2-1 櫻ヶ原高等女学院
一
「まあ、清澄さん!」
「もうお身体は大丈夫なの?」
「新聞で読んだわ。本当に恐ろしい目にお遭いになって」
久々の教室に、久々の学友たち。あちこちから寄せられる心配の声に、「お気遣いありがとう」と笑顔で返し、清澄美千流は自分の席へと向かう。
翠峰楼での事件から二日経った。禍隠に高楼の上へ攫われ、そして獅子面の神事兵に救われたあのときが、いまはもう遠く感じる。
美千流の怪我はいたって軽傷であったが、心配した父親により検査入院を一日強いられ、今日から学校へ復帰することになった。
国立櫻ヶ原高等女学院。美千流が通う女学校である。
皇都に数ある女学校の中でも、最も名門の誉れ高い学舎である。八洲の繁栄に資する才能ある婦女を育成するべく、国家が税を注ぎ込み作り上げた、国内最高峰の女学校だ。入学には厳しい条件があり、試験の点数や尋常小学校での内申だけでなく、本人の容姿、家柄や両親の職業・人となりなども採点の対象となる。つまり皇都内でも選りすぐりのお嬢さましか入学できない、名門中の名門。
美千流のクラスは三年二組だ。彼女が席に着くと、周囲のクラスメイトたちがわらわらと集まってきた。皆一様に矢絣の着物に紺の行燈袴を合わせている。袴の腰に巻いているのは、桜を模した校章のついたバンド。これが櫻ヶ原女学院指定の制服で、もちろん美千流も同じ装いだ。
「清澄さん、聞きましたわ。本当に大変だったのね」
「おいたわしいこと……」
「怖くありませんでした?」
聞かれるのはもちろん、二日前のあの事件のこと。禍隠に攫われた、あの時のことだ。
「翠峰楼の上だなんて、私だったら怖くて失神しちゃうわ!」
「禍隠って大きかったんでしょう? 恐ろしかったでしょうに……」
「ええ、とっても怖かったわ……」
美千流の返答に、学友たちは一様に「まあ……」と眉尻を下げた。彼女らの気遣わしげな視線を浴びながら、美千流はどこか恍惚としている。
「でもね、素敵な殿方が助けてくださったの」
美千流はぽっと頬を染める。
あの日、高楼の上に連れ去られた恐ろしい体験を、甘くとろけるような思い出に変えてくれたのは彼だった。
級友たちも待ってましたとばかりに「きゃあ」と色めき立つ。清澄家令嬢救出の顛末は、事件翌日の新聞朝刊によって、八洲中へ知れ渡っているのだ。
「雷使いの神籠の方ね!」
「ねえ美千流さん、新聞だと彼について全然詳しく書いてないの」
「どんな方だったの? お話しはされたの?」
「ええ……」
少女はうっとりしながら語り始める。
禍隠の尾に囚われて震えていた彼女を、一瞬のうちに救い出した──玲瓏たる白獅子の君について。
美千流を抱きしめる腕の強さ。それなのに一見少女と見紛うほどの華奢な肢体。
獅子の仮面ごしのくぐもった声の、毅然とした話し方。
地上へ無事の帰還を果たしてからは、優しくこの手を取ってくれた。
終始凛とした立ち居振る舞い。背筋をピンと伸ばして歩く、軍人にしては小柄な後ろ姿。
「二、三言葉を交わしたのだけれど、性格もとても誠実な方のようだったわ。お礼をしたいと申し上げたのだけれど、職務ですからお心遣いには及ばないと、固くご辞退なさって……」
「まあ……軍人さんって、横柄な方ばかりではないのね」
「美千流さん、その方のお名前はお聞きになったのかしら?」
クラスメイトの質問に、美千流は残念そうに睫毛を伏せ、首を横に振る。
「それが、最後までお名乗りにならなくて……」
そういうところも含めて、異国に伝わるおとぎ話の王子様のような人だった。
しかしおとぎ話の王子様と違って、件の白獅子の君は八洲の軍人である。それも神籠の神事兵。神通力の特徴を考えると、どこの誰かの推測は一般市民にもある程度容易だ。
「雷使い……ということは、八朔家の方かしら?」
誰かがそう口を挟んだ。八洲で雷の神と言えば、第一に名が上がるのが祓神鳴神である。
そして、祓神鳴神を祖先神とし、古来より神籠を輩出し続けている氏族が八朔家だ。八朔家は当然のように乙女の議論の俎上にあがる。
けれども異論もある。
「でも、祓神鳴様ってひげもじゃの武門の神様でしょう?」
「その神實なら、やっぱりひげもじゃの軍人の方じゃないかしら」
絵巻に描かれる祓神鳴神は、たいてい髭を蓄えた大男の姿に描かれる。
八洲の民は特に根拠もなく、美男美女の神の末裔はやはり美男、たくましい神の血統はやはりたくましく、笑い上戸の神の子孫はやっぱり笑い上戸……と思い込む傾向があった。
美千流だって最初は八朔家の御曹司ではないかと思った。けれども祓神鳴神の絵図を見て考えを改めた。
「私も別の神様だと思うの。だってあの方、仮面を着けてはいたけれど、お髭が生えているようには見えなかったわ。きっと別の神實の方か、もしかしたら神依の方かもしれないわね」
美千流がそう述べたところで、からりと教室の引き戸が開いた。
入ってきたのは、眼鏡をかけたおさげ髪の少女だ。教科書の入った風呂敷を抱え、少し猫背気味に隅っこの席に着く。
「ふふっ」
思わず美千流は冷笑を送った。彼女に倣って、周囲の少女たちも嘲笑うような視線をおさげ髪へ向ける。
美千流は以前から、この眼鏡の少女が気に食わない。性格も暗いし、話しかけてもおどおどしていて、運動も苦手だ。学業は少しは頑張っているようだけれど、美千流からしてみれば絵に描いたような劣等生。ただ、少しからかうと面白いくらいに怯えてくれた。数日前なんて、美千流にとっては傑作だった。
「春岡雫さん」
誰かが劣等生の名前を呼んだ。びくり、とおさげの乗った肩が跳ねる。
「ねえ、あなた遅刻じゃなくて?」
「あ、あのっ……」
眼鏡の奥で目を泳がせながら、劣等生は慌てた口調で答える。
「校庭に面白い虫がいて、つい……観察を……」
彼女の返答に、クラス中からくすくすと嘲笑が沸き起こった。美千流も品のよい嗤笑をたっぷり送ったあとに、委員長として春岡へ訓示を垂れる。
「ねえ春岡さん。櫻ヶ原の風紀は他校に比べてとても厳しいの。まだ先生が来ていないから今日のことは不問に付すけど、クラスの和を乱さないでちょうだいね」
「は、はい……」
春岡が項垂れる。いい気味ね、と美千流は彼女から視線を外した。
そして何事もなかったかのように、一軍の令嬢たちは会話を再開する。
「それにしても、最近この辺り禍隠がよく出るわね。この間、三組の川上さんも下校中に出くわしたそうよ」
「やだ、怖いわぁ。うちのお父さまも、美千流さんのおうちのように自動車で迎えを寄越してくださればいいのに」
「美千流さん、気を付けてね。禍隠に狙われた方って、そのあともつけ狙われるらしいって聞くわ」
「大丈夫よ。そうなったらきっとまた、白獅子の君が助けにきてくれるから」
美千流がうっとりしながらそう会話を結んだところで、廊下からコツコツと足音が聞こえてくる。担任がやってきたのだ。美千流の周りに集まっていた級友たちが、いそいそと自席に戻っていく。
ひとりになったところで、美千流はノートの間から紙切れを一枚取り出した。新聞の切り抜きだ。
それはあの事件の、翌日の朝刊一面だ。月下の翠峰楼を斜めに横切る稲妻の写真である。夜天に雷光が閃く一瞬を写したもので、少し明るくなった夜空に、蟻のような大きさの黒い点がひとつ写っている。この点があのときの、美千流と白獅子の君だ。
美千流は机に頬杖をつき、矢絣の袖で誰にも見えないようにしながら、写真を指で大事になぞる。
ああ麗しの白獅子の君。もう一度あなたに会えたなら。
「おはようみなさん」
美千流が自分の世界へ浸っている間に、担任の先生が教室へ入ってきた。教壇の前に立つのは、洋装にひっつめ髪の若い女教師である。
「突然ですが、我がクラスに今日から転校生がきます」
「ええ!?」
三年二組一同、寝耳に水である。
美千流はささっと切り抜きを仕舞うと、右隣にいる女生徒をちらりと見た。情報通の恭子さんは、戸惑った顔で首を横に振る。まさか、恭子さんも把握していないなんて。
転校生自体、この名門・櫻ヶ原女学院にはめったにあることではない。それも今は九月の半ば。なかなか中途半端な時期だ。
クラス全体がざわめく中、担任は「静粛に」と一声かけ、皆が動揺を鎮めたところで廊下に向かって呼びかけた。
「では、転校生の方。入ってください」
「はっ!」
廊下から鋭く放たれる声はまるで、軍隊の点呼に対する返事のようであった。
進行方向をまっすぐに見つめながら、まるで観閲式の行進のような挙動で入ってきた少女。
黒く豊かで艶のある長い髪、凛とした横顔。まっすぐピンと伸ばした背筋。堂々たる足運びに、袴の裾が颯爽と翻る。
三年二組があっけに取られるなか、少女は教壇の横まで進むと、皇宮儀仗兵のような整然たる挙措で九十度に向きを変え、足を揃えて直立不動の姿勢を取った。薄紫の瞳が、まっすぐ前方を見据えている。おかしな言動はともかく、美千流から見てもかなりの美少女だ。しかし笑みは一切なく、真顔である。
「それでは自己紹介をお願いします」
「はっ!」
担任の指示に対し、少女はすかさず挙手の礼をとる。クラスの困惑はいっそう深まる。
「八洲大皇国陸軍中央第一師団神……」
彼女の口からつらつらハキハキ述べられるのは、もはや呪文のような軍編成。
しかし途中我に返ったように、転校生ははたと口を閉ざす。
そしてしばしの無言。三年二組一同が、妙な少女をぽかんと見つめている。
「間違えました。いまのは忘れてください」
いや誤魔化すのへたくそかい!
お嬢様たちは一様に心の中でずっこけた。
転校生は真顔のまま続ける。
「ほず……稲塚いつき。本日より国立櫻ヶ原高等女学院の生徒として、粉骨砕身、玉砕覚悟で学業に励む所存。同隊の諸君には先達として、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げる」
言い終えて十度の礼。教室中があっけに取られている。
「じゃ、稲塚さんはあちらの席に座ってね」
「はっ!」
この空気の中、なぜかひとり平静を保っている女教師に指示されて、少女──いつきは頭を上げ、向きを変える。机の間を通る足運びは、やはり軍人じみていた。
いつきの席は最後方窓際の席である。美千流の隣だ。
(え……)
朝から白獅子の君への妄想で忙しかった美千流は気付かなかったが、この場所には元々席がなかったはずだ。おそらく生徒が登校する前に、急遽用意されたのだろう。その席へ、いつきはきびきびとした動作で着席する。
やだわ、と美千流は思った。美千流が好む学友は、お洒落でお喋りで明るい子だ。隣席の転校生からは、美千流の好ましく思う要素が一切感じられない。春岡と同じく、変人の部類だ。仲良くできそうにないわ、と美千流は率直に思った。
ところがどっこい。
「清澄さん。稲塚さんは転校してきたばかりで色々と不案内でしょうから、学級委員長としてしっかりお世話してあげてくださいね」
「は、はぁい」
担任からのお言葉に、美千流はひきつった笑顔で返事した。まさか縁談に有利だからと学級委員長に立候補したことを、こんなところで悔いることになろうとは。
そうして波乱の朝礼が終わ──
──らなかった。
閉じていた教室の扉が、再びぐわらと開かれる。
「転校生二人目!?」
「どういうこと!?」
いつきのとき以上のざわめきが生まれる。騒然とする教室に足を踏み入れたのは。
腰まで長い金色の巻き髪に。
首の詰まったピンクのドレスは、まるで西洋のお姫様のよう。その裾からちらりと覗く白いタイツ。
そして女学生にしては少し高めの背丈。というかガタイ。
二人目はくるりと軽やかにステップを踏み、教壇の横に立つ。
そして正面を向いたのは──戯画のキツネのように細い目。
「みなさまお初にお目にかかります! 大福院きな子と申しますわーっ!」
派手な挨拶をかまし、大福院きな子嬢はオーッホッホッホッホと、女子にしては低めの声で高笑い。
三年二組の困惑はここに至って最高潮である。
しかし。
「大福院さんのクラスは隣ですよ」
「あらっ」
なんで担任はこの状況で平常心を保っているのだろう。ともかく間違いを指摘された甲……じゃない大福院きな子は、ごめんあそばせテヘペロ! とお茶目に誤魔化してそそくさと教室を出て行った。
彼女が出て行ってしばらくして、今度は隣のクラスから「大福院きな子ですわーっ!」の高笑いが聞こえてくる。
(なに……この……なに?)
女学生諸君は、朝から形容できない感情に襲われた。呆れ果てている美千流の横では、いつきが一切の動揺も見せず、真顔で姿勢よく座っている。
今日の櫻ヶ原女学院は晴天に恵まれていたが、先行きには暗雲が立ち込めているようだった。