5-9
九
「…………」
「どうした。帰らないのか?」
八朔の実家まで、辻をあと一つ曲がるだけのところである。
五十槻はふと、街路で足を止めて俯いている。綜士郎はそれを気遣わしげに見下ろしていた。
周囲は静寂に浸っている。
夕闇の街には、瓦斯灯の光が点々と灯っていた。あたたかな橙色の照明によって、少女の顔には軍帽の庇からの濃い影が落ちていた。顔にはまだ、傷や痣の痕が残っている。綜士郎の顔の怪我も同様である。
あれから数日経つ。
綜士郎と万都里、そして五十槻は、神祇研からすぐに病院へ移されて治療を受けた。そのまま入院である。
少女は御庄医師の診察を受けてはじめて、自らの身体に月経という現象が起きていることを知った。医師に言われて厠で下衣を確認した五十槻はまず目を疑ったし、さすがに最初はなんらかの病気ではないかと疑った。けれど御庄が言うには、女性としてはまったく正常な生理現象なのだという。この出血の現象は、今後毎月五十槻の身に訪れるらしい。だから月の物、というのだと。
しかし少女には、自分の身体に戸惑う暇もなかった。疲労から昏睡に至った綜士郎が、そのまま三日ほど目覚めなかったのだ。一日のうちに何度も、脳神経に負担のかかる神籠を使用したことが原因らしい。
五十槻はその間、生きた心地がしなかった。先に治療を終えて退院した万都里に叱られなければ、また食わず眠らずで綜士郎の寝顔を注視し続けていたことだろう。
万都里と精一はなんのかんのと理由をつけて、連日五十槻や綜士郎を見舞ってくれた。不安定な五十槻にとっては心強かったし、なにより有難かった。結局、病室で三人して精一が持ってきた煎餅を頬張っているときに、綜士郎は目を覚ました。
それから御庄医師に聞かされたのは、香賀瀬のこと。
香賀瀬修司はあの直後、神祇研の敷地で脳卒中を発症した。本棟近くで大隊付けの式哨に発見され、そのまま別の病院へ移送されたそうだ。幸い命はとりとめており、現在も加療中だという。
しかしどうやら、もう明瞭に発語ができないらしい。身体にも一生涯、麻痺が残ると。
御庄医師からそれを聞かされて、五十槻は思わず「僕のせいでしょうか」と尋ねてしまった。痛憤のあまり、死に至るほど激烈な頭痛を発症することがある、と聞いたことがあったからだ。御庄は珍しく強い口調で「それは絶対にありえないよ」と否定した。けれど、五十槻の気持ちは晴れない。
こんな天罰のような展開は予想外だった。僕はこれを望んでいたのだろうか、と五十槻は自問した。けれど、元恩師の身に起こったことを思っても、胸がすくような気分には一向になれず。
五十槻はいまも香賀瀬のことが許せない。時間が経てばたつほど、幼いころからの仕打ちや、あの夜にされたことがふと脳裏に蘇って苦しくなる。けれど、自分が結局、香賀瀬にどうしてほしいのか。どうしたら彼を許せるのか。その答えはまったく分からなかった。
同じく香賀瀬の顛末を聞いた綜士郎も、複雑な面持ちを浮かべていた。怨恨と、後悔と、疑念の入り混じった複雑な表情だった。
また楢井信吾に関しては、こちらも別の病院で治療を行っており、治癒の目処が立った時点で神籠用の収容施設へ身柄を移されるという。罪人として扱われるということだ。
五十槻と綜士郎が退院したのは、今日のこと。五十槻は綜士郎の勧めで、数日実家で静養することにした。本当は、すぐにでも中隊での軍務に復帰するつもりであったけれど。
自らの生い立ち、身体の変化、あの夜起こった様々な出来事。五十槻の抱えているものは、あまりにも多すぎた。
「……俺は。お前の親御さんに、ぜんぶ話すべきだと思う」
瓦斯灯の下で立ち止まっている五十槻へ、綜士郎がぽつりとつぶやいた。
「この世の中でお前のことを一番案じているのは、俺なんかじゃない。お前の家族だ」
そうは言いつつも、綜士郎の声音は心配性の兄のような響きである。五十槻は俯きながら応じる。
「……みな、悲しむと思います。僕の生い立ちを知れば」
だから五十槻はたまに帰る実家で、誰にも自分の境遇を話せずにいた。香賀瀬に命じられたから、だけでなく。
特に父はよく泣く。ただでさえ、五十槻が男として生きていることへ、常に心を痛めている。これ以上負担はかけたくない。
そんな五十槻の背中に、大きな手がそっと添えられた。
「お前に対する愛情が深いからこそ、悲しいと思うんだ。五十槻。八朔の家こそ、間違いなくお前の居場所だよ」
「…………」
少女は逡巡している。きっと、綜士郎の言う通りだ。これまでも、八朔家の面々と顔を合わせる度、父や姉、継母は五十槻の身心を案じてくれる。大怪我をしたときだって、五十槻のために心配してくれたり、泣いたり怒ったりしてくれた。家族の愛情は綜士郎の言う通り、疑うべくもない。香賀瀬修司とは、違う。
けれど。
「……僕の身に起こったことを、すべて話すかどうかは……いましばらく考えます」
結論を保留する五十槻に、綜士郎は「そうか」と優しい眼差しを落とした。
綜士郎はもう自身の考えを五十槻へ押し付けない。命の危険が迫ったときは別として、最大限五十槻の意志を汲んでくれる。やはり香賀瀬修司とは、違う。
「カツカレーはまた今度だな」
軍帽ごしに、綜士郎が五十槻の頭をぐりぐりと撫でた。ちょっと乱暴な仕草を終えて、綜士郎が「行くぞ」と先に歩みを進める。五十槻もそれに倣って歩き始める。
五十槻が家族へ、起こったことを洗いざらい話せばどうなるか。
綜士郎も、その先が分からないわけではない。もちろん五十槻の言う通りきっと悲しむだろうし、甚だしく憤ることだろう。ひょっとすると、八朔の当主は家族と五十槻を連れて失踪するかもしれない。少なくとも、なんとしてでも軍営から娘を引き離そうとするだろう。五十槻自身がそれに従うかは、なんとも言えないが。
ともかく少女が長年にわたって受け続けた仕打ちは、情深い家族にそう決断させ得るくらい残酷なものである。
成り行き次第では、五十槻は第一中隊に帰って来ないかもしれない。
もしかしたら、カツカレーをともに食べる日も、もう来ないかもしれない。一生。
一歩先を行く綜士郎が寂しげな顔をしていることを、五十槻は知る由もない。少女は胸中で、すでに決断しかけている。
「ちょっと、藤堂さん!」
八朔家の玄関で、さっそく綜士郎は怒られた。五十槻が顔面に傷やら痣やらをこさえているのを見て、迎えに現れた姉ふたりはとんでもない剣幕である。
使用人や近所の目もあるからか、皐月と奈月は声量を落としつつ、けれど鼻息荒く凄みつつ、綜士郎へ詰め寄った。
「どうしてくれんのよ、女の子が顔に傷なんかつけちゃって……ひどい痣まで」
「相手が禍隠とはいえ、もう少し安全の配慮ができないものですか」
姉ふたりは、綜士郎が五十槻の性別を知っていることを把握している。最初はやたらめったらな美男が男装の妹に絡んでいるのであらぬ疑惑を持っていたようだが、五十槻が常々綜士郎の人柄を懇々と聞かせ続けた甲斐があり、いまではそこそこの信用を獲得するに至っている。
姉たちは今回の怪我を、禍隠討伐に係るものだと思っている。そんな彼女らへ綜士郎は、「申し訳ない」と真摯に頭を下げている。
「違うんです、皐月姉さま、奈月姉さま」
五十槻はやりとりに割って入った。それから少し、暗い面持ちの真顔で言う。
「……僕の不注意のせいです。僕が、禍隠の群れへ突出したから。それで、怪我を」
禍隠の群れへ突出したのは確かに事実ではあるが、それが怪我の原因というのは大嘘だ。
たどたどしい偽りを口にする五十槻に、姉ふたりは妹が性別以外で嘘を言うわけないと、素直に言い分を信じている。
「まあ、藤堂さんも怪我されてるし……」
「次から、気を付けてやってください。まだ、子どもですし……女の子だし……」
綜士郎の顔は五十槻に対していかにも「いいのか?」と言いたげである。五十槻は「いいんです」とでも言うような真顔を向けた。
五十槻は家族へ真実を打ち明けるか、回答を保留している。綜士郎も、勝手に自分の判断で真実を告げるようなことはしない。
それから玄関で二言三言会話して、綜士郎は第一中隊の宿舎へ帰っていった。今生の別れになるかもしれない「おやすみ」を五十槻へ告げて。
それから。いつになく悄然としている五十槻を、八朔家の面々は見守りつつも、そっとしておいてくれた。
五十槻は父母の部屋にいる。前と同じく、継母の小用の間、弟の子守りを任されている。
弓槻は座布団の上で、健やかな寝息を立てている。
──弓槻はいいなぁ。
不意に胸中に、そんな言葉が浮上した。生まれた時から父と母がそばにいて、愛されて。そんな弟を、五十槻は羨ましいと思っている。
もし。自分が生まれてすぐに、祝部に引き取られなかったら。香賀瀬修司の管理下にいなければ。
ずっと家族のそばにいて、愛情を一身に受けて育っていたら、どんな子どもになっていただろう。
どんな八朔五十槻になっていただろう。
「どんぐり、ころころ、どんぶりこ」
歌は口をついて出た。寝ている弓槻の小さな手にそっと自分の指を重ねながら、兄の顔をした姉は、お気に入りの童謡を子守唄代わりに歌っている。
思い出すのはあの懐かしい景色だ。黄金色の銀杏の葉を踏みしめながら、どんぐりを拾いつつ。誰かと一緒に、どんぐりころころを口ずさむ記憶。
ふと、その景色が神祇研ではないことに気付く。研究所の敷地に、確か銀杏の木は植わっていなかったはずだ。
五十槻は香賀瀬修司と、どんぐりころころを歌ったことがある。一度だけ、ひと節だけ。そういえばそれは確か、神祇研本棟の、殺風景な部屋の中でのことだったはずだ。
(僕は、香賀瀬先生にもう一度、いっしょに歌えてもらえそうな気がして……)
幼児の五十槻は、ずっと待っていたのかもしれない。時々優しい目をしていた先生が、また戻ってくることを。
自分が八朔の神籠になる前の、さほど怖くなかった頃の先生に戻ることを。
けれどその日は結局来なかった。十年以上、いい子にして待ち続けていたのに。
「おいけにはまって、さあ、たい……へん……」
憂鬱な気持ちが、歌詞を途切れ途切れにさせてしまう。
けれども──それでは、金色に広がる銀杏の葉の記憶は、いったいいつの、誰とのものだろう。
「どじょうが出てきて、こんにちわ~」
不意に部屋の襖が開いて、父がにこやかに歌いながら入ってきた。後ろには継母の和緒も一緒にいる。
父は五十槻の傍へ座ると、嬉しそうに話し始めた。
「ぼっちゃんいっしょにあそびましょう、と。いやぁ、懐かしいなぁ。昔、お前に会いに百雷の山へ行って、一緒に歌ったものだ。覚えているかい、五十槻」
「…………」
五十槻はしばらく言葉が出なかった。いま思い出していた記憶は、もしかして。
「……父上。もしかしてずっと昔に、僕とどんぐりを探しながら、歌ってくれましたか。黄色い銀杏の葉を、踏みながら」
「よく覚えているね」
満面の笑みを向ける父に、五十槻は鼻の奥がツンと痛くなった。
「この歌を教えてくれたのは、父上ですか」
「確か、そうだったなぁ。小さい頃の五十槻は会いに行くたび、どんぐりころころを歌ってくれたんだよ。可愛い声で、でもラ行が言えなくてね。どんぐいこおこお、って歌っていたのを、今でも思い出すよ」
「そう、だったのですね……僕は……」
言いながら五十槻は俯いた。言葉尻が嗚咽に変わってしまう。和緒がそっとそばに座って、優しく背中を撫でてくれる。
藤堂大尉とは、また違う柔らかい感触と温かさだ。その優しさに押し負けるかのように、五十槻の頬へ涙が伝った。
「僕は……景色と、歌を歌ったことは覚えていて、でも、誰との思い出かは、覚えてなくて……」
「うん、うん」
親子は、普段の泣き虫と聞き役が逆転している。泣きながらたどたどしく話す娘の髪を、父は優しく撫でていて、継母は背中を労わるようにさすっている。弓槻は姉の潤声を気にする風もなく、くうくうと眠ったまま。
「父上、これ……」
続けて五十槻が軍服のポケットから差し出して見せたのは、小さな子供用の小刀だ。柄の部分に、「ホズミイツキ」と彫刻されている。それを見て父は「懐かしいなぁ」と微笑んだ。小刀は五十槻の手のひらの上で、ぽたぽたと滴るあたたかい雫を受け止めている。
「小さい頃に失くしたと思っていたんです。けれど最近、同期の方が見つけてくださって……」
「そうか……。ふふ、有難い縁だね。五十槻も、私が贈ったものを気にかけていてくれていたんだね」
「父上……」
「ありがとう……五十槻」
父からの慈愛に満ちた眼差しに、五十槻の頬をより一層の涙がこぼれていく。ぽろぽろ泣いている娘をそっと抱き寄せて、父は温かい手のひらで、愛おしそうに頭を撫でてくれた。
「僕……僕、よかったです。ちゃんと、思い出があって……お父さんとの、大事な……」
「五十槻……」
ついに父の声も湿り始めた。
きっと、怪我の痕がたくさんある五十槻の顔を見て、内心ものすごく心配しているだろう。
けれど娘の気持ちを慮ってくれているのか、父母は何も言わない。ただ寄り添ってくれている。
継母は──母は、そばでずっと、五十槻の背中をさすってくれている。本当の母のように。
「お父さん……お母さん……」
少女は幼子のように泣いている。ただただ、家族のあたたかさに包まれていることが、こんなにも胸を満たしている。
五十槻の漏らした言葉に、母も声を詰まらせながら、嬉しそうに言った。
「やっと、お母さんって呼んでくれたね。五十槻さん……」
その一言で、五十槻はよりいっそう泣き崩れた。思わずしがみついた母の膝は、あたたかい。
「五十槻。思い出なら、これからもたくさん作れるさ。私とも、お母さんとも、他のみんなとだって」
お父さんが震える声で、けれど励ますように言った。お母さんもうんうんと、涙をこぼしながら、嬉しそうにうなずいている。
もし、こんなにあたたかい家族に、最初から囲まれていたならば。
自分はどんな子どもになっていただろう。
どんな八朔五十槻であっただろう。
「叶うことならば……ずっと一緒にいよう、五十槻」
襖越しに様子を伺っていたふたりの姉も、声を潜めてさめざめと泣いている。
弓槻は相変わらずすやすや眠っている。寝顔は少し、微笑んでいるようであった。




