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四
達さん、達さん。自分の喉が、嗄れんばかりにそう叫んでいる。
赤い光が満ちている。黒い影が蠢いている。士卒が大勢死んでいる。
駆け足を地面へ刻むたびに、身体のあちこちが軋むように痛む。骨が折れているのだろう。息をするのも苦しい。神籠を使い、次々と襲い来る禍隠を跳ねのけるけれど、そろそろ集中が切れそうだ。制御している樹木の動きが、段々と鈍っていく。
けれど──敵陣にひとり取り残された上官を、精一は諦められなかった。同輩が止めるのを振り切って、二十二歳の青年は神域を一人駆けていく。目指すはあの赤い光の源、門。
宙に浮く赤い正円の前に、その人は──白獅子の面の将校はしゃがみ込んでいた。周囲には禍隠の屍が山と積まれている。
名前を呼びながら駆けつける。白い面の奥から、虚ろな紫の瞳がこちらを見た。
「達さん! 撤退だ!」
言いながら精一は、上官──八朔達樹大尉の腕を取った。そのまま彼の腕を、自分の肩へ回そうとするけれど。
八朔大尉はそれを払いのけ、覚束ない手つきで地面を探った。落ちていた血まみれの軍刀の柄に、手が触れる。
禍隠に噛まれたのだろうか。大尉の右手の指は数本、ちぎれかけていた。
「無茶だ達さん! 戻ろう!」
「いいや甲くん。僕には──それだけはできない」
無理矢理軍刀を握りしめ、そうはっきりと言いながら。
皇都雷神はよろよろと立ち上がる。しかし、その途中でぐらりと身体が傾いだ。続けて全身を揺さぶるような咳嗽を数回。白獅子の面の顎から、ぼたぼたと吐血がこぼれる。
慌てて精一は、大尉の面の緒を解いた。口許に血が溜まっては、呼吸の妨げになると思ったからだ。
そして外した面の下から現れたのは、まっすぐに門を見据える、夜叉の瞳だった。紫眼の瞳孔は極端に窄まり、赤い光を炯々と宿している。血に濡れた口元に浮かぶのは──薄い笑み。
精一はぞっとした。八朔の神籠が代々、この白い面を着けて務めに臨むのは、この凄絶な笑みを衆目から隠すためだ。きっと。
「僕は……生まれつき身体が弱くて、両親や兄に、子どもの頃から心配をかけていた」
独白。達樹の顔に浮かんだ夜叉の笑みが、少し寂しそうな色を帯びる。
「虚弱な体質で、もともと命は長くないと言われていた。親兄弟は愛してくれたが、それでも虚無のつきまとう人生だった。そんな僕に、神さまが授けてくれた力なんだ──八朔の神籠は。僕に与えられた、僕だけの役目だ。ただ訪れるのを待つだけだった僕の死を、意味あるものに変えてくれる恩頼。我が身命を賭して禍隠を屠り尽くすことが、僕の至上の悦びだ」
達樹が語る中、ふたりの周囲に紫電が迸り始める。彼方から這い寄ってくる禍隠の群れを、紫の光が乱暴に薙ぎ払っていく。
「バカなこと言ってないで、達さん……!」
「頼むよ甲くん。僕から神域を──死に場所を奪わないでくれ」
夜叉は一瞬だけ、ふだんのような柔和な笑みを浮かべた。
達樹は地面に落ちている枝を拾うと、精一へそっと差し出した。
「最後のお願いだ──甲くん。僕が太刀を落とさないよう、強く縛り付けてほしい。きみの神籠で」
精一は泣きながら最後の願いを聞いてやった。指の落ちかけた右手を刀の柄に添えてやって、神籠の力で、きつくきつく枝を巻き付けて。
悔しかった。この人が神域の内に死を求めているなんて、ずいぶん前から分かっていたのに。
「甲精一一等兵へ命ずる、速やかに神域から退避せよ。もう、神籠の制御がきかない。きみを巻き添えにしたくは──」
雷はいっそう激しさを増している。轟雷の中、精一は人生で初めてちゃんとした挙手礼を上官へ示した。八朔大尉はちょっとだけ嬉しそうにした後、八朔の神籠の顔へ戻った。細身の身体は、凛と背筋を伸ばして赤い正円に臨む。
それが、八朔達樹との最後になってしまった。精一は今まで散々おちょくったりからかったりした八朔大尉に背を向け、駆け出した。上官からの指示をまともに聞いたのも、これが初めてだ。
背後から、祓神鳴神を寿ぐ勇壮な祝詞が聞こえてくる──。
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に
神實八朔達樹 恐み恐み白く
八尋八十尋に厳しき雷鳴轟かし
五百千五百に蔓延る禍隠の尽く
僕が太刀に汝命が大御稜威宿らせしめ
神域が内を敵共の屍で満たしたまえ
「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍──待ちかねていた、このときを! 遠つ御祖なる霹靂神よ、祓神鳴大神よ! 僕が誉高く死にゆく様をみそなわしたまえ!」
八朔大尉の最期の暴雷は、壮絶なものであった。
すべての音と光が已んだ後、精一はいち早く神域の内へ駆け戻った。
門のあった場所の近辺に、人間の指を三本と、捥げた右腕をみつけた。腕には枝で巻きつけられた軍刀が繋がっている。……きっと、達樹の。
「達さん──」
肝心の達樹の遺体は、見つからなかった。
自らの神雷に、灼かれてしまったのだろうか──。
── ── ── ── ── ──
五十槻は困惑していた。
青い空に放物線を描き、こちらへ向かってくる白球。
それをグローブで掴み取ると、前方から「ないっすぅ~」と気の抜けた声援が飛んできた。
少女は精一とキャッチボールをしている。軍営の運動場は、気だるい夏の空気に包まれていた。
なぜこんなことを、と思いながら、五十槻は自分の手元へ視線を落とす。左手に着けたグローブの感覚がまだ馴染まない。革製の鍋掴みのような形状のこの手袋は、野球という競技に用いられる道具らしい。
キャッチボールとは、野球における基本練習のひとつである。二人一組となり、互いに投球、捕球を繰り返す。
五十槻は野球選手を志望していない。終生軍人であるつもりだ。だから今日、精一に「おーい八朔、野球しようぜ!」と誘われたのはまったくもって意味不明である。
「いつきちゃーん、ばっちこーい!」
よくわからないけれど。言われた通り、五十槻はボールを右手に持ち替えて、青い空へ軽く放った。放物線は今度は精一の方へ指向して、白球は彼のグローブにおさまる。
「ナイスコントロール!」
さすがに舶来の球技、用語は横文字ばかりらしい。五十槻は剣道以外の競技は嗜まないから、ちょっとだけ新鮮に感じた。
少女が無言でただ投球と捕球を繰り返していると、精一は不意に世間話を差し込み始めた。
「ねえねえいつきちゃん。最近なんかあった?」
キャッチボールの距離は、雑談するには少し遠い。精一から受け取った白球を投げ返しながら、五十槻はいつもより腹に力を入れて、発声した。
「いいえ」
「うっそぉ。でもさぁ、なんかさー、最近元気ないよぉー? どしたん話聞こか~?」
「なにもありません」
五十槻は少し力んだ投球を返す。若干右に逸れた球の軌道に合わせ、精一は「おらっしゃい!」とグローブを白球の下へ差し出した。ぼすっ、とグローブへ落ちる白球。伍長は無事に白球を掴むと、いつものにぱっとした笑みを五十槻へ向けた。
「やれやれ……ま、なーんもないならよかった!」
「………………」
「どう? 楽しい?」
そして再開されるキャッチボール。
楽しいかどうか、五十槻にはよく分からない。相変わらず固いグローブの感触は手に馴染まないし、ボールを投げたり捕ったりするだけの営みに、何の意味があるのかも分からない。八朔の神籠である五十槻は、もともと動体視力に優れており、飛んでくるボールを捕るだけなら簡単だ。それゆえ捕球に関しては、なんの上達の楽しみもなかった。
「……わかりません」
「俺は楽しい!」
「そうですか」
二人の間を、白球が交互に飛び続ける。五十槻には楽しさはよく分からないけど、目の前の伍長はたしかに楽しそうだ。
甲精一伍長は、僕にはないものをたくさん持っていらっしゃる。
五十槻の中の精一の印象は、そんな感じだ。第一中隊の他の面々からの彼に対する評価は、スカポンタンのアホギツネ。
たしかに軍規に忠実とは言えず、上官である藤堂大尉をふざけた言動で翻弄することも多い。評価は妥当と言える。
けれど一方で、彼は人たらしの才能を持っている。昨年の櫻ヶ原女学院禍隠潜伏事件では、三十一歳男性下士官という素性を巧妙に隠匿し、転校生・大福院きな子として、多くの女学生から事件に関する情報を得ることに成功している。不真面目だが有能。そんな男だ。
なにより毎日楽しそうだ。知り合いも多く、藤堂大尉の前任であった田貫大尉とも懇意であったし、現在も崩ヶ谷中尉と昵懇である。士官だけでなく兵卒一同とも気安い関係であり、第一中隊のゆるい雰囲気は、彼の存在に依るところが大きい。
そんな甲伍長とのキャッチボール。
楽しくはない。けれど、穏やかだ。
いいのかな、とも思う。僕は八朔の神籠で、これから八洲全土の門を封じる任務が控えている。もっと訓練をしたり、作戦の段取りを把握することに、時間を割くべきでないかとは思うけれど。
今日の午後、五十槻は非番だ。だからこうして、精一に付き合って夏空の下でボールを投げ合っている。
家に帰ったって、辛いだけだから。
「甲伍長は」
五十槻は白球を投げる。青い空に、白いボールが吸い込まれていく。
「どうしていつもそう、楽しそうなんですか」
「さあなあ! なんかいっつも、気が付いたら楽しくなっちゃってんだなー、これが!」
五十槻からのボールをパシッと受け取りながら、こともなげに伍長は笑った。
「……僕にはよくわかりません。楽しいなんて、神域の外では思ったことがないから」
「もおやだぁ、すぐ禍隠ぶっ殺す話に持ってくのやめてくれますぅ~?」
ぶりぶりと妙な口調で怒る真似をしつつ、精一は球を投げ返した。
「いつきちゃんさぁ、野球したことないんでしょお?」
「はい」
「鬼ごっことか、かけっこも?」
「ええ」
「は~、もったいな~! 面白そうなことなーんもやってないから、楽しさが分かんないやつだよそれ!」
怒ったような口調は続けるけれど、戯画のキツネに似た顔は穏やかに笑っている。細い目元は、幼い弟を見るような眼差し。
「……僕には必要ないと思います」
精一からのゆるい放物線を、五十槻のグローブが受け取った。
「僕には八朔の神籠として、藤堂大尉の部下としての使命があります。遊興にかまけている暇はありません」
「まったく、綜ちゃんは別にそんなガチガチな感じじゃないでしょうよ……っと、大暴投!」
どうしてか手元が狂ってしまった。五十槻の放った球はあらぬ方向へ飛んでいく。精一は空を見上げながらボールの軌道を追いかけると、落下の地点を見定めて滑り込みつつ、グローブを突き出した。果たして、白球は見事に伍長のグローブへすっぽりおさまる。
精一はそのまま流れるように投球。
「へい、いつきちゃん!」
「!」
球は低い軌道でこちらへ向かってくる。五十槻はすぐさま捕球の体勢を取った。しかし、グローブで捕らえる寸前。
ボールは急にくいっと下方へ軌道を落とす。フォークボールだ。
球は五十槻のグローブの指側を掠めて、てんてんと、地面に転がっていった。
「あ……」と驚きと残念さの入り混じった真顔でそれを見送っていると、精一が汗を拭いながら近づいてきた。
「あちゃー、変化球に弱いかー」
「変化球?」
「知らんの? ま、野球自体も知らんのに、知るわけないよね~」
「む……」
ちょっと小ばかにしたような言い方に、五十槻は少しむっとした。そんな投球があるとあらかじめ知っていれば、対処できたかもしれないのに。
そんな彼女の肩を無遠慮にバシバシ叩きながら、精一はデリカシー皆無の口調で続けた。
「はっはっは。ま、世の中にはきみの知らないおもろいことが、たっくさんあるってこった! ……いつきちゃん、午後なんか用事ある?」
「いえ……」
「じゃあ今から遊びに行こ! いつきちゃんの知らん物事を、色々教えて進ぜよう!」