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3-11

十一


 それから綜士郎は、すぐには中隊に帰らず、五十槻を伴って別の場所へ向かう。貸本屋からそう離れてはいない街はずれ、やってきたのは結構な高台だ。丘以上山未満、といった標高だろうか。少しきつめの勾配のある遊歩道を、ふたりで登っていく。道の上にはあちこち茂みがのさばっていて、横木を渡して作られた階段は多少崩れかけていた。しばらくまともに管理されていないことは確実だ。あまり人の行き来のある場所ではないらしい。

 そんな遊歩道とは名ばかりの道を踏破して。

 

「見ろ、なかなかいい眺めだろ?」

 

 頂上へ着いて、綜士郎がこちらを振り返りながら言った。丘以上山未満の(いただき)は見晴らしがよく、開けている。山腹まであった林は頂上付近で途切れていて、頭上には高く広い、八洲の空が広がっていた。

 軍靴で草や土を踏みしめて歩む上官に続いて、五十槻も高台からの景色を望む。

 

「……海が見えるのですね」

 

 ちょっと小高い丘を登ったにしては、ここからの眺望は圧巻である。五十槻たちは登ってきた道とは逆の方角を望んでいるが、こちら側は切り立った崖になっている。眼下に広がっているのは、皇都の街並み。どんなに高い建築も、長大な建物も、いまは小さく小さく、遠く霞んで見える。

 ここ数日で五十槻が訪れた、演芸場や電気館、喫茶店にレストランに楽器店……それらももしかしたら、この遠景のどこかにあるのかもしれない。

 そして東側に広がるのは、青い海。洋上にはこれまた小さく、船が往来している。

 暑い中を軽く登山してきた身体に、ふっと吹き付ける風が心地よい。

 紫の瞳は、じっと皇都の遠景に見入っていた。自分の住む街を俯瞰で見たのは、初めてだ。神域の内で雷霆に身をやつし、かつ高所を飛翔しているときに、こんなにじっくりと景色に見入ったことはない。戦闘中の視界は、景観ではなく、あくまで状況を捉えているからだ。

 ぼんやりと景色に見入っている五十槻の隣に肩を並べて、綜士郎が口を開いた。

 

「ここは誰も来ないし、ひとりでぼんやり景色を眺めるには穴場なんだ。第一中隊に配属されてすぐくらいの頃、街で追いかけてきた女を必死で撒いたときにここを見つけた」

「なんと難儀ないきさつで……」

 

 敬愛する上官は女難の逸話に事欠かない。そしてそれを聞く五十槻にも、自覚はなかった。綜士郎のこれまでの生涯において、自らが最も彼を翻弄した女子であるなどとは。

 

「本当は、五十槻を桜の季節に連れてきてやりたかったんだ。この崖の下がぜんぶ桜の木でさ、春になるとそりゃ壮観なもんだ。でも今年は来れなかったなぁ……門だなんだと、色々と仕事が立て込んで」

「致し方ありません。大尉は重要なお役目を果たしていらっしゃいます。僕を気にかけてくださっただけで、有難い限りです」

「まったく、相変わらず殊勝な言いぶりだ。ま、来年に期待だな。せめてそれまでは、お互い……無事でいよう」

 

 無事でいよう。それまで肩ひじ張らない気楽な語り口だったのに、ここだけいやに真剣だ。

 それというのも──来月から、ふたりは皇都を離れ、八洲全国を巡る任務へ発つことになるからだ。皇国を成す列島を南から北へ、各地の神奈備(かむなび)を歴訪し、羅睺(らごう)の門を探知、破壊する全国縦断任務──『対ラ一号・海宇縦貫(かいうじゅうかん)作戦』が開始される。

 当然、門への攻撃に伴って禍隠の大量出現も予期される。しかも転戦前提だ。

 そして羅睺の門に対する破壊手段は現状、八洲にたった一人。雷神・祓神鳴神(フツカンナリノカミ)の神籠である──八朔五十槻のみ。

 五十槻は作戦の要である。人一倍、危険も多いだろう。

 

「……五十槻。お前、親御さんに皇都を離れることは伝えているのか?」

「…………いえ」

「おいおい……七月もあと十日もないぞ?」

 

 俯く五十槻に、綜士郎はさすがに呆れ顔だ。

 しかし、五十槻はまだ両親や姉に、自分が長期間、危険な任務に発つことを打ち明けられずにいる。家庭内での軋轢は少しずつ弛緩しつつあるとはいえ、新たな火種を自ら口にすることは難しかった。

 

「それはさすがに、伝えておかないとまずい。事前に伝えて心配されるのと、事後に騒ぎになるのとじゃ、前者の方がまだご家族も受け止めようがあるんじゃないか? 伝えるのが難しければ、俺が……」

「い、いえ。藤堂大尉が当家にいらっしゃってはまた、ご迷惑をおかけしてしまいます。まだ父と上の姉が諦めていません」

「そ、そうか」

「それに、やっぱり……僕がちゃんと伝えないと、だめだと思います」

 

 五十槻は足元の地面を見ながら、小さく呟くように答えた。

 

「……僕がちゃんと、自分で伝えないといけない。分かってはいるんです」

「五十槻……」

「去年までの僕にはなかった悩みですね。僕はただ、神域(ひもろぎ)の内で禍隠(まがおに)を殺す存在であればよかった。神域の外のことをこんなに思い悩むなんて、あの頃は、とても……」

 

 それは、神域以外のことに目を向ける意思が育っていなかったからだ。五十槻の世界にあったことは、命令に従うことと、禍隠を殺すことだけ。

 香賀瀬の呪縛から解き放たれ、五十槻は神域以外の世界を本格的に知った。家族、友人、先輩、上官。

 それは決して温かいものばかりではなかった。家族からの期待といま現在の乖離、娯楽の中に混ざる不快要素、美千流や万都里からの熱っぽい眼差し。

 自らが一途に渇仰を捧げる、藤堂綜士郎大尉が──この、目前に広がる景色の、さらに外へ憧れを持っていること。

 八洲の天地は、高く広い。けれど五十槻にとってはどこか、荒涼とした空気が混じっている。七月の末なのに、気分だけが少し寒々しい。

 

「僕はやはり──神域の中にいた方が楽です。禍隠を屠り、ただ門を毀す。何も、面倒なことは考えず……。だって僕は、八朔の神籠だから……」

「……怖いんだな、神籠以外の生き方を知ることが」

 

 五十槻は胸がずきっとした。

 上官はあくまで優しい口調だったのに、その言葉はまるで──五十槻の胸を刺し貫いたかのようである。綜士郎は海の方角へ視線を向けながら、さらに少女の胸中に揺さぶりをかける。あくまで穏やかで、優しげな口ぶりで。

 

「お前をこれまで縛ってきたものは、転じてお前に与えられたものでもあったんだろう。たしかに過酷な環境ではあったが、その枠にしがみついていれば、何も考えなくていい。ただ従っていればいい。生きるのに面倒な葛藤を経ることもない。それが──お前にとっての八朔の神籠という枠、だったのかもしれないな」

「…………」

 

 五十槻の胸はずきずきと痛みを発し続ける。大好きなやわらかい声音が、少女の核心を暴いている。

 

「五十槻は前にこう言ったな。神域の内で、禍隠や門を前にすると、ぶっ殺したり、ぶっ壊したくなる欲があると……。そして、そこに自分自身へのめちゃくちゃな肯定を感じていると。……俺は、思うんだよ」

 

 海の方角から、鋭い目元が問うようにこちらを振り向いた。浮かべている笑みこそ柔らかいけれど、なんだかどこか苦しそうで。

 

「それは本当に、『八朔五十槻』の中から出てきたものなのか?」

 

 五十槻は答えられない。

 神域の外で、家族や周囲の環境に振り回され、ときに悩み、ときにどこか楽しんでいる『僕』。

 神域の内で、神籠の血潮に突き動かされ、忘我のまま悪鬼を屠る『僕』。

 自分で自分が分からないと思った。後者が真であると、以前までなら自信を持って答えられた、はずなのに。

 

「甲といっしょに落語や活動写真を見たり聞いたりして、新鮮だったんだろう?」

「…………はい」

「清澄のお嬢さん達に悩みを聞いてもらって、共感してもらって。嬉しかったんだよな?」

「…………はい」

「獺越の意外な一面を知って、驚きと戸惑いがあった」

「…………はい」

「家族とはきちんと仲直りしたい?」

「……はい」

「俺はな、五十槻」

 

 綜士郎は肩の力を抜くような仕草をする。ひときわ強い風が、崖下から吹き付けてきた。

 

「上官としては、八朔の神籠としてのお前を認めている。お前を八朔少尉として認めてやらなくちゃいけない。それが俺のいまの立場だからだ」

「…………」

「それでも俺は──うまいものを食って目を輝かせたり、人間関係に悩んだり、苦心して猫の本を見つけてくるような……。日常の些細な揺らぎの中に、本当のお前がいると思うよ。俺は、そういう素朴な八朔五十槻が好きだ」

 

 強風は荒々しく五十槻の頬を撫でて去っていった。あとには綜士郎の、いつも通りの温かな眼差しが残るばかり。

 紫の瞳は、よく分からなくて視線を逸らしてしまった。神域の内ではどんな高所にいても怖くないのに、この見晴らしの良い崖の上は──怖い。

 怯える背中をあやすように、いつもの優しい手がそっと擦ってくれる。なのに常に不安を払ってくれるはずのその手が、今日はこのまま五十槻を崖下へ突き落しそうに思えてしまう。もちろん、綜士郎は決してそんなことはしないけれど。

 

「さっき、話してくれたよな。皇都を長く離れること、家族には自分で伝えないといけないって。俺は、お前にそういう一歩一歩を踏んでほしいと思っている。だから嬉しかったよ。自分で決めてくれて」

「でも、すぐに伝えられるか、勇気が……」

「いいんだよ。時間がかかっても。まあ、出発の日までという制限はたしかにあるか。でも大事なのは、五十槻が、自分で伝えることを『選んだ』ってことだ」

「僕……」


 俯いている五十槻の代わりに、綜士郎が遠い街並みや海原を見渡した。


「八洲は広い。お前は──家族に打ち明けることを選んだように、今日その猫の本を選んだみたいに。この八洲の……世の中のどれかを、誰かや何かを選び続けて生きていく。今日何を食べるか、何をして過ごすか。そういうありふれた選択から、人生の岐路に関わる重大な決断まで、ぜんぶお前の──八朔五十槻の選択次第だ。そういうものの連続で人生はできている」

「よく分からないです。藤堂大尉は一体、僕にどうなってほしいのですか……?」

 

 紫の瞳は縋るように、青空の中の大尉の顔を見上げた。上官として、『八朔の神籠』としての存在を認めてほしい。命じてほしい、定義してほしい。

 

「……自分で選べるようになってほしい。俺の助けがなくとも、自分の幸せを」

 

 八洲の空は高く広い。理不尽なまでに。

 綜士郎はその青の中で、ちょっと寂しそうに笑った。


 しばらく皇都の景色を眺めた後、ふたりはもと来た道を戻っていく。「エビフライ食って帰るか」といういつもの兄の声に、五十槻はようやくほっとできた気がする。

 けれど──いつかこのあたたかい陽だまりから突き放されてしまうような、切ない予感は、まだ心の底にこびりついたまま。

 少女は青年の後について歩きながら、胸元に抱えた文庫本をぎゅっと抱きしめた。

 三冊の文庫本、一番手前に重なっているのは──猫の侍の本。

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