2-1 電撃! 八朔五十槻寿退役作戦
一
椋野山の門破壊任務から数日後の、七月中旬某日。
「いただきます」
第一中隊軍営の食堂で、五十槻は席につき、手を合わせた。
本日の献立は、鯖の味噌煮に五目飯、味噌汁、それから大根の漬物だ。
茶碗を手に取り、まず頬張るのは五目飯である。今日のかやくは、にんじん、蓮根、油揚げに干瓢、それから飯に添えられた紅生姜の五種だ。味のついた米に、シャキシャキとした蓮根の食感と、油揚げのコクが加わって五十槻の食欲を刺激する。そこに紅生姜のちょうどいい酸味。それから五十槻はいったん漬物をかじって口の中をさっぱりさせると、今度は箸で鯖の身をほぐして口許へ運んだ。
脂の乗った鯖の身に、とろりとした味噌が絡まる。口の中に広がるまったりとした旨み、生姜の風味。
うまい、としみじみ咀嚼して、五十槻は味噌汁の椀を取った。今日は豆腐とネギのほか、ほうれん草が入っている。ずず、っと椀を傾けて汁をすすり、空腹少尉の箸は再び五目飯へ。
五十槻の極端な食事制限は、すべて撤廃された。毎日他の士卒と同じものを、同じように食べている。
「いつきちゃん、おいしい?」
「はい。どれも絶品です」
向かいの席から精一が問いかけた。このキツネはもうすでに食べ終わって、行儀悪く爪楊枝で歯間をシーシーしている。
「ほんじゃ、おいしく食べてるいつきちゃんに問題! 今日のお味噌汁のお出汁はなんでしょー?」
「お出汁……?」
アホ伍長の突然のクイズに、五十槻は真剣な眼差しを味噌汁へ落とす。さきほど口にしたときは、ただただ美味しいと思うばかりであったけれど。
少女は椀を鼻先へ近づけて、すぅ、と匂いを嗅いでみる。それからもう一度、湯気の立つあたたかい味噌汁を一口。
「これは……かつお出汁でしょうか?」
「ぶぶーっ! でも惜しい、正解は合わせ出汁でした~」
「合わせ出汁……なるほど言われてみれば。かつおと昆布の出汁を合わせたもの、ですね。たしか」
「お、えらいぞ八朔少尉。料理についても勉強してるんだなぁ。俺は雪江ちゃんに聞かないとさっぱりだ」
精一の隣席は崩ヶ谷中尉である。中尉はごく稀に、細君に弁当をすっぽかされることがある。まさに今日がそのごく稀な日であった。崩ヶ谷の前に置かれた盆にも、五十槻と同じ献立が並べられている。
「ハッ、男子厨房に入らずだろうが。大の男が調理の仕方だのを云々するのはみっともない!」
五十槻の隣では、万都里が行儀よい箸遣いで五目飯を頬張っている。しかしいくら行儀がよくとも、問題発言はいただけない。実際、彼らが陣取っている卓近くにいる炊事兵たちも「あんのボンボンがよ」と、万都里に対して不服を露わにしている。
そんな年上の同期へ、五十槻は少々戸惑った真顔を向けた。
「男子が料理の話をするのはみっともないことなのですか、獺越さん。僕は大事なことだと思いますが……」
「あ、いや……」
「僕、櫻ヶ原女学院に女学生として潜入したとき、何度か調理実習を受けたんです。でも、ふだん料理に慣れていない僕には難しくて。お味噌汁ひとつとっても、材料を切ったり出汁を取ったり火加減を見たり、手間がかかります」
「ええと……」
「炊事兵の方をはじめ、毎度の食事をご用意くださっている方が都度、そういったご苦労をなされていることは、しかと心に留めておくべきではないでしょうか」
「うっ……」
切々と語られる言葉に、万都里は閉口した。五十槻は「差し出がましいことを申し上げました」と、謙虚に締めくくる。
それ見たことかとばかりに、精一と崩ヶ谷が口を挟んだ。
「はい、まつりちゃんの負けー。大体いまどき男子厨房に入らずって、古臭過ぎない? ねえ黄ちゃん」
「そうだぞ獺越ー。俺もさぁ、休みの日には晩飯の材料切ったりして奥さん手伝ってるぞぉ」
「ぷぷぷ。それなのに黄ちゃん、今日はお弁当すっぽかされてやんの!」
「しょうがねえだろ。毎朝弁当作るの大変だし、いいんだよたまには」
そう言って崩ヶ谷中尉は漬物を口に含み、バリバリと噛み砕いた。少尉二人は知らなかったが、崩ヶ谷は愛妻弁当持参なのをいいことに営内での給食の権利を返上し、「俺の分の糧秣が浮いた分、給金に上乗せしてくれ」などと管轄の主計に掛け合っている。彼がどんな無茶苦茶な交渉をしたのかは定かではないけれど、要求は受け入れられており、崩ヶ谷は給金上乗せと引き換えに、この食堂の糧食を食べる権利を有さない。そのはずだが。
クソケチ中尉は何食わぬ顔で味噌汁をぐいっと飲み干すと、「ごちそうさま」と椀を置いた。完食である。
「…………」
さて、居心地が悪いのは万都里だ。青年はどこか納得できない顔のまま、隣の同期へちらりと視線を投げかけた。五十槻はすでに食事を再開して、崩ヶ谷家の家庭事情に耳を傾けている。
「……男らしさにこだわってたんじゃないのかよ……」
「まつりちゃんなんか言ったー?」
「なんでもない!」
しばらくして。ちょっとだけ憮然とした面持ちで、万都里は口を開いた。
「……ハッサク。オレの了見が狭かった。前言を撤回する」
「獺越さん?」
「そうだな……兵站を軽んじるのは下策というし。考えを改めるとする」
そう訥々と語る万都里に、五十槻は少しきょとんとした真顔を向けている。そんな同期の眼差しから逃れるように、万都里は五目飯を勢いよくかっこんだ。青年は飯を嚥下して、ぽつりと独り言をこぼす。
「それにしても、ハッサクが女学校で調理実習か……ふーん」
「あの、それがなにか」
「べっ、別にお前が女学生姿で料理してるところが見たいとか、そんなことは思ってないんだからな!」
「はぁ……?」
軍隊の食事風景にしてはのんきなものである。八洲陸軍の食事の作法は、早食いを宗とし、食事中の雑談は厳禁である。いつなんどき降りかかってくるかもしれない、不測の事態に備えるためだ。
とはいえ、神事兵科という兵科は禍隠討伐のために存在する。そんなわけで、禍隠発生の報がなければ、食事時の雰囲気はこんなものである。禍隠自体の出現頻度もそこまで頻繁ではないため、輪番の分隊以外は比較的のんびりと食事を楽しむ余裕があった。
しかしながら今日は特別空気がゆるんでいる。士卒はあちこちでゲラゲラ野太い笑い声をあげているし、炊事兵たちは万都里の方をチラチラ見ながらなおも陰口を叩いている。
五十槻はいつもよりちょっと物足りない視界に、小さくため息を吐いた。
「……藤堂大尉、今日はちゃんと昼餉を召し上がられたでしょうか」
今日は綜士郎が不在である。陸軍省にて神事兵少将、鞍掛元らと会談の予定が入っているからだ。
ここのところ綜士郎は多忙だった。あちこちのお偉いさんに会議だなんだと呼び出され、皇都中を奔走している。椋野山の門破壊以降は、むしろ第一中隊の営内にいることの方が稀になりつつあった。たまに顔を合わせたときに話を聞くと、忙しさのあまり昼食を取れないこともあるらしい。
今日の食堂の空気がゆるいのは、なんだかんだ風紀にうるさい綜士郎が留守のためでもあった。
さて。上官を心配する五十槻に、他三人は「またかよ」という顔だ。万都里のみ、あきれ顔の上に不機嫌の色も加算されている。
やれやれ、と頭を振りながら精一が諭すように言った。
「大丈夫だっていつきちゃん。綜ちゃんも一食抜いたぐらいじゃ死にやしないよ」
「しかし、栄養補給がなくば集中力を切らし、午後の勤務に支障をきたします。また同様の状況が長期間続けば、大尉のご健康に差し障りがあるかもしれません」
「そうだねぇ。さすが、ご飯ちゃんと食べなくて大変なことになったことのあるいつきちゃんだ。含蓄のあるお言葉」
「うっ」
精一はしれっと五十槻の古傷をえぐってくる。たしかに八朔五十槻は今年の二月、自主的な摂食制限により体調不良を起こした挙句、休養の命令を無視して大事件を起こしている。
「わはは、たしかに人様の心配ができる身の上ではないな、ハッサク! いやぁ、あのときはオレも大変な目に遭ったものだ!」
「あ、あわわ……そそ、その節は本当に……」
「ははは、珍しい。八朔少尉がしどろもどろになってら」
三人から笑われながら、五十槻は気まずい気持ちで味噌汁の最後の一口分を飲み込んだ。そそくさと箸を置き、「ごちそうさま」と手を合わせる。
神祇研の騒動からすでに数ヶ月。第一中隊での日々も、以前と変わらず居心地が良い。
何より五十槻は藤堂綜士郎の部下であり続けられている。彼のもとで、八朔の神籠の力を奮うことができる。
これが少女の望んだ日常だった。綜士郎が多忙なのは寂しいけれど、直属の上官や先輩は気安いし、頼りになる同期もいる。
(こんな日がずっと続けばいいのにな)
ついそう思ったものの、五十槻はすぐにそんな考えを打ち消した。
神事兵の存在意義とは、禍隠を討伐すること。五十槻の目標は、八洲から禍隠を殲滅することである。
一度、この目標を万都里へ打ち明けたときには「今生で達成できるとは思えんぞ」と冷静な感想が返ってきたものだ。しかし五十槻は本気である。神域の内に立つとき、身中に沸き立つ八朔の血潮が「禍隠を滅ぼせ」と、そう言っている。だけれども。
もし、本当に……八洲から禍隠を掃討できたなら。
禍隠という存在が、きれいさっぱりこの八洲から消えたなら。神籠は──神事兵はどうなってしまうのだろう。
八洲神代記という、八洲でもっとも古い史書には、最高神・恒日大神の言葉として、こういった一節が述べられている。
──天津㝢に住まう天神、四海内に宿る地祇。それら八百万の神々の力を、汝らに貸し与えましょう。私が子々孫々、伝え受け継ぐ神域の内でのみ、力を使うことを許します。
──禍隠を討ち滅ぼす、その日まで。
この部分は、古来より歴史学者の間で議論が紛糾している部分であるらしい。曰く、大神が人々へ神籠の力を貸し与えるのは、ここにある大神の言葉通り、禍隠を滅ぼし尽くすまでのことではないかと。つまり、禍隠が八洲から姿を消すと同時に、神籠の力も人々から失われてしまうのかもしれない、と。
それを確かめるには、実際に禍隠を滅ぼすしかない。実現の可否はともかく、五十槻は単純にそう考えている。問題は、本当に神籠の力が消えてしまった場合だ。
そうなると、不要となった神事兵科は解体されるのかもしれない。神事兵将校という身分もなくなる。
五十槻は神籠、及び将校の身分を失う。藤堂綜士郎もまた、五十槻の上官ではなくなるだろう。五十槻の存在意義が、すべて失われる。
そうなったときの自分が想像できなくて、五十槻は人知れずため息を吐いた。
(あまり先のことは考えないようにしよう)
盆の上で食器の並びを軽く整えて、五十槻は席を立った。「午後俺警邏だよぉ、さぼりてえ~」と精一が弱音を吐くのを尻目に、五十槻は盆を持って食器返却口の方向へ身体を向けた。
そのとき。
「おわっと、八朔少尉!」
死角から突然、がっしりした身体つきの式哨が現れた。いかにも甲種合格といった感じの、大柄な兵卒である。向こうもよそ見をしていたらしく、気付いたときにはあわや五十槻とぶつかる直前だ。
こちらへよろめいてくる、大柄な体格の男。
楢井信吾を、髣髴とさせる体格。
瞬間、五十槻の脳裏へいくつかの記憶がよぎった。
神祇研。夜を映す窓。肌を這いまわる手の感触。何度も絞め上げられる首。
そして、自らに覆いかぶさってくる大柄な影。閃く紫の光。それから。
沢に浸る、犯された女の死体──。
「わッ!」
思わず五十槻は、持っていた盆ごと食器類を目前へ叩きつけた。食堂の一角に、けたたましい音が鳴り響く。
気が付くと五十槻は尻もちをついた状態で固まっていた。正面には、さきほどぶつかる直前だった式哨が、ぽかんと呆けた顔で同じく尻もちをついている。ふたりの間で、茶碗がくわんくわんと回っていた。
「あ……」
「しょ、少尉……?」
ぶつかりかけた相手の顔をちゃんと見れば、よくよく知っている式哨のひとりだ。中津一等兵といって、たしか、五十槻の親衛隊を自称している謎の集団の一員である。
「なんだなんだ、どうしたどうした」
まだまだ人の多い時間の食堂のこと、野次馬は瞬時に集まってくる。先に食堂を出たはずの精一も「どったの?」と、騒ぎを聞きつけて崩ヶ谷と一緒に戻ってきた。
「おい、大丈夫かハッサク」
「あ、はい。僕は」
そばにいた万都里が、しゃがみこんで五十槻の顔を覗き込む。少女はなるべく平静を装って、同期の心配そうな顔を見返した。けれど胸の内では、心臓がなおも嫌な動悸を全身の血管へ送り出している。
とにかく、何の罪もない中津一等兵に食器をぶつけてしまった。謝罪しなければ。
「中津一等兵、すみません。僕、びっくりしてしまって」
五十槻は立ち上がり、まだ呆然としている一等兵へ近づいて手を差し出した。中津は差し出された手を見たものの、戸惑った様子でその手を取ろうとはしない。
「どうぞお手を。お怪我は……」
「あ、あの、おれは大丈夫です少尉。自分で立てますから」
「でも……」
「いい、ハッサク。オレがやる」
やりとりに苛立ったように、万都里が横合いからしゃしゃり出た。彼は中津の手を掴んでぐいっと引っ張ると、大きな体格の一等兵を軽々立ち上がらせる。細身の身体の意外な筋力に、え、と意表を突かれた顔をしている中津一等兵。万都里は長身の彼をじろっと見上げながら、低く抑えた声音で問うた。
「キサマ……ハッサクに何かしたか?」
「は、え? えぇと……」
「あの八朔五十槻が腰を抜かして驚いてるんだ、何かしたのかと聞いている!」
「獺越少尉……!」
非常な剣幕に、慌てて五十槻は割って入る。
「中津一等兵は何も悪くありません。自分が不注意だっただけです」
「ほんとかぁ……?」
五十槻の釈明を聞いてもなお、万都里は一等兵から不審の目を逸らさない。
「獺越さん、本当に大丈夫ですから。僕、中津一等兵には何もされていません」
「には……?」
万都里は五十槻の言葉尻に、怪訝な様子を一瞬浮かべたけれど。一等兵をかばい、懸命に言い募る同期の言葉に、ようやく納得したらしい。「ハッサクの弁護に免じて見逃してやる」と、青年はいつもの横柄な口調で中津へ言い放った。
中津青年といえば、なにやら紅潮した顔で万都里と五十槻を交互に見比べている。
「いいか、次からは周りに気を付けて歩けよ。さあもう行け」
「あ、はい……」
将校から訓示を受けて、中津青年は赤面のまま目を伏せた。どこか心ここに在らずといった様子だ。
五十槻は去り際の一等兵へ怪我の有無を改めて尋ねたが、無傷とのことである。その割に退出していく中津青年の足取りは、妙にふらついていたが。
万都里は周囲の人だかりへも「キサマらも野次馬とは趣味が悪い! 解散だ解散!」と散開を呼び掛けて場を収めている。
「だいじょうぶ? いつきちゃん」
「顔色まっさおだぞ」
精一と崩ヶ谷に覗き込まれて、五十槻はやっと自分が冷や汗をかいていることに気付いた。群衆を散らした万都里もそばに戻ってきて、困惑まじりに皮肉を言う。
「まったく……なにが『どうぞお手を』だ。自分の手を見てみろ」
言われた通り、五十槻は自分の手のひらへ視線を落とした。
血の気が無く真っ白な手のひらは、冗談かと思うくらいぶるぶると震えている。
「尋常な動転の仕方じゃないぞ、それ。ハッサク、お前……やっぱりなにかあったのか?」
「…………」
五十槻は答えられない。神祇研で楢井による性暴行の被害に遭ったことは、綜士郎と荒瀬中佐、それから御庄軍医少佐の三名にしか打ち明けていないのだ。少女は同期の問いへ、ただ首を横に振ることしかできなかった。
「いつきちゃん……」
「八朔少尉」
心配そうな精一の隣で、崩ヶ谷中尉が珍しく上官の声音を作りながらこちらへ呼びかける。
「少尉は本日午後は、救護室で休みなさい。なんなら早退してもいい」
「しかし、自分は……」
「休むの? 早退するの?」
崩ヶ谷中尉は、綜士郎ほどやりとりに時間をかけない。そっけないそぶりで二択をつきつけ、五十槻に選ばせる。もちろん無理を押して勤務に励むなどという手札は配らない。彼なりの優しさである。
「……休みます」
「だと思った。ま、しばらく様子を見て、大丈夫そうなら警邏に出てもらおうかな」
崩ヶ谷はしたり顔に笑みを浮かべる。五十槻の意志も汲んでくれて、なんだかんだ良い上官だ。五十槻は騒ぎを起こしたことを謝罪して、落とした食器を拾い集めると、しょんぼりしながら食器返却口へ向かう。
「おいハッサク。不安なら添い寝があった方がいいんじゃないか。なんならオレが」
「まつりちゃんステイステイ」
よく分からないやりとりをしている二人にも重々詫びを入れ、五十槻は肩を落としつつ食堂を辞したのだった。
以下はどうでもいい余談である。食堂での一件の後、炎天下の運動場にて。
「中津、貴様ァ!」
「隊長! 申し訳ありません!」
「貴様……! 不注意で我らが八朔少尉にぶつかりかけた挙句、その無駄にでかい図体で怯えさせてしまうとは何事だァ!」
八朔少尉親衛隊の面々に囲まれて、中津一等兵が叱責を受けていた。しかし彼は特に軍規に違反しておらず、八朔少尉とは和解が成立している。つまり完全に私刑である。
「中津! 貴様にはこれより、外周五十周うさぎ跳びを命じる! せいぜい神域で少尉のお役に立てるよう、ただでさえ丸太のようなその大腿筋をさらに鍛え上げるがいい!」
うさぎ跳びで運動場五十周。これには周囲の隊員からどよめきが漏れた。いつも八朔少尉に対して傲岸不遜きわまりない獺越万都里ですら、三十周までしか課されたことがなかったからだ。
しかし中津一等兵は、突如その屈強な身体を地面へ這いつくばらせる。
衆目に晒す土下座の体勢。そして中津青年は、心底の懺悔の声を放った。許しを請うためではない。
「もちろん罰はお受けします! しかし──しかし、そんな罰ではおれには軽すぎます!」
言いながら顔を上げる中津一等兵。精悍な顔に浮かぶのは、罪悪感の色と──乙女の如き頬の赤み。
「隊長! みんな! おれは本日を以て八朔少尉親衛隊を脱退──はしないが、藤八の血盟からは抜けさせてもらう!」
「中津! 貴様!」
大多数の士卒から、「信じられない」というような目線が向けられた。
藤八の血盟とは。八朔少尉のお相手は藤堂綜士郎である、という絶対的事実をもとに、ふたりの幸福といちゃいちゃを陰ながら見守ろうという、狂った誓約のことである。現八朔少尉親衛隊の隊員は、全員漏れなく誓約書に血判をおしている。もちろん法的拘束力はないが。
中津一等兵は絞り出すような声で叫ぶ。
「おれは! 八朔少尉には、獺越少尉とくっついてほしい!」
「なん……だと……!」
「気でも狂ったか、中津!」
気が狂っとるのは全員である。
「おれは今日から獺八ひとすじだ! 乙女のように儚げな少年将校へ思いを寄せる、素直になれない同期の美青年──最高だろうが!」
「でもあいつ絵に描いたような当て馬だよ?」
「当て馬少尉」
「やめろ! 当て馬少尉言うな!」
正気の者は誰もいない。軍営の中心で紛糾するカップリング論争。親衛隊隊長は「けしからん!」と口角泡を飛ばしつつ、造反者に対して反駁を述べる。
「だいたい獺越の野郎は、毎度毎度八朔少尉に妙なちょっかいかけとるだろうが! あんなクソ性悪、八朔殿のような穢れなき神童には似つかわしくない!」
「でも間近で見たら顔がめちゃくちゃ良かった!」
「顔て!」
「それに細身な見た目に反して、意外と力強いんですよあの人! おれさっき助け起こされてびっくりしちゃった……!」
「ばかもの! その図体でもじもじするな!」
「あと怯えてる八朔少尉を不器用に気遣ったりして……ふだんはクソ性格悪いし尊大だし傲慢だけど、見た目だけなら異国の騎士みたいだなって……!」
「持ち上げたいのか中傷したいのか、どっちなんだ中津ゥ!」
「……というわけで、隊長! みんな!」
中津一等兵は、さらに深く頭を下げる。
「おれは隊の規律に反して、獺八を推すことにした! それがどんなに罪深いことかはおれ自身分かっている! だから隊長、運動場五十周なんて生ぬるいことを言わないでください! 百周──いや、千周でもおれは駆け抜ける! 推しカプのためならば!」
中津の暑苦しい熱弁に、親衛隊の面々、それから面白半分に集まってきた野次馬たちは一様に押し黙っている。
「けれど獺八を推すことだけは認めてほしいんです、隊長……! そのためにも、おれはうさぎ跳び千周をやり遂げましょう!」
「中津……お前、そこまで……!」
「……水臭いぜ、中津一等兵」
不意に、群衆をかき分けて二、三名の兵士が近づいてきた。
「隊長、自分たちも中津に連座します。中津にうさぎ跳び千周を課すというのなら、それを我々で分担することは可能でしょうか」
「貴様ら、一体何を……!」
「フッ、陰ながら獺八を推していたのは、中津だけではなかったということですよ」
「お、お前たち……?」
中津一等兵に、突然の援軍登場である。最初に現れた二、三人以外にも、親衛隊の輪から数人が進み出る。
「じ、実は、ぼくらも前からひそかに獺越少尉を応援してまして……」
「血盟に参加した手前、言い出しづらかったですが」
「まつりちゃんおもちゃにすると面白いよね」
「甲伍長、みんな……!」
どやどや。大多数、とまではいかないが、三割くらいの隊員が実は獺越派であったことを白状している。中津のうさぎ跳び懲罰を割り振れば、一人三十周ぐらいになる程度の人数だ。
顕在化した獺越派の勢力を見て、親衛隊隊長はため息をついた。怒りの気配はない。俯き加減のその顔に浮かぶのは、なぜか、爽やかな笑み。
「……負けたよ、お前たちの熱意には。ならば藤八の血盟はいまこのときを以て破棄、今後はどのカップリングも認めるものとする!」
「隊長……!」
「当然、中津一等兵への懲罰はなしだ!」
ワッ──!
分かりあえた男たちの、歓呼の声が軍営に響き渡る。アホ伍長の大爆笑も混じっている気がするが、それはともかく。
「よかったな中津!」
「俺たち大っぴらに別カプを推せるぞ!」
「こらこら! いいか、本人たちには決して迷惑をかけず、カプ萌えを認知されないように推すんだぞ! ナマモノ推しには細心の注意を払え! 隊長との約束だ!」
「押忍! 隊長!」
推すだけに、ってやかましいわ。
そしてなぜか始まる、中津一等兵の盛大な胴上げ。わっしょいわっしょいと、ご近所迷惑もいいところだ。
しかしこの集団、早々にひとつにまとまったかと思いきや、内輪揉めが始まるのも早い。
「やったー! 攻めの八朔少尉もいいなって思ってたんですよ自分!」
「はぁ? 少尉は総受けだろうが、寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞカス!」
「大体攻めと受けってなんだよ! 攻めと守りじゃねえのかよ!」
「愛する二人に攻守などという敵対の概念を持ってくるのはそれがしいささかどうかと思いますがねぇ。やはり攻めの反対は受け、攻めからの愛情を受けるという意味での受けであり……うんぬんかんぬん」
「ぐだぐだうるせえんじゃ貴様コラ! やっぱり藤八が公式じゃろうがぶち回すぞこんダボどもが!」
胴上げをされていたはずの中津くん。小競り合いの勃発により誰も彼を受け止めるものがいなくなり、青年の屈強な図体は「ぴゃっ」と情けない声を上げ、あっけなく地面へ叩きつけられる。
そして始まる解釈違いの大乱闘。地面に這いつくばる中津一等兵を踏みつけながら、屈強な男たちは意味不明の早口と拳で、大いに舌戦し、殴り合うのであった。
以上が余談である。本当にどうでもいい。




