに勇気をもらっている。
背水の陣だ。綜士郎にまず決断を報告したのは、退路を断ちたかったから。敬慕してやまない藤堂綜士郎にまず宣誓することで、五十槻は自ら逃げ道を塞いだつもりである。別に怖気づいたって、綜士郎は気にはしないだろうけど。
ここ数日で、自分の知らない自分になったようだ。綜士郎の知らないところで色んな人と関わって、色んな考え方に触れて。五十槻はいまは誰の力も借りず、難題に挑みかかろうとしている。上官からの激励を背に、少女は石段から立ち上がった。
「……頑張ります!」
万感の思いで告げた言葉に、綜士郎はまた──あの寂しそうな笑顔で応じた。
── ── ── ── ── ──
その日の帰宅時のことである。
五十槻は黄昏に染まる今日の帰路を、いつもより重い足取りで歩いていた。まずどう切り出そうか、どんな風に打ち明けようか。頭の中で予行演習がぐるぐる巡る。時々香賀瀬修司の「神祇研での教育内容は口外せぬこと、たとえ家族であっても」という声が脳裏に兆してきて、家に帰るのが苦しくなった。
それでも重い歩みを引きずって、八朔家の門前へ着いたときのことだった。
門の内が騒がしい。使用人や家族が、なにか玄関のあたりで喚きたてている気配。
弓槻の泣き声と、和緒の泣き叫ぶ声が聞こえてきたとき──五十槻はがむしゃらに走り出していた。
何かが起きている。絶対に、よくないことが!
「何の騒ぎですか!」
「坊ちゃん!」
門のすぐ近くにいた家従の山沢が、いの一番に応じる。彼越しに八朔家の門口を覗き込んだ五十槻は、凍り付いた。
見慣れた玄関をふさぐように、八朔家の使用人たちが立ちはだかっている。ひとっこ一人屋敷から逃がさないとばかりの様相だ。玄関のすぐ近くには、何事か大声を上げている父と、姉と、姉と。
「お願いします、お願いします! なんで、なんで連れて行っちゃうの! 私の弓槻──!」
泣きわめきながら何者かの裾に縋り付く和緒と──そんな彼女を相手にせず、弓槻を抱いたままこちらへ向かってくる男。
五十槻は男の顔に、うっすら見覚えがあった。少女の目前で、末っ子を連れ去られそうな父と姉たちが、男の腕や着物を引っ張りながらこちらへ振り返った。全員必死の形相だ。姉ふたりが叫ぶ。
「五十槻! お願いこいつを屋敷から出さないで!」
「弓槻が連れて行かれちゃう! 百雷に! あなたと同じように……!」
え、と五十槻は紫の眼を見開いた。見覚えのある男は、たしかに知っている顔だ。壮年で、少し恰幅がよくて、白い神職の衣装に身を包み、丸顔へ一見柔和な笑みを浮かべている。五十槻はその名を思い出した。
百雷山の祝部──古田一比古。
古田は軍服姿の五十槻を認めると、余裕の笑みを浮かべた。大勢から敵意を向けられているにもかかわらず。
「おや、これは五十槻殿。お久しゅうございますな」
「古田さん……? この騒ぎは、いったい……どうして突然、当家へお越しを?」
「ははは、いやなに。どうやら近々、神事兵科で大規模な作戦を決行するそうじゃないですか。全国規模の。なんでも、『海宇縦貫作戦』でしたっけな。ご大層な作戦名だ」
「どうしてそれを、祝部が」
古田は問われたことに答えず、腕の中で泣き続ける弓槻をあやしながら、今度は視線を克樹や姉たちへ向ける。
「それもどうも、我らが八朔の神籠が命運を握る一大任務。八洲全土の羅睺の門を封じるだなんて、なんとも威勢のいい話だ。……とはいえ、それだけに五十槻殿の御身には危険が伴う。もちろん、命の危険が」
「五十槻、どういうことだ……?」
父からの疑念の眼差しに、五十槻は答えられず目を逸らした。今日はそれを伝えようと、決心して帰ってきたはずなのに。
親子のやりとりに構わず、古田は慇懃な態度で続ける。
「五十槻殿がいつ命を落としてもやむを得ない状況となりました。然らば、我ら百雷の祝部としましては──」
古田は紫の瞳をじっと、笑みの浮かんだ目元で見つめて告げる。彼の腕の中で、弓槻がわんわん泣く。
「──次代の神籠として早期の養育を施すべく、弓槻殿をお迎えに上がった次第」




