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3-7


 賑やかな時間はあっという間に過ぎていく。

 喫茶店を出て、五十槻たちはまた駅の方面へ歩いていた。美千流は五十槻の隣でなにやら楽しそうに話していて、雫と昴は五十槻たちの後ろを歩いている。

 精一は例のカフェーを切り上げて、もう待ち合わせ場所で待っているだろうか。いかがわしい店に行っていた彼と、どう顔を合わせればいいのか分からない。

 五十槻が真顔を若干渋面に寄せて思案しているときだった。

 

「春子、葵! 探したぞ、ここにいたのか!」

 

 突然背後から呼びかけてくる声。男性の声だ。しかし、春子や葵といった名前の人物は、五十槻たちのグループにはいない。ところが。

 

「こら、返事をしなさい春子!」

「きゃっ、なに!?」

 

 声の主は五十槻らの後方から大股に近寄ると、突然雫の手を掴んだ。「雫さん!?」と振り返る美千流にも、男は「まったく、葵まで迷子かい」と知らない名前で呼びかけている。雑踏のざわめきに紛れて聞き取りづらいが、どこか聞き覚えのある声だ。

 けれど咄嗟のことである。五十槻はよくよく相手の顔を確認せず雫のそばへ身を翻し、それと同時に、彼女を掴む男の腕をひねりあげた。誰と勘違いしているのか分からないが、突然女性の手首を掴むとは無礼千万だ。果たして、五十槻に関節を捻じ曲げられた男は、「痛い痛い!」と情けなく声を上げた。

 ところが。五十槻は男の顔へようやく視線をやって、ひくりと真顔を引きつらせる。いま捕まえている痴漢は──知り合いだ。

 思わず手を離し、少女はその名を呼んだ。

 

御庄(みしょう)先生……?」

「いたた……って、八朔くんじゃないか」

 

 白髪まじりの頭髪に無精ひげ。ちょっと気弱な表情を浮かべてこちらを見ているのは、神事兵連隊付けの軍医にして、五十槻の長年の主治医──御庄(みしょう)康照(やすてる)軍医少佐だ。今日は顔なじみの人物と、偶然よく会う日である。

 

「御庄先生!?」

 

 続けてすっとんきょうな声を上げたのは、美千流だった。

 

「あ、あれ……清澄くん? あ、これは……ええと」

 

 御庄医師も、いまやっと水色の紬の少女が美千流だったと気付いたようだ。どうやら彼と美千流は、もともとお互いを知っていたような雰囲気だ。

 ふつうに考えれば、軍医と財閥令嬢に接点はないはずである。五十槻は少々怪訝に思うけれど、いまはその話は後だ。雫がまだ、不安げな顔で御庄軍医を仰ぎ見ている。

 

「あの、御庄先生……春岡さんに何か、ご用事でしょうか。てっきり痴漢かと思い、危うくあなたを成敗するところです」

「あ、ああ。いや、すまない……うちの娘たちを探してて。買い物の最中にはぐれちゃってね……」

 

 言いながら、医師は気まずそうに雫と美千流を見比べている。

 今日の御庄軍医の服装は、ちょっとくたびれた感じのスーツだった。白衣姿に見慣れた五十槻には新鮮だ。

 軍医はまず雫へ丁寧に一礼し、謝罪する。悪気はなかったようだからと、雫も快くそれを許している。彼女の肩を労わるように、昴がそっと撫でていた。

 

「もうっ! まったく、私のことも娘さんと勘違いなさってたってことかしら?」

「いやはや、すまない清澄くん。そこのお嬢さんときみの服装が、今日の娘たちの装いに似てたものだからね……」

「あの、おふたりとも」

 

 五十槻は会話に割って入る。もちろん問うのは、ふたりがどうして互いを知っているのかだ。

 

「おふたりはお知り合いなのですか? 初耳です」

「あれっ、清澄くんまだ彼に言ってないのかい? 看護の……」

「し────ッ! 御庄先生、まだし────ッ!」

 

 何かを言いかける御庄軍医に、必死で「お黙りやがれくださいまし!」のジェスチャーを送る美千流。令嬢の圧に、軍医は黙った。

 

「あの、清澄さん……?」

「い、いまはまだ詳しく話せないわ! いまはね!」

「はぁ……?」

「おほほほほ! まあいずれ正式に発表してさしあげるわ! きっと五十槻さんは驚きますでしょうね。まあせいぜい首を洗って待ってなさい!」

「はぁ……」

 

 結局はぐらかされてよく分からない。御庄軍医も美千流嬢の勢いに、苦笑を浮かべるのみだ。

 すると、人混みの向こう側から「おとうさーん!」という呼び声が聞こえてきた。

 

「おや、あっちから見つけてくれたようだ」

 

 御庄軍医が声の方を見遣る。人の群れを抜け出してこちらへ駆け寄ってくるのは、三人組の女性たちだ。軍医の妻に、その娘たちだろう。

 

「春子、葵!」

 

 父親の呼びかけに、少女たちはむっと顔をしかめながらこちらへ近づいてきた。ふたりとも十代半ばのようである。たしかに御庄医師の言う通り、それぞれ美千流と雫の着物の色合いに似た服を着ている。

 

「もう! お父さんってば、また私たちのこと見間違えてたでしょ!」

「すみません、うちの父がご迷惑をおかけしました」

 

 おそらく桜色の着物を着た方が春子で、水色の着物の方が葵なのだろう。少女たちは丁寧に頭を下げると、父親を引っ張って母親のもとへ連行していく。姉妹は去りながら、ちらちらと五十槻の方へ熱い視線を送るのだった。

 御庄軍医は娘に手を引かれながら、最後に柔和な笑みで振り返り、こちらへ手を振った。彼の奥方もこちらへ向けて、丁寧に頭を下げている。

 そして御庄一家は去っていった。

 

「やれやれ、まさか五十槻くんと清澄くんの知り合いだとは」

「『また見間違えてた』ってことは、結構頻繁にいまみたいなやらかしをしてるのかな……。近眼なのかしら? いい眼鏡屋さんを紹介してあげるのに」

 

 突然無礼を働かれたにも関わらず、雫はお人好しな心配をしている。そんな彼女の片手を、昴がぎゅっと握りしめていた。それにしても。

 

「……似てなかったわね」

 

 ちょっと呆気にとられた様子で、美千流がつぶやいた。五十槻も同感である。

 

「ええ。先生のご息女おふたりと、清澄さんと春岡さんはまったくお顔立ちが違います。ご本人も仰っていた通り、服装が似ていたから間違われたのでしょう」

「いえ、そうじゃなくて」

 

 美千流はちょっと言いづらそうに、五十槻へ耳打ちした。

 

「──御庄先生と娘さんたち。あまり面影がなかったように思うわ」

 

 それはちょっと失礼な感想では、と五十槻は思った。きっと、姉妹は二人とも母親似なのであろう。どうやら美千流もそう思うことにしたらしい。

 

「ま。きっとお母様に似たんでしょうね。現にお母様とはそっくりだったわ」

 

──清澄さんは、他の方の顔立ちを観察することに長けていらっしゃるのだな。

 

 違和感を覚えているらしい美千流の横顔を見ながら、五十槻はそんな感想を抱いたのだった。


      ── ── ── ── ── ──


「どうだった、いつきちゃん」

 

 女子会が終わり。

 黄昏の気配が兆してきた空の下を、五十槻は精一と歩いている。

 どうだったと聞かれて。五十槻は再び、言葉が出なくなった。言いたいことがありすぎて、どれから話せばいいか分からなくて。

 

「……伍長の言ってた通りでした」

 

 実感のこもった口調で、五十槻は続ける。

 

「僕には知らないことがたくさんある。伍長が見せてくれた、落語に活動写真……。それに、年が近い友達と他愛ない会話をすること。どれも僕の人生に関わりのないと思っていたことですが、今日はそれらが色々と、大事なことを気付かせてくれました。甲伍長のお取り計らいのおかげです。……それに、今日あの場に清澄さんたちが来ることを、伍長は知っていたんでしょう?」

 

 五十槻の指摘に、精一はキツネの顔をにんまりさせる。「どうしてそう思ったんだい?」と問い返され、五十槻は真剣な真顔で憶測を述べた。

 

「まず、ベンチでみたらし団子を食べているとき、伍長はどなたかをお探しのようでした。そしてそのあと、僕に起立を促された。ちょうどそのとき、折よく清澄さんたちが現れた。彼女らは毎週決まった日のあの時間帯に、あの場所の周辺で遊んでいるというお話でした」

「なーるほど。俺があの子らの行動をあらかじめ知っていて、それで今日偶然を装っていつきちゃんに引き合わせたと……そう考えてるわけだな?」

「伍長はよく街へ出られる方ですし……違いますか?」

「へへっ、大正解! 軍営を抜け出して遊び歩いてるときに、たまたまあの子らを見かけてね!」

 

 精一のおどけた答え合わせに、五十槻の真顔は少しだけ、微笑んで見せた。軍規違反はいまは置いておく。

 

「……僕は藤堂大尉だけでなく、甲伍長からも多くのものを貰っていますね」

「俺や綜ちゃんだけじゃないだろう? 今日、清澄の嬢ちゃんといっしょに戻ってきたいつきちゃん、なんだか嬉しそうな顔してたぜ」

「そ、そうでしたか……自分では自覚が……」

 

 たしかに今日、五十槻は色んな人から、色んなものを貰った。いずれも自分一人では得ることのできなかったものだ。

 軍営と神域(ひもろぎ)にいるばかりだった日常から、フォークボール。

 

「僕が思っている以上に、世界は広いのですね……」

 

 なんとなく漏らしたつぶやきに、精一は「そうだな」と相槌を打ってくれる。少女のしみじみとした実感を妨げないよう、伍長の剽軽(ひょうきん)っぷりはいまは控えめだ。

 家路をたどる足取りは、今日は軽い。頭上に広がる黄昏の空を、五十槻は綺麗だと思った。

 少女は知らない。すぐそばを歩いている、キツネ顔のお気楽伍長の胸中なんて。

 

「そうそう。世の中にはいつきちゃんの知らない面白いものが、まだまだたくさん溢れてるんだからさ」

 

 精一は同じく夕空を見上げて、心の中でぽつりと漏らした。

 

──だから、神籠だとか神域(しんいき)だとか……そんなせまっ苦しいところに、しがみついてくれるなよ。

 

 頼むよ、と精一は小さく小さく口にした。

 聞こえてほしくはないけれど。

 届いては、ほしかった。


      ── ── ── ── ── ──


 帰宅後。五十槻は八朔家の玄関で、家族と対峙している。

 三和土(たたき)に立つ五十槻の目の前に、立ちはだかる、父、姉、姉。


「お帰りなさい、五十槻。さあ、今日のお稽古の時間だよ」

「いい、五十槻! 今日はお琴を習ってもらいますからね!」

「お夕飯の後はお裁縫です。反物からお着物を一着仕立てられるようになっていただきます」

「よし、五十槻。まずはお父さんとお帰りのぎゅうだ!」

 

 いつもなら、無視して通り過ぎるところだけれど。

 今日の五十槻には美千流直伝の、上等な反撃手段がある。目上に対してこのような口の利き方は、かなり抵抗があるけれど。

 五十槻はぐっと丹田のあたりに力を籠め、気合を入れる。そして玄関先で放つ、鶴の一声。

 

「うっさいバ──カ!!」

 

 その一声はまさしく青天の霹靂。効果はてきめんである。

 父たちは固まっている。

 ふだん、あんなに穏やかで、言葉遣いも丁寧で、従順で温厚な末の妹が。

 うっさいバーカ。

 

「い、いつ……いつき?」

「ふん!」

 

 白目を剥いて唖然としている父姉姉を放置して、五十槻はさっさと自室へ向かった。

 ものすごく抵抗はあったけど。実際罵り言葉を口にして、五十槻は正直──スカッとしてしまった。げに恐ろしき、美千流直伝「うっさいバーカ!」の威力。

 

「……どうせバカって言うなら、ばかたれって言えばよかったかな……?」

 

 反省点は次回に活かすべし。

 後日の八朔家では「うっさいばかたれ!」が響き渡ることになるけれど、割愛。

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