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2-2


 その日の夜。空はすでにとっぷりと暮れている。

 陸軍省での会談や諸々の打ち合わせを終え、綜士郎(そうしろう)は満身にずっしりとした疲労を乗っけて帰営した。

 

「疲れた……」

 

 鞍掛(くらかけ)(はじめ)少将は、皇都守護大隊隊長、鞍掛(くらかけ)(いたる)少佐の実兄である。珍しいことに、彼らは兄弟そろって神籠(こうご)だ。どうやら鞍掛家は代々そうらしい。

 その鞍掛家の兄の方──鞍掛基少将を交えた会議が、本日の最も大きな行事だった。羅睺(らごう)の門の出現に関し、陸軍省では様々な対応策が案出されている。そういった多数の案を勘案し、今日の会議ではおおかたの方針がまとまった。少し先のことにはなるが、今後忙しくなるのは綜士郎だけではなさそうだ。

 綜士郎はくたびれた足取りで、中隊舎の事務室へ向かっている。会議が数件続いた程度ではここまで疲れない。帰り際、壮年のおっさん将校連中から「きみ随分と遊んでそうじゃないか、色々ご教示願いたいねえ!」などと色町へ連れて行かれそうになるのを、必死で固辞して全速力で帰ってきたのだ。

 このまま宿舎に直帰して早々に休みたいが、いったん中隊舎の事務室へ寄らねばならない。持ち出していた資料を返却するためだ。

 目当ての部屋の扉を開いて、手探りで電灯のスイッチを押す。

 パチンと音がして、電灯に光がともった。

 

「藤堂大尉、おかえりなさい」

「おわっ! いたのか五十槻(いつき)!」

 

 明るくなった部屋の中、並べられた机の隅っこの席に座っているのは五十槻である。卓上に突っ伏して過ごしていたのか、頬にうっすら袖ボタンの痕が残っている。

 さっと席を立って挙手礼を行う部下へ、綜士郎は面食らった顔のまま、歩み寄りつつ尋ねた。

 

「どうしてまだここにいる? 日のあるうちに帰るよう、言いつけておいただろう」

「はっ。ご協力願いたい由があり、藤堂大尉の帰営をお待ちしておりました。持ち出しの資料の返却に、きっとこちらへいらっしゃるだろうと」

「にしても、真っ暗なまま待たなくてもいいだろうに。電灯ぐらいつけなさい」

「いえ。経費削減のため、節電を心がけております」

「またお前はクソ生真面目な……」

 

 五十槻の受け答えは、いつも通り淡々としている。

 神祇研での一件以降、五十槻は実家である八朔(ほずみ)の屋敷から第一中隊へ通勤していた。徒歩圏内ではあるが、それでも歩いて三、四十分はかかる距離だ。

 本人は男のつもりでも、五十槻は事実、十六の娘である。いくら祓神鳴神(フツカンナリノカミ)の加護があるとはいえ、夜中に一人で出歩かせるわけにはいかない。

 彼女は数ヶ月前に神祇研で非道な仕打ちを受けたばかりでもあるし、用心のため、綜士郎は五十槻の帰宅が日中になるよう日頃から勤務時間を調整していた。本人にも、暗くなる前に帰れ、夜中出歩くな等と指示しておいたはずだ。

 五十槻は綜士郎の命令、指示、言いつけはすべて遵守している。だからこそ今日、約束を破ってまで綜士郎を待っていたのには、なにかしら特別な理由があるのだろう。

 頭ごなしに叱責したりせず、綜士郎は部下へ問いかける。

 

「……で、なんだ。協力してほしいことというのは」

「はい、えぇと……」

 

 五十槻は珍しく言い淀んでいる。紫の瞳を下に向けてさまよわせる視線の動きは、彼女が不安を感じているときにする仕草だ。この時点で綜士郎は、やはり今日何かあったなと確信を深めるが。

 

「大変恐縮ですが……僕のことを押し倒していただけませんでしょうか」

「なにを言っとるんだお前は」

 

 真顔で真剣に言われた言葉に、綜士郎は同じく真顔で返す。

 

「……理由を聞かせてもらっても?」

「実は……」

 

 少女は恬淡(てんたん)とした口ぶりで、今日の昼にあった出来事を説明し始めた。簡潔で無駄のない説明に、綜士郎は「なるほど」と相槌を打つ。

 本日の昼食時間、食器を返却しようとした八朔少尉と、たまたまその場に居合わせた中津一等兵がお互いの不注意により、衝突事故を起こしかけた。その際、八朔少尉は中津一等兵の屈強な体格に驚き、何の罪もない彼へ食器を投げつけてしまった。幸い中津一等兵に怪我はなく、その場で和解は成立したけれど。

 

「どうやら僕は、楢井さんに似た体格の男性に恐怖を覚えてしまうようです」

「…………」

 

 少女の平坦な口調の自己分析を、綜士郎はやりきれない顔で聞いている。

 

「将校として軍に身を置く以上、彼と同様の体格の男性は多数いらっしゃいます。もちろんこの第一中隊も例外ではありません。そういった方々との接触の都度怯えていては、軍務にも支障が出ましょう」

「五十槻……」

「中津一等兵のことも、僕は傷つけてしまったかもしれない」

 

 五十槻は中津くんのことを気にしているが、心配ご無用、彼ならば元気に煩悩爆発中である。当然五十槻も綜士郎も、あずかり知らぬ話ではあるが。

 

「ですから、大きな体の男性に驚いたり怯えたりしないよう、大尉には練習にご協力いただきたいのです」

 

 懇願の眼差しを浴びながら、綜士郎はため息を吐いた。やっぱりかと、胸中には怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻いている。

 五十槻はふだん常に真顔を保ち、その心中にあるであろう情緒をほとんど漏出させない。そういう風に育てられたからだ。

 けれど平静な外面に反して、五十槻の内面には大きく深い傷が残っている。香賀瀬修司、および楢井信吾らによって残されたその傷は──もしかすると、一生消えないのかもしれない。

 

「だめだ。お前の言う『練習』には応じられない」

 

 綜士郎のにべもない返答に、五十槻はまた少し眼差しをさまよわせて「どうして」と口にする。

 

「大尉、なぜご協力いただけないのでしょうか。僕は弱点を克服したい。八朔の神籠が、こんなにも弱々しくあっては──」

「五十槻。それは、弱点を克服することにはならないんじゃないか。ただ単にお前の傷を深めるだけだ」

「…………」

 

 傷を深めるだけ。その言葉に、五十槻は押し黙る。思うところがあるのだろう。少女は不服そうに、けれど反面、多少ほっとしたような気色も浮かべながらうつむいた。

 

「残念です。大尉には何度か僕を押し倒されたご実績がありましたから、てっきり今回もご協力いただけるものと……」

「おい、押し倒した実績ってなんだよ!」

 

 人聞きの悪い発言にこらこらとツッコむが、その実績とやらは悲しいことに事実だ。五十槻が自害しようとするのを必死で止めたときと、神祇研で楢井に危害を加えられそうになったときのことだ。いずれも五十槻の生命を守るための行動であって、やましいことは何もない。

 

「別に、無理に苦手なものに慣れようとしなくていいんだよ、五十槻」

 

 なるべく安心させるように、綜士郎は長身を少し屈ませて、彼女へ目線を合わせながら告げた。

 

「お前の負った心の傷は、そう簡単に治るものじゃない。俺もそうだったから分かる」

「…………」

 

 綜士郎にも、五十槻と似た経験がある。思い出したくもない記憶だ。十三歳の頃、夜の真っ暗な炭鉱の、粗末な寝床。肌を這いまわる汚らわしい手。

 その後に起こった出来事も含め、少年期のその体験は、綜士郎の胸裏に暗い影を落とし続けている。

 

「藤堂大尉も、僕と同じだったのですか?」

「ああ。しばらくは年配の男を見ると吐き気がした」

「いまは、そうではないのですね」

「そうだな……まあ、時間が経ったからかもしれないな」

 

 五十槻にはそう言うけれど、完治したとは言い難い。いまだって、彼を慰み者にしようとした男と似た風貌の人間を見ると心がざわつくし、嫌な気分になる。苦痛は無くなったのではない。薄まっただけだ。

 

「お強いのですね、藤堂大尉は」

 

 純粋に尊敬の瞳を向けてくる部下に、綜士郎はゆっくりと首を横に振った。自分は決して強くはない。ただ、時の経過とともに、苦しみが漂白されるのを待っていただけなのだから。

 

「強いのはお前だよ、五十槻。思い出すのも辛いことだろうに、それに向き合って、克服しようとして……偉いよ、お前は」

 

 誉められて五十槻は誇らしそうだ。ちょっとだけ、真顔の口角が上がっている。その様子を微笑ましく思いながらも、綜士郎は心のどこかで自らを不甲斐なく思った。

 五十槻が今日、心的外傷(トラウマ)を想起してしまったのは、数日前、椋野山で──あの死体を発見したことも一因かもしれない。

 本当は──心に傷を負った十六歳の少女に、こんな軍隊(ところ)でこんな仕事をさせるのは不適切だ。親元に保護してもらい、両親の愛情に包まれて安全に日々を過ごすことこそが、彼女にとっては最善であるはずで。

 しかし本人の意志はそうではない。それも綜士郎は分かっている。五十槻の望みは、彼の部下として、八朔の神籠として、八洲に蔓延る禍隠を殲滅すること。

 

「……焦る必要はないよ、五十槻。お前は、そうだな……怖いものに慣れようとするよりも、楽しいことや、嬉しいことを探した方がいいな。一日一日が幸せになれば、怖い思い出も少しずつ消えていく。きっと」

「幸せ……」

「いいか、五十槻。軍や神域(ひもろぎ)以外での幸せを見つけなさい。いずれそれが、お前のかけがえのない宝物になる」

 

 綜士郎の言葉に、五十槻の真顔は若干戸惑ったような色を浮かべた。「難しいです」と少女はまた視線を下へ向けている。

 五十槻は少し思惑(しわく)のような沈黙を保ったあと、おずおずといった様子で口を開いた。

 

「あの……もうひとつ、お願いをよろしいでしょうか。藤堂大尉」

「なんだ?」

 

 言ってみろ、となるべく気楽な口調で続きを促してやれば、五十槻はこちらをまっすぐ見上げながら、せがむように軽く両手を広げてみせた。

 

「ぎゅうって、してほしいです」

 

 じっ。紫の瞳はこちらを凝視している。十六歳の少女からの、抱擁の要求である。

 綜士郎の眉がひくりと引きつった。それはさすがに。

 女性の十六歳といえば、八洲では結婚が許される年だ。ちなみに男子に関しては、十八歳からと法で定められている。

 五十槻は戸籍上は男性であるが、身体は女性である。綜士郎のなかで要求に応えるべきか否かの逡巡が始まるけれど、結論は一瞬で導き出される。

 

「だめだ!」

「そんな……」

「そういうのはお父さんやお母さんにしてもらいなさい!」

 

 もちろん却下である。いかに信頼されているとはいえ、五十槻にとって綜士郎は、赤の他人の異性だ。彼女のためにも、そろそろそういう節度を保つべきで。

 

「父上には毎晩寝る前に抱きしめてもらっています。すごく幸せです」

「ならいいだろうが!」

「でも僕は、大尉にもぎゅうってしてもらいたい」

 

 まるで駄々をこねる子どもだ。言葉遣いもなんだか幼子じみている。

 

「だーめーだ! まったく、押し倒すのと何が違うんだ! いいか五十槻、お前ももう十六なんだ。みだりに異性へくっつこうとするんじゃない!」

「ぎゅうするのは、心的外傷を想起させる押し倒し行為とは別種のふれあいです。それに、藤堂大尉は絶対に僕に不埒なことはなさいません。あなたの犬として、心より信頼申し上げております」

「お前は俺を都合よく解釈しすぎだ……! あと犬はやめい!」

 

 押し倒しの件とは違い、五十槻はこと抱擁の要求に関しては妙に引き下がらない。

 もちろん五十槻の発言通り、綜士郎は彼女の尊厳を穢すようなことは絶対にしない。絶対にしないが、面と向かっての抱擁はさすがに気まずい。

 

「藤堂大尉……」

「やめろやめろ、そんな目で見るな!」

 

 捨てられた犬のような瞳である。紫の眼からじっと向けられる懇願の眼差しから、綜士郎は必死で目を背けた。

 けれど。綜士郎の脳裏によぎるのは、五十槻の生い立ちである。誰かに抱き上げてもらったりおぶってもらったり、この娘にはそういう子どもらしい経験は皆無といっていい。怖いことがあったとき、悲しい気持ちになったとき。それを受け止めてくれる大人は周囲にいなかった。

 綜士郎が帰営するまで、五十槻は真っ暗な部屋の中、どんな気持ちで待っていただろう。……それを思えば。

 やがて観念したように、綜士郎は「ほら」と軽く両腕を広げてみせる。

 

「まったく……三秒だけだぞ」

「!」

 

 許可を得た瞬間、五十槻は勢いよく彼の胸へ飛び込んだ。その挙動もまた、待ての指示から解き放たれた犬のようである。「おいこら」と綜士郎は戸惑いの声をあげるけれど、五十槻は構わず彼の背に腕を回し、ぎゅうぎゅうと抱き着いてくる。

 

「いいか、三つ数えるまでだからな。いーち……」

「い──────────────────────────────……」

「肺活量! ばかたれ!」

 

 いったいどこで、こんな小賢しいやり口を覚えてきたのだろうか。まあ十中八九、甲精一の悪知恵を学んだのだろう。

 

「やれやれ。でかい子どもだな、こりゃ」

「へへ……」

 

 呆れたようにつぶやけば、五十槻は嬉しそうにうっすら笑った。そんな様子に、綜士郎もつられて笑う。さすがに抱きしめるのは憚られるので、青年は手を少女の背へ遠慮がちに添えるだけにとどめた。

 とっくに三秒経ったけれど、とても離れろとは言えない。軽く背中を撫でてやれば、少女は安心したような吐息を漏らした。

 

「こうやって抱き着くのは平気なのか」

「はい、だって藤堂大尉ですから。すごく落ち着きます」

「……あんまりこういうことで、落ち着いてほしくはないんだがなぁ……」

 

 困り声でつぶやくと、綜士郎はそっと五十槻から身を離した。引き離された少女は、少々名残惜しそうな顔をしている。

 

「ほら、三秒からずいぶん延長してやったぞ。満足か?」

「……はい」

 

 ちょっと物足りなさそうである。初対面の頃に比べて、だいぶ表情が出るようになった。

 五十槻はしばらく正直な顔色を浮かべていたものの、ふといつもの真顔に戻り、ふだん通りの神色自若(しんしょくじじゃく)っぷりで綜士郎へ礼を述べた。

 

「藤堂大尉。お疲れのところ、自分の希望をお聞き届けくださり感謝の念に堪えません。夜分に失礼いたしました」

 

 そう言って、では、と五十槻は踵を返そうとする。悠々と退室しかける部下を、綜士郎は「ちょっと待て」と呼び止めた。

 まさか、このまま一人で帰宅する気ではなかろうか。

 

「おいこら、一人でどこへ行く」

「帰宅します。お疲れさまでした」

「お疲れさまでしたじゃないだろうが」

 

 やはり一人で帰宅する気である。そもそもの言いつけを忘れたのかと、綜士郎は呆れながら五十槻の行く手に立ちはだかった。

 

「八朔少尉。貴官の帰宅時に関する指示を言ってみなさい」

「はっ。基本的に日没前に帰宅すること。万一帰宅時間が日没より後になる場合は、藤堂大尉を随伴し帰宅すること」

「よくできました。……で、なぜ一人で帰ろうとする」

「大尉はご多忙でいらっしゃいます。お疲れのさなか、自分の送迎にお時間や体力を割いていただくのは忍びない。僕なら大丈夫です。一人で帰れます」

「ばかたれ! よく聞きなさい五十槻!」

 

 部下の受け答えに眉尻を吊り上げながら、綜士郎はいま一度、なぜ彼女に帰宅時の取り決めを課したのかを説明する。

 

「いいか五十槻。ただ単に、夜中に出歩いていて暴漢に襲われたりだとか、ただの変態に出くわしたとかなら、お前の神さま──祓神鳴神(フツカンナリノカミ)が馬鹿力でなんとかしてくれるかもしれん。だが、相手が神籠だったらどうする」

「神籠?」

「おいおい、忘れてくれるなよ。お前、いや、お前の持つ神さまの力は──神籠の外征転用を企む連中に狙われている」

「あ……」

 

 すっかり失念していたような声を五十槻が上げたので、綜士郎は思いっきりため息を吐いてやった。

 大事なことである。八朔の神籠は、門を破壊する力を持っている。と同時に、門を制御し得る能力も有している。

 神籠外征転用派。その一員であった香賀瀬修司は以前、五十槻や彼女の叔父、八朔(ほずみ)達樹(たつき)の神籠を実験に用い、羅睺(らごう)の門の制御を試みている。それが何の目的のためかは分からないが、おそらくは転用派の目的に資することにつながっているだろう。

 前回の騒動の際、神祇研側は対人にためらいなく神籠を使用している。転用派が将来的に神籠を他国での侵略に使用する目的を持つ以上、香賀瀬らだけでなく、母体となる彼らも神籠の対人使用に躊躇はないはずだ。五十槻が夜間、単独行動中にそれが拉致の目的で用いられないとも限らない。

 ということで、五十槻の身辺は厳重に警戒しておいた方がいい。それが綜士郎の考えだ。大体、今日の昼間に恐慌状態に陥ったばかりの子どもを、夜中に一人で帰すわけにはいかない。

 

「すみません、僕……」

「分かったならよろしい。頼むぞ。神祇研のときのようなことは、俺はもう懲り懲りだ」

「はい……」

 

 しゅん。しおらしく項垂れる少女に、綜士郎はやれやれと苦笑した。

 と同時に、これから八朔家まで片道三十分かけて歩いていくのかと思うと正直、出立前からどっと疲れが増してくる。そういえば朝食以降、食事も取れていない。思い出したところで、綜士郎の腹から「ぐぅ」と情けない音が鳴った。

 その音を耳ざとく聞きつけ、五十槻が心配そうな真顔で問いかける。

 

「あの、藤堂大尉。今日お食事は……」

「ああ、いや。心配するな。大丈夫だから」

「けれど空腹のご様子です」

「お前を送っていった帰りに何か食べるよ。気にしなくていい」

「気にします」

 

 五十槻は心苦しそうな顔のままうつむいた。詫びと後悔の入り混じった声で少女は続ける。

 

「ごめんなさい。僕、自分のことばっかりで、藤堂大尉がお疲れであることに思い至らず……」

「気に病むなよ。お前の生い立ちを思えば、ちょっとぐらい周囲に甘えた方が健全だ」

 

 慰めを口にしながら、綜士郎は書類棚に借りていた資料を戻した。本当はそれだけのために、この事務室へ立ち寄ったはずなのに。

 まだ気にしている様子の五十槻へ、綜士郎は「ほら、帰るぞ」と促しながら背中をぼすっと叩いた。八朔家とこの軍営との道筋に、どこか美味い店はあったかなと記憶を確かめながら青年は部屋を出ようとする。

 

「あの、藤堂大尉」

「なんだ? 忘れ物か?」

 

 五十槻は立ち止まったまま少し考えこむような素振りを見せた後、振り返った綜士郎へこう提案した。

 

「よかったら、うちで何か召し上がっていきませんか」

「いや、夜分に押しかけてもご迷惑だろう。家の人にも、食事の用意に手間をおかけするだろうし……」

「いえ、僕が作ります」

「は?」

 

 思いがけない提案に、綜士郎は目をむいた。料理をするのか、お前が?

 疑わしげな上官からの視線を一身に浴びながら、五十槻は堂々ともう一度口にした。

 

「僕がご用意いたします。藤堂大尉に、お夕飯を──!」

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