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2-6


 八朔の邸宅の敷地は広い。

 母屋自体の規模も大きいが、庭園の面積も広々としている。

 綜士郎が本日宿を借りることになった離れも、その庭園の片隅にあった。

 

「広い庭だな……」

 

 五十槻に先導されつつ、綜士郎はぼんやりとありきたりな感想を漏らした。縁側を借りて少し夜風に当たったことで、酩酊具合は多少マシになったようである。しかし明日きちんと起きられるかは物凄く不安だ。

 酒を飲まされる前までは、軍服を取り戻してさっさと帰ることばかり考えていたけれど。もう夜も遅いし、酔いも醒めきってはおらず、結局そんな気力もなくなってしまった。

 

「五十槻。別に場所さえ教えてもらえれば、一人で行くよ。お前はもう休みなさい」

 

 目前を歩く紫の紬の令嬢に、綜士郎はそう声をかける。正直なところ、先刻からの風呂場騒動、銘酒強制一気飲み事件などの一連の経緯を考えると、この部下と一緒にいることは得策ではない。

 

──もしや、あの父親と姉どもは……俺とこいつを娶わせようとしてないか?

 

 さっきから感じているその疑問は、真実味を増していくばかりである。五十槻と度を越した触れ合いを強要しようとする、軍服をいずこかへ持ち去る、酒を飲ませて前後不覚にさせようとする──。

 五十槻はおそらく、肉親の企みに気付いてはいまい。ただただ、尊敬する上官に対し部下として親睦を深めるべく、父と姉の助言に従っているつもりなのだろう。少女は令嬢の姿のまま、「いえ、父より大尉のご案内を仰せつかっておりますので」と、実直な口調で応じている。

 やがて目的の離れが見えてきたとき、綜士郎はあることに気付いた。月下に佇む家屋は、新築である。

 

「新しいな……」

「ええ。今年の春に建てたばかりです」

「へぇ……」

 

 こじんまりしてはいるが、上品な佇まいの家だ。まだ新しい材木に、白い漆喰の壁が夜目にもまぶしい。

 金持ちは家の中にもう一軒家を建てるんだな、すごいもんだ。と感心しきりの綜士郎のそばで、五十槻は少し睫毛を伏せている。

 

「……ここは、父が僕のために建ててくれたのだそうです」

「そうなのか?」

 

 綜士郎の声に、五十槻は俯き気味にうなずいた。

 

「僕が将来──女性として、婿を取ったら……ここに夫婦で住んでほしいそうで」

「俺ほんとにここに泊まっていいのか?」

 

 そういう逸話を聞くと、綜士郎は俄然及び腰になる。いまの状況が状況であるし、ぜひご遠慮したいところだ。

 五十槻はいつにもまして弱々しい声で続けた。

 

「父はあくまでも、僕には女性として幸せになってほしいんだそうです。結婚して、子どもを産んで……」

「…………」

 

 部下の暗い語り口に、綜士郎は押し黙ってしまった。彼は彼女の人生の顛末を知っている。男として育てられ、女であることを否定され、女の部分を踏みにじられて。

 

「僕は分かりません……僕の幸せはやっぱり、神域(ひもろぎ)の内で、あなたの指揮下で──禍隠を殺すことです。軍人の身であり続けることです」

「五十槻……」

「でも、家族が僕にそうじゃないことを望んでいるとしたら、僕は……」

 

 そして五十槻は口をつぐんだ。綜士郎も何も言えない。

 初夏の夜を、やわらかい風が駆け抜けていく。しばらく沈黙のまま長髪を風に揺らしていた五十槻は、気を取り直した顔で口を開いた。

 

「……すみません、無駄口を叩きました。こちらへ」

 

 そして五十槻は離れの戸を開いた。


      ── ── ── ── ── ──


 離れの中は、たしかに夫婦が生活できるような造りになっている。真新しい畳の居間に、使い勝手のよさそうな台所。電線まで引き込んでいて、家の中には煌々と電灯がともっている。よほど金をかけているらしい。

 五十槻は三和土(たたき)でさっと草履を脱ぐと「こちらです」と綜士郎をいざなって寝室へ向かった。

 

「すぐに布団を敷きますので」

「いいよ、自分でやるから」

「あなたは客人です。そういうわけには」

 

 押し入れから客用の布団を取り出そうとする五十槻を押しとどめ、綜士郎は自分の手で寝具を抱えた。

 

「五十槻。さっきから言っているだろう。もう俺の世話はいいから、早く休む支度をして寝なさい」

「はい……」

 

 そう言いながら青年は敷布団を床に延べるが、少女が部屋を出て行く気配はない。それどころかもう一組の布団を取り出して、綜士郎の布団の隣に敷いている。

 

「……何をしている?」

「僕の分の布団を敷いています」

「なぜ」

「はい。藤堂大尉と一晩を明かし、親睦を深めるためです」

 

 綜士郎の中で、すべての思考が停止した。

 本当にどういう親睦の深め方なのだ。何を吹き込んでやがるんだ、ここんちの保護者は。

 五十槻はただ、無垢な真顔でこちらをまっすぐ見つめている。たぶん綜士郎のしているような想像は一片たりとも念頭にはなく、せいぜい男同士の修学旅行のような光景でも思い浮かべているのだろう。

 やっとのことで綜士郎は口を開いた。

 

「五十槻。誰の指示だ」

「はい、父上と姉さまがたです」

 

 当然綜士郎は頭を抱えた。最悪だ。疑念はここに真実となった──。


──やはり八朔家の面々……というか当主と姉ふたりは、五十槻と綜士郎が男女の仲になることを目論んでいる。


 もともと綜士郎は五十槻の父に対し、引け目を感じていた。実の父親よりも彼女の背景を深く知り、かたい絆を結んでしまった引け目を。だから父親にはきっと、よく思われていないはずだった。なのに。

 実際に五十槻の父親が彼に対してかけていた期待は……かくの如くのものである。

 

(くそっ、さっさと帰っておけばこんなことには……!)

 

 なにより、目の前の純真のかたまりに、いまの状況をどう説明すればいい?

 

「藤堂大尉?」

 

 五十槻は布団のそばでちょこんと正座して、急に頭を抱え始めた綜士郎を心配そうに見つめている。

 綜士郎の中で苦慮が巡る。なるべく少女を傷つけず、また家族への心象を悪くさせないためには、この手しかない。

 

「すまんが五十槻……俺は横に他人がいると寝られん(たち)でな……」

「え……」

 

 ようやく絞り出すようにして発した言葉。綜士郎の出まかせに、五十槻は真顔の眉尻をちょっと残念そうに下げている。

 

「そうですか……僕、大尉とおしゃべりしながら眠りにつくのが、楽しみだったのですが……」

「そ、そうだったのか。まあその、すまんな」

「しかし神祇研の騒動の後、僕や甲伍長が病室にお邪魔してるときは、安らかにお休みだったようですが」

「ば、ばかたれ! あのとき俺はただ寝てたんじゃなくて、昏睡してたんだ!」

「そういえばそうでした」

 

 いつも通りのやりとりができて嬉しかったのか、五十槻は「では長居は無用ですね」とそっと立ち上がった。綜士郎の嘘を、まるっと信じ込んでくれたようである。

 

「藤堂大尉。本日は遅くまで家族がお騒がせしました。ゆっくりお休みください」

 

 そう言って五十槻は寝室を辞した。

 一応綜士郎は玄関まで五十槻の見送りに出る。少女は玄関前で端然と挙手礼を行うと、踵を返した。

 

「あー、えーと五十槻」

 

 彼女が去りかける直前、綜士郎はつい呼び止めてしまった。紫の紬が、長髪をなびかせながら振り返る。

 

「また今度、飯でも食いに行こうな。話ならそのとき聞かせてくれ」

 

 綜士郎の言葉に、五十槻の口角が少しだけ、嬉しそうに持ち上がった。こうして見ると、本当にただの娘のようだ。

 

「はい! 僕、今度はエビフライを食べてみたいです!」

 

 そうして少年のような足音が母屋へ遠ざかっていく中、綜士郎は「エビフライかぁ」と独り言ちた。去年までに比べれば、ずいぶん可愛げが出てきたものだ。食に対しては、前までより素直に、かつ貪欲になってきている。

 よし、寝るか。と綜士郎が離れに戻ろうとしたときだった。

 

「ねえ、ちょっと! 五十槻、帰っちゃったじゃない!」

「お、おい皐月……!」

「姉さま、声が高いです」

「…………」

 

 三人分の声は、離れの裏手の、窓があるあたりから聞こえてきた。綜士郎は素早く声のした方へ歩み寄る。

 

「あ……」

 

 そこにいたのは、もはや説明するまでもない。

 慌てて逃げようとする体制のまま、見つかってしまい静止している大人たち。克樹、皐月、奈月の三人である。

 

「ははは、みなさん一体、何をなさっているんだか。そんなところで」

 

 はははと笑いつつも、綜士郎の声も目も笑っていない。散々弄ばれた大尉は、離れの玄関を指で示しながら、有無を言わせぬ声色で告げた。

 

「さあ、洗いざらい白状してもらいましょうか」

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