3-5
五
初めてのことばかりである。
「八洲戦国の御世のこと、山代は多津見山というところに、どうにもこうにも、すけべでハレンチなアホの四郎というガキがおりましてね。四郎はあまりのすけべさに実家を追われ寺にやられ、寺でも女の尻やら胸やらを夢想しては和尚に叱られという始末……」
五十槻は演芸場で初めての落語を鑑賞中だ。となりで精一が「どわっはっは!」と大爆笑を送っている。
客入りはまあまあ。五十槻は最前の升席に精一と横並びで座っている。ふたりとも軍装のままである。同じ升席の後ろの席では、見知らぬ老夫婦がやいのやいのと、演者のしゃべりに茶々を入れていた。雑然とした雰囲気の中でも、落語の声はよく通る。
そんななか少女はと言えば、本格的な噺家の流暢な語り口に、ただただ圧倒されていた。つらつらと流れるように進む物語りに、五十槻はついていくので精一杯だ。
どうやら話の内容は、昔の八洲にいた好色な少年が、ひょんなことから忍びの道に入門した挙句、太華に渡ってすけべにハレンチに大暴れ! というあらすじのようだ。しかし俗っぽい表現が多く、正直五十槻にはあまり好ましい内容とは思えない。
ただ、たしかにところどころ滑稽ではある。少年がすけべをこじらせた挙句、女人に触れると最悪死ぬ体質になってしまったときには、五十槻はちょっとだけ胸のすく思いがした。演者が扇子を使って器用に状況を説明する様に、大いに感心したりもした。小気味よく挟まれるちょっとした諧謔も興味深い。
「さすがに大爆笑とはいかないかぁ~」
演芸場を後にして。五十槻の前をぶらぶら歩きながら、精一はキツネ顔をにんまりさせながら振り返った。
「ちょっと演目が合わなかったかな。いつきちゃん堅物だかんね~」
「いえ、興味深かったです。しかし太華の拳法使いの少女が使う技は、もう少し掘り下げてほしかった。白兵戦の参考になったかもしれません」
「そこ?」
続いて訪れた場所で、五十槻は仰天した。
「甲伍長! しゃ、写真が動いてます!」
「そりゃ、活動写真っていうくらいだからねえ」
「許されていいんですか、こんなことが……!」
「逆になんでいつきちゃんは許せんの?」
活動写真を上映する施設を、電気館という。
ただの写真ならば五十槻も馴染みがあるが、それが動く写真となると話が違う。活動写真とは、連続写真の連なりである巻写真を幻灯機で映写して、舞台上の大きなスクリーンに映し出し、あたかも写真に写された人や物を、動いているかのように見せる興行である。
「『だめだよおとっつぁん、ちゃんと寝てなくっちゃ!』、『そういうわけにゃいかねえさ、おれが少しでも働かねえと』、しかしおとっつぁん、布団から出ようとしたところでコンコンと、嗚呼空咳が止まらない。そこへ長屋の戸がドンドンドン、ガラッ。『邪魔するぜ』、『あ、あんたは……借金取りの末吉!』」
映像に合わせて、舞台下手にいる活動弁士──略して活弁が、台詞や解説を物語っている。また、映像と語りに合わせ、臨場感たっぷりに三味線がかき鳴らされる。
真っ暗な空間の中、スクリーンだけが皓々と輝いている。観客はみな、闇の中で息をひそめてスクリーンに没頭し、また、活弁の語りと三味の音に聞き入っていた。
銀幕の中、白黒の人物たちは劇を演じている。今日の演目は時代劇だ。活弁の語り口は、さきほどの落語家とはまた違う。勧善懲悪の単純明快なストーリーは、五十槻にも分かりやすかった。ただ、話の途中で急にニンジャが出てきて暴れ始めたのは謎である。脚本家はどうしてこの展開にしようと思ったのだろうか。謎だ。
時おりノイズの走るスクリーンの上では、侍やニンジャが大立ち回り。手に汗握る剣戟が繰り広げられている。激しい鍔迫り合いにあわせ、三味線の音もじゃんじゃかじょんがらと大忙しだ。
五十槻は紫の眼を丸くして映像に見入っている。
「……これはどこの流派ですか。見たことがない……」
「いいから、頭からっぽにして見んさい! ほら、町娘がニンジャにあーれーされるよ! はい、あーれー!」
「ゆ、許せん……下郎が……!」
そのあとは精一とふたりで、みたらし団子を食べた。駅前のベンチに座るふたりの前を、たくさんの人々が行きかっている。
黙々と甘味を口に運びながら、少女は初めて触れた世界の余韻を噛み締めていた。落語も活動写真も、五十槻にとってはなんだか現実離れした出来事だった。まだ頭が少しくらくらする。娯楽体験の余韻はなんとなく、甘味のなかにちょっとしたしょっぱみのある、みたらしの風味と似ている。
となりの精一は何も言わず、街を行きかう熟女をしげしげと、細い目でひたすら観察していた。
「……どうだった? 落語と活動写真」
五十槻が食べ終わったころを見計らって、精一は声をかけてくれた。
感想を言おうとして、少女は口ごもった。言いたいことがたくさんある。興味深かったこと、新鮮だったこと、許せないこと。
「す、すごかったです」
やっとひねり出した一言は凡庸な感想である。キツネは満足そうに「うんうん」と相槌を打っている。
「落語と言いましたか……僕はあんなに流暢にしゃべる人を、初めて見ました。よく舌が絡まずにあれだけ語れるものです」
「いつきちゃんだって、祝詞唱えてるときは同じ感じだよ」
「活動写真も衝撃的です。写真が動くのは、法律で許可されているのですか?」
「ぶはっ! 無許可だったらいつきちゃんどうすんの?」
「自首します」
「だははははは! なんそれ、めーっちゃ草!」
はからずも精一の爆笑を引き出してしまった。伍長は引き笑いしながらも、活動写真は法律に反しない旨をちゃんと説明してくれる。ちょっとだけほっとする五十槻だ。けれど。
「しかし、落語も活動写真も興味深い話運びでしたが、ときおり猥褻な展開が挟まるのはいただけない。女性へ破廉恥な行いをしたり、無理矢理衣服を脱がそうとしたり……」
「いつきちゃんはそういうの、許せないんだよねぇ」
義憤に燃える十六歳へ軽く笑いかけながら、精一は続ける。
「でも、アホの四郎も変態ニンジャも、最後にゃおしおきされたり、成敗されたりしたでしょ?」
「……それはまあ、そうです。正直、ちょっとスカッとはしました」
娯楽なんてくだらない。
かつての香賀瀬修司の言葉が、不意に脳裏をよぎる。前までの五十槻ならその言葉を心から信じて、たとえ精一の誘いであっても、断じて演芸場や電気館には近づかなかったろう。
でもいまは違う。五十槻は香賀瀬の支配下からは脱している。
これまでの日常とは違うものを見て、聞いて。あれこれと頭の中に、様々な思惑が次々に湧き上がっている。あんなに流暢にしゃべるには、何か特別な訓練をしているのだろうかとか、動く写真はどういう原理なんだろう、とか。ふつふつと後からあとから浮き上がってくる様は、まるでサイダーの中の泡のようだ。
それに──五十槻はすっかり忘れてしまっていた。八朔の屋敷で、家族と反目しあっていることを。生まれて初めての娯楽は、少女の悩みをものの見事にかっさらってしまった。
「あと、僕、思いました」
「なんだい?」
「演芸場でも、電気館でも。観客の皆さんが、楽しそうに過ごされていました。皆さん、ああやって余暇を過ごされているのですね」
感慨を述べつつ、紫の瞳はベンチの周囲を見渡している。急ぎ足の壮年男性、連れ立って歩く女学生、その辺で寝ている酔っ払い。
それから、父親と母親に両側から手を引かれ、楽しそうに歩いている子ども。五、六歳くらいの男の子だ。紫の瞳は、ひときわそれをまぶしそうに眺めていた。
五十槻の言を受けて、精一が言葉を続ける。
「そうだな……まあ、ここは皇都だからな。娯楽にゃ事欠かない。もっと田舎だと、ここよかちーっとばかし娯楽の種類は減るけどさ……。ふだんは一所懸命に働いて、休みのときにはこうやって興行や外食に出向き、家族に恋人、もしくは友人知人同士と、あるいはひとりで楽しむ。現代の平均的な八洲の民衆の過ごし方さね」
精一の語りに、五十槻は思う。僕はその平均とは、ずいぶん違う生い立ちを送ってきたのだと。
「いつきちゃんはラッキーだよ。まだまだ知らないものがたくさんあるんでしょ? 楽しい思い出をたくさんつくる伸びしろが無限にある、ってこと!」
甲精一は、よく分からない男である。ふだんはちゃらんぽらんのスカポンタン。軍規違反は朝飯前、住居が営倉のような不良下士官である。
しかし反面、よく他者を気遣い、機敏に情緒を察し、なんだかんだ憎めない人物だ。彼と話していると、五十槻は自分の世界が広がっていくような気がする。
神域の外に、もっと広い広い世界があるような──。
「……そろそろ来るかな?」
精一はさっきから、誰かを探している風である。キツネ顔は人混みの中から目当ての人物を見つけ出したらしく、「ほら、立って」と五十槻をベンチから立ち上がらせた。すると。
「あ、あら……五十槻さん?」
甲伍長の起立の指示に従えば、ちょうど通りがかったらしい少女に声を掛けられた。聞き覚えのある声だ。
人混みをかきわけ、五十槻めがけて駆け寄ってきたのは──。
「清澄さん……?」
「やっぱり五十槻さんだわ! 奇遇ね、こんなところで。やだ、運命的って言った方がいいかしら!」
「奇遇という表現で問題ないと思いますが」
涼しげな水色の絣の着物で現れたのは、清澄美千流である。こちらを見つめる射干玉の瞳は、偶然の再会を喜んでいるようだ。
それから……。
「おーい、美千流くん! どうしたんだい、急に走り出して!」
「美千流ちゃん待って……きゃっ! 眼鏡落ちちゃう!」
清澄財閥令嬢の後を追って、続いて駆けつけてきた二人組。彼らを一目見るなり、五十槻は紫の眼を見開いた。
「薬師寺先輩と、春岡さん……!」