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2-5


 それじゃあ早速お風呂でもどうぞ、と勧められるままに。

 綜士郎は八朔家の風呂場を借りている。さすがに華族の屋敷に設えられた風呂場だけあって、浴室も大きければ湯船も大きい。檜でできた浴槽に、陶製のタイルを敷き詰めた床。中隊の宿舎にある粗末な浴場とは、雲泥の差だ。

 八洲の一般家庭では木桶風呂が定番だが、さすがに富裕層ともなると小規模の銭湯のような造りである。面積の広さに圧倒される一方、綜士郎は少し感動してもいた。長身の彼がゆったりと足を伸ばして入れるような大きさの湯船は、滅多にないからだ。

 今日の疲労も相まって、すぐにでも熱い湯に浸かりたいところ。

 だが、掛湯もせずに入浴するなぞ不作法だ。綜士郎はさっそく手桶を手に取って、湯船から湯を汲み取ろうとするが。

 

「失礼します、藤堂大尉」

「えっ」

 

 突然ぐわらりと開かれる、風呂場の戸口。声の主はもちろん五十槻だ。

 

「姉に言われて、お背中を流しに参りました」

「うわばばばば、ばかたれ! なに入ってきてんだ!」

 

 綜士郎は慌てて五十槻に背を向けた。ちらりと見えた部下は、幸い服は着ているようである。

 五十槻は顔こそ見えないものの、戸惑った声音をこちらへ向けてくる。

 

「しかし、兄のように慕う方ならば、背中を流して親睦を深めるのが当然だと……」

「どういう親睦の深め方だ! たとえ実の兄妹でもありえんだろうが!」

「そうなのですか?」

「いいからもう出なさい! 上官命令だ!」

 

 五十槻は綜士郎の命令には忠実である。「失礼いたしました」と少女は一礼して、戸を閉めて出て行った。

 

「くそ……五十槻に尻を見られた……」

 

 お陰で楽しみにしていた広い湯舟も、なんだか窮屈に感じる綜士郎であった。


 そういうわけで、綜士郎と五十槻の知らぬうちに、八朔の家長による指揮で「八朔五十槻寿退役作戦」なる胡乱な計画が進行している。そんな企みの存在なぞ露知らず、風呂上りの綜士郎は、さっそく皐月と奈月に文句を言いにいくところだ。

 

「ったく、大事な妹じゃないのか! 男の入浴中に差し向けるなんぞ……!」

 

 至極まっとうな憤懣を抱えつつ、廊下を歩む青年。借りた寝間着は丈が合わず、若干つんつるてんの様相を呈している。

 やはりこの家に泊まったのは間違いであった。そう思わずにはいられないけれど、帰営しようにも入浴中に軍服一式を持ち去られてしまった。間の悪いことに、宿舎にある替えの軍服は全部洗濯に出している。明日の軍務のためにも、着てきた服を取り戻さなければならない。

 

「おや、藤堂さん。お風呂は如何でしたかな?」

「御当主!」

 

 廊下の先でばったり出くわしたのは、この家の主、克樹である。綜士郎は幾分か狼狽しつつ、先刻の風呂場での顛末を伝えようとした。

 

「あの、すみませんが御当主。少しお話ししたいことが……」

「いやいや、奇遇ですな藤堂さん! 私もね、もう少しあなたとお話ししてみたくてね! さあさあこちらへ!」

「は? え? あ、あのっ!」

 

 などと当主に引っ張り込まれたのは、彼の書斎らしき一室である。「ささ、ここに掛けて」と座布団を勧められ、そのまま座らされ。

 

「ははは、ちょうどいいときにいらっしゃった藤堂さん。百雷のいい酒をちょうど仕入れましてね、せっかくですし、ぜひご賞味を」

「いや、もう酒は……!」

 

 酒ならば夕飯のときにすでに飲まされたばかり。これ以上は明日に差し支えると、綜士郎は固辞しようとするけれど。

 

「おーい、五十槻!」

「はい父上」

 

 綜士郎の拒絶を一蹴するかのように、親子のやりとりは間髪入れず。父が呼べば、ささっと襖を開けて現れる娘。五十槻は相も変わらず少女の装いのままで、徳利とお猪口の乗った盆を抱えている。

 

「失礼します、藤堂大尉。百雷の銘酒、『清流』でございます」

「おい! いやに準備がいいな!」

「いつもお世話になっている藤堂さんに、不手際は見せられませんからなぁ。さ、五十槻。お酌をして差し上げて」

「御当主、それはいけません!」

 

 風呂場の一件を伝えたいのに。綜士郎は酌をしようとする五十槻を制して、克樹へ戸惑いの面持ちを向けた。さっきの食事の席では、酒杯は男同士で酌み交わしたけれど。父親自身の指示とはいえ、親の目の前でその愛娘から接待を受けるのは忍びない。

 

「酌は結構です。大事なお嬢さんに、そのようなこと……!」

「まあまあ。とはいえ、五十槻はあなたにとって部下でしょう。部下から上司への酌なら、問題ないのでは?」

「そういうことでは!」

 

 克樹と綜士郎はすったもんだしていて、五十槻はその横で徳利を持ったまま、真顔を困らせている。父と上官とで意見が割れているので、どうしたものか戸惑っているのだろう。

 しびれを切らしたのは、外野だった。突然スパーンと開く襖。ずかずか遠慮なく踏み入ってくるのは──皐月。

 

「ええいまだるっこしい! 男ならぐずぐず言わずさっさと飲め!」

「んぶっ!」

 

 長女は五十槻の手から徳利をひったくると、素早く飲み口を綜士郎の口へ突っ込んだ。

 

「あそーれ、いっき、いっき」

「あ、あの……皐月姉さま、奈月ねえさま……?」

 

 いつの間にか現れた奈月が手拍子で淡々と囃し立てるなか、綜士郎の喉奥へ、辛口の酒が容赦なく流れ込んでいく。たしかに美味い酒だ。こんな状況、こんな飲まされ方でなければもっと美味かったろうに。

 

「げほっ、げほっ!」

「藤堂大尉!」

 

 当然、無理矢理酒を飲まされて、むせないわけがない。盛大に咳き込む上官に、五十槻が心配そうに寄り添って背中をさすっている。

 その様子を、しばしじっと見つめて。克樹は一瞬、苦渋の表情で目頭を押さえた。まるで婚礼に出す娘との別れを、惜しむかのように。しかしすぐさま。

 

「おっとこれはいけない藤堂さん」

 

 八朔家当主の口から繰り出されるのは、これ以上ない棒読みである。

 

「いやいや、うちの乱暴者の長女が失礼を。安静になさった方がよろしいかと思いますので、今日は早々にお休みください。さあ五十槻」

 

 克樹はどこか意を決した表情で、愛娘へ指示を告げる。

 

「離れにご案内してさしあげなさい」


      ── ── ── ── ── ──


「うぅ……目が回る……」

「大丈夫ですか、藤堂大尉……」

 

 縁側沿いの廊下を、綜士郎は覚束ない足取りで歩いていた。

 あまり酒は強い方ではない。それなのにあんなに一気に飲まされては、酔いも急激に回ってしまうというものだ。

 不覚だ。どう考えても、この家に留まることは得策ではないのに。

 

「ごめんなさい、藤堂大尉……僕の姉が、何度も失礼を……」

「お前が謝ることじゃない、謝罪なら姉さんたち本人からお願いしたいかな……」

 

 若干呂律の回らない声で、綜士郎は五十槻へ応じている。

 見知らぬ屋敷の廊下は、泥酔の視界でくるくる回る。「すまん、ちょっと休憩」と綜士郎はたまらずしゃがみ込んだ。

 

「藤堂大尉、良かったら縁側でお休みください。夜風に当たった方がいいかもしれません」

「うん……」

「僕、冷たい水をお持ちします」

「ああ……」

 

 宵闇のぼんやりとした情景の中に、五十槻らしき人影が去来している。紫の紬姿は、綜士郎を縁側へ座らせると、廊下を一人駆けていった。

 綜士郎はなんとなく空を見上げた。七月の晩、今日は月が出ている。十六夜の月だ。

 するとどこからともなく、あーあーと、幼児の喃語が聞こえてきた。嬉しそうな声は段々とこちらへ近づいてくる。

 

「あら、こんばんわ」

「あなたは……」

 

 五十槻が去っていった方とは逆側から、幼子を抱いた女性が現れた。三十代後半だろうか。はつらつとした笑顔がよく似合う、明るそうな女性だ。すこしふっくらした体型に、可愛らしい雰囲気をまとっている。

 

「いらっしゃった際に、ちゃんとご挨拶できなくてごめんなさいね。ちょうどこの子が大泣きしちゃってて……。改めまして、克樹さんの家内で、和緒(かずお)と言います」

「ああ、五十槻の義理の……」

「そう、あの子の継母です。五十槻さんがいつもお世話になっています」

 

 和緒は赤子を抱え直しながら、ひときわにっこりと笑った。

 

(ええと……?)

 

 酔いの中で、綜士郎は必死に記憶を思い返している。たしか克樹の話では、五十槻の義母は彼女を男子だと思っている……はずだ。怪しくなりそうな判断力を懸命に取り繕いつつ、綜士郎は応じる。

 

「いえ、こちらこそ。俺の方こそ、夜分に突然上がり込んでご迷惑をおかけします」

「そんなことありませんわ。うふふ、さっちゃんとなっちゃんが言ってた通り、とても見目の麗しい方ですわね」

「はぁ……」

 

 さっちゃんとなっちゃんというのは、皐月と奈月のことだろう。五十槻も義理の母のことをよく慕っているようだし、血は繋がらないとはいえ、親子関係は良好そうだ。

 

「ま、いくら美男でも克樹さんには叶いませんわね。私、年上好きなんです」

「へ、へぇ……」

 

 華族に嫁いだわりには、あけすけな口調で話す女性である。ふふっと陽気に笑う彼女の胸元で、赤子は興味津々の視線を綜士郎へ一心に注いでいる。赤子と目線を交わしながら、綜士郎は尋ねた。

 

「もしかしてその子が、弓槻(ゆつき)くんですか」

「ええ。再来月に一歳になります。抱いてみられます?」

「え、いやぁ……」

 

 和緒の提案に、綜士郎はたじろいだ。なにせ兄弟もおらず、結婚もしていないので赤子にとんと縁がない。見たところ弓槻はすでに首も座っていて足腰もしっかりしているけれど、それでも青年は怖気づいてしまう。

 けれどもこの八朔の後添は積極的である。構わず弓槻を綜士郎の膝へひょいと降ろしてみせた。

 

「はい、どうぞ」

「お、おわ! ちょっと!」

「赤子はたくさんの人に抱いてもらった方が幸せなんですって。ぜひこの子の幸せにご協力くださいな」

 

 和緒は綜士郎のそばに正座して、弓槻の様子をにこやかに見守っている。おっかなびっくり落とさないように抱く綜士郎の腕の中で、赤子は彼の着物の襟を掴み、つかまり立ちしている。生後十か月の足の踏ん張りは覚束ない。けれど、ちゃんと両の足で立っている。

 

「あー?」

「お客さんだよ、弓槻」

 

 青年の顔をぺたぺた触りながら母親へ問たげな顔を向ける赤子。答える母親。八朔家の荒々しい洗礼を受けていた綜士郎にとっては、つかのまの微笑ましい時間である。

 

「ははは、かわいいもんだ」

 

 酔いも手伝って、綜士郎は赤子のやることなすことに、思わず笑みをこぼした。顔や肩を撫でる小さな手がくすぐったい。ちょっとだけ目元に五十槻の面影があって、あいつも子どもの頃はこんなだったのかなと、思いを馳せていたときだった。

 

「藤堂大尉……と、母上?」

 

 台所の方から、五十槻の軍隊仕込みの足音が帰ってきた。少女は湯呑みを持って現れると、まず義理の母がいることに少し驚いた様子を見せる。けれど、綜士郎の膝のあたりを見た瞬間。

 

「…………!」

 

 五十槻は珍しく不機嫌な顔を露わにした。

 

「藤堂大尉、お水です。こちらに」

「ああ、すまんな」

「弓槻!」

 

 綜士郎の横に湯呑みを置くや否や。五十槻はさっと沓脱石の草履を履くと目の前に回り、上官から引きはがすように弟を抱き上げた。「やぁー!」と途端に泣き喚く赤子。

 

「お、お前。そんな無理矢理……」

「まあまあ五十槻さんってば」

「母上、ちゃんと見てやってください」

 

 大人二人からの呆れの視線を意にも介さず、五十槻は弟を継母へ押し付けた。弓槻は母親の胸でえんえん泣いている。

 

「あらあら、どうしちゃったのかしら……お兄ちゃん厳しいでしゅね~」

「あーん! うあー!」

 

「ごめんなさいね、泣き止ませますのでこれで失礼を」と一礼して、和緒は弓槻を抱えたまま行ってしまった。赤子の泣き声が遠ざかっていく。

 綜士郎は呆れた。いつも年不相応に落ち着き払っているこの娘にしては、大人げない。

 

「まったく……急にどうしたんだ? おりこうさんにしてたぞ、お前の弟」

「……八朔の男児に甘えは不要です。ましてや、初対面の大尉の膝に乗るなどと」

「やれやれ、赤ちゃん相手にやきもちかよ……」

 

 ため息をひとつして、綜士郎は湯呑みの水を煽った。冷たい水が、酔いで火照った体に心地よい。

 ごく、ごく、と喉を通り抜けていく自分自身の嚥下の音で、綜士郎は気付かなかった。

 五十槻は地面に立ち尽くしたまま、俯いて小さく憤懣をこぼしている──。


 それは、幼い頃の少女が持ち得ぬものであった。

 抱きしめてくれる母の腕も、成長を喜んでくれる父の眼差しも。

 それから──誰からも文句を言われることのない、性別も。

 

「僕には……なかったのに……」

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