3-2
二
「……というわけで、家に居場所がありません」
「そうかぁ……」
カンカン照りの太陽の下。
第一中隊の営庭を望む石段に、五十槻と綜士郎は並んで腰かけている。すぐそばに植わっている梧桐が木陰をこちらに投げかけていて、少し暑さを和らげてくれていた。
木漏れ日の中、五十槻はうかない真顔でうつむき、手元へ視線を落としている。隣では綜士郎が、やるせない面持ちでがっくりと肩を落としていた。
少女は手に持った子ども用の小刀を見下ろして、ちょっとだけため息を吐いた。
小刀の柄には「ホズミイツキ」と名前が彫られている。五十槻が幼い頃、父に貰ったものだ。鞘を失くしてしまっていたが、最近新たに仕立てなおし、軍務の際には常に持ち歩いている。
ついこの間までは、大事な宝物だったけれど。五十槻は小刀から目を逸らし、そっと胸のポケットにしまいこんだ。
五十槻が語った八朔家でのあらましに、綜士郎は真剣な面持ちで腕組みし、じっと考え込んでいる。
少女は父や姉から望まぬ未来を強制され、血のつながらない母に拠り所を求めるけれど、その母の心からの愛情も本当は、弟に向けられるべきもので。
「……八朔の家で、やっていけそうか。五十槻」
隣の上官は、やっぱり今日も心配性の兄の口調だ。その声を聞いていると、五十槻はひどく安心する。どんなに家族とすれ違っていても、この人だけは僕を見てくれる。僕の在り様を肯定してくれる。
僕自身を──定義してくれる。
「……僕は宿舎にはもう、戻れないんですよね」
「そうだな。お前が使ってた部屋は、夜勤班の仮眠室にしちまったからなぁ……」
五十槻が元々入居していた宿舎の部屋は、綜士郎の言う通り、現在は夜勤者用の設備として利用されている。利用希望者が多く、現在半年先まで予約で埋まっている。利用者からは「個室なのに便所と風呂がついてて最高」「八朔少尉の匂いがする」「オ、オレは別に、ハッサクの匂いが気になったからじゃないんだからな!」などと絶賛の声が相次いでいるが、もちろん五十槻本人は知る由もない。
家には居づらい。かといって、宿舎にはもう空きがない。となると、五十槻の居場所は一カ所だけである。
「……藤堂大尉のお部屋は」
「だめだ!」
五十槻が何を言おうとしているのかいち早く察知して、綜士郎はかぶせ気味に拒否の言葉を放つ。そんな上官の反応に、五十槻はしゅんと項垂れた。
「大尉……」
「ばかたれ、そんな目で見るな! 大体、お前と俺の距離が近すぎて、お前の家族に誤解させてしまった節もある」
ずきっ、と五十槻の胸に、たしかな痛みが走った。
自分と藤堂大尉の距離が近づくにつれ、その関係は他者から見れば、自分の望まぬ形に捉えられてしまう。
やはり、自分が女だから。神籠でいるにしても、軍人であるにしても、藤堂大尉の犬であるにしても──結局は、自分ではどうにもならないものに、五十槻は人生通して苦しめられている。
目を伏せた部下に、綜士郎は少し狼狽したような顔色を見せた。兄のような上官は、しっかりと言葉を選びながら告げる。
「悪いな、五十槻。どうやら俺にもその……お前の居場所を守ってやるのに、限界があるみたいだ。不甲斐ないな……あの晩、俺がもう少しうまく立ち回れていたら……」
「いいえ、藤堂大尉はお力を尽くしてくださいました。……僕、離れの外で聞いてました。大尉が僕をかばってくれる言葉を」
五十槻はあの夜、離れの中で繰り広げられる言い合いを、屋外で密かに聞いていた。正確には聞こえてしまったが正しい。彼女はあのとき、綜士郎が五十槻について語るところから聞いていた。
──たしかに五十槻は俺を信頼してくれています。けれどそれはたぶん、俺があいつに対し、不埒な行いを絶対にしないという確信のもとでの信頼です。俺たちの間にあるのは、恋愛感情じゃない。ただの上官と部下の間にある──信頼です。
──微力ながら、俺があいつの生命を守るために力を尽くします。部下の生命を最優先することは、部隊の長の務めですから。だから五十槻に、あいつの意思を顧みない将来を押し付けるのはやめてやってください。何卒……。
藤堂大尉は家族とは違う。五十槻のことを理解してくれている。ありのままの自分を受け入れて、肯定してくれる。
「僕、やっぱり藤堂大尉とずっと一緒にいたいです。朝起きて、夜寝るときまで」
「おい、五十槻……」
「だって、大尉は僕のこと、ちゃんと見てくれるから」
「聞きなさい、五十槻」
幼い口調をたしなめるように、綜士郎が食い気味に遮った。
「俺がお前に対し、適切に対応できるのは──お前の生い立ちや境遇を、知っているからだ」
「…………」
「家族に正しく理解してもらいたいと願うなら、やっぱり……ちゃんと自分のことを話すべきじゃないのか?」
綜士郎の言葉に、五十槻は真顔の眉根を寄せた。少女の唇からこぼれるのは、滔々とした反論である。
「でも、僕は家族には打ち明けないと決めました。墓まで持っていく所存です。藤堂大尉だって、きっと分かってるはずだ。僕のことを全部父や姉に伝えたら……今度こそ強硬に、僕は陸軍から引き離されてしまう。以前、僕を連れての国外逃亡の企てまで口にした人たちです」
陸軍──ひいては神域から引き離されることが、五十槻にとっては最も耐え難いことだった。八朔の神籠、および藤堂綜士郎の犬という存在理由を、いっぺんに失うことになってしまう。
「それに、僕が将校の身分から離れることになれば、対羅睺蝕の防衛戦略に支障をきたします。もうすぐ『縦貫作戦』も始まろうかというのに、八朔の神籠が戦線を離れるわけにはいかない。そんなことになれば、この八洲の国が──」
「ばかたれ、家庭内の問題に国を持ち出すな! いまは羅睺だの禍隠だのの話じゃなくて──八朔五十槻と、その家族の話をしている」
とん、と五十槻の背中に、綜士郎の手のひらが触れた。励ますような、力強い感触。なんだか、自分を外へ押し出すような力加減を、五十槻は感じた。
「お前がそうやって悩むのは、家族に自分を理解してもらいたい気持ちがあるからだろう? たしかに、あの暴走気味の父さんや姉さんに、お前の過去をきちんと受け入れてもらうのは難しいかもしれんが……しかし、その対話の結果が、お前の望まぬ結末になるとは限らん」
「藤堂大尉……」
「たしかに、家族のお前に対する関わり方は間違っている。父さんも姉さんも、いまのお前じゃなくて、あらぬ方向を見ている。義理のお母さんもいい人だけど、お前の側に遠慮があるな? でもだからって……八朔家っていうお前の居場所のひとつから逃げていいのか?」
「居場所の、ひとつ……」
「よくよく考えてみなさい、五十槻。答えはいますぐじゃなくていいから」
「…………」
綜士郎の日差しのような視線に見下ろされながら、五十槻は俯いた。難しい、と思う。父も姉も頑なで、五十槻が何を言おうが、徒労な気がするから。香賀瀬先生に、口答えできなかったときのように。
兄のような手は五十槻の背中を、やっぱり励ますようにトン、トン、と小気味よく叩いている。僕の居場所は、この一カ所だけでいいと思うけれど。
五十槻は大きくため息を吐いた。
「結局、今日も僕はあの家に帰らねばならないわけですね」
「そういうことだ。……そうだ、話は変わるんだが」
少女の無念のため息を、さらっとかわして。
ふと話題を切り替えながら、綜士郎はじっと五十槻の紫の瞳を見つめながら問う。
「……お前の叔父さん、八朔達樹中佐だっけ。五十槻は会ったことあるのか?」
綜士郎の眼差しは、こちらをじっと見つめつつも、どこか観察する風である。その様子を多少怪訝に思いながらも、五十槻は質問に答えた。
「はい。一度だけ、神祇研で……」
五十槻と達樹が会って会話をしたのは、一度きりのことである。少女がまだ神籠になる前の、六歳のときのことだ。
「あまりよくは覚えていないのですが、優しそうな方でした。僕に戦艦のおもちゃをくれて……」
「ああ、神祇研にあったやつだな」
かつて、神祇研の物置で楢井に襲われたとき。楢井の放った凶弾から綜士郎を守ったのが、叔父がくれたおもちゃの戦艦であった。いまも五十槻の部屋で大切に飾られている。
「どうして、叔父の話を?」
五十槻がそう問えば、綜士郎は「ああ、いや」と少々まごついた口調で答えた。
「いや、お前の父さんから、この間ちょっと話を聞いたもんでな。皇都雷神の逸話は、俺も方々でたまに耳にする。そういえば八朔中佐の話を五十槻としたことはなかったな、と思ってな……」
──藤堂大尉は、何かを確かめようと思っていらっしゃる。
五十槻は綜士郎の分かりやすい顔色を見て、そう直感した。しかし具体的に何を確かめたいのかは、分からないけれど。上官は気遣うような眼差しをこちらに向ける。
「……それで。お前は叔父さんのこと、どう思ってるんだ?」
「…………」
まさか、藤堂大尉から叔父の印象を聞かれるとは夢にも思わなかった。しかし五十槻の心中は八朔達樹に対し、複雑だ。
「正直一度しかお会いしたことがないので、分かりません。でも、香賀瀬先生は彼をいたく敬慕していらっしゃった」
香賀瀬の名が出たので、綜士郎はあからさまに嫌そうな顔をしている。
「香賀瀬先生によると、僕の教育方針は、達樹叔父さんを学ぶことだったそうです。言葉遣い、立ち居振る舞い、思想、信念……」
それが八朔の神籠という、歪んだ型枠の正体だった。五十槻も薄々気付いていた。結局、香賀瀬修司が作ろうとしたのは、八朔達樹の模造品。しかし五十槻は女の身。いくら五十槻が八朔達樹の枠にはまろうとしたところで、その時点でどうあがいても不完全な不良品だ。だから、香賀瀬は──。
「いま考えれば……叔父の存在は僕にとって、呪い、かもしれません」
「…………」
途切れとぎれの五十槻の言葉を、綜士郎は黙って聞いている。何か言いたげな彼の眼差しに、促されるように五十槻は吐露を続ける。
「でも、叔父さんは僕におもちゃをくれました。優しく接してくれて、僕の幸せを願ってくれたことは覚えています。たった一度会っただけだけど、大切な思い出です。だから、あの人のことを呪いだなんて、僕は思いたくない……」
五十槻は、本当はよく覚えている。八朔達樹に対面したときのことを。達樹叔父さんは綺麗な紫の瞳をしていて、五十槻の頭を優しく撫でながらこう言った。「幸せで過ごすんだよ」、と。
不意に大きな手のひらが、軍帽越しに五十槻の頭に触れた。慰めるように撫でる綜士郎の手の動きが、あのときの達樹叔父さんの手のひらと重なった気がする。
「……悪い、余計にしんどい気持ちにさせたかもな」
「いえ……」
会話が途切れたときだった。
「八朔少尉、警邏の準備が整いました」
綜士郎の手が、さっと五十槻から離れた。
前方から駆け寄ってきたのは、五十槻の分隊の式哨たちである。午後の警邏担当は自分だ。少女はすっくと石段から立ち上がる。
五十槻は年上の部下に向かい「承知しました」と答礼を行うと、綜士郎へ向き直った。悩める青少年は、もうすでに神事兵少尉の顔に戻っている。
「藤堂大尉、相談に乗っていただきありがとうございます。自分は警邏へ参ります」
「ああ。気を付けて行ってこい」
「はっ」
やりとりを終え、五十槻は分隊を連れてその場を後にした。部下が後ろで「藤八てえてえ……」などと奇怪なつぶやきを漏らしていたけれど、五十槻にはなんのことか分からなかった。
五十槻を見送って。綜士郎は石段に腰かけたまま、ぼんやりと小さくなっていく少女の背中を見つめていた。
「呪い……か」
八朔達樹。この先代の八朔の神籠が、五十槻の生い立ちへ暗い影を落としている。綜士郎にはそんな風に感じられる。
香賀瀬修司は彼に傾倒し、次代の神籠を彼の生き写しにしようとした。
八朔克樹は、達樹の死に様を恐れている。娘の姿に達樹の亡霊を見ている。
いまも、五十槻は彼の存在を「呪い」と表現した。
(どういう奴だったんだろうな、八朔達樹……)
いましがたの五十槻の話では、彼女は達樹本人にはそう悪い印象を抱いていないようだった。けれどいま、八朔家に起きている家族間の不和も、香賀瀬修司の教育方針も、元を辿れば彼に行きつく。
もちろん一番悪いのは香賀瀬修司だ。皇都雷神はおそらく、五十槻の言う通り、彼女を善意から気遣い、その幸せを望んでやるような男だったのだろう。
そんな彼の幻影がいまや、残された八朔家に不幸せをもたらしているのは皮肉だ。八朔克樹を始めとする五十槻の肉親があそこまで、五十槻にふつうの女性としての生き方を強いるのは──達樹の死に様が壮絶だったから。
そこまで考えたところで。
それは突然の感触だった。綜士郎の頬へピタリとくっつく、ひんやりと氷のように冷たい何か。
「うおっ、冷たっ!」
「へっへっへー、やっほぉ綜ちゃん。気付かなかったでしょー!」
驚く綜士郎へ満足そうに笑いつつ、後ろから陽気に現れたのは──いつでもどこでも神出鬼没、第一中隊が誇るテキトー一代男、甲精一である。
精一は綜士郎の横へどかりと座り込むと、手に持ったものを「はいこれ」と綜士郎へ差し出した。
キンキンに冷やされた、サイダーの瓶だ。さっき頬に当てられたのはこれだろう。
「ったく、声くらい掛けろ。で、これ貰っていいのか?」
「十五銭ね」
「おい、金とんのか!」
と言いつつも、綜士郎は律義に財布を取り出し、「ん!」と精一へ代金を支払ってやる。キツネは「まいど!」と上機嫌に金を懐へ納めた。
「んで、何か用か」
「いやー、いつきちゃんと長いことお話ししてたじゃん? いやー、配属時はお人形さんみたいだったいつきちゃんがさあ、いまや家族関係に悩んでるんだぜ? ちゃんと思春期してて、おじさんしんみりしちゃったぁ」
「お前、いつの時点から見てたんだよ……?」
借りた栓抜きで開栓して、綜士郎は一口煽る。精一も自分の分のサイダーを開けて、同じように美味そうに炭酸を味わった。
「ぷはーっ! 夏のサイダーが一番うまい!」
「それで甲伍長。来意を聞かせてもらえるだろうか。ただからかいに来ただけなら営庭十周だが」
「もうっ、そうツンケンしなさんな! お義父さん、綜ちゃんのこと心配してきてあげたのに!」
「だから義理の親父ネタはやめろ!」
とまあ、このアホの精一が綜士郎のツッコミなんぞ意に介すわけがない。キツネはいつもの通りにぱっと笑いながら、朗らかな調子で言った。
「ま、綜ちゃんお悩みだったみたいだからさっ。俺で良けりゃ、いつきちゃんのこと相談乗るぜ!」




