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3-10


 聞いてください、藤堂大尉。

 甲伍長と落語や活動写真を見に行きました。

 清澄さんたち、女の子の友達と、街を散策して、喫茶店でおしゃべりをして。

 獺越さんとはコース料理を食べに行きました。ピアノの練習もさせてもらいました。

 新鮮だったこと、面白いと思ったこと。

 悩みを聞いてもらえて、応えてもらえて。慮ってもらえて。僕は友人や先輩に恵まれました。

 女子の装いをさせられたことは、嫌でしたけれど。

 ふだん何気なく関わっている人々に、色んな一面があることを知りました。

 僕はいままでとても、狭いところにいたのですね──。


 梧桐(アオギリ)の木陰が落ちる石段に腰かけて、五十槻はたどたどしくも、一生懸命な口調で綜士郎へ近況を伝えている。

 綜士郎は時折、そうか、うん、と優しく相槌を挟みながら、それを聞いてくれる。鋭い目元を和らげる微笑の仕方は、相変わらず優しい。

 第一中隊の営庭に流れる、ゆったりとした時間。このごろ鳴き始めた蝉の声が、夏の雰囲気に彩りを添えていた。飲みかけのサイダーの瓶口から、しゅわしゅわと微かな炭酸の気配がする。

 五十槻はここ数日で、急におしゃべりになってしまったのかもしれない。もともと自分の感情や考えを表現するのは得意ではないから、語る言葉はつっかえつっかえで、訥弁(とつべん)もいいところだけど。

 綜士郎はそれを根気強く聞いてくれる。五十槻が嬉しいと思ったところで笑みを深め、嫌だと思ったところで顔をしかめてくれる。万都里に想い人がいるらしいと語ったとき、ちょっと困ったような表情をしていたけれど。

 五十槻は楽しいと思った。大好きな人に、とりとめのないことを話して、色んな反応を返してもらえて。ふとした拍子に「ははは」と快活に笑う上官を見て、五十槻はうれしくなった。

 いろんな人の隣に、五十槻は自分の居場所があることを見出したけれど──やはりここは特別だ。藤堂大尉の傍らは。

 

「……安心したよ。ちょっと前までひどい落ち込みようだったからなぁ。その後、家族とはどうだ。ちゃんとやれてるか?」

 

 やっぱり父以上の父の口調だと、五十槻は思う。家のことを思い出すのは少し憂鬱だけど、以前ほどつらくはない。

 

「最近は父も姉も、態度が軟化したようです。理由は分かりませんが……。いまは朝夕の挨拶と、簡単な世話話くらいはします」

「そうか。良かったじゃないか」

「良いのでしょうか。軋轢が根本的に解決されたわけではありません。たしかに以前ほど険悪ではなくなりましたが……」

「ばかたれ。世の中のすべての諍いが、理想的な解決を見るわけじゃない。家庭の中のことならなおさらだ。時間が経つごとになあなあになっていって、いつの間にか仲違いが解消されることもある。というか、そういうことの方が多いだろうな。俺もガキの頃、おふくろと喧嘩するたびにそうだったよ」

「藤堂大尉も、御母堂と諍いを……」

 

 尊敬する上官だってたどってきた道なのだ。美千流や万都里のときと同じく、自分だけじゃないと思えたことで、五十槻の悩みはいっそう軽くなる。

 それにしても、藤堂大尉は昔、どのような少年だったのだろう。少女はたしかにいま、興味を抱いている。

 軍営や神域(ひもろぎ)での、上官としての厳しい面持ち。カツカレーやかけ蕎麦を美味しそうに頬張る姿。柔らかく降ってくる日差しのような眼差し──。

 五十槻はもっと、この人のことを知りたいと思う。

 

「あの、藤堂大尉は」

「ん?」

 

 紫の瞳は興味津々で、傍らに座る上官を見上げた。梧桐の幹を背に、綜士郎が穏やかにこちらを見る。

 

「藤堂大尉は、どういう風に余暇をお過ごしなのでしょうか」

「そうだなぁ……」

 

 綜士郎は腕組みした。上官はちょっと考え込むようなそぶりを見せた後で、ふと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

「うん、ただ答えるだけじゃ芸がないな。五十槻、今日は昼の休憩を長めに取ろう。ちょっと付き合わせてやる」

「付き合わせるとは?」

「休みの日に俺が何してるか、知りたいんだろう? まあ俺は甲や獺越ほど活発ではないし、特に面白みもないと思うが……」

 

 綜士郎は休日にあまり出かける方ではなく、行動範囲も昼休みに出歩ける程度の距離らしい。

 

「先に言っとくけど、相当つまらんと思うぞ」

「きっとそんなことはありません。大尉のことですから、さぞ有意義で実りある余暇をお過ごしのことと推察いたします。是非、ご一緒させていただきたく」

 

 少女の真顔は一見ふだん通りだ。けれど、その内側にはうれしい気持ちがわくわくとこみあげている。

 五十槻の応答に、綜士郎は苦い顔。

 

「ばかたれ。別に実りもなければ有意義でもないぞ。いきなり買いかぶりすぎだ!」

 

 出かける前から過大視してくる部下に、綜士郎は苦言を呈した。いかにもやりづらそうな顔をしながら、上官は「行くぞ」と石段から立ち上がった。


 軍営周辺のちょっとした散歩、が綜士郎の余暇であった。

 ふたりは軍服のまま、第一中隊の近辺を歩いている。綜士郎は現在多忙の身で、最近は休日を取ることすらままならない。そんな上官の時間を使わせてしまうことに五十槻は罪悪感を覚えたが、当の綜士郎は「いい息抜きだ」と、本当に気を抜いている顔で言った。

 夏の晴天の下、軍営近場の商店街。

 綜士郎はどこかへ向かっている足取りだ。目的地はまだ明かしてくれない。途中、暑いだろうとかき氷を買ってくれた。

 店先の長椅子に肩を並べて腰かけて、みぞれのかかったかき氷を食べて。店に器を返してまた歩き出す。

 肉屋、八百屋、花屋。五十槻はこれまで中隊近所の軒先を気にしたことはなかったけれど、今日は色んなところへ注意が向かう。紫の瞳は、以前より少しひらけた視野を得たようである。魚屋の店先では、生きている蛸を初めて見た。

 今日通った路地裏に猫はいない。

 やがて綜士郎の足取りは、一軒の店の前で止まった。『吉香(きっこう)文庫』と額のかかる、随分と年季の入った店構えのそこは──貸本屋である。

 

「こちらですか。藤堂大尉が休日を過ごされているのは」

「あー、なんというか……ここで本を借りて、宿舎でそれを読むのが俺の趣味でな。というわけで、俺は休日の大半を自室でゴロゴロして過ごしている」

「ゴロゴロ……」

 

 予想外の余暇の過ごし方だ。五十槻はてっきり、武術の稽古や慈善活動など、藤堂大尉は何かしらの立派な行いをして過ごしているものだと思っていた。幻滅するかと言われれば……正直、少しだけ。

 

「ははは、呆れた顔をしているな? だからお前は俺を買いかぶりすぎなんだ」

 

 綜士郎はあくまで自然体だ。拍子抜けする五十槻に構わず、青年は店の扉をそっと開く。ドアベルがちりんと鳴いた。


「あ、お兄さん久しぶりだね」

「どうも」

 

 店へ入るなり、出入り口すぐに設けられたカウンターから眼鏡の男性が、こちらへ顔を向ける。綜士郎が言葉少なに応じて、そして会話は終わる。顔見知りではあるけれど、深入りはしない。そんな雰囲気だ。眼鏡の店主はちらりと五十槻を見たあと、すぐに興味を手元の本へ移す。店番しながら読書しているようだ。

 狭い店内には、本棚がみっちりと詰まっている。

 窓もなく、物寂しい電灯がひとつだけ天井にぶら下がっている。けれど電灯の明かりは高い本棚に遮られていて、店内は全体的にぼんやりと薄暗かった。

 平日の昼間のせいか、他に客はいない。勝手知ったる足取りで店の奥へ向かう綜士郎のあとを、五十槻も追った。

 

「本がたくさんあります」

「貸本屋だからな。まあ、ここは古本を売ったりもしてる。貸出の本はあっちで、古本はこっちの棚だな」

「お詳しいのですね」

「ああ、ここはずいぶん通いつめてるからなぁ……。他の本屋は流行りの本や雑誌を積極的に置いているからだと思うが、女性客が多くてかなわん」

 

 当人の望まぬ顔かたちの良さは、この上官に様々な苦労を強いているようである。言いながら綜士郎は、さっそく目前の本棚を鋭い眼差しでじっと(あらた)めている。

 

「お探しの本があるのですか」

「いや、別に」

「目的の本があっていらっしゃったわけではないのですか?」

「別に目当ての本がなくてもいいだろう? 偶然手に取った本が、案外面白かったりするもんだ」

 

 ふと会話をとめて、綜士郎がこちらを振り向いた。

 

「……お前、本屋自体は来たことあるのか?」

「いいえ。いままで読んできた書物は、学校の教科書か、香賀瀬先生に与えられたものばかりです」

「なるほど……つまり五十槻はこれまで、自分で本を選んだ経験がないというわけだ」

 

 言われてみれば、綜士郎の言う通りだ。これまで親しんできた古典や華籍|(太華の書物)は、学校の支給品のほかは、すべて香賀瀬から課題として渡されたものばかり。それだけでも、他の書物を読む暇もないほどの量だった。小中学校と、五十槻は休み時間に級友と遊ぶ時間をすべて犠牲にして、それらの課題をこなしてきたものだ。

 

「よし、いいことを思いついた。五十槻、この店の中からどれか、気になる本を選んでみなさい」

 

 だから上官からそんな提案をされて、「え……」と五十槻はたじろいだ。戸惑い気味に、紫の眼が目の前の本棚をなぞる。並んでいる背表紙は、すべて小説本だ。

 

「え、選び方が分かりません。たくさんありすぎる」

「んなもん、題名とか表紙を見て、ピンときたやつを選べばいいさ。ちょっとくらいなら立ち読みしたっていい。特に小説なんかは、文体や雰囲気が合わないとすぐに飽きるからな。色々手にとってみろ」

「小説……」

 

 五十槻は正直なところ、気が進まない。

 小説──架空の空言ばかりを書き連ねた、陳腐な著作。幼い頃に、香賀瀬がそう評していたのを聞いたことがある。

 天下国家を論じる大説に対し、街談巷語(がいだんこうご)、すなわち市井で噂されるような些細な出来事を記録したものを小説と呼ぶ。八洲ではいつしか「小説」という語は、物語全般を著した書物の総称として使われるようになっていった。

 絵空事を読むのは、五十槻には少し抵抗がある。書物とはあくまで精神の修養、実学的な知識を得るためにあるものだ。これまでの五十槻の中の常識ではそうだった。

 ただただ本棚とにらめっこするばかりの生真面目な部下へ、綜士郎は笑いかける。

 

「おいおい、そんなに難しい顔して悩むことがあるか。お前はもう、落語や活動写真を見たり聞いたりしたんだろ? あれと同じで、気楽に楽しめるフィクションだ」

「ふぃくしょん」

「そうだ。肩ひじ張らず、力を抜いて滑稽話でもなんでも楽しめばいい。それじゃあそうだな……俺も何冊か見繕ってやるが、まずは一冊、興味を惹かれる本を自分で探してみなさい。上官命令だ!」

 

 藤堂大尉がおすすめしてくれる書物ならば、それはたしかに読んでみたい。とはいえ。

 それでも一冊は自力で何か選ばなくてはならない。なにせ上官命令である。

 しかたなく五十槻は綜士郎から離れて、他の棚を見てみることにした。まるで大海に投げ出された井蛙(せいあ)の気分である。

 薄暗い書店の隘路(あいろ)を進みつつ、紫の瞳は右往左往している。ほこりっぽい空気、隙間なく棚差しされた大量の書物、パラフィン紙で覆われた平積みの書籍。日焼けした黄表紙に古そうな華籍や、どっしりとした装丁の洋書などもある。どこもかしこも、書物だらけの空間だ。

 狭い通路を通り抜けた先には──猫がいた。

 

「『それがしは猫でござる』……冬目(ふゆめ)枕流(ちんりゅう)?」

 

 それは奇妙な表紙の本だった。武士の装束を着た猫が描かれている。題名も表紙も奇妙であれば、著者名も変わっている。その文庫本は平積みの古本の上にどでんと、妙に堂々とした佇まいで鎮座していた。表紙の猫はふてぶてしく、こちらを睥睨しているかのようである。

 なんだか不思議な引力を感じて、思わず五十槻はその本を手に取った。

 ためしにペラペラと最初の数ページをめくって読んでみる。主人公はどうやら表紙の猫らしい。猫の世界では武士の生まれだそうで、その猫の「それがし」が人間の教師に飼われることとなり、波乱万丈の日常を送る……という筋書きである。小説は終始、猫の語り口の体で記されている。

 猫が人間のように物を見、考えるなど、荒唐無稽もいいところだ。五十槻はいったん、小説本を平積みの一番上へ戻すけれど。

 その後数分、他の棚の前で色んな本をためつすがめつした挙句、結局、五十槻は武士の猫の表紙へ戻ってきてしまった。少女は致し方なくといった様子で猫の本を手に取ると、綜士郎のもとへ戻る。

 

「だいぶ古い本を選んできたなぁ」

 

 上官は五十槻の選んだ本をそう評した。綜士郎はなんだか嬉しそうだ。

 

「……だがいい本だ。うんと荒唐無稽なのが、五十槻にはいちばんいい」

「そうでしょうか。もう少し高尚な内容の方が、身になるのでは……」

「ばかたれ、余暇だって言ってんだろ。休息のための読み物なんだ、内容なんてくだらなくていい。まあ、俺もあまり下品だったり、荒唐無稽が過ぎるやつは好かんが……」

 

 綜士郎は本を五十槻へ返す。青年の眼差しは、なおも表紙の猫侍を懐かしそうに見つめている。どうやら思い入れがありそうな様子に、五十槻は尋ねた。

 

「大尉もこの本を、読んだことがおありなのですか」

「ああ。小学生の頃だったかなぁ。親父が帰ってきて家にいて居づらいとき、友達の家に入り浸っててさ。そこの家が借りてた貸本を、暇つぶしに読んでたわけだ。見料も払わずにな。はは、懐かしいな」

「思い出の本なのですね……」

 

 かくして、五十槻が初めて選ぶ本は決まった。

 猫侍の本を大事に抱える五十槻に、綜士郎はさらに二冊、小説本を手渡した。「これ」と彼から差し出されたのは、冒険小説と推理小説だ。いずれも海外の作家が書いたものを、邦訳したものらしい。

 少女は二冊の本を「ありがとうございます」と丁重に受け取る。

 

「わざわざ僕のために選んでいただき、感謝の念に堪えません。帰宅後にさっそく拝読したく……」

「待て待て。もしかして俺が選んだ分から読む気か?」

「もちろんです」

 

 五十槻の返答に、綜士郎はちょっと厳しい顔をする。それからたしなめるような口調で、上官は忠告した。

 

「いいか五十槻。まず最初は、お前が自分で選んだ本を読め。俺が選んだ分を読むのは、それからだ」

「そんな……せっかく大尉が直々に選んでくださったんです。どうしてこちらが先ではだめなのですか」

「そもそもお前は、選ぶことに慣れていないだろう」

 

 ため息まじりの綜士郎の弁を、五十槻は静かに聞いている。ふたりが話す声以外に聴こえてくるのは、店主がペラリとページをめくる音だけ。

 

「まずは、自分が選んだものをじっくり読んでみるといい。俺が選んだ分を先に読んでしまうと、その後の読書に妙な色眼鏡をかけた状態で臨むことになる。……その、言ってる意味、分かるか?」

「ええと……?」

 

 五十槻には理解しかねる理論だ。

 当人にはあまり通じていないけれど、綜士郎は、なるべく五十槻が不要な先入観、価値観を持ったまま読書に臨まないよう、配慮を試みている。上官は兄の口調で続けた。

 

「俺が選んだものを先に読めば、お前は妄信的に『これが正解だ』と、きっと思ってしまう。正直、いまの五十槻にはそういうところがあるよ。おそらく自分の感性より、俺の感性を優先してしまう。でもそうじゃないんだ。まず、お前が自分で選んだものを読め。この表紙や題名、冒頭、どこかに惹かれるものがあったんだろう?」

 

 言葉を尽くして説明してくれる綜士郎に、五十槻は睫毛を伏せる。

 

「……分からないです。ただ、なんとなくその本が気になっただけで……。でも、この猫の本もいい作品なのでしょう? 大尉の思い出の本です。きっと、僕のためになるような、そういう本だと……」

「ばかたれ。俺は暇つぶしに読んだとは言ったが、感想は言っちゃおらんだろう。子どもの俺がこれをどう感じたかは、いまは話さない」

「はぁ……?」

「ただ、五十槻は頭が固いからな。こういう馬鹿馬鹿しい、荒唐無稽な読み物はちょうどいい劇薬だ。面白いにしろつまらないにしろ、お前の中で何かしらの化学反応は起きるだろう」

「化学反応……?」

「いまは分からなくて結構。自分で選んだものを、まずは自分の感性で受け取りなさい。つまらなかったらやめてもいいし、面白かったら全部読めばいい。なんなら途中から読むのもありだな。本の読み方なんて本来自由だ」

「自由……」

「俺が選んだ本を読むのは、それからだ」

 

 綜士郎の言っていることはめちゃくちゃだ。書物を途中から読むなんてそんなこと、五十槻は考えたこともない。

 とりあえず上官からの指令は、一番最初に『それがしは猫でござる』を読むこと。

 いまいち納得できない風の真顔で、五十槻は猫の表紙と見つめ合っている。(かみしも)を着た猫は妙にいかつい顔つきで、可愛らしさは微塵もなかった。

 そんな部下の横で、綜士郎が目の前の本棚へ手を伸ばす。そっと背表紙を引っ張って取り出すのは、外国の旅行記だ。

 

「本はいいぞ五十槻。家にいながら、どこにでも連れて行ってくれる」

 

 言いながら、武骨な指が書を開く。びっしり書面へ並んだ文字の海に、綜士郎の鋭い眼差しが吸い込まれていく。

 まるで大海を望む少年のような面持ちで、綜士郎は言った。

 

「神事兵、特に神籠は国外への渡航が禁じられているからな。八洲の国の中だって、管轄地域外への旅行はなかなか許可が下りない。だからこうやって──本で世界の様々なことを知ることができるのが、俺の数少ない幸せのひとつだ」

「藤堂大尉の……」

「八洲の名勝、太華の街、西洋の港。本の世界は八洲だけじゃなく、何千里も遠く離れた国々ともつながっている。まるで旅行した気分にさせてくれる。見知らぬ誰かの眼差しを通して──」

 

 言いながら文字の列をなぞる綜士郎の目元は、本の中に本当に、八洲の名勝や太華の街、西洋の港を見ているようだ。雲を衝くほどに高い山を、賑やかな雑踏を、どこまでも広がる海原を、きっと、文字を通して思い描いている。

 そんな横顔を見て、五十槻は気付いた。

 

「藤堂大尉は、外国に憧れていらっしゃるのですか」

 

 少し無遠慮な質問だったかもしれない。上官の内面へ踏み入る問いに、五十槻はなぜか口に出したあとで緊張した。どうしてか、「そうだ」という返事が怖いと思った。

 

「そうだなぁ」

 

 綜士郎のしみじみした返答を、五十槻は真顔のまま受け取っている。寂しくて切ない気持ちが、胸の内に去来した。

 

「できることなら行ってみたいもんだ。太華にも西洋にも……ま、神依(かむより)なんて身分だから一生かなわぬ夢だけどな」

「………………」

 

 それからふたりはそれぞれ本を持って、入り口近くのカウンターへ向かった。

 店内の本には、特に貸本だの販売分だの、目印のようなものはついていない。けれど眼鏡の店主は「これはお勘定、こっちは見料を」と、的確に本を見分けて会計をする。五十槻の三冊はすべて古本で、綜士郎は貸本を二冊借りて帰るようだ。

 店を出たところで、店主はどうして貸本かそうでないか、目印もないのに分かるのかと、五十槻は綜士郎へ問うた。上官からは「なんかあのおっちゃん、どうも店の本を全部覚えてるっぽいんだよな」との返答が返ってきて、五十槻は真顔のまま驚愕した。世の中いろんな人間がいるものである。

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