5-8
八
くだらない。まったくもってくだらない。
香賀瀬修司は衆目を掻い潜って、ひっそりと場を後にしている。
──なにが許さないだ。なにが徒労だ。育ててやった恩を、何もかも仇で返しおって。
──私を差し置いて、女の身で神籠になりおって……!
香賀瀬は当代の八朔の神籠が荒ぶる様を目に焼き付けてもなお、現状を認めることができなかった。
女。男より劣る者。神の代となるには穢れた者。
神籠になれるのは男だけだ。男子だけが認められるべきなのだ。女より、優れた者である男子のみが。
でなければ選ばれなかった自分が、あまりにも報われない。
女の神籠など認めない。絶対に。
正門へ向かう足取りは苛立っている。
研究所の本棟近くで、香賀瀬は人影を見た。強い暁光が作る濃い影の中に佇んでいるのは、ちょうど憎いと思っていた女の身体の輪郭だ。
「誰だ! こんなところで何をしている!」
苛立ちのまま、香賀瀬は声を荒げた。神祇研に女性の職員はいない。明らかに不法侵入である。
女は何も答えない。日陰の中で、美しい顔の中の唇が弧を描く。ぞっとするほど冷淡な笑みだ。
ふと、香賀瀬は下半身に違和感を覚えた。スーツのズボンにぬるい感触が広がっている。
視線を足元へ落として、香賀瀬はようやく気付いた。自分は失禁していると。
「は……?」
「おはようございます、香賀瀬先生。お久しぶりですわね」
香賀瀬が自らの意志に関係なく放尿しているさなか、女は影から姿を現した。
黒い太華風の衣装に身を包み、長い髪をゆるくまとめている。昨晩、研究所へ再来した香賀瀬の前へ現れた、あの夜鷹だ。世が世なら傾城と謳われるような美女である。
神祇研の所長は混乱している。失禁は止まらず、目の前には嫌な感じのする美女が佇んでいる。
美女はせせら笑うような顔を香賀瀬の股間へ向けると、視線を上げて彼と目を合わせた。射干玉の目は底知れない色を湛えている。
「……残念。覚えてらっしゃらないようね、私のこと。しょうがないわ、だって十二年も前のことだもの。あの頃あなたは色々あったでしょうしね。大応連山のことに、八朔の神籠のこと」
「お前は……」
射干玉の視線は冷たい温度で香賀瀬を射抜く。
「藤堂綜士郎、八朔五十槻……あなたに人生を破壊された者は、彼らだけじゃない」
続けて美女は名乗る。「清澄京華」と。
「清澄……!」
「思い出していただけて光栄ですわ。あなたにとっても私にとっても、最悪の思い出をね」
香賀瀬の失禁は止まらない。すでに命を危ぶむ量の水分を放出している。すでに下半身は尿でずくずくに濡れていて、それを五十過ぎの男はわなわなと震えながら見下ろすばかり。
「お、お前の仕業か!」
慄いた声の叫びに、京華は冷笑を崩さない。
「いますぐこれをやめろ! おい!」
紳士が歩み寄ると、ずぶ濡れのスーツとぬかるんだ地面でぐちゅぐちゅと水音が立つ。そんな無様な姿を一笑し、京華は再び口を開いた。
「おかしなことを仰いますわ先生。女は神籠になれない、そうでしたわよね?」
「だが、お前は……!」
「本当にどうかしてらっしゃいますわね。私を神籠ではなく、ペテンだと認定なされたのは……あなたご自身ではなくて?」
京華は淡々と説明口調で語った。感情の抑揚のない声へ、果てしない恨みを忍ばせて。
「十二年前。神籠の力に目覚めたと申告する少女がいた。先祖ゆかりの地の川で水遊びをしていた妹が溺れかけ、それを救おうとして。目撃者は当時三歳の妹のみ、両親も半信半疑でその少女の身柄を検査のため、当時の陸軍神祇研究所へ預けることとなった……」
京華の言う「少女」は、神祇研の中で手酷い扱いを受けた。まるで公安の尋問である。苛烈な詰問を行った筆頭が、香賀瀬修司だった。
神籠の資格を有するのは男子のみ。
その一点を根拠として、香賀瀬は絶対に少女の言い分を信じなかった。
少女はせめて異能を試す場を設けてほしいと懇願した。自分が言っていることが正しいと、どうしても証明したかったのだ。
香賀瀬は願いを聞き届けた。少女の神籠は、水を司る神籠であると申告されていた。
実験は神祇研本棟の屋上で行われた。用意するのは、少女本人と──洗面桶一杯分の水。
香賀瀬は少女に、屋上から飛び降りるように命じた。真に神籠が使えるのならば、その洗面桶の水を操作して緩衝の用途に用いることで、着地の衝撃を和らげることができるだろう、と。
果たして、少女は──清澄京華は、三階建ての神祇研の屋上から洗面桶と一緒に飛び降りて、命を危ぶむ大怪我を負った。そのときの後遺症で、少女は一生子を成すことができなくなった。
結局、洗面桶の水は何の役にも立たなかった。清澄京華の記録は、ただのペテンとして残されることになる。
その後、少女は神祇研の言い分を信じた父により、怪我からの回復後、八洲国からの出奔を命じられる。
清澄家の恥さらしとして。本当のことを誰にも信じてもらえぬまま。
「でもね、香賀瀬先生。私思うの」
京華は冷笑を保ったまま言う。
「香賀瀬家が奉ずる多津河淵深水神は水神でしょう。当時の私が吹聴していた神籠と同じく。だから、水の神籠にも多少明るかったはずですわよね? 洗面桶程度の水量では高所落下からの緩衝材に足り得ないことなんて、もしかして知ってらっしゃったんじゃないかしら?」
「は、はぁ……はぁ……」
香賀瀬の放尿は止まっているが、今度は異様な発汗が始まっている。二月の寒い冬の朝に。喘ぐような呼吸は、何かを抗弁をしそうではあるものの、そんな余裕はないようだ。
「そもそも八洲の神籠が男子にしか許されないなんて詭弁だわ。私、太華で読んだの。この国で禁書扱いにされた種々雑多な古記を」
太華には他国から様々な書籍が集まってくる。八洲の歴史や──政府に都合の悪い書物も。
「古代には女子の神籠はごく一般的であったはずよ。巫女や斎女と呼ばれ、男子の神籠と同じく禍隠を祓っていた。多数の書物にそう記されていたし、太華の史書にも引用があったわ。八洲ではなぜか、知られていないみたいだけれど」
「そんなものは偽書だ! 後代の好事家が書いたようなでたらめだ!」
「ふふ。身近に確かな実例が二例もあるのに、お認めにならないのね」
京華の背後で、クヌギの木がざわざわと揺れた。
「……素直にお認めになれば、我が神ももっとお楽な譴罰をお与えになったのかもしれないけれど」
そして美女の口調は無慈悲に告げる。香賀瀬の漏らした尿の水たまりへ、ふるりと波紋が広がった。
「や、やめろ……なにをする気だ」
「あら、私は神籠でないのだから、怯えになることはないんですのよ香賀瀬先生。でも、我が清澄の産土は──八津曲水早神は、どう思召されるかしらね?」
京華はにっこりと笑う。その瞬間。
「あァッ!」
香賀瀬修司の頭部へ……脳の奥深いところで、破滅的な激痛が起こった。内側から頭を破壊せんばかりの激しさに、香賀瀬は倒れ込み、小便の上でのたうち回る。
「あー! あああああ!」
「ふふ……神様はきっと、命までは取らないわ」
八津曲水早神の権能は、水を──流れを司ることである。
かの神の神威であれば、体内の血流を操作することも容易いことなのかもしれない。
無論、脳の血管の血流を滞らせることも。
やがて香賀瀬は沈黙した。無上の疼痛の後、紳士は尊厳の欠片もない姿でただビクビクと痙攣している。
「……あなたは今後、明瞭な言語を話すことはできなくなる。身体にも障害が残るでしょう。そのうえで将来、然るべき裁きを受けていただきたいものだわ」
脳卒中の症状を示す彼を見下ろして。京華は無表情でただ佇んでいる。
八洲へ帰国した目的のひとつはこのため。香賀瀬修司へ、復讐を果たすために。婚活や就活などと、ちょっと回りくどい道を選んではみたけれど。
神祇研へ神域が張られる今回の件は真に好機であった。
香賀瀬修司はあくまで脳卒中患者である。彼はすでに発語の能力を失っており、また筆談もできぬほど手指の神経にも障害を負っているはずだ。京華の関与を自発的に指摘できるはずはなく、もし何らかの手段で彼女へ弾劾の矛先が向いたとて、そもそも彼女が神籠でないことは、過去に香賀瀬自身が公的に認定している。
清澄京華が神籠であるならば、これは完全犯罪たりえる行為である。
だけれども。
「あら……まさかあなたに見られてしまうなんてね」
建物の陰からこわごわとこちらを見つめている人物へ、美女はおっとりとした笑みを向けた。
そんな彼女に観念したように、盗み見ていた人物がしょぼくれた動作で進み出る。
「お久しぶりですわ、御庄先生!」
「う、うわぁ……京華ちゃんかい。元気そうでなによりだよ……」
最大限に引きつった笑顔で現れたのは、御庄軍医少佐だ。
五十槻の犬宣言のさなか、人知れず場を離れていった香賀瀬を追って探しにきたはいいものの、とんでもない場面に遭遇してしまった軍医である。
そしてのっぴきならない場面を見られたにしては、京華は人懐こい面持ちで御庄のそばへ駆け寄った。
「うふふ! 先生に命を救われたおかげで、この通り元気はつらつですわ!」
「いやぁ、こんな状況じゃなけりゃ喜ばしいことなんだけどねぇ……」
御庄は物凄く困った顔で香賀瀬を見ている。膀胱や汗腺から過剰に水分を分泌し、さらにおそらくは脳障害を起こしているような有様だ。
御庄医師は確信している。これは、神籠による加害であると。
「ねえ、御庄先生?」
京華は旧知の医師へ、婀娜っぽい仕草で自分の唇に人差し指を当てて見せる。
「ぜひこのことは、ご内密に」
「えーと……」
御庄康照は十二年前、清澄京華にまつわる事件に関係している。だから、彼女に関するあらましも知っていて。
「ちょっと御庄せんせーどこー? いつきちゃん診てあげてー!」
そのとき折悪しく、彼方から響く甲精一伍長の大音声。御庄医師は心底困った顔で「困ったな」とつぶやいた。
目の前には脳卒中の症状を示す香賀瀬修司。
とんでもない秘密の共有を迫る清澄京華。
なにかしら体調に異変があったらしい八朔五十槻。
「御庄先生、あの子を診てあげて。香賀瀬なら死なないから大丈夫」
「はあ、きみがそう言うんならそうなんだろうね。やれやれ、厄介だ。何もかも……」
観念したようにため息を吐き、御庄は踵を返した。五十槻の診察に行くのだろう。香賀瀬を放置したということは、京華のことは見過ごしてくれるらしい。
医師の背へ京華は「いっちゃんをよろしくね」と声をかける。聞こえているのかいないのか、御庄は髪をかきむしりながら行ってしまった。
「……ごめんねいっちゃん。いっちゃんの先生、私が半殺しにしちゃった」
京華は神祇研の本棟を振り仰ぎながら、独り言ちた。
十二年前。当時三歳の八朔五十槻はこの建物にいた。
香賀瀬による度重なる執拗な詰問で心神耗弱を起こしていた京華の前へ、男児の姿をした童女は突然現れた。
幼児は終始真顔で、寝台で泣いている京華へ話しかける。
──おねえちゃんこおごなの?
──いっちゃんもね、ほずみのこおごになるんだって。
──あのね、いっちゃんほんとはおんなのこなんだよ。ないしょだよ。
──どんぐいあげる。どんぐい、こおこお、どんぶいこおー。
妹と同い年くらいの子どもが、舌足らずな声で慰めるように歌った童謡を、京華は昨日のことのように思い出せる。おそらく京華が泣いている理由を子どもなりに察して、わざわざ自分の性別を明かしたのだろう。
だから数日前に再会したときは悲しかった。八朔五十槻は身も心も男性として振る舞っていたから。香賀瀬の教育が成功してしまったことが、なにより悔しかった。
女性の神籠を絶対に認めない男のもとで育った神籠の少女が、どんな生育課程を経たかなんて、京華は考えたくもなかった。
また、京華のことは否定しつつ、同時に神籠候補の女児を育成しているらしい神祇研に、当時京華は少女ながらに不信感を抱いたものだった。後年の太華での研究で八朔の神籠の特殊事情を勘案して、その疑問はやっと解けたが。
それにしても、気にかかるのは先刻の迅雷だ。この神祇研究所の敷地で、五十槻は何を思ってあの荒々しい雷鳴を起こしたのだろう。
(美千流も厄介な人を好きになったものだわ。性別も生い立ちも、何もかも……)
どんぐりころころ、どんぶりこ。
口ずさみながら、京華は悠々と歩き始める。
太華の衣装を着た美女はまるで散歩でもするかのような足取りで、人知れず去っていった。




