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3-1 変化球


──(かけ)まくも(かしこ)祓神鳴大神フツカンナリノオオカミ(かしこ)み恐み(もうさ)く。

──神さま、神さま。僕は、家族とどう接していいか分かりません。


 あの日以来、五十槻の日常はすっかり壊れてしまった。

 

「ちょっと五十槻!」

 

 自宅に帰れば、待ち受けているのは姉たちからの叱責である。

 

「今日はどうあっても、お料理の練習をしてもらいます」

「この間のだし巻き卵みたいな、みっともない真似はさせられないわ!」

「必要ありません。僕は軍人ですので」

 

 家の玄関で冷淡に拒絶しつつ、五十槻は履物を脱ぎ、さっさと自室へ向かおうとする。けれど姉たちは、そんな妹の前へ憤然と立ちはだかった。

 

「待ちなさいよ! 私たちは、あなたのためを思って!」

「どこが僕のためを思ってなんですか……!」

「分からずや!」

「どっちが!」

 

 こんな調子で、顔を合わせればすぐ口喧嘩。

 食卓の席でも。

 

「い、五十槻……今度、華道や茶道の先生を呼ぼうと思うんだ。女の子らしい習い事をすれば、きっとお前だって……」

「結構です父上。……ごちそうさまでした」

「五十槻ぃ……おやすみのぎゅうは……」

「しません!」

 

 父親ともすっかり気まずくなってしまった。

 五十槻は分からなくなった。神祇研の騒動のあと、この家での生活を望んだのは、自分自身のはずなのに。

 どんぐりころころのあの夜、父の腕の中はあんなに温かだったのに。

 いまや八朔の屋敷の中は、神祇研とはまた違う枠の中。男として育った五十槻の魂は、今度は華族令嬢の枠に押し込められようとしている。

 そんなものに、到底おさまりきるはずもなく。


 綜士郎が訪問した晩。五十槻の肉親たちは、末妹から軍人の身分を剥奪すべく、あろうことか藤堂綜士郎大尉と彼女を結婚させることを目論んだ。綜士郎が拒絶し、さらには五十槻が激怒したことにより、目論見はいったんは瓦解したが。

 しかし──父をはじめとする八朔家の面々は、今度は少女の内面を矯正することに方針転換をはかったようである。

 父や姉らが見ている先が、淑やかな華族令嬢としての五十槻であるならば──いまの五十槻には、彼らの押しつけは断じて受け入れられるわけがない。その先に、結婚して子どもを産むという役割があるなら、なおさら。

 さて、矛先が自分自身へ向くならともかくも。

 五十槻を巡って、家族の間にも不和が起き始めた。ある晩、五十槻が姉たちのいる部屋の前を通りかかったときのことである。

 

「……ちょっと奈月、それどういうこと?」

「だから、お父さまもお姉さまも、藤堂さんを信用し過ぎです。あの方だって所詮、陸軍の中の人でしょう?」

 

 言い争う声に、五十槻は足を止めた。少女は息をひそめて、襖の向こう側の会話を窺う。

 

「表面上はたしかに五十槻のことを慮っているようですけど、その実、言葉巧みにあの子を将校の身分に縛りつけているのは、やはり彼なのでは? 彼の指揮下で、あの子が今まで何度危険な目に遭ってきたことか……」

「でも、あの人は大尉でしょう? 五十槻をどうこうする人事権なんか持ってないし、いまでもよくやってらっしゃると思うわ! 五十槻だってあんなに懐いてるし、どうせあの子を嫁にやるなら……」

「お姉さまは甘すぎます! 彼だってどうせ上層から昇進をちらつかされて、いいように……」

 

 それ以上聞きたくなくて、五十槻はその場をあとにした。自らの存在が、尊敬する上官へあらぬ嫌疑をかけ、さらには家族間に意見の相違を生んでいる。五十槻の身の置き所のなさは、日々深まっていくばかりだった。


 そんな屋敷で唯一落ち着ける場所が──継母、和緒(かずお)のそばだった。

 

「ちょっと五十槻! 逃げんじゃないわよ!」

「そろそろ自分で着物の着付けができなくてはなりません!」

 

 廊下をドタバタと、姉ふたりが追いかけてくる音。軍務帰りの五十槻は軍装のまま、屋敷をあちこち逃げ回っていた。

 そんな追いかけっこのさなか。

 

「五十槻さん、こっち」

 

 行く手の脇にある障子戸がそっと開かれ、和緒が顔を出す。手招きされるまま、五十槻は継母の部屋へ滑り込んだ。

 

「まあまあ、毎日大変ね」

「すみません、母上……」

 

 かくまってもらった部屋の隅で、五十槻は縮こまる。弓槻(ゆつき)はちょうど昼寝していたようで、敷かれた布団の上でくうくうと寝息を立てていた。うまいこと撒かれた姉たちの気配は、障子戸の向こう側を通り過ぎていった。

 義理の母は五十槻の傍へ正座すると、そっと軍服の背中を撫でてくれる。

 

「どうしちゃったのかしらね、みんな。五十槻さんに、女の子の習い事ばかりさせたがって……」

「さあ……」

 

 心苦しいが、五十槻にははぐらかすことしかできない。

 和緒はまだ何も知らないのだ。五十槻が本当は女子であることも、彼女以外の家族がそれを知っていて、五十槻を令嬢として再教育しようとしていることも。

 

「五十槻さんは男の子だから、複雑よね。逃げたくなっちゃうのもしょうがないわ」

 

 こういう風に言ってくれるのは、いまこの家では和緒だけだ。彼女のはつらつとした笑顔が、辛い気持ちを幾分かやわらげてくれる。

 

「僕の味方は、藤堂大尉と……母上だけです」

「いいえ。本当はこの家のみんな、あなたの味方よ。たぶん克樹さんもさっちゃんもなっちゃんも、ちょっと方向を間違えてるだけ」

「そうでしょうか……」

「きっとそうよ。大変ね、五十槻さんは。お外では禍隠をやっつけるお役目もあるのに、おうちの中でも安らげないなんて……」

 

 そう言って五十槻の背中を撫でる手は、まるで本当の母のようである。五十槻は本当の母を知らないけれど、きっとこの手のように、柔らかく、温かなのだろう。

 ふれあいにほっとしている最中である。部屋の外から「奥さま、少しよろしいでしょうか」と使用人の呼ぶ声。

「はあい!」と障子戸越しに返事をして、和緒はやさしい笑みを五十槻へ向けた。

 

「ごめんなさいね五十槻さん、少し行ってくるわね。さっちゃんとなっちゃんが諦めるまで、ここにいていいからね」

「はい……」

「弓槻のこと、見ててね。頼んだわ」

 

 そう言って、和緒は足袋の音も軽快に台所の方へ向かっていく。五十槻はしばらく、名残惜しげに継母の去っていた方を見つめていたけれど。

 

(弓槻……)

 

 紫の瞳は、部屋の中央で寝転がっている弟を捉える。

 五十槻は弟の存在が苦手だった。弓槻はもうすぐ一歳になる。毎日和緒の腕に抱かれて、甘やかされて、子守唄を聞かせてもらって──一心に母からの愛を受けている。

 

「あー」

 

 弓槻はいつの間にか起きていたらしい。手の届かない位置にあるでんでん太鼓を欲しがって、手を伸ばしている。

 ふと、可愛らしい黒いつぶらな目が、五十槻の方を向いた。そのまま弓槻は太鼓に向けた腕をぶんぶん振って、なにやら訴えている。おそらくは五十槻に、おもちゃを取ってくれとせがんでいるのだろう。

 その瞬間、少女の頭にカッと血が上った。

 

「甘えるなっ!」

 

 つい放ってしまった一喝。

 あ、と後悔したときにはもう遅い。弓槻は兄だか姉だかの大きな声にびっくりして、にわかに顔を歪める。

 そして赤子は泣き始めた。誰に憚ることもなく、感情のままにわんわんと。

 

「あ……ごめ……ん……」

 

 にわかに五十槻の胸中に押し寄せる、自責の念。少女は自分の行いに、呆然とした。

 唯一の居場所である母の部屋に、異母弟の泣き声が満ちる。

 

──弓槻に当たったってしょうがないのに。

 

 壁際で膝を抱えたまま、五十槻は顔を伏せた。

 少女は自分の行いが不条理であることを、ちゃんと了解していた。幼い弟はまだ自我が発達していない。なのに、五十槻は自らの満たされなさを、この小さな命に転嫁しようとしている。

 五十槻が弓槻にしようとしたことは、かつての香賀瀬修司と同じ。

 女子であること、神籠であること。五十槻が自分ではどうしようもできなかったことを、苛み糾弾し尽くしてきた香賀瀬と同じく。

 男子に生まれたこと、実の母親に愛されていること。弓槻の持つ天与のものに嫉妬した挙句、幼い弟に叱声を浴びせた。

 さっき五十槻の背中を撫でてくれた優しい手は──本当は、弓槻のためのものだ。

 抱えた膝の上で、五十槻の目元に涙がにじんでいく。自分が情けなくて。結局この家の中の、どこにも居場所がなくて。

 

──僕の居場所はやはり、藤堂大尉のお(そば)しか……。

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