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3-8


 そんなこんなで。五十槻は人生初の娯楽鑑賞、および友人たちとの語らいを経て。

 家族の無理強いに対しては暴言を吐いて鬱憤を晴らし、心機一転、晴れやかな心境で軍務に邁進することと……。

 

「いやちょっと待て。誰か忘れてるんじゃあないのか! なあおい、こらハッサク!」

 

 早朝、第一中隊へ向かう路上にて。

 いつもの辻で出くわした万都里(まつり)と歩いていた五十槻は、突然の大声に同期の方を振り返った。年上の同期かつ同僚──獺越(おそごえ)万都里(まつり)は、三歩後ろでなにやら、立ち尽くしてわなわなと震えている。

 怒り心頭といった雰囲気だが、五十槻は身に覚えがない。ただ単に昨日、(きのえ)伍長に連れられて落語と活動写真を鑑賞したこと、その後、清澄美千流らと再会し、いっしょに喫茶店で歓談したことを話していただけである。

 

「はぁ? 甲と落語? 活動写真? 挙句の果てには清澄の性悪娘と喫茶店だぁ? お前は……このオレを差し置いて!」

 

 飴色の髪の下、猫に似た目元は明らかに不満そうである。万都里はつかつかと五十槻へ歩み寄ると、壁際に立っていた年下同期のそばへ、ドンと手をついた。壁ドンの出来上がりである。

 

「おいこらハッサク! お前の一番の戦友かつ親友は誰だ! 言ってみろ!」

「獺越さんです」

「おうおう分かってるじゃあないか! だったらなぜ昨日、このオレを誘わなかった!」

「昨日午後は、獺越少尉は警邏(けいら)任務がおありでしたので」

「うるさい! そうと知っていれば任務なんぞサボってたわ!」

「軍規違反では」

「チッ、こんのクソ真面目のクソガキャ……! ま、まあお前のそういう生真面目さを評価してやらんわけではないが!」

 

 最終的になぜか照れた顔色を浮かべた挙句、万都里は五十槻のそばの壁から手を離した。そのまま青年は、何事か考えこむ仕草。

 

「おいハッサク。お前、三日後はたしか非番だったな」

「はい」

「奇遇だな、オレもだ」

 

 意中の相手の勤務予定を完全に把握しているのは、見ようによっては気色の悪い話ではあるが。

 五十槻は万都里からの恋慕にまったく気付いていない。獺越さんはご自身以外の勤務予定も把握されているのか、すごいなあ、くらいのもんである。

 

「よし、じゃあ次の休みは一緒に出掛けるぞ。いいな!」

 

 強引に外出の予定を取り付ける万都里に対し、五十槻は紫の瞳を輝かせた。

 昨日からなんだか、他者と関わることが──うれしい。


      ── ── ── ── ── ──


 約束の休日。いつもの辻で待ち合わせをしていた五十槻は、万都里と顔を合わせるなり、彼を困惑させることとなる。

 

「おいハッサク……なんだその状況は」

「自宅から外出しようとしたところを姉に捕まりそうになり、木や塀に登って逃走してきました」

「お前んちで一体なにが起きてるんだ……?」

 

 淡々と状況報告を告げる五十槻に、万都里は呆れたような顔を浮かべている。

 五十槻はふだんの休日と同じように、神事兵支給のシャツの上に地味な色の着物を重ね、馬乗袴を合わせている。しかし間の悪いことに、屋敷の玄関を出ようとしたところで姉たちに出くわしてしまったのである。その後の展開はいつもの通り。五十槻は姉ふたりと屋敷の敷地で大捕り物を繰り広げた末、見事遁走に成功したのだった。

 しかし、姉の魔手から逃れるための逃走経路は、なかなかの悪路であった。塀を乗り越え木に掴まり、茂みを匍匐前進で這いずり回り。だから五十槻の髪や衣服には、葉っぱだの小枝だのくっつき虫だのが、無数にくっついている。パッと見、やたらと顔の綺麗なわんぱく少年だ。万都里が呆れるのも無理はない。

 とはいえ、困惑しているのは五十槻も同じである。目の前にいる年上の同期の、装いときたら。

 

「あの……獺越さんはどうして、大礼服をお召しなのですか?」

 

 紫の瞳は、不可解なものを見る目。

 濃紺の上等の生地に、金糸の装飾。煌びやかな装飾を施した軍帽。万都里が着ているのは──将校が公式行事や宮中へ参内するための正装、大礼服である。

 

「今日、何ぞ式典でもありましたでしょうか……僕はまったく聞き及んでおりませんが」

「別にいいだろうが! 大礼服くらい、式典関係なく自分の好きな時に着ても!」

「ええ……?」

 

 堂々と胸を張る万都里に、五十槻の困惑の度合いは深まった。

 たしかにすらりとした細身で整った顔立ちの万都里に、大礼服はよく似合っている。しかし本来、大礼服は公的な式典などに出席する際の衣装だ。単なる友人同士の交友の場へ着てくる意図が、五十槻にはよく分からない。

 わんぱく少年と豪華絢爛の青年将校は、互いに当惑の眼差しを送りあう。

 

「よ、よし!」

 

 しばらくして万都里が、気を取り直したように口を開いた。

 

「服装のことより、ともかくだ! いいか、今日はオレと街をデート……じゃない、散策するんだ! 落語だの活動写真だの女子会だのより、お前にもっと刺激的で愉快な体験をさせてやる! 覚悟しておけ!」

 

 すでにキンピカリンの衣装で現れた時点で十分愉快だが、この男。

 五十槻はまだ、万都里の服装の場違い感に諧謔を覚えるようなユーモア精神はまだ宿していない。甲精一がこの場にいたなら大爆笑だっただろうに。

 少女はひとまず年上同期の先導に従い、「おー」と恬淡とした鬨の声をあげるのであった。


 腐っても万都里は獺越家の次男、八洲有数の富豪の息子である。

 青年が案内するのは、皇都の官庁街近くにある、富裕層向けの商業地区であった。建物はみな洋風の瀟洒な佇まい、行きかう人々の服装も洗練されている。庶民層に人気の繁華街と違って、独特の落ち着いた雰囲気のある場所だ。「こういうのをハイソというんだぞ」と高説を垂れる万都里に、五十槻は「敗訴?」などと応じている。

 往来を行くわんぱく少年と大礼服の組み合わせは、異様に人目を惹いている。あちこちからふたりへ胡乱な視線が突き刺さった。

 

「これからどちらへ向かわれるので?」

「店を予約している。ハッサク、お前コース料理は食べたことあるか?」

「こおす料理?」

 

 五十槻は衣服についたくっつき虫を取りつつ尋ねた。道中でかなり除去できたと思っていたのに、袴のひだの間やら袖の隙間から、後からあとから現れる。おかげで外出用の衣服はあちこち生地がほつれ、ボロボロだ。

 そんな五十槻の様子をげんなりと眺めながら、万都里が「コース料理とはだな……」と口を開きかけたときだった。

 

「あらあらあら、万都里坊ちゃん?」

 

 街路すぐ脇の店先から声をかけてきたのは、そこの店主らしき女性である。真っ白な頭髪を上品に結い上げた、奥ゆかしそうな初老の女性だ。軒先には、日差しをよけて反物が並べられている。ここは呉服屋のようだ。

 

「まあまあまあ、どうなさったのその格好。どこかで式典でも? そちらのお坊ちゃんは?」

「あ、いや……」

「あらあらあらまあまあまあ」

 

 突然話しかけてきた店主は、万都里の返事も待たずにぐいぐいずいずい言葉を並べ連ねてくる。どうやら万都里とは旧知の仲のようだ。

 しかしながらこのおばちゃん、上品そうな物腰のようで、めちゃくちゃ押しが強い。万都里は明らかに辟易した様子で、一応は店主を五十槻へ紹介しようとするけれど。

 

「えーと、突然悪いなハッサク。ここは当家の馴染みの店でな、こちらは……」

「もうもうもう、いいのよこんなおばちゃんの紹介なんて! それにしても珍しいわねえ、あの万都里坊ちゃんが、お友達とこのあたりを歩いてらっしゃるとはねえ。それもこんな可愛い男の子と! ぼく、お名前は何て言うの? おいくつ? どちらにお住まいなの?」

「機銃掃射並みにしゃべるババアだな相変わらず!」

 

 万都里は憤慨するけれど。

 店主からの問いに、五十槻はさっと居住まいを正して、生真面目な真顔を彼女へ向ける。獺越さんの知己に対し、失礼のないようにと、端然と示す挙手礼。

 

「はっ! 自分は皇国陸軍中央第一師団、神事兵連隊皇都守護大隊麾下第一中隊所属、八朔五十槻、階級少尉。こちらの獺越少尉の同期、同輩です。年齢十六、住まいは……」

「アホ! 一般人相手にどういう自己紹介だ!」

「まあまあまあ! 八朔さんとこの!?」

 

 五十槻が名乗るなり、店主はあらあらあらまあまあまあ! と微笑ましそうにはしゃいでいる。獺越と八朔の家同士の因縁を、この女性は知っているようだ。

 

「あらやだまあまあまあ。まさかあの万都里坊ちゃんが、八朔さんとこのご子息と連れ立って歩いてらっしゃるなんてねえ。長生きはするものだわ。ところで、おふたりともこれからどちらへ?」

「あ? 飯を食いに行くところだ!」

「だからどちらでお召し上がりになるの? 百膳庵? 椎葉亭?」

「まったく、どこでもいいだろうが! 錦寿軒(きんじゅけん)だ、錦寿軒!」

 

 ぐいぐい来る女性である。万都里から店の名前を聞き出すと、「まあ、錦寿軒!」と女性は大袈裟に店名を復唱する。それから五十槻と万都里を交互に見て、少々渋い顔で再び舌鋒鋭くしゃべり始めた。

 

「もうもうもう、万都里坊ちゃん! それならその服装はいけません! 錦寿軒はそこまで改まった店ではないでしょう? そんなご衣装ではむしろ、獺越のおうちが恥をかかれます! けれど、そちらの──八朔さんのお坊ちゃんは、逆の意味で酷い格好ね。わんぱくなのはおよろしいことですけれど……そうだわ!」

 

 獺越家御用達の呉服屋は強引だった。万都里と五十槻が介入する暇を一切与えず、終始場を制したまま店主は提案した。

 

「おふたりとも、ちょっとうちで着替えていきなさい! 大丈夫大丈夫、お勘定は獺越さまのお宅につけておきますからね、おほほほほ!」


 そんなわけでふたりは、呉服屋の店内に連れ込まれてしまった。

 それにしてもおそろしい店主である。このあとふたりが店を出るまで、主導権を握り続けていたのだから。

 

「はいはいはい、万都里坊ちゃん。この間ご依頼いただいたお仕立て、ちゃんと出来上がってますからね! 今日はそれを着てお出かけくださいまし! 大礼服? ご安心なさって、こちらで預かっておきますから。それじゃはいはい、あっちの衝立の陰へどうぞ。こっちに見えないようにお着換えくださいね! まったくもう、お子様の時分からほんっとに手が焼けるんだから! 言うこと聞かないなら八朔さんのお坊ちゃんに言っちゃいますからね! 万都里坊ちゃんのオムツが外れた年齢!」

「こ、こんのババアが……!」

 

 あの獺越万都里がまったく言い返せずに完敗である。

「くっ……!」と悔しげに、すごすごと店の奥の衝立の向こうへ引き下がる万都里を、五十槻はなんだか新鮮に思った。いつも堂々……というか、横柄で高飛車な彼が言い負かされているのは、ちょっと面白い。

 

「さてさてさて、八朔のお坊ちゃんは……」

 

 一見人の好さそうな店主は、続いてこちらに矛先を向けた。五十槻は緊張の面持ちで、呉服屋に向きあっている。

 

「まあまあまあ、見るにつけ眺めるにつけ、綺麗なお顔をしてらっしゃいますわねぇ。万都里お坊ちゃんに引けを取らないくらい整っていらっしゃる。でも中性的というか……ちょっとだけ、女の子寄りのお顔立ちかしら? これは腕が鳴るわねえ……!」

「う……」

 

 鋭いところを突く。店主の一言に、五十槻は真顔の眉を少しだけひそめた。けれど八朔五十槻初心者の老女に、そのような微細な表情の変化が分かるはずもなく。

 

「さあさあさあ、お坊ちゃんも早いとこお召し物を替えてしまいましょう。心配なさらないでね、ちょうど孫に作ってやったお着物があるのだけど、あの子、柄が趣味じゃないって着てくれやしなくて……ちょうど一着余ってたの。せっかく仕立ててやったのにひどい話よね? でも、きっと八朔のお坊ちゃんにはお似合いになると思うわ。それじゃこれ、はい。襦袢」

 

 そう言って渡されたのは、長襦袢だ。そして五十槻は万都里と違い、なぜか奥の間へ案内される。有無を言わさぬ展開に、五十槻は「あの……」と戸惑った真顔を向けるけれど。

 

「うふふ、大丈夫よ。襦袢を着るのはお一人でできますわよね? ご安心なさって、見てないから。殿方だってお着替えを見られるのは恥ずかしいですわよね。それじゃ私はお着物をお持ちしてきますから、お着付けはその後で。ああ、そうそうそう……」

 

 店主は試着用の小部屋へ五十槻を突っ込むと、去り際に悪気のない笑顔で、にっこりと笑った。

 

「うちの孫ね、女の子なんですの。まあまあまあ、でもお坊ちゃん可愛らしいお顔立ちだから、何も問題ないですわね!」

「え…………」

 

 問題大ありである。つまり、五十槻がこれから着せられる衣装とは……。


「くっ」

 

 呉服屋の店先で、五十槻は唇を噛み締めている。せっかく今日は、姉の魔手から逃れ、少年らしい装いで外出できたというのに。

 先に着替えを済ませて待っていた、万都里からの視線が痛い。青年は五十槻の方を見るなり、口を半開きにしたまま動かなくなってしまった。

 

「あらあらあら、私の思った通りお似合いね! 我ながら素晴らしい出来だわぁ~」

 

 呉服屋のおばちゃんの、のんきな自画自賛。

 店頭の姿見に映る自分をちらりと見て、五十槻はすぐにふいっと目を逸らした。正視に堪えない。

 よりによって──五十槻が着せられたのは、振袖である。黒と白のモダンな柄に、紫色の牡丹があしらってある。さらには店主の趣味により、長髪の仮髪(かもじ)まで着けられる始末。長髪がしどけなく振袖の背中を伝う感覚に、ちょっとだけ悪寒が走った。いまの五十槻はまさしく、どこからどう見ても──淑やかな深窓の令嬢であった。

 

「……………………」

 

 万都里はまだ沈黙している。じっと眼差しを五十槻に注いだまま動かない。その様子をおばちゃんが「あらあらまあまあ」と微笑ましげに眺めていた。

 思えば、五十槻が女装しているときに出くわす獺越万都里は、特に様子がおかしい。ふだんの様子のおかしさを加味しても、相当おかしい。過去にも八朔家の玄関先で、五十槻の手を握ったまま微動だにしなくなったり、街中で偶然顔を合わせた際には、手を掴まれてどこかへ連れて行かれそうになったり。

 果たして今日の万都里は──突然、両の(まなこ)から滂沱の涙を流し始めた。

 さすがの五十槻もこれにはぎょっとする。おばちゃんは後ろで「ぶっほ、フヒヒヒヒヒ!」と爆笑していた。

 

「お、獺越さん? 大丈夫ですか、お気をたしかに。やはり同期の女装姿など、見苦しいに決まっている……!」

「掛まくも綾に畏き山津大鉄大神ヤマツオオカネノオオカミの大前に、神實獺越万都里(かしこ)み恐み(もうさ)く……」

「か、神に祈りを捧げるほどに?」

 

 しばらくして、やっと万都里は正気を取り戻した。青年はいったん店主へ向かい「でかした」と抑えた小声で彼女の両手を握り熱心に労をねぎらうと、五十槻へ向き直った。顔つきはやたらキリッとしている。

 

「すまないハッサク。少し取り乱していた。しかしお前、その格好……」 

 

 しばしキリッとした後、万都里はふといつもの同期の顔に戻る。ちょっと複雑そうな面持ちで、青年は問いかけた。

 

「いいのか? 男らしさにこだわってただろう、お前は」

「よくはないです」

 

 遠慮がちな問いかけに、五十槻はぷいっとそっぽを向く。その仕草で長髪がさらりと揺れて、万都里が「ンぐっ」と声を詰まらせた。おばちゃんが「ヒャー!」と腹を抱えている。たぶん精一と笑いのツボが近い。

 

「……しかし、元の格好のままでは、こおす料理のお店で獺越さんに恥をかかせてしまうのでしょう? 致し方ありません。男物の服で僕の丈に合うものは、いまは無いとのことですし……今日はこの服装で我慢します」

「ッしゃあ!」

「獺越さん?」

 

 理解のできないやりとりはともかくとして。

 万都里は大礼服に代わり、濃い色合いの着流しを着ている。飴色の髪が映えて、良い着こなしだ。ふだんは軍装しか見ることのできない同期の着物姿は、五十槻には新鮮である。

 ふたりは店主へ元の服を預けて、一路目的の店へ向かった。

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