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3-9


 五十槻は憤懣やるかたない。今朝はせっかく姉を振り切って少年の装いを死守したというのに。こんなところで見知らぬ他人に女性の装い──それも振袖を着せられようとは。

 少女は今日一日の憂鬱を覚悟した。対して、傍らを歩く同期は何やらご機嫌だ。浮かれた鼻歌まで聞こえてくる。のんきな鼻歌は異邦の夜想曲のメロディをなぞっていて、五十槻の憂いをいっそう際立たせた。

 振袖の衣擦れ、長髪が風になびく感覚、街行く人から向けられる視線。五十槻は否応にも思い知らされる。父や姉の望む五十槻もきっとこんな風に、令嬢の装いに身を包み、傍らに婿の器たる好青年を伴っていて──。

 しかし到着した目的の店──錦寿軒(きんじゅけん)で、五十槻はすぐに憂鬱を忘れた。

 初めてのコース料理は……驚きと美味の連続だったから。

 

「獺越さん、ふぉーくとないふがたくさんあります」

「いいか、カトラリーは外側から順番に使っていけ。こっちから前菜、スープ、魚料理、ソルベ、肉料理……」

「かとらりい? そるべ?」

 

 五十槻はもはや女装を気にしている場合ではない。さっそく運ばれてきた前菜に興味津々の視線を注ぎ、不器用なフォーク遣いで挑みかかる。

 万都里はテーブルマナーの師範役を務めながら、あれこれと料理について説明してくれた。五十槻がスープ皿を持ち上げて直接口を付けようとしたときには、「ぶはっ!」とツボに入っていたようである。青年は終始楽しそうに、五十槻がコース料理相手に奮闘する様を見届けてくれた。

 万都里は基本的に、お手本のような食事作法を披露しつつ料理を楽しんでいる。けれど時々、五十槻の不作法に爆笑しながらナイフの先をこちらへ向けてきたりもした。

 前菜、スープ、魚料理、ソルベ、肉料理、デザート、カフェ。

 正直ゆっくり味わうどころではない。何かと横文字は多いし、フォークにナイフだっていつまでたっても慣れやしない。ただ指でちぎって食べるだけのパンが、唯一の癒し。

 そして何より──対面からじっとこちらを見つめる万都里の眼差しが、五十槻には少し居心地が悪かった。ときおり熱の混じる視線を受けていると、なんだかむずむずする。

 

「……獺越さんは、お付き合いされている方と、よくこちらへいらっしゃるのですか?」

「ぶふぉッ」

 

 間を繋ぐように口に出した話題は、何やら万都里の意表を突いたようである。青年は食後の珈琲を盛大に噴き出している。

 

「げほっ、げほっ……おい、なぜ急にオレに交際相手がいると?」

「獺越さんは第一中隊の一部の兵卒から、藤堂大尉に続いて女性関係に節操がないというご評価を受けているようです。藤堂大尉については事実無根の言いがかりであり、まことに許せませんが……」

「おい、なぜ藤堂の潔白は信じて、オレに対してはそうじゃないんだ?」

 

 じろっ、と万都里はいつもの同期の目になった。五十槻は少しほっとする。万都里は続けた。

 

「……別にいまは付き合ってる相手なんかいない。ま、たしかに実家から見合いしろって圧は強いけどな……お前はどうなんだ?」

「んぶっ」

 

 今度は五十槻が珈琲を噴き出す番である。せっかくミルクと砂糖で飲みやすかったのに、もったいない。

 口許をナプキンでごしごししている女装の同期を見ながら、万都里はさらに尋ねた。

 

「お前だって八朔の嫡男だろう。いま十六歳なら、婚約者の話くらい出てるんじゃないのか?」

「そ、それは……えーと」

「おい、その反応。まじか、うそだろ……」

 

 万都里はなぜか落胆しているようである。

 

「実を言うと、そういう話は最近ありました。お断りしましたが……」

「そ、そうか。そいつはなによりだ」

 

 年上の同期は瞬時に元気を取り戻す。五十槻はとても言えやしない。その婚約者候補の相手が、藤堂綜士郎であるだなどとは。さらに自分が嫁側で上官が婿にされそうだった、などとは。

 そんな五十槻の胸中いざ知らず。万都里はテーブルに頬杖をつき、目の前の可憐な令嬢をちらりと盗み見ながらさらに問う。

 

「……お前、好きなやつはいるのか?」

「藤堂大尉ですが」

「即答だな……。オ、オレが言ってるのはだな、恋愛という意味合いにおいてだ。藤堂はその……お前にとってはそういう相手か?」

「いいえ」

「即答だな……!」

 

 今度は何やら喜びを噛み締めている口調。

 恋愛か、と五十槻は心の内で考える。自分自身には、この世で最も遠い感情、遠い事象だ。愛だの恋だのよく分からないし、そもそもこの一身は乙女でもなければ、少年でもない。性的なことに関する精神的な瑕疵も抱えている。

 

「僕は一生恋愛も結婚もしないし、したくない」

 

 五十槻にしては珍しい、正直な本心の吐露である。膝の上に置いた手が、ぎゅっとナプキンを握りしめる。

 対面でそれを聞く年上の同期は、一瞬ひくっと眉をひきつらせた。けれどそんな微かな表情の変化に、五十槻は気付かない。青年は何事も無かったかのように、面持ちの(かげ)りを刹那のうちに引っ込めて、皮肉な口調で応じた。

 

「まったく、藤堂みたいなこと言うな。そんなところまで影響されるのか?」

「藤堂大尉とは別の意味で、です。別に僕が家を継がなくても、弟がいますから」

「やれやれ、少し前まで藤堂を結婚させようと躍起になってたくせに……まったく、自分のことになるとそれか」

「う……」

 

 迂闊なことは言えないものである。尊敬する上官への前科を蒸し返されて、五十槻は閉口する。しかし目の前の同期は、続けて軽口でも叩いてくれればいいのに、それきり黙っている。ごく、と珈琲を飲み込む音。

 無言に耐えられず、五十槻は尋ねた。自分が聞かれたことを相手にも尋ね返すのは、やりとりの初歩の初歩だったから。

 

「獺越さんにはいるのですか。その、恋愛対象として好きな方が」

 

 万都里はその質問に、ぴくりと反応した。飴色の髪の下の眼差しが、再び熱を帯びてまっすぐこちらへ向かってくる。

 

「……いる」

 

 同期はそれが誰かは教えてくれなかった。


      ── ── ── ── ── ──


 万都里はこの瀟洒な街を隅から隅までよく知っていた。

 眺めの良い橋。こじんまりした写真館。高い時計塔。

 写真館で撮った写真は、自分が女装なので不服である。万都里は店主に「家宝にする」などと嘯いていたが。

 ふたりは一見すれば美男美女。五十槻はそういったことに疎かったので気付かなかったけれど、万都里の案内する道筋は完全に男女向けのデートコースである。

 路地裏の猫に猫じゃらしを振って見せれば、猫は「シャー!」と威嚇して、なぜか万都里に躍りかかっていった。

 

「ハッサク、お前ピアノは知ってるか?」

 

 などと、万都里に尋ねられつつ連れてこられたのは、楽器店である。主な商品は金管楽器のようで、ぴかぴかの大小様々な喇叭(らっぱ)が上品に陳列されていた。

 五十槻はかつて女学校の音楽の授業で、ピアノの演奏を聴いたことがある。あんなにたくさん指を動かす楽器は大変そうだと五十槻が言えば、青年は「ハッ」と鼻で笑った。

 ここも万都里の馴染みの店らしく、店員に一言二言挨拶をすると、同期は店の奥へ置いてある、アップライトのピアノのもとへ向かう。手前の椅子を引いて座り、手慣れた様子で蓋を開き。

 ぱっと目にもまぶしい、白い鍵盤が現れる。そして。

 銃剣の訓練でタコだらけの同期の指が、いきなり華麗にかき鳴らすアルペジオ。五十槻は心底驚いた。

 

──僕の知らない獺越さんだ!

 

「わはは、なんだその顔! 見たことない表情で驚いてやがるな!」

 

 真顔の崩れた五十槻に、万都里は心底愉快そうだ。青年は鍵盤から目を放したまま、調律を確かめるように演奏を続けている。調べは段々と、美しい旋律へ変わっていった。

 

「し、知りませんでした。獺越さんがピアノに堪能であるとは……」

「話したことなかったからな。……おい、なにかリクエストはないか。なんでも弾いてやる」

 

 などと自信満々に言われたけれど、五十槻にはあまり知っている曲がない。国歌のほかは、軍歌を何曲か。

 

「……八洲の桜」

「おいこら。国歌はやめろ」

神域(ひもろぎ)行進曲」

「軍歌もいやだ!」

「なんでも弾いてくれるのでは……」

 

 いきなり話が違う。ぐぬぬ、と考えこむ五十槻を、万都里は異邦の夜想曲を弾きながら待っている。

 一曲だけ、他に五十槻が知っている曲がある。

 

「……どんぐりころころ」

「はぁ? 国歌に軍歌ときて、その後は童謡だぁ?」

「どんぐりころころがいいです」

 

 五十槻の真顔の剣幕に、万都里は少し気圧されたようである。「お、おう」とよく飲み込めてない面持ちで、夜想曲の演奏をいったんやめる。何度か音を鳴らして、調をたしかめて。

 そうして万都里の両手が奏で始めたのは、五十槻の大事な曲──どんぐりころころだ。

 店内にはさっきまでロマンチックな調べが響いていたのに、いまの雰囲気は完全に尋常小学校。万都里はなんともいえない顔で演奏をするけれど、曲調は明るく、優しげだ。

 

「どんぐりころころ、どんぶりこ」

「お、いいぞ。歌え歌え」

 

 五十槻がつい小声で口ずさむと、やっと同期は嬉しそうな顔を浮かべてくれた。

 一節歌い終えると、おいハッサク、隣に座れと万都里が命じてくる。言われた通り彼の右側に腰をかける。

 すると同期はちょっとだけ、上ずった声で持ち掛けてきた。

 

「よ、よし。せっかくだ。お前に弾き方を教えてやる。これくらい簡単な曲なら、今日中に右手の旋律は覚えられるだろう」

 

 耳を真っ赤にしながらそう切り出した万都里に、「お願いします」と五十槻は積極的に教えを乞うた。

 初めて触れるピアノの鍵盤。白鍵に指を置いて押してみると、くっと鍵が沈み込む感触の後に、ころりと軽やかな音が出た。おお、と少女は真顔の奥で感動する。

 万都里の指導は丁寧だった。時々互いの指が触れ合う度、奇声を発して練習が止まるのが玉に瑕だったが。

 自分の指がたどたどしく奏でるどんぐりころころを聴いて、五十槻は少しだけ切ない心持ちがした。この曲は、香賀瀬との悲しい思い出の曲であり──父との大切な思い出の曲だったから。けれど。

 

「よし、オレが伴奏を弾いてやる。ハッサクはそのまま主旋律を続けろ」

 

 しばし二オクターブ下で五十槻のお手本をやっていた万都里は、そう言うと改めて低音域の鍵盤へ両手を乗せた。低くどっしりした音が、五十槻のおぼつかないどんぐりころころを支えている。

 稚拙な指遣いの童謡も、万都里の伴奏のお陰でそれなりに様になっているようだ。

 ソ、ミミ、ファミレド、ソ、ミミレ。

 何度か弾いているうちに、指が音を覚えていく。悲しい面影のあった思い出の曲が、ちょっとずつ形を変えていく。

 楽器店の店員たちは、唖然呆然の形相でピアノの方を見つめていた。獺越家の次男がピアノに堪能であることは、社交界では非常に有名だ。また彼が常々、「オレがピアノの稽古をつけてやるのは心に決めた相手だけだ!」と豪語していることも同様に──。

 

「あ、あの……獺越さん」

「どうした、手が止まってるぞ」

「すみません、ついていけません。壮大すぎて……」

「あ?」

 

 五十槻の言葉で、同期は我に返ったようである。我に返ってもなお、万都里の両手は旋律を奏で続けている。アレンジにアレンジを加えすぎて、どんぐりころころはほとんど原型を留めていなかった。流麗な調べは、怒涛の急流に揉まれるどんぐりを表現するが如く。

 けれども五十槻の中で──どんぐりがころがる曲は、もう悲しいばかりの曲ではなくなった。

「ったく、また練習の機会をやるから、今度はちゃんと合わせられるようにしろよ」と横柄に宣う万都里に、振袖の令嬢は少しだけ真顔をほころばせた。


      ── ── ── ── ── ──


 万都里の言う通り、刺激的で愉快な一日だった。

 七月末の空はもう夕模様。五十槻と万都里は、令嬢と御曹司から、わんぱく少年と大礼服に戻っている。

 呉服屋で服を着替えて、また八朔家の手前の辻まで戻る道中。

 五十槻はおそらく初めて、この年上の同期と込み入った話をした。万都里がいつからピアノを習い始めているのかとか、コース料理は頻繁に食べるのかとか。

 万都里からも色々と尋ねられた。ふだん家で何をして過ごしているのかとか、藤堂ともこうして出かけたことがあるのかとか。五十槻は綜士郎と軍務終わりに外食に行ったことはあるけれど、こうして休日を一緒に過ごしたことはない。そう伝えると、青年は「よっしゃ、藤堂に勝った!」といたく喜びを噛み締めていた。いったいなんの勝敗なのか、謎である。

 また、美千流のときと同じく、五十槻は家族間の軋轢についても打ち明けた。もちろん、自分の本当の性別の話は伏せた上で。

 万都里は五十槻に相談を持ち掛けられて、嬉しそうだった。色々親身に聞いてくれて、対策まで講じてくれた。「お前はふだんから大人しいから、たまには『うっさいバーカ』とでも言ってやれ」と助言してくれたものの、あいにくそれは先日の美千流の助言とまったく同じ内容である。「清澄さんも同じことを言ってました」と返すと、同期は心底悔しそうに(ほぞ)を噛んだ。

 

「くっそ、あんの性悪女め……! このオレと一言一句同じ提案をするバカがどこにいる!」

「もしかして獺越さんの意中の方は、清澄さんなのでしょうか」

「はァ!? なんでそうなる!」

「だっておふたりとも同じお考えを持っていらっしゃいますし、旧知の仲でいらっしゃいます」

「ばっ、ばーかハッサク! てめこの、朴念仁のすっとこどっこいのおたんこなす!」

「ものすごい勢いで罵倒されている」

 

 そろそろいつもの辻である。わんぱく少年は悪目立ちする大礼服に詰られ、ちょっと真顔を落ち込ませた。せっかく親友としてより仲を深められたのに、どうしてか五十槻はこの同期をいつも怒らせてしまう。

 

「まったくたわけめ! 清澄の小娘が相手なわけなかろうが!」

「左様でしたか。ちなみに昨日からは『うっさいばかたれ』を用いています」

「おいおい、そういうところも藤堂を踏襲するのか? 勘弁してくれ……」

 

 年上の同期はなぜか、いたく落胆しているようである。

 今日一日で、前より親睦を深めたとは思うけれど。五十槻にはまだまだ、この飴色の髪の青年が考えていることがよく分からない。喜んだり怒ったりする基準が不明瞭だ。でもなぜか、コース料理の食後に、意中の相手がいると打ち明けてくれたときの顔と声色は、強く印象に残っている。

 付き合っている相手はいない、けれど意中の相手はいる。万都里がしているのは、片思いというやつだろう。

 

「どなたか存じ上げませんが、獺越さんの想い人が振りむいてくれるといいですね。もし成婚の暁にはお祝いに馳せ参じます」

「………………」

 

 てっきり、ご祝儀は奮発しろよ、なんて憎まれ口が返ってくるかと思ったのに。万都里は急に立ち止まり、押し黙ってしまった。

 

「…………」

「……獺越さん?」

「なんで、相手が女だと思うんだ。そうとは限らんだろう」

「え……」

 

 それは衝撃の告白である。五十槻の知識では恋愛も結婚も、男女間でするものだ。たしかにこれまで自分が見聞きしたなかには、女学生同士のエスという同性愛的な人間関係も存在していたが──。

 

「ハッ、その顔。そうだよな、男同士なんて普通ないもんな。オレの好いた相手もきっと、お前と同じことを思うだろうよ」

 

 自嘲気味に万都里が言う。五十槻から目を逸らして吐く言葉は、苦しそうだ。

 

「ごめんなさい、僕……。自分の価値観を押し付けるようなことを、あなたに……」

「別にいい。『普通』はそうだからな。オレも最初は同性相手にそういう気持ちがあるなんて、認めたくなかった。でも相手が悪かった。ひどい境遇の中でもひたむきで、いつも真剣で、凛としていて……一見か弱そうなのに強くてさ……。いつのまにか、性別なんてどうでもよくなってた」

 

 そう語る言葉に、焦がれる気持ちと、つらい思いがにじんでいる。

 言いながら、万都里の視線は五十槻へ戻ってくる。あいにく逆光で顔色はよく見えない。

 

「ま、そいつの顔の造りとか、外見も込みで惹かれたわけだ。ただそいつはオレなんか眼中にない。他の奴に毎日ぶんぶん尻尾振りながらついて回って、可愛さ余って憎さ百倍ってやつだ」

「なんという……その方に悪気はないのでしょうが、しかし獺越さんにそのような仕打ちを……」

「おい、皮肉か?」

 

 よく分からない顔をしている五十槻に、万都里が苦笑を漏らす。青年は「やれやれ」と肩をすくめると、再び歩み始めた。

 

「まあ、そいつはお前と同じで、ぽんこつ朴念仁の超絶鈍感野郎だからな。オレが好いていることにはこれっぽっちも気付いていない。というか、恋だの愛だのもよく分かっていないようだ。強く慕う相手がいても、刷り込みされたひよこみたいにただ懐いてるだけで……。きっとオレが一方的に想いを告げても、受け入れてはくれまい」

「よくそのような方へ好意を……お辛くはないのですか」

「めちゃくちゃしんどい」

 

 しばらく歩いて、ふたりは立ち止まった。いつもの辻だ。もうあとは別れるばかり。

 

「でもなハッサク。結婚も恋愛もしないなんて、そんなもったいないこと言うなよ」

 

 語り掛ける声音は、いつもより落ち着いていて柔らかかった。

 

「たしかにめちゃくちゃしんどいけど、いいもんだよ」

 

 けれど五十槻にはやはり解せない。いましがた、恋のつらさを語ったばかりではないか、獺越さんは。あんなに苦しそうな口調で。

 

「いいえ。僕は結構です。八朔の神籠としての使命に、身命を尽くすつもりですので」

「まったく強情なクソガキめ。んなもん、神籠やりながら恋愛だの結婚だのしてるやつ山ほどいるだろうが。崩ヶ谷(つえがたに)を見ろ! ……それにだ。お前にももしかしたらいるかもしれないだろう」

「いるとは」

「お前に懸想してるやつ」

「ええ……?」

 

 それこそ想像のつかない話だ。こんな男とも女とも分からない、常に真顔の面白みのない人間へ、そういう意味で好意を寄せてくれる人間がいるなんて。渋い真顔の五十槻へ、同期ははぐらかすように「はは」と軽く笑った。

 獺越万都里は五十槻の大事な同期で、親友である。年は五つも離れているし、家同士妙な因縁があったりするけれど。

 別れ際に、ふたりは握手を交わした。なんとなく、万都里といえば長い握手、という印象をいつの間にか持ってしまっている。

 

「……成就なさると良いですね、獺越さん。あなたはその方への好意を、外見も込みでとおっしゃられますが……僕には、その方の魂の部分の方へ惹かれているように思えます。それに、相手の方を慮って、無理にご自身の気持ちを押し付けないところを、僕は尊敬します。……その方は幸せですね。そのような形の恋慕を寄せてもらえて」

「そうか。……お前にそう言ってもらえると、オレも報われるよ」

 

 五十槻の言葉に偽りはない。性別に関わりなく、ひとりの人間へひたむきな愛情を捧げることのできる万都里を、少女はまぶしく思った。

 しかしわんぱく少年は残念ながら、超絶鈍感朴念仁である。握手を交わす同期の胸の内、燃ゆる恋情がどこへ向いているかなんて、気付くわけもない。今日の獺越さんの握手はいつもより強くて長いな、と思うばかりであった。

 ただ──いやに熱のこもる手のひらが、少し居心地悪い。


 さて、八朔家近くの辻で、わんぱく少年と大礼服は長い長い友情の握手を交わしている。

 そんな美少年と美青年の姿を、八朔家の門の内から覗き見る影がふたり分。

 

「ちょっと奈月……! あの髪の色って、獺越の神籠じゃない? なんで五十槻といっしょに……!」

「皐月姉さま、しっ。気付かれてしまいます」

 

 五十槻の姉ふたりは、身を低くして末妹と獺越家の御曹司との逢瀬を見守っている。青年は五十槻へ注いだ眼差しを微動だにさせず、じっと見入っていた。

 

「奈月、獺越んとこのあいつって、もしかして……」

「ええ、間違いないですわ。彼、五十槻のことを──」

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