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四
綜士郎は客間で待たされている。
さすがに華族の邸宅だけあって、屋敷のつくりは立派だ。この客間だって一見簡素に見えるが、鴨井の彫刻や室内の調度は上質な造りのものばかりである。上品な部屋の設えは、綜士郎のような神依には場違いに感じられた。
そして青年の目の前に用意されているのは、立派な卓。どうやら夕飯を振る舞ってくれるらしい。当主や五十槻たち姉妹は席を外しており、綜士郎はひとりで落ち着かない時間を過ごしていた。さっき皐月に蹴られた腰がまだ痛い。
屋敷の奥の方からは、赤子の泣き声がうっすら聞こえてくる。五十槻の弟──弓槻だろう。幼子はご機嫌斜めらしく、いっこうに泣き止む気配がない。それよりも。
(俺に話とはなんだ……?)
綜士郎、正直あまりいい予感はしない。なぜなら彼は、五十槻の家族に対して引け目を感じているからだ。
彼だって自覚はしているのだ。五十槻が肉親以上に、自分を慕っていることは。
五十槻の姉たちとはたまに会話を交わすが、屋敷にいるときの五十槻は、淡々とした口ぶりにそれはそれは大いなる熱量を乗せて、いかに藤堂大尉が素晴らしい人物であるか、自分の尊敬する人物であるかを常々語っているらしい。恥ずかしいのでやめてほしい。
五十槻はこれまでの人生において、自らの家族とのふれあいの時間をほとんど持つことができなかった。家族も離れ離れで暮らす娘を、きっと常に案じていたことだろう。ふだんから姉たちの五十槻への過保護っぷりを見ていると、どれだけ彼女が愛されているかをまざまざと思い知らされる。
だから、父親としてはきっと面白くないはずだ。可愛い愛娘が、ポッと出の神依の男へ全幅の信頼を預けている姿など。
「失礼します」
閉ざされた襖の奥から呼びかけてきたのは、五十槻の声だ。スッと襖を開いて、十六歳の部下が部屋へ入ってきた。
五十槻は何やら盆を携えている。その上に乗せられているのは、あたたかい白米や焼いた干物魚、それから汁物におかずが何品か──おそらく綜士郎に振る舞う夕餉だろう。
問題は五十槻の格好である。長髪に女性の装いをしている。
「藤堂大尉、お夕飯をお持ちしました。ありあわせではございますが、鯵の干物、しじみの味噌汁、それからこちらは百雷産の白米。それに香の物を数品と……だ、だし巻き卵です」
「美味そうだな……。ところでお前、なんだその格好は。またお姉さん達に遊ばれたのか?」
てきぱきと配膳しながら献立を述べる五十槻に、綜士郎は怪訝な視線を向ける。長髪はおそらく、女学院に潜入した時に使っていた仮髪だろう。八朔家らしい淡い紫の紬の着物が、少女の落ち着いた容姿にはよく似合っている。こうして見ると完全に華族令嬢である。一片たりとも愛想の類を示さない真顔を除けば、だが。
そんなやりとりを遮って。襖のあたりから「入ってもよろしいか?」と声がかかった。今度は克樹の声だ。
瞬間、綜士郎の背筋が、五十槻の如くピンと伸びる。青年が居住まいを正すさなか、襖が開かれた。
克樹は部屋へ入ってくると、女装姿の五十槻へ心底嬉しそうな目線を投げかけつつ、綜士郎の対面へ着座した。
「やあ、藤堂さん。お疲れのところ、お付き合い頂いて申し訳ない」
「ああ、いえ。お構いなく」
八朔克樹はまず、申し訳なさそうな顔を浮かべた。華族の当主はまず、謝罪から入る。克樹はしっかりと頭を下げて言った。
「先刻はうちの長女が失礼をいたしましたようで、大変申し訳ありませんでした。いやはや、長女の皐月も次女の奈月も、嫁にやって安心していたものの……昨年私に末の息子が生まれ、五十槻が頻繁にこの屋敷に帰ってくるようになってからは、あの子らもほぼ毎日のように実家に入り浸るようになってしまって……。私も常々たしなめてはいるんですがね、五十槻や赤子に構いたくて仕方ないようでして」
「は、はあ……」
「ふつうなら離縁の事由になりかねん話ですが、ふたりの夫君は両人とも、妻に虐げられたり放置されたりするのが嗜癖だそうでして……おっと、失言を。それよりお身体に障りは?」
「いえ、ご心配なく。こちらこそ、ご息女のお帰りが遅くなりまして、ご心配をおかけしたかと……」
青年は無難な返答を心がけながら思う。この家の姉ちゃんたちは一体なんなんだ。
綜士郎の恐縮しながらの応答を「いいえ」と遮って、克樹は謝意のこもった様子で続けた。
「五十槻もいっぱしの軍人ですから、本来はひとりで帰宅せねばならぬところ。しかしこの子の抱える特殊な事情のために、日々、藤堂大尉には格別のご配慮をいただいていると本人より聞き及んでおります。八朔の家の者を代表しまして、あなたには、心より感謝を申し上げたく……」
「いえ、ご息女の身の上を考えれば、むしろ至らぬ点ばかりで申し訳ない限りです」
「そんなそんな、何を仰られますやら。さ、五十槻。お酒を持ってきてくれるかな?」
「はっ、了解いたしました父上」
父からの指示に、五十槻は軍営で見るのとまったく同じ敬礼を示している。家庭内でも軍人のノリはやめろ、と思う綜士郎である。五十槻はそっと襖を開くと、男子の作法で座礼を行い、そして襖を閉じて行ってしまった。
「さあ、藤堂さん。ぜひ召し上がって」
「は、はぁ……では、お言葉に甘えて……」
八朔克樹は終始にこにこしている。対して綜士郎は、これからどういう対話が待ち受けているか分からず、ただただ恐縮するばかり。とはいえ食事を勧められている。青年は居心地の悪さを感じつつも「いただきます」と手を合わせ、箸を取った。
綜士郎は飯を食う時はまず白米からと決めている。緊張の場であってもそれは変わらず、彼は茶碗を手に取ると、ほっこりと湯気を立てる白飯を箸でそっとすくいあげ、頬張った。
「美味い……!」
甘味の強い米である。香りも良く、ふっくらとした食感が食欲を刺激する。炊き加減も絶妙だ。
思わず漏らした感想に、八朔の当主は嬉しそうに相好を崩している。
「それはよかった。その米は、当家の本籍地である百雷山の麓で取れたものでしてな。自慢の米です」
「そういえば、さっき五十……ご息女もそう言ってましたね」
「ははは、五十槻でいいですよ」
百雷山周辺は、八洲でも有数の米どころだ。まだ新米の時期ではないから、綜士郎が今食べているこの米は、去年収穫されたものだろう。品質の管理が行き届いているのか、新米と遜色ない味だ。
そういえば綜士郎は以前、五十槻から聞いたことがある。八朔家の家業は米の商いであり、八洲中に百雷の米を卸しているのだとか。神實の華族として、何もせずとも公債による収入があるだろうに。殊勝なものである。
夜遅くに炊き立ての飯が出てきたことに綜士郎は驚いたが、どうやら五十槻の帰りが遅いので、わざわざ他の家族の夕飯とは別に、改めて用意したものらしい。また八朔家の面々は、五十槻の帰宅が日没を過ぎる場合には、綜士郎が彼女を屋敷まで送り届けてくれることを把握している。五十槻の分とは別に彼の膳が出てきたのは、そういうことだ。
綜士郎がごくりと米を飲み込んだあたりで、克樹は少し声を潜めて注意事項を告げる。
「それで藤堂さん……この屋敷には、五十槻が女子だと知らない使用人も多い。すまないが、あの子の性別については内密に頼みます」
「いやしかし、あの格好でうろつかせて大丈夫です?」
当然の指摘である。五十槻が女子であることは秘匿しなければならないのに、むしろ女装させるとはこれいかに。
「それが、櫻ヶ原の一件以来、姉ふたりがあの子に女子の装いをさせるのにのめり込んでましてね……うちの者は皆、五十槻がそういう趣味に目覚めたものと思っていますよ」
「そういう趣味……」
仕えている家の嫡男が女装趣味に目覚めたなどと、ずいぶん外聞の悪い話だが。使用人一同は一体、それをどんな気持ちで受け止めているのだろうか。なんとも言えない気分のまま、綜士郎の箸はしば漬けを掴んでいる。
「我が家であの子が女子だと知っているのは、私と皐月、奈月の三人だけ。後の者は皆、五十槻のことを男だと思っています」
「あの、失礼ですが……奥様は?」
「和緒は……いまの妻は後添ですが、まだ五十槻のことは打ち明けていません。実子と分け隔てなくあの子と接してくれてはいるものの、まだ私のふんぎりがつかなくて……」
「…………」
そりゃそうだろうな、と綜士郎は思う。
五十槻を巡る事情は本当に特殊だ。五十槻本人の述べるところによると、去年の時点まで、父親以外の家族は彼女の性別を知らなかったらしい。無論、あのおっかない姉ふたりも。
八朔五十槻少尉は現在の八洲皇国陸軍にとって、なくてはならぬ唯一無二の人材である。その当人が実は女性であると知れたなら──軍規的にも、世論的にも、どういう反響が巻き起こるか未知数だ。特に、神籠の資格を有するのは男性のみ、という通念は、八洲社会において非常に根強い。おそらく賛同よりも反発の意見が大多数になるだろう。
五十槻の素性を他者に明かすことが、どういう結果を生むか分からない。
だから八朔克樹も、おいそれと五十槻のことを打ち明けることができないのだろう。信頼しているはずの、伴侶相手にも。
綜士郎がぽりぽりとしば漬けを噛んでいると、克樹は気を取り直した顔で口を開いた。
「ところで、五十槻は第一中隊で、どんな様子でしょうか?」
「そうですね……」
克樹の問いに、綜士郎は当たり障りなく応答する。日々、訓練や軍務に励んでいること。綜士郎や崩ヶ谷といった、上官からの指示を遵守していること。大変真面目であること。
それらを綜士郎の口から聞いて、克樹は「左様ですか」と、どこか心ここに在らずの口調でつぶやいた。
「…………」
「御当主……なにか、気にかかることでも?」
八朔家当主の様子に、察するものがあった綜士郎は発言を促す。克樹は少々、おずおずといった様子で言葉を紡いだ。
「いえ……あの、藤堂さんも覚えていらっしゃるでしょう。今年の二月頃に、神祇研で所長の香賀瀬さんが、脳溢血を発症して……」
「…………ええ」
五十槻の父は続ける。
「どうやら、その件で五十槻はだいぶ精神的に参ってしまったようでして。藤堂さんはご存じないかもしれないですが、彼は五十槻の育ての親のようなものだったんです。そんな人が、麻痺で口もきけなくなって……それも、五十槻がたまたま軍務で神祇研に訪問している最中に。あの子、よほど動揺してしまったようで」
「…………」
「私や家内に抱き着いたり、子どもみたいにワンワン泣いたりして……あんなあの子は、初めて見ました」
「そう、ですか……」
克樹の回顧を聞きながら、綜士郎は胸が痛くなった。けれど、同時に少し安堵もする。少女が綜士郎だけでなく、家族にも素の感情を見せられたことに、青年はちょっとだけ肩の荷が下りた気がした。
「五十槻は以前から香賀瀬さんをよく慕っていました。彼はどうやら、私の弟──達樹を非常に買ってくれているようでして、その縁で百雷山からあの子を引き取り、世話をしてくれていたのです。はは、そのせいかは分かりませんが、五十槻の言葉遣いや立ち居振る舞いは、なんだか達樹そっくりになってしまいましてね」
八朔達樹。五十槻の叔父で、故人である。八洲陸軍神事兵の神籠として忠勤に励み、三十代の若さで殉職している。
綜士郎とは従軍の時期が被らず、当然面識はない。ただ相当な神籠の使い手であったらしく、彼の皇都雷神という異名は、現在でも神事兵科各所から漏れ聞くことができる。
当主が苦笑まじりに述べる香賀瀬への印象を、綜士郎は神妙な顔で聞いている。
五十槻の父は、彼女が香賀瀬修司から受けた仕打ちを知らない。
当然、あの夜に神祇研で何が起きたかも。
五十槻自身が、「家族には打ち明けない」と決めたから。
八朔家の当主はあくまでも、香賀瀬修司という人物を、娘の恩人で、育ての親と認識しているようである。
克樹は一瞬ちらりと窺うような視線を綜士郎に向けると、再び語り始めた。
「とまあ、そんなわけで……あの子にとっては辛い出来事もあったわけですし、できれば上官であるあなたから、軍営での様子をお聞きしたかった。今日お引止めしたのはそのためです。しかし、元気ならいいんです、元気なら」
「御当主……」
娘を心配する父親の姿は、綜士郎にはまぶしかった。彼の父親は心配するどころか、自分がこさえた借金をなすりつけてくる始末である。
五十槻には、心からその身を案じ、思いやってくれる父親がいる。少し羨ましいのと同時に、青年はこうも思う。
──きっと五十槻は大丈夫だ。俺なんか、いなくても。
少し寂しい気持ちで、綜士郎が味噌汁をすすっていたときだった。
「お父さま、藤堂さん! 失礼するわよ!」
皐月の声である。長女はぐわらっと無遠慮に襖を開くと、ずかずかと部屋へ踏み入ってきた。その手に抱えられているのは、綜士郎と同じ献立の乗った盆。
「父上、藤堂大尉。酒肴の用意ができました」
皐月のあとに続いて、五十槻、それから奈月も現れる。五十槻は小さな盆に徳利とお猪口を二人分、奈月はつまみらしき小皿を持っている。
どやどやと入ってくる三姉妹。そのうちの長女が、つっけんどんな口調で家長へ口出しした。
「ねえお父さま。五十槻の晩ごはん、藤堂さんとご一緒でいいでしょ?」
「ああ、そりゃ構わんよ。いいですよね、藤堂さん」
「ええ、まあ……」
「聞いてください藤堂さん。このだし巻き卵、五十槻が作ったんですよ」
「な、奈月姉さま……」
急ににぎやかになる客間。綜士郎はだし巻き卵に視線を落としながら「へぇ」と感嘆の声をあげた。道理で一品だけ不格好なわけだ。ちょっと焦げているし、卵の層は厚く、巻きが甘い。
五十槻の膳は綜士郎の隣に用意された。少女は酒器を卓へ置くと、若干ぎこちなく彼の隣に座る。恥ずかしそうに、面持ちをうつむかせて。
父はその様子を満足そうに見つめていた。可愛くて仕方ない、とでもいうように。
「……五十槻が作ってくれたのか?」
綜士郎が傍らの五十槻に問いかければ、少女はこくりと頷いた。「他のお料理はお女中さんが用意してくれました」と、真顔は珍しく照れている。
その様子に微笑ましさを覚えつつ、綜士郎は箸でそっと卵焼きを掴み上げた。断面はスカスカだ。いただきます、と彼が手料理を頬張るところを、五十槻が固唾をのんで凝視している。しかし。
ばりぼり。
綜士郎の口許から漏れるのは、おおよそだし巻き卵の咀嚼の音としてはあるまじき音。
「すんげえ殻入ってるな……」
ごくりと飲み込んで、青年はなんとも言えない顔をしている。味付けはまあまあ。食感はなかなか酷いものである。綜士郎の隣では、五十槻が真顔のままわなわなと震えていた。
「も、申し訳ありません、藤堂大尉──」
華族令嬢の見た目で、五十槻は割腹寸前の声を発した。そしてやにわに綜士郎から卵焼きの皿を奪おうとする。取られる寸前で、綜士郎は「おい何すんだ!」とひょいと皿を掲げてそれをかわした。
そんな上官へ、五十槻、紫の眼を瞠目させて。
「なりません、藤堂大尉! おなかを壊してしまう!」
と、もう一度皿を奪おうとするけれど、綜士郎は二度目も難なくさらっと避けて見せた。
「ばかたれ、別に多少殻が入ってたところで死にゃしないよ」
「しかし僕の不手際で、大尉に万が一のことがあっては!」
「いちいち大袈裟なんだよお前は……うん、でも味は悪くないぞ」
五十槻をうまくいなしながら、綜士郎はもう一個頬張った。やっぱりこちらもばりぼりの食感である。
少女は真っ青になって「僕はなんてものを」と真剣に懊悩している。その様子に「ははは」といつものノリで笑声を送ったところで、綜士郎ははたと気付いた。
ここは八朔家。彼の向かい側の席には、傍らの令嬢の父と姉たちが座っていて。
「あ、あの……すみません。ご息女に対し、失礼を……」
「いいえ。仲のよろしいことで」
三人がニコニコとこちらを見守っているので、綜士郎の居たたまれなさは余計に増すばかりであった。
── ── ── ── ── ──
「そういえば、藤堂さん」
克樹が綜士郎へ呼びかけた。
多少気まずい気持ちのまま夕餉を食べているとき最中である。五十槻はといえば、自分が作っただし巻き卵をばりぼり噛み締めて、真顔をしかめている。
綜士郎が「はい」と応じると、五十槻の父はニコニコしたまま問いを投げかけた。
「不躾ながら……いま、独身でいらっしゃいましたっけ?」
「……はい、その通りですが」
警戒しながらの返答。綜士郎はこの手の話題が苦手である。まさかまた見合い話につながったりはしないよな、と端正な顔はあからさまに嫌そうな色を浮かべている。
しかし綜士郎の顔色には気付かぬそぶりで、克樹は続けた。
「いやはや、それはそれは。世の中の女性が放っておかなさそうな容姿でいらっしゃるのに……実にもったいないことです」
「じゃあ、お付き合いしてる方は?」
皐月までもが話題に食いついてきた。「いません」と綜士郎がにべもなく答えると、長女は隣の奈月に向けて、こそこそと耳打ちしている。
「絶対嘘よ嘘、千人ぐらい食い散らかしてる顔よ」
そんな不名誉な誹りが聞こえてきて、綜士郎は愛想笑いのまま固まった。ひくりと引きつる口許。
「嘘ではありません」
さらに五十槻までもが参戦してくる。長姉のささやきを耳ざとく聞きつけた末妹は、淡々と、しかし熱を込めて反論した。
「藤堂大尉はさる事情と信念により、生涯清らかな身であることを誓われております。ゆえにこれまで交際のご経験はなく、ましてや、四桁にものぼる不特定多数の女性と関係していたなどという事実も、当然ございません」
「お、おい五十槻!」
しかし五十槻の弁護もずれている。その言い様ではつまり……。
「そう、大尉は二十六歳の今日に至るまで、純潔を保っておられる。皐月姉さま、何卒ご認識を改めてください」
「えっ、うそ……」
「つ、つまりあなた、二十六にもなるのにどうて……」
「やめなさい奈月! かわいそうでしょ!」
八洲大皇国の世間的に、二十六はいい年である。この年齢の大多数が結婚し、所帯を持っている。子どもがいてもおかしくはない年齢だ。つまり綜士郎の年で結婚もしておらず、異性と交際もしておらず、ましてやそういう経験もないというのは──はっきり言って不名誉なことであった。
綜士郎自身はさほどそのことを気にしていない──つもりだが、それは時と場合による。甲精一からの童貞いじりならば「悪いか!」と堂々開き直っていられるが、ここは八朔家。侯爵・八朔克樹、およびその家族の面前である。さらには五十槻のこの語り口。部下の口調は尊敬一色であるにも関わらず、晒し上げられているような気分になるのはなぜだろう。
そして悲しいことに、綜士郎は嘘のつけない、正直な表情筋の持ち主であった。さらっとうまくかわすこともできず、清らかな青年は赤面のまま「ヤメテ……」と一同から視線を逸らすことしかできない。その反応に、皐月と奈月は確信する。「これ、マジなやつだ」と。
そして童貞の大尉にとどめを刺すのは五十槻である。
「藤堂大尉、恥じらわれることはありません。僕は大尉の高潔さを何より尊敬しております。一生を賭して信念を貫かれるお姿に、僕はいつも尊崇の念を禁じ得ず、僕自身もかくありたいものであると云々……」
「五十槻、やめたげなさい。この件はあまり掘り下げちゃだめ。かわいそう」
「ホントニヤメテ……」
綜士郎は消え入りそうな声で言うけれど。
克樹だけは、「ふむ」と何やら納得したような顔で、赤面の大尉と愛娘にじっと見入っていた。
── ── ── ── ── ──
八朔家での綜士郎の受難は終わらない。
最後の方は味のしなかった夕餉を終えて。
「それでは、俺はそろそろ……」
綜士郎は脇に置いていた軍帽を手に取り、そそくさと立ち上がった。自宅での五十槻の様子を見て安心できたのはいいが、所帯の有無を聞かれたり清い身を憐れまれたり、最後の方は散々である。早々に第一中隊に帰りたい。
「藤堂大尉。やはり帰営されるのですか?」
「ああ。明日もあるしなぁ。お前も早めに休みなさい」
「でも……」
引き留める五十槻に、綜士郎は苦笑をこぼした。八朔の屋敷から第一中隊まで、歩きでは結構かかる。それにもう遅い時間だ。綜士郎が夜分に八朔家へ来訪することになったのも、もともとは五十槻が帰宅時の言いつけを守らなかったからで。
少女が「ごめんなさい、僕のせいで」と言い始める前に、綜士郎は口を開いた。
「いや、美味い飯をたらふくご馳走になったからな。軍営に帰るのも、いい腹ごなしになるはずだ」
「帰ろうとしてるとこ悪いけど藤堂さん。さっきうちから式哨の詰め所に使いをやって、外泊の許可取ってきたわよ」
「は、はぁ!?」
上官と部下の会話へ突然割って入る姉、皐月。その発言内容が内容だけに、綜士郎はすっとんきょうな声を上げた。一日に何度こっちの度肝を抜くんだ、この姉は。
「ほらこれ、式札っていうんでしょ? 第一中隊の人からお返事も貰ったし」
皐月は手のひら大の紙をひらひらさせている。綜士郎も見覚えあるそれは、たしかに式哨が連絡に用いている式札だ。手渡されたそれを開いて見てみれば、よくよく知った下手くそな筆跡でこうしたためてある。
『いつきちゃんちにお泊りとか草。武運長久! お義父さんより』
「くそっ、一番知られたくない奴に知られちまった!」
なにが武運長久だ! と義理の息子|(仮)は式札を丸めて床に投げつけた。よりによってあのスカポンタンのアホ伍長の知るところとなってしまったではないか。ともかく明日の登庁が思いやられる。
「……というか、なんでここの近所の式哨は、軍属でもない一般人からの外泊届を受理してんだ!」
「私に言われても分かんないわよ」
「ともかく外泊の連絡はできたのですから、今日はお泊りになっていってください。いまから出立されたんじゃお帰りはかなり遅くなりますし、明日のお仕事にも差し支えるのでは?」
「しかし……」
「もうっ、つべこべ言わない! 厚意には甘えないと逆に失礼よ、神依の大尉さん!」
皐月と奈月の勢いに、綜士郎はたじたじと後退るけれど。
この姉たちの連携は一分の隙もなく、結局、綜士郎は押し切られるように八朔家で一夜を明かすことになった。
綜士郎はなりゆきに納得できなかったが、五十槻は嬉しそうである。
「お前の姉さんたち、強引すぎないか……?」
「でも僕は嬉しいです。藤堂大尉が、僕の家に泊まってくださって」
「俺は嫌な予感がするんだが……」
結果的に、綜士郎の嫌な予感は当たる。客間で肩を並べている五十槻と綜士郎に、背後からじろじろとなめ回すような視線──。
「いいのね、お父さま?」
「私たち手加減はしませんよ」
「ああ、もちろんだ……!」
彼らから少し離れた位置で、父と姉ふたりは意を決している。
「八朔五十槻、寿退役作戦を決行する──!」