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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
74/116

5-10


「八朔くんは……それでいいのかい?」


 子北区四馬神、神事兵連隊本部。連隊長執務室にて、五十槻は荒瀬中佐から確認を受けている。

 八朔の神籠は、紫の眼に決意を漲らせながら首肯した。


「ええ。幼少時より香賀瀬修司から受けていた虐待行為、並びに今回の事件の際に発生した性暴行等については──家族には通知しません」


 さすがにこの宣言には、荒瀬中佐もふだんの飄逸さを潜めて、悲痛な面持ちを浮かべている。だめ押しのように五十槻は続けた。


「このことは墓まで持っていく所存です」


 本気で言っている真顔である。彼女の背後で成り行きを見守っている綜士郎はいかにも物言いたげだが、口を閉ざしている。やりきれない顔だ。

 十五歳の決断へ、荒瀬中佐は嘆息混じりに諭すような言葉を紡ぐ。


「正直なところ、本当は……ぼくは、親御さんにはすべてを知っておいてもらって然るべきだと思うんだ。連隊長としての立場から言ってるんじゃなくて……親として」

「ですが、連隊長としてのお立場では……この件を家族へ伝えない方が都合がいい。そうですよね、荒瀬中佐」


 そう言って五十槻はほんのり笑んだ。夜叉のときの微笑に似ている。


「僕の家族はみな、愛情深く優しい方ばかりです。だからこそ、僕の神祇研での扱いを知れば嘆き悲しむでしょう。そして香賀瀬修司の横暴を許した陸軍の対応に、激しく憤るかもしれません。きっと僕を退役させることに、今以上に躍起になることでしょう」


 荒瀬にとっては耳の痛い話だ。彼は御庄軍医少佐から八朔五十槻への虐待行為を知らされていながら、結局は彼女の士官まで、積極的な介入ができずにいたのだから。様々な事由があったとはいえ。


「羅睺の門に……羅睺蝕(らごうしょく)


 五十槻は淡々と続けている。羅睺蝕について、五十槻はごく最近、概要を知らされたばかりだ。今後十年以内に起こり得る大災厄。語る少女の瞳の中、やはり瞳孔は収縮している。


「災禍の発生に備え、門を破壊する唯一の手段である神籠(ぼく)を、陸軍はきっと手放さない。もし僕の家族が軍営から僕を引き離すような行動を取れば、今度こそ僕は八朔家から引き離され、二度と家族と会えなくなるかもしれません。ありえないことではないでしょう、荒瀬中佐」

「はぁ……ぶっちゃけると、否定はできない」


 個人の幸福より、国の大事。

 観念する荒瀬へ、五十槻は完全に夜叉の顔で微笑みかけている。


「この国のなさりようは……惨いものですね」


 けれど紫の瞳には、咎めるような気配はない。ただ獰猛な眼光を宿している。


「しかし今は、国の方針と僕の利害が一致しています。禍隠の殲滅、その一点において」


──僕は八朔の神籠です。


 少女は自らの定義を改めて述べる。自らの血脈に刻まれた、同じ八朔の血を継ぐ神籠でしか共感しえない定義を。

 禍隠を殺し、門を破壊し、八洲から羅睺の勢力を一掃する者。それを心から欲する者。それが八朔の神籠。

 もはや年齢や性別などを超越し、八朔五十槻は定義されてしまった。あの一晩で、強烈に、揺るがしようもなく。


「現状は今まで通り軍に身を置き、神籠の力を奮うつもりです。これまで通り我が刃で禍隠どもを千々に裂き、(いかづち)にて羅睺の門を跡形もなく粉砕してご覧にいれましょう。そう」


 五十槻は凛然と背筋を伸ばし、真剣な真顔で宣言する。


「藤堂大尉の御許(おんもと)にて」


 背後で、綜士郎がなんとも言えない顔でため息を吐いた。


      ── ── ── ── ── ──


 軍務復帰にあたり、五十槻は荒瀬中佐へいくつか希望を述べ、すべて了承された。


 宿舎から実家へ起居の場を移し、今後は八朔家から登庁すること。

 面倒事を避けるため、男子としての身分は今まで通り。

 そして自らを一生涯、藤堂綜士郎大尉の部下とすること。

 

 最後のは綜士郎自身から、「重いわばかたれ」と言われてしまったが。忠犬はもちろん本気である。五十槻は居場所の確保に余念がない。


 そんなこんなで、八朔少尉は第一中隊の軍営へしれっと復帰した。神祇研で窮地の折に楢井らへ放ってしまった雷撃は、不問に付されている。やむを得ない状況であったし、そんなことで八朔の神籠を処分しているような場合ではない、ということだ。

 さて、五十槻は三月目前の晴天の下、懐かしの中隊正門の内で、真顔で恬淡と抱負を述べている。眼前には中隊の同輩がわらわらと群がって、戻ってきた八朔少尉に歓迎やら好奇の視線を投げかけていた。


「本日より職務復帰です。諸兄らには静養の期間を頂き、まこと感恩の念に堪えません。休暇の遅れを取り戻すためにもいっそう精励忠勤し、禍隠の撃滅に力を尽くす所存。皆々様におかれましては今後とも年少未熟の自分へ、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」


 つらつらと述べられる口上に、士卒たちは「わー、八朔少尉おかえりー」「けがだいじょうぶー?」とのんきなものである。それに対し親衛隊が「誰だ馴れ馴れしい口を聞いてる奴は!」「オラぶち回すぞコラァ!」と殺気立っている。いつもの第一中隊のノリである。

 精一は崩ヶ谷(つえがたに)と一緒にのんびりその光景を眺めていて、万都里は遠目から少し複雑そうな顔を浮かべつつ同期を見つめていた。


 五十槻は戻ってきた。軍人として。


「おいハッサク、お前もう大丈夫なのか?」


 八朔少尉の復帰の挨拶が終わり。

 万都里は去りかける五十槻に駆け寄ると、隣に並んで歩きつつ尋ねた。


「はい、お陰様で。御庄先生からも全快のご判断を頂いております」


 万都里が見る限り、同期はいつもの真顔である。「そうか」と応じながらも、万都里はやっぱり心配だ。あんなことがあって、その心の傷がそう簡単に癒えるわけがない。


「獺越さん。改めて、あのときは申し訳ありませんでした。僕の自分勝手な行動で、あなたを危険な目に……」


 そしてこんな申し訳なさそうな真顔をしてほしいわけでもない。万都里は「けっ」といつもの横柄な態度を取り繕い、口を開いた。


「その詫びは聞き飽きた。入院中からいったい何回謝るんだ、たわけめ」

「たしかに」


 万都里の指摘に、五十槻はいたって真面目な真顔で応じている。「何度も同じことを謝罪するのは、おっしゃる通りかえって非礼ですね」と口調も真剣だ。

 一見、ふだん通りの八朔五十槻である。万都里は彼が、第一中隊に復帰してこないことも覚悟していたのに。


「……本当に大丈夫なのか、お前」

「はい。さきほど申し上げました通り、御庄先生からも全快と……」

「怪我のことじゃなくて」


 青年が立ち止まると、少年もそれに続く。五十槻のきょとんとした真顔へ視線を落としつつ、万都里は気づかわしげに眉根を寄せた。


「……その、色々あっただろうが。精神的にしんどいとか、そういうのはないのか」


 たどたどしく万都里が口にする、不器用に慮る言葉。五十槻の真顔はさらにきょとんの度合いが強くなる。

 万都里は心底から心配だった。好意を抱く相手が、幼少から虐待され、洗脳に近い教育を受けさせられていて──なおかつ、先日のあの顛末だ。心配するなという方が無理である。

 同期の案じ顔に、五十槻はいつもの通りの恬淡さで答える。


「ありません。お気遣い、ありがとうございます」

「…………」


 疑わしいものである。たしかに、五十槻の顔色は一切動じていないし、声色だってふだん通りの抑揚のなさだ。礼を述べる言葉遣いも柔らかく、万都里の気遣いを真摯に受け取ってくれている感じはある。けれど。

 なんだか一線を引かれている感じがする。小学生の時分から五十槻と関わり続けてきた、万都里の直感がそう言っていた。


「お前は……」


 ぶっきらぼうに、しかし言葉を選びながら万都里は口を開く。


「お前は十五のガキなんだ。あんな出来事があって、平気なわけはないだろう。別に泣いたって喚いたって、誰も咎めやしない。今日だって、無理して復帰なんてしなくてよかったのに」

「無理なんかしてません。それに僕、ここ数日で一生分泣いたり喚いたりしましたので……」


 万都里の弁に、五十槻はあくまで「終わったこと」の体で受け答えをしている。彼の中では、香賀瀬修司や神祇研に対する苦悩も葛藤も、すべて終わったこと。そんな雰囲気だ。万都里は介入させてもらえない。藤堂綜士郎のように、五十槻の本音の部分にまで。

 神祇研でのあの晩、香賀瀬修司と相対したとき。綜士郎は五十槻に関して何か、周知できない事実を知っているようだった。脈絡なく香賀瀬の話を急に遮ったり、挙句に彼の言葉を遮断するためだけに神籠を使ったり。五十槻自身だって、禍隠を殲滅したあとの香賀瀬との口論で、彼の放った言葉を打ち消すように落雷を起こしている。

 五十槻も綜士郎も、周囲に何か隠している。隠されている内容も気にはかかるが、万都里にとって最もやるせないのは、蚊帳の外に追いやられているという事実だ。

 神祇研の物置部屋で五十槻と再会したとき、少年は泣きはらした顔をしていた。一生分泣いたり喚いたりした、というのは、藤堂の胸の中でのことではないだろうか。


「ハッ、一生分だと? 一生を舐めるなボケ!」

「ぼ、ぼけ……?」


 いつものように憎まれ口を叩きながらも、万都里の胸の奥にはぎゅっと痛みが走っている。

 獺越万都里は実に子どもっぽい内面を持っている。だからこそ、五つも年下の五十槻を相手に対等な敵愾心を抱いたり、はたまた好意を抱いたりしていたわけで。

 となりから「ぼけなんて初めて言われました」と真面目くさった真顔を向けてくる少年が、万都里にはいまは小憎らしくてたまらない。


「おい……い、五十槻」


 意を決して、万都里はちゃんと名前で呼びかけた。藤堂への対抗心からである。五十槻の紫の瞳が、少々意外そうに見開かれている。


「別に藤堂だけに頼らなくていいんだからな、お前は」

「?」

「オレはお前の同期だ。それに、小学生の頃からお前のことを知っている。だから……お前が辛いときや苦しいときに頼る相手は、オレでもいいはずだ! そうだろうが!」

「獺越さん……?」


 万都里にしては勇気を振り絞った発言であった。しかし、五十槻が綜士郎以外に対して引く一線は、手強い。


「僕のことならご心配なく。獺越さんにこれ以上、ご迷惑はかけられませんから」


 お気持ちだけありがたく、と五十槻は誠意を込めて感謝しつつ、にべもない。


「迷惑とかそういう話じゃない!」


 万都里の語気は強くなる。年上の同期がなぜこんなに食い下がってくるのか理解できない様子で、五十槻は真顔に困惑の色を浮かべるけれど。


「単にオレが、お前に頼ってもらいたいんだよ! オレはお前が好きだか……」


 ら。

 最後の一音を気の抜けた声で発声して、万都里ははたと我に返った。

 勢いで告白してしまった。

 ぼっ、と飴色の髪の下が赤面する。おそるおそる告白相手へ視線を下ろすと、紫の瞳はきょとんとこちらを見上げていて。


「僕も、獺越さんのことが好きです」


 少し嬉しそうな真顔でそんなことを言うものだから、万都里は存在が消し飛びそうになった。

 しかし相手は八朔五十槻。万都里は知っている。浮かれそうな心境の中で、それを思い出している。五十槻の言う、好きの意味なんて。


「獺越さんは同期、同輩、そして友人として、大変好ましい方です。そのような方から同じく好ましく思っていただいて、僕は果報者です」

「だよな! そうだよな!」


 ばくばくと爆音で鳴る心臓を抑えつつ、万都里はハハハと笑い飛ばした。どうせそんなことだろうと思った。彼の猫に似た目元は、ちょっと潤んでいる。


「……ちなみに、藤堂は?」

「はい、大好きです!!」

「やっぱりな! ついでに甲は?」

「甲伍長も大好きです!」

「うそだろなんでだよ! クソッ、甲に負けた!」


 聞かなくてよかったことも聞いてしまい、万都里はすっかり意気消沈である。藤堂のことはともかく、どうして自分は甲精一のことまで尋ねてしまったのか。しかも自分より好感度が高そうなのはなんでだ。

 しかし、いまはいい。精一以下であっても。友人という立場でありさえすれば。


「とにかく、五十槻! オレとお前は友人同士、それは間違いないな!」

「え、ええ……はい」

「友人同士ならば、互いに信頼し合って当然だろう。だから今後、辛いこと苦しいこと、悩みでも困りごとでも、このオレにまず相談しろ! いいか、藤堂より先にだぞ!」

「それは内容によりますが……」


 万都里の勢いに気圧されるように、五十槻は若干しどろもどろ気味だ。けれどちょっとだけ表情を緩ませて、少年は同期で年上の友人をまっすぐに見上げた。


「でも、僕のことを友人と認めてくださって、すごく嬉しいです。獺越さんは、以前から僕には手厳しい方でしたから」

「うっ」

「そのお眼鏡にかなったことは光栄です。これからも、友人としてよろしくお願いします」


 途中、万都里の日頃の行いのせいで良心が痛む発言もあったが。五十槻は少し頬を緩めたまま、彼に向って片手を差し出した。求められるまま、万都里は五十槻の一回り小さな手を取り握手を交わした。

 五十槻は万都里の握手は長いものだと思っている。それをいいことに、万都里はまた長々と彼の手のひらを握っている。


「いいか、オレたちはただの友人同士じゃないぞ。戦友で──親友だ」

「親友……ついに僕にも、そんな間柄の知己が……!」


 万都里も五十槻も、各々別方面で感激している。万都里は少年のきらきらした紫の瞳を照れ顔で見下ろすと、不意にいつもの、意地悪そうな顔と声色になった。


「ま、今のところはな!」

「え?」


 親友の不穏な発言に、五十槻の表情は一気に曇る。今のところ、とは。そう問いたげな少年に、万都里は満足そうな笑みを浮かべた。


「そ……それは、事と次第によっては、友情の関係が解消されることもあり得る、ということでしょうか」

「さあ、どうだろうなぁ?」


 はぐらかしつつ、万都里はまだ握手の手を離さない。

 万都里の魂胆は単純である。まずはおともだちから、ということだ。

 八朔五十槻はまだ未成年。恋愛どころか一般常識にも疎い世間知らずである。つい最近まで、偏った環境で生育されてきたためだ。五十槻が恋愛ごとに興味を持つまで、万都里はそういったアプローチは一切しないつもりだ。さっきフライングしかけたけど。

 万都里が五十槻への思いを成就するためには、いくつも障害がある。まず五十槻は八朔家の嫡男だから、家を継がねばならない。ということは将来女性を娶る必要があるわけで。万都里が五十槻と結ばれるということは、彼を廃嫡させることに他ならない。

 さらに最も高い壁は藤堂綜士郎である。厄介なことに、五十槻から綜士郎へ重い重い感情が向いている。いまのところそれは、恋愛感情ではない、ようだけれど。

 あの明け方、「僕は藤堂大尉の犬です」と言い放ったときの五十槻の恍惚の笑みは、万都里の中では悪夢である。現時点でも、犬を自称するほど五十槻は綜士郎へ万鈞(ばんきん)の忠義を誓っているのだ。その忠義がいつ恋慕に転じても、おかしくはない。

 そもそも、五十槻は同性を好きになることはあるのだろうか。藤堂に対してああなので、逆に万都里は希望を抱いているくらいだ。しかし、藤堂綜士郎への忠義が忠義のままで、万都里との関係が友情のままで終わることも、可能性としてはじゅうぶんにある。

 あとは清澄美千流なんて小娘も、五十槻の周囲をうろうろしている。だがこの小娘はさして脅威にはならないだろう。たぶん。

 これら数多の障害を考えると、万都里にうかうかしている時間はないし、正直焦る気持ちもある。

 けれど、また惚れたの腫れたのも分からない初心な少年に、成人である自分が口八丁手八丁で懐柔して、幼い彼を意のままにするのはいかがなものか。きっと人の好い五十槻は断り切れないだろうし、それこそ香賀瀬修司の手口とさほど変わらない。

 万都里はまだまだ続いていた長い握手の中、五十槻の小さな手をぎゅっと握る。


 オレはこいつが大人になるまで待つ。真正面から口説き落とすのは、五十槻自身が成長して、正しい判断能力を培ってからだ。

 だからいまは、親友同士。いまは。


 万都里の胸中なんて知る由もなく。

 五十槻は珍しくダラダラと汗を垂れて動揺している。獺越さんに親友を辞められたらどうしよう、と。


「ぼ、僕……獺越さんに見限られないように精進します」

「ははは、せいぜい励むことだ。将来を楽しみにしているからな、五十槻!」


 そういうわけでいまのところ、万都里は想いを内に秘めている。そう、決意したはずであった。


「あの、獺越さん……」


 不意に万都里へ向けて、五十槻が口を開いた。珍しく不満げな口調である。


「ところでどうして先程から、僕のことを名前で呼んでくださるのでしょうか」

「あ? それは、えーと……」


 指摘されたのは呼び名だ。五十槻からしてみれば、いつものハッサク呼びが急に呼び捨てになったので、困惑しているのだろう。しかし、問われて万都里も答えに窮している。藤堂に負けたくないから、などと素直に答えていいものだろうか。

 五十槻は万都里の手を握ったまま、ちらりと紫の瞳をこちらへ向ける。うかがうような……上目遣いで。


「僕、獺越さんにはハッサクと呼んでほしいです」


 好いた相手からの上目遣いは、万都里によく効いた。青年は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で動揺している。


「え、いやっ、そのっ」

「だめですか? 獺越さん」

「だめじゃない! ハッサク!」

「はい、ハッサクです」


 やりとりの末、五十槻の真顔ははっきりと喜色を浮かべた。その面持ちをしっかりと目に焼き付けながら、万都里は顔を耳元まで赤面させている。


「いい加減にしろよお前は! かわいすぎるんだよボケ!」

「は? 河合? ぼけ?」

「なんでもない! ハッサク!」

「はい、ハッサクです!」


 万都里の決意は固かったはずである。けれど、もしかしたら砂上の楼閣の如く脆いものなのかもしれない。

 一方の五十槻は、ハッサクと呼ばれて嬉しそうである。いつもの「八朔(ほずみ)です」のやりとりから脱し、たしかにふたりの親密さは少し近くなった……のかもしれない。

 彼らの長い長い握手を、精一が物陰からニヤニヤしながら見守っていて。崩ヶ谷中尉はその隣で、恋愛指南諸々の手段で万都里から金をむしる算段を立てていて。

 さらに別の物陰では、八朔少尉親衛隊の面々が、血走った目で同期たちのやりとりを凝視していた。


「おのれ獺越少尉……いや、当て馬少尉!」

「笑った顔を間近で見たばかりか、八朔少尉の手をしつこくにぎにぎしやがって!」

「あと五秒、奴が手を握り続けたら制裁を加えるぞ」

「五、四、三、二……」


 獺越万都里。あまりにも前途多難が過ぎる恋であった。


      ── ── ── ── ── ──


「それで荒瀬中佐。色々と聞きたいことがあるのですが」


 綜士郎は連隊本部で荒瀬中佐と向き合っている。神祇研での事件を通して、自分が神籠に目覚めた経緯や、五十槻の生い立ちに関して、特大の疑問が残っているからだ。


「神籠を外征に転用しようとする勢力が、八洲国内にいるというお話でしたね。結局、香賀瀬修司はその一派の者だったんでしょう。ひいては、彼が統率していた神祇研という組織自体も」


 荒瀬が『転用派』と呼称している連中だ。以前からそういう思想を持つ者は枚挙に暇がなく、官吏や議員、神事兵含む軍人の中にもそういった主張をする者は多い。けれど、古来から大皇家は明確にこの考えを拒否しており、神籠の異能を禍隠以外へ向けることを厳重に禁じている。

 けれど、外征転用を目論んで実際に行動する者が存在している。香賀瀬修司のように。その結果、綜士郎は神籠に目覚めさせられた挙句、神事兵の将校としていまここにいるわけで。


「俺の──香瀬高早神(カゼタカハヤノカミ)の神籠が連中に求められたのは、理解できます。よく考えるまでもなく、この神籠は侵略に向いている」


 中佐は綜士郎の言葉を聞きつつ、煙管をふかしている。


「けれど、分からないのが八朔の神籠だ。八朔少尉の話によると、雲霞山(くもがやま)の門を破壊する前に、微弱な出力の神籠を使わされ、門の制御を求められたそうです」


 羅睺の門を破壊できるのは、八朔の神籠だけ。

 しかし神祇研は、どうやら破壊以外の用途で八朔の神籠を利用しようとしていた。五十槻が無理矢理身柄を拘束されたのも、おそらくその目的のためだ。神祇研自体の敷地にも門があったことを考えると、妙なきな臭さを感じる。

 荒瀬中佐はいつもの飄々とした面持ちで口を挟む。


「八朔の神籠を用いての門の制御──藤堂くんは、なんでだと思う?」

「なんでって……門の操作を通して、禍隠を制御しようとしたとかですか? 制御下に置いた禍隠を、外国の侵略に利用しようと……」


 綜士郎にはそれくらいしか思いつかない。けれど、中佐は残念そうに首を横に振った。


「いいや。禍隠は絶対に(まつろ)わない。実際、八朔達樹のときに微弱電流を当てて実験したことがあったらしい。禍隠自体を制御することは叶わなかったけれど、門の方は違った。放電を調整することで、休眠状態にできるそうだ。八朔中佐はその後すぐに破壊しちゃったらしいけどね、門」


 っていうのも、この間神祇研から押収した資料でやっと分かったんだよねぇ、と軽い口調で続けて、中佐はもう一服煙管をふかした。


「転用派と、我々神籠の保守派とでは、途中まで目的は同じ……禍隠を討伐し、八洲における彼奴らの絶対数を減らすこと。けれど、その先の目的が違っているんだ。転用派は、ぎりぎりまで禍隠の数を減らした後、一定数を保持しようとしている」

「は? 何のために?」

「神籠という異能の保持のため」


 話の途中で、連隊長執務室の扉が無遠慮に開かれる。割り込んできたのは女の声だ。振り返って声の主を一瞥し、綜士郎はもう一度「は?」と驚いた面持ちを晒した。


你好(ニーハオ)! お久しぶり、藤堂さん!」

「き、清澄京華……!?」


 執務室へ現れたのは、黒い旗袍に身を包む、射干玉(ぬばたま)の瞳の美女──清澄京華である。そして彼女の背後には、なぜか困り顔の御庄軍医も付き添っている。驚く綜士郎に、荒瀬中佐が意外そうな顔をする。


「あれ、藤堂くんお知り合い? 清澄家のご令嬢で、太華で神籠の研究をされていたそうでね。研究成果も十分だから、香賀瀬の勢力を一掃した後、神祇研で勤めてもらう予定なんだよ。御庄さんの推薦でね」

「そうなの、御庄先生の推薦で! ね、センセ?」

「ハハ……」


 京華に機嫌のよい笑顔を向けられて、御庄軍医少佐は乾いた笑いで目を逸らした。なんらかの気まずい事情でもあるのだろうか。あまり詮索したくないと思う綜士郎である。


「いったいどういう人事だ……?」


 なんだか色々、綜士郎の理解を超えた範疇で色々と起きている。美女はおっとりした笑顔で、綜士郎へ勝ち誇るように告げた。


「うふふ。就活大成功~!」



「いやあんた、大成功じゃなくてだな!」


 連隊長執務室を辞して、綜士郎は京華と連れ立って廊下を歩いている。隣を歩く美女はすでに胡散臭いを通り越し、疑惑の塊である。

 彼女の異邦での学歴を考えれば、神祇研への就職はかなり不自然だ。しかも御庄軍医の紹介ときている。

 けれどいま、陸軍は水面下で勢力争いをしている。転用派と、保守派とで。おそらく神祇研には保守派の研究者が改めて雇用されるのだろう。ということは、彼女は。

 しかし何をどれから聞けばいいものか分からない。ぐぬぬと口を開きあぐねている綜士郎へ、京華は助け船でも出すかのように言った。


「……あら、相変わらず分かりやすい顔してるわね。あなたが聞きたいって思ってること、当ててあげましょうか」


 美女はリノリウムの床に小気味よく靴音を立てながら、いきなり核心を突く。


「まず例の領収書。あれは香瀬高早神の資料を探しているときに、偶然手に入れたものなの」


 京華が言うには。八洲の神の伝承やその神實の研究をするため、五瀬県の業者に資料の収集を依頼していたらしい。業者には「明見」に関わる資料、書類、書籍の類があればなんでも送ってほしいと頼んでおいた。手あたり次第に収集を行った結果、件の領収書がたまたま京華の手元へ届くことになった、ということだそうだ。

 説明を聞きつつ、綜士郎の顔は「ほんとか?」と疑念をあからさまに晒している。京華の射干玉の瞳は、それを面白そうに見上げていた。

 領収書の出所に関しては、はぐらされた感を禁じ得ない綜士郎である。しかし。


「あんたやっぱり、俺が明見の血族だと見当をつけて、あの領収書を資料に忍ばせたわけだな?」

「え? あなたあのとき、明見って親族はいないって言ってたじゃない?」


 わざとらしく怪訝な顔をして見せる京華へ、綜士郎は観念しつつ数日前の前言を撤回する。


「……あの領収書の宛名の、明見欣治。あれは俺の父親だ」

「あら、やっぱり」

「やっぱりって……」


 やはり京華は意図して綜士郎へ領収書を渡していた。その結果、綜士郎は香賀瀬修司へ猜疑心を抱くことになる。

 結局あの晩五十槻に起きたことを考えると、遅かれ早かれ、綜士郎は香賀瀬と反目してはいただろうけれど。それでもあの明見欣治宛ての領収書がなければ、綜士郎は香賀瀬から、自らが神籠となるに至った企みを聞くことはなかったかもしれない。


「それからあんた……あの晩、神祇研の敷地にいなかったか?」


 続けて綜士郎が尋ねたのは、事件当夜の京華の所在である。禍隠やら楢井やらとすったんもんだした直後、綜士郎の神籠は捉えていた。神祇研の敷地内で、身を潜めている京華の姿を。

 京華は射干玉の瞳をちらりと傾けて、綜士郎を見上げている。


「そうねぇ……あの日は確か、神祇研で就活してたから」

「深夜にか?」


 綜士郎が京華の存在を捕捉したのは未明のこと。京華は悪びれず「そうね」と応じた。


「……やっぱりその神籠、すごく便利ね」

「不本意だがな」


 それから美女は押し黙る。彼女の美しい(かんばせ)を見下ろして、綜士郎も無言である。

 神實の神籠には美形が多い。五十槻や万都里もそうであるし、綜士郎自身だって神實の系譜だったわけだ。

 そして五十槻の実例を鑑みるに、女性の神籠はあり得ない話ではない。

 京華が神祇研の敷地に潜伏していた当時、周辺には神域(ひもろぎ)が展開されていた。

 それから本棟前で脳卒中を起こした香賀瀬修司にまで思考が及んで、綜士郎はいったんそれ以上の思索をやめた。さすがに神籠での傷害の嫌疑をかけるのは、躊躇するところである。彼女が神籠だという証拠もないのに。


「あんた、神籠の外征転用には反対の立場か?」


 最後に綜士郎は真剣な眼差しと口調で尋ねた。


「もちろんよ」


 京華はそれまでの煙に巻くような態度を潜め、同じく真剣に答える。


「……私は慣れ親しんだ太華に、祖国が惨い手段で侵略をしかけるのを阻止するために帰ってきたんだから。研究者として」


 清澄京華はどこまでも胡散臭い女である。

 けれどなぜか、いまの言葉には真実味が宿っていると綜士郎は感じた。


「……今のところは、神祇研での不法滞在は不問に付してやる」


 少なくとも京華の行動は、領収書の件に関しては外征転用の派閥とは立場を異にしているように見受けられる。綜士郎の容認の言葉に、京華はにんまり笑う。


「うふふ。そう言ってくれると思った。綺麗な顔に生まれてきて良かったわー、ご先祖様に感謝しなきゃ」

「別にあんたの顔の造りで見逃すわけじゃない」


 食えない女だ、と綜士郎はげんなりした。色々と秘密も多そうだし、胡散臭いことこの上ない。

 けれど神籠という異能の扱いに対する思想の方向性は、おそらく綜士郎と同じだ。神籠を侵略の兵器にするか否かという点においては。


「ま、これで私も晴れて軍属ね。これからよろしくお願いします、藤堂大尉」


 清澄京華は、おっとりした顔で妖艶に笑った。


      ── ── ── ── ── ──

──謹啓

  暮冬の節、寒気(ようよ)う和らぎ暖気相催し候。

  先般は御無礼仕り、重々恐縮の上、改めて謝罪し奉り候。清澄殿の御寛恕(こいねが)いたく申し上げ候。


「もお、相っ変わらず堅苦しいわねこの人は!」


 稲塚いつき──いや、八朔五十槻から届いた手紙を、夜半、美千流は自室の洋椅子に腰かけて読んでいる。洋ランプの照らす橙色の光に、いつもの堅苦しい文面が照らされていた。

 あの料亭での騙し討ちお見合いの後。美千流の身辺では、色々と変化が起きていた。

 すでに彼女の軟禁状態は現在解かれている。出かけるときに見張りがつくこともない。

 すべては姉、京華のおかげだった。姉は父の太華における事業の悪事をなにやら掴んでいたらしく、うまいこと弱みを握って妹に対する不当な仕打ちをすべてやめさせた。父は相当とんでもないネタで揺すられているようで、家庭内で姉と顔を合わせる度、「ヒッ!」と青ざめた顔で悲鳴を上げる始末である。

 そんな姉が太華で神籠の研究をしていたなんて、美千流はつい先日初めて知ったし、さらには陸軍の研究所に勤めることになったと聞いて仰天した。この間まで方々の神實華族へ見合いを申し込んでいたと思ったら、である。つくづく身の振り方が予測不能な姉だ。

 そういうわけで、美千流は今はふだん通りの生活を送っていた。櫻ヶ原女学院に通い、放課後には雫らクラスメイト達と甘味屋へ寄り道し、なんてことない日常を謳歌している。

 五十槻との文通も今朝やっと返事が届いたばかり。どうやら白獅子の君はまた大怪我を負っていたらしく、手紙を読み進めて美千流はまたはらはらした。入院の必要が発生し、そのために返事が遅れた詫び言が書き添えられてる。具体的に彼の身に何が起きたのかは、少しぼかした書き方ではあったけれど。

 美千流はまだ医術の勉強を続けている。だから、肝心なときにそばにいられないことが心底悔しいと思った。


(結局、五十槻さんは私には、異性としての興味なんて持っていないんでしょうけど)


 美千流の思い人は、あまりにも鈍感で無垢で世間知らずである。年頃の男女が街で逢瀬することの意味も分かっていないし、悪気なく騙し討ちのような見合いを仕組むし。

 そもそも美千流との友達付き合いがあるのだって、彼からしてみれば妥協の結果だ。いま考えてみると失礼極まりない話であるが。

 それでも。美千流の胸の内では、五十槻への恋慕は已むことはない。何をやっても暖簾に腕押し、糠に釘の、小憎らしい相手ではあるけれど。

 顔はいい。家柄もいい。神籠としての能力も申し分ない。でもそれ以上に。

 無垢で鈍感で世間知らず。


(……私に気持ちが向いてなかったとしても、なんだかほっとけない人)


 手紙を読む限り、五十槻は先日の過ちを心底反省している様子である。美千流だって、感情任せに彼をひっぱたいてしまったからおあいこだ。

 美千流はなんとも言えない気分で手紙をめくる。今回の五十槻からの手紙は、全部で三枚。最初の二枚はいつもの調子のかたっ苦しい候文だったが、最後の三枚目は様子が違う。

 洋ランプに照らされる紙面に綴られている字と文面は、少々たどたどしい口語文だ。

 書かれている文章は少ない。


──また、清澄さんと会いたいです。会って、顔を見て、たくさんお話ししたい。

──僕はよくものを知りません。だから、色んなことを教えてほしい。

──清澄さんのことも、たくさん知りたい。


 え、と美千流は思わず口許に手を当てた。言葉遣い自体は小学生のような幼い言い回しではあるけれど。

 五十槻から自分に会いたいなどと言ってくるのは初めてのことだ。


(これは……もしかすると、もしかするのかしら!)


 美千流の中で途端に期待がふくれあがる。文章は続く。


──今度また、改めてびふてきを食べに行きたいです。清澄さんと。


(五十槻さん!)


 少女は思わず手紙をぎゅっと抱きしめた。ちょっとしわになるけど、仕方ないことだ。五十槻にしては熱烈な逢瀬の要求だったから。

 もしかすると、もしかするのかもしれない。この五十槻の小さな変化を逃さず、食い下がって、彼と関わり続けていけたなら。あの藤堂綜士郎や獺越の次男を出し抜いて……。


 婚約! 結婚! ハネムーン!


 白獅子の君と自分がそうなる未来も、あるのかもしれない。

 ひとり静かに自室で拳を天へ振り上げる美千流である。

 それから少女はもう一度手紙へ視線を落とした。最後の一文をまだ読んでいない。果たして、締めの一行に書かれていた文章は。


──あと、獺越さんも一緒に三人で。


「なんでやねん!」


 令嬢、思わず令嬢らしからぬ言葉遣いと挙動でつっこんだ。おそらくあの朴念仁は、美千流と万都里が知り合い、すなわち交友関係にあると思い込んだままだ。あれだけ犬猿の仲だと説明したにも関わらず。

 美千流はキッと顔をしかめながら、机に向き合った。便箋と万年筆を取り出すと、さっそく荒っぽい筆遣いで返事をしたため始める。

 獺越万都里も含めたビフテキの会第二回は、もちろん出席希望だ。

 あのアホの獺越の次男は、五十槻に対する態度が胡乱である。会ってすぐに未成年略取に走るわ、彼へ向ける目つきがときおり危ういわ。綜士郎の次に捨て置けない相手である。五十槻と同性とはいえ、五十槻の綜士郎に向ける態度を見れば油断はできない。


「フンだ! 五十槻さんのバカ! 人の気も知らないで!」


 手紙を書きながら美千流は憎まれ口を叩く。


「獺越のアホの次男なんか、次のビフテキの会でとっちめてやるんだから!」


 それからそれから。少女は筆遣いは荒いながらも、上品な文章を丁寧な文字でしたためつつ、憤懣のこもった独り言を続ける。


「藤堂綜士郎なんかにも負けないわ、私!」


 清澄美千流の長所は、立ち直りが早く、くじけないところである。


「だから、絶対に振り向いてもらうから! 八朔五十槻!」


 恋敵全員ぶっ倒す!


 決意も新たに、美千流は万年筆を置いた。「よし」と少女は書き上げた手紙を前に息をつくけれど。

 その文面の中に、「お慕いしています」の一文を加える勇気だけは、まだまだ湧いてこないのだった。


      ── ── ── ── ── ──


「……まさか俺の大尉就任後、初めて処理する始末書がお前のものだとはなぁ」


 第一号は絶対に甲だと思ったんだが、と綜士郎は書類を受け取りつつ、ぼやいた。

 提出を終え、執務机の前に立つ五十槻の真顔はなぜか誇らしげである。対して綜士郎は始末書を手に憔悴している。手にした紙束はずっしりと分厚い。始末書というよりも、小説の原稿と言われた方がしっくりくる重量である。


「八朔少尉……これ一体何枚あるんだ?」

「合計五十八枚、総文字数二万百六十三文字です」

「書き過ぎだばかたれ! 査読する方の身にもなってみろ!」

「十分に推敲し無駄を省いたうえでこの文量になりました」

「ほんッッとばかたれ!」


 第一中隊舎の中隊長執務室に、久々のばかたれが響き渡った。五十槻、人生初の始末書は実に超大作である。


「しかし、当時の命令違反の詳細や事の顛末、及び自分の反省点を述べるにあたり、妥当な文字数かと存じます。何卒ご査収を」

「相変わらず生真面目な……少しは甲を見習え!」


 甲を見習え。

 綜士郎もまさか、自分の口からこんな訓戒が出て来るとは思わない。だが五十槻も確かに多少は見習うべきである。あのアホの適当っぷりを。

 甲伍長を? と五十槻は少々首を傾げている。少女は表面上は、いつものクソ真面目融通効かないクソガキ少尉に戻っているようだ。あんなことがあったにも関わらず。


 神祇研の騒動を終え、五十槻は軍務に復帰し、数日が経過している。精励恪勤、神色自若っぷりは以前の通りだ。

 とはいえ、彼女が綜士郎の指示に背いて雲霞山へ赴いたのは事実である。一応けじめはけじめとして、綜士郎は始末書の提出を命じたわけだが。

 こんなに超大作になって返ってくるとは思わない。ぺらぺら紙片をめくりながら「しかもぜんぶ候文かよ」と大尉は若干引いている。


「やれやれ……俺も始末書は書いたことあるが、大体多くとも原稿用紙三枚程度だぞ」

「そうなのですか。これ以上省略できるだろうか」

「いや、いいよ。このまま受け取ろう。書類作成ご苦労だったな、文豪殿」


 綜士郎の文豪殿という軽口に、五十槻はちょっと嬉しそうにしている。真顔の上に浮かぶ喜色を眺めて、綜士郎はなんだか日常が戻ってきたのを実感する。超大作の始末書を眺める彼の眼差しが、少し和らいだ。


 自らの過去を覆す出来事が起きようと、日常は続く。変わり映えもなく、ときに無情に、ときに微笑ましく。


 綜士郎は始末書の束を机の引き出しへしまいつつ、口を開いた。


「よし、それじゃあこれは戻ってきてから読ませてもらおう」

「お出かけされるのですか?」

「飯を食いに行こう」


 夕飯には少し早い時間である。「まだ定時ではありませんが」と生真面目に指摘する五十槻へ「たまにはいいんだよ」と応じ、綜士郎はさっさと椅子から立ち上がって出かける準備を始める。


「行くぞ。今日こそカツカレーだ」



 屋外へ出ると、重苦しい曇天が頭上に広がっている。今の時期の午後四時台にしては景色が暗く、街並みは彩度を失っているかのよう。

 五十槻は中隊の正門を通り過ぎ、綜士郎の後について歩いている。

 藤堂大尉は空を見上げながら「降らないといいな」と雨の心配をしている。その背中を紫の瞳でじっと見つめた後、少女はふと俯いた。

 街はふだんより人通りが少なく、曇り空のせいか影が濃い。容姿のせいで何かと客引きに遭いやすいふたりも、今日は比較的平穏に街路を歩いている。


 今日こそカツカレー。神祇研の後処理やら洋食屋の定休日やらで、食べに行く機会をなかなか持てずにいた大尉と少尉である。綜士郎はここ数日、隙あらば五十槻にカレーを食べさせようと画策していたけれど。

 当の五十槻は彼の後ろで、浮かない顔をしている。たしかにカツカレーは楽しみだ。あのサクサクのカツに、ピリ辛のカレールー。ふっくらした白米。恋しくないと言えば嘘になる。

 しかしそれ以上に気にかかることがある。五十槻は目前の長身の背中へ向けて「藤堂大尉」と呼びかけた。


「どうした?」


 振り向いた青年は、いつもの兄然とした顔だ。五十槻はその様子に、ほっとするような、反面、申し訳ないような心地がする。


「僕は、あなたの部下で心底良かったと思います」


 唐突にそう切り出した五十槻へ、綜士郎は「突然だな」と眉根を寄せ、面差しを困らせている。


「僕は周囲に恵まれました。獺越さんに、甲伍長に、家族に……そしてあなたに。特に、あなたの部下として配属されたことが僕の転機であったと思います。初陣の日に、感謝の言葉をかけられたときから」

「往来で急にする話か、それ?」

「やっぱり、僕の居場所は第一中隊の、あなたの麾下です。それが僕の拠り所です」


 五十槻は綜士郎の隣へ並んで歩きながら、少し苦しげな声音で言う。


「けれど藤堂大尉にとって、神事兵の将校という今のお立場は──あなたの人生が無理矢理捻じ曲げられた末にあるもの……そうですよね?」


 高い位置にある上官の顔を、紫の瞳は窺うように見上げている。心からの憂いと気遣わしさをこめて。

 五十槻の指摘が少し意表をつくものであったのか、綜士郎は少し驚いたような表情を浮かべている。

 少女は続ける。


「僕にとって──八朔の神籠にとって、あなたのいる軍営も神域(ひもろぎ)も、やはりかけがえのない居場所です。けれど、あなたがそこにいること自体が、あなたが望まざる経緯によるもの……」

「…………」

「僕は」


 五十槻は不意に立ち止まった。綜士郎も続いて足を止める。そして問いかける五十槻の声には、強い自責の念がにじんでいた。


「僕は、あなたに残酷な認識を押しつけていませんか」


──僕の居場所は、藤堂綜士郎大尉の御許である。


 あの晩、五十槻は無邪気に自分の居場所をそう認識したものの。

 綜士郎が現在、五十槻の上官という立場にあるのは──過去に、香賀瀬の介入があったからだ。

 自分と綜士郎の境遇は似ている。けれど、やはり違う。

 五十槻は神籠である自身を何より肯定している。

 綜士郎はそうではない。彼は、神籠である自分を──。


「なんだ、そんなこと気にしてたのか? まったく、荒瀬中佐に生涯藤堂大尉の部下にしてくれって願い出といて、今更だな」

「う……」


 五十槻は真剣そのものだったけれど、上官からはまったく深刻さのない苦笑と皮肉が返ってきた。綜士郎は街の風景を眺めながら、苦笑のまま続ける。


「たしかに俺がいまいる立ち位置も、着ている服も、悪い大人に騙された末にあるものだ。俺の人生は結局、香賀瀬修司によって仕組まれた先にある。だからといって、過去は変わらないし、神籠を辞めることもできない」


 それに、と綜士郎は言葉を繋ぐ。

 

「いまの俺には役割がある。絶対に途中で投げ出せない、大事な役割だ。分かるか、五十槻?」

「ええと……」

「お前の上官って役割だよ。なんだ、即答するかと思ったのに」


 言いながら綜士郎はいたずらっぽく笑った。

 

「正直、今回のことで心底軍隊を辞めたくなったよ。この間八朔のお宅へお前を送り届けてから──もしお前が親御さんにすべてを話して、それで説得されて、軍営に戻って来なかったら……俺もこっそり姿を晦まそうかなんて考えたりもした」


 でも、結局五十槻は帰ってきた。軍人として──八朔の神籠として、本分を全うするために。だから、綜士郎も。

 その語りを聞きながら、五十槻は心苦しくなる。それではまるで。

 

「結局あなたを軍人の身分に留めているのは、僕では──」

「そうだよ」


 綜士郎の口調はけろりとしたものだ。「いまさら怖気づくのはなしだぞ」と、上官は重荷を感じさせない態度を継続する。

 

「俺は……お前をこれ以上、大人の汚い裏切りに遭わせたくない」


 藤堂綜士郎は分かりやすい男である。一見冷酷に見られやすい整った相貌、鷹のように鋭い目つき。けれどその顔立ちに表れる表情は、柔らかく、あたたかみに満ちていて。

 彼が本心から言葉を紡いでいるなんて、鈍感な五十槻から見ても丸わかりだ。

 

「五十槻。俺は、お前に……昔の、報われなかった子どもの頃の自分を仮託している」


 上官の正直な吐露を、少女は黙って聞いている。

 

「お前と俺の境遇は似ている。同じ人物に人生を狂わされ、ろくでもない大人に囲まれて、酷い目に遭わされて……。俺がお前にしていることは、本当はあの頃の俺が──誰か、まともな大人にしてもらいたかったことだ。俺はお前に親身に接することで、俺自身を救済しようとしているんだろう」


 綜士郎の口調には、少し自嘲の気配が含まれている。けれど、五十槻はそれでも構わないと思う。自分が、少年だった頃の綜士郎の代替であったとしても。彼から与えられるあらゆる事物や安らぎは、五十槻にとってどれも間違いなく、宝物なのだから。

 

「しかし自分の生い立ちがああだったからこそ、俺はお前を守らねばならん。禍隠からも、お前の身心を省みない大人の思惑からも。お前が八朔の神籠という立場を貫くのなら、俺はずっと隣にいる。神域の内でも、外でも」

「藤堂大尉……」

「俺の居場所も、お前の隣だよ」


 五十槻の懸念を解くような、柔らかい眼差しが降ってくる。

 行くぞ、と声をかけ、綜士郎は再び歩き始めた。五十槻もそれに付き従う。

 少女は内心、うれしくてたまらない。けれど同じくらい、この上官を自らの運命に付き添わせてしまった罪深さも、胸の内にわだかまる。


「僕は……僕は藤堂大尉からもたらされる御厚恩に、いったい何を以て報いればよいのでしょう」


 真面目くさった五十槻の言い様に、綜士郎は歩きながらやれやれといった面持ちだ。

 

「大げさだな。強いて言うなら、ちゃんと毎日よく食べよく寝て、しっかり育て。やっぱりお前は八朔の神籠である前に、一人のただのがきんちょなんだから」

「あなたがそれを望むなら、僕は日々三度の食事と睡眠を欠かさず行うことを誓います。あなたの忠実なる犬として」

「だから犬はやめなさい」


 たしなめるように言った後、綜士郎はふっと笑った。


「やっぱり、五十槻は五十槻だな。生真面目で、素直でさ」

「…………」


 その言葉を受けて、五十槻の歩みは綜士郎から半歩遅れ始める。

 少女の伏せた目線の先に映る、舗装された地面。今まで歩いてきた道のり。

 そうか、僕は生真面目で素直なのか。綜士郎のくれた言葉を胸中で反芻して、どうしてか五十槻は苦しくなる。


 これまでの八朔五十槻は、香賀瀬修司の用意した歪な型枠にぴったりはまるように生きてきた。

 けれど、少女にとっての世界の全てを規定していた恩師は、最初から五十槻を認めるつもりなんてさらさらなくて。自分の形を決めていた型枠に、もう意味なんかなくて。

 神域の内では、揺るぎようもなく自分は八朔の神籠である。けれど、それ以外は。

 本当は、五十槻はやるせなくてたまらない。これまで自分を培ってきたものが、自己を自己たらしめていたものが、無意味だと思い知らされたのだから。

 生真面目で素直。いま綜士郎が挙げてくれた五十槻の性格だって、きっと香賀瀬先生による間違った教育の産物だ。

 でも。


「……大丈夫か? 気分でも悪いか?」


 真顔の僅かな変化を察して、目前の上官は立ち止まって心配そうにこちらを覗き込んでいる。「いいえ」と五十槻はそのあたたかい眼差しをじっと見つめ返した。


──僕は八朔の神籠だ。

──そして、藤堂綜士郎大尉の部下だ。


 いまは新たな自己への規定が、ともすれば頽れそうな五十槻の背筋をまっすぐに支えている。

 あなたが僕を生真面目で素直と評するのならば、僕は自らの内のその部分を肯定しよう。

 その手が、眼差しが、言葉が。触れるものが、なぞるものが、僕の形。僕の姿。

 そうやって僕は新たな自分の形を作っていく──。


 もし、神籠とは関わりのない人生であったなら。

 自分はどんな子どもであっただろう。

 どんな八朔五十槻であっただろう。


 よく笑う子どもであっただろうか。

 どんぐりころころを親兄弟とたくさん歌っただろうか。

 一人称は僕ではなく、私になっていただろうか。

 学校帰りに、友達とあんみつでも食べていただろうか。

 長い髪に矢絣の着物、行燈袴で。女子の装いで。

 乙女らしく、恋のひとつもしていたのだろうか。


 けれど今ここに在る八朔五十槻は、神に選ばれし神籠の将校である。

 少年のふりをして軍服に身を包み、どうしようもない過去を抱えている。

 真顔がちで、生真面目で、素直で。神域(ひもろぎ)の内では何よりも禍隠の血と殺戮を好み。

 そして恋をする代わりに、目の前のいっとう信頼する上官へ、一途な渇仰(かつごう)を捧げている。


「なんだ? 人の顔をじっと見て」


 曇天を背に、鷹のような目元から柔らかい眼差しが落ちてくる。

 五十槻はそれを、日差しを受け止めるようにまぶしく見つめ返している。

 少女は思う。この人ももし神籠でなかったら、どこで何をしていただろうと。大応連山であんなことがなければ、きっと五十槻とは関わりのない人生であったに違いない。

 けれど綜士郎は目の前にいる。

 それぞれの惨い過去が、二人をこの曇天の道すがらへと導いている。

 この縁を尊ぶことは、やはり残酷なことかもしれないけれど。


「……やっぱり僕、藤堂大尉の部下で良かったです。あなたのことが大好きです」

「わ、分かってるって。まったく……路上で突然こっぱずかしいことを言うのはやめなさい」


 面映ゆいのか、視線を逸らして綜士郎は歩みを再開した。五十槻から数歩先を行きつつも、上官の歩幅は少女と着かず離れずの距離を保っている。


──やはり僕は藤堂大尉の犬だ。


 大尉の背中を追いかけて、五十槻も歩く。よく懐いた犬のような足取りで。


──藤堂大尉は、僕のほしいと思ったものをすべてくださる。あたたかな眼差しに、背や頭を撫でてくれる手のひら。優しい解釈に、陽だまりのような居場所……何もかもを。今だって、お辛い気持ちが飲み込めずにいるだろうに、僕のことを案じてくださる。誠実であろうとしてくださる。

──だから、僕も精一杯の忠義を捧げたい。この人が過去に負った傷を帳消しにするほどに、武功(いさおし)も、幸福も、身命も、すべて。


「カツカレー、久しぶりだな。楽しみか?」

「はい、もちろん」

「ははは、そりゃよかった。五十槻、遠慮せず腹いっぱい食っていいからな」


 目当ての洋食屋まで、あと少し。

 曇天下のモノクロじみた景色の中、紫の瞳はまっすぐ綜士郎の背中を見つめている。

 ぎゅっ、と双眸のなかで瞳孔が一際縮まる。


 純情は苛烈にして、渇仰は犬の如く。


──僕はこの人のために、死にたい。


 空を覆う暗い乱雲の内を輝かせながら、静かな稲妻が走った。

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