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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
71/116

5-7


「五十槻! 五十槻!」


 綜士郎は部下の名を叫んでいる。戦いは一切危なげなく、終始八朔の神籠の圧倒的優勢だった。見ている限り目立った負傷もないはずだ。けれど、けれども。


「五十槻、このばかたれ! なんて無茶を……!」

「ハッサク! おい! 返事をしろ!」


 万都里も同期の姿を探して絶叫している。

 すでに満月は傾ぎ、空は白み始めていた。

 不意に。少女は薄明を背に、高々と積み上がった禍隠の屍山を踏みしめて現れる。


「五十槻!」

「はぁっ、はぁっ……!」


 荒い呼吸を押さえつけるように、少女は軍服の胸元を抑えている。息苦しさがもどかしいのか、震える指が白獅子の面を引きはがすように外した。そしてかすれる息切れの次に、五十槻の喉から迸ったのは。


「はっ、はははははは!」


 叩きつけるような、哄笑。

 駆け寄ろうとした上官と同期が、びくりと動きを止めた。屍の山の上から響き渡る夜叉の高笑いに、周囲は一様に戦慄している。


「御覧になられましたか、香賀瀬先生! 僕が八朔の神籠である証を!」


 夜叉はまだあの眼で笑っている。屍の山から睥睨する養い子を、香賀瀬は遠くからただ、虚ろな目で見ていた。


「どうしてこんなに簡単なことが分からなかったのか……僕は自分で自分が残念でなりません。けれど、それほどまでにあなたは僕を支配し、縛っていたのですね。思考を、観念を!」


 綜士郎が責めるような視線を香賀瀬へ向けた。香賀瀬はただ、黙っている。

 いつになく饒舌な五十槻の弁は続く。少女はまだ胸元を抑えている。昂る拍動が抑えられなくて。愉悦が止まらなくて。


「いまもこの身の内を、歓喜の残滓が駆け巡っている。禍隠を屠り、羅睺の門を破り、邪なものを殲滅する悦びに僕は打ち震えている。我が一身に宿る神の意が、血潮に荒れ狂う迅雷が、この僕を強烈に定義している──八朔の神籠であると!」


 紫の虹彩の中心で、点と化した瞳孔が香賀瀬を凝視している。


「いくらあなたが出来損ないと蔑んだところでそれは変わらない。あなたに八尋八十尋(やひろやそひろ)を灼く霹靂が起こせますか! 五百(いお)千五百(ちいお)に群がる禍隠を斬り裂けますか! 八朔達樹の跡を継いだのは他の誰でもない……この僕だ!」


 愉悦は次第に怒気を孕み始める。香賀瀬は項垂れて震え始めた。傍らでしゃがんでいる精一が、細めた目で彼に傍観の眼差しを注いでいる。


「いま思えば、なんて簡単なことに気付かなかったのでしょうね、僕は。八朔の者でもないあなたに、どうして八朔の神籠の資質を判ずることができるのか。祝部でもなんでもないあなたに」


 屍の山の麓で、綜士郎が万都里へ「来い」と声をかけている。「うるさい指図すんな」と万都里が応じ、二人して禍隠の骸を登り始める。足場が悪く、登攀は若干難儀している。精一も香賀瀬を放置して腰を上げた。


「先生の示す風格、人品、資質、身体の特徴……そんなものに関係なく、九年前に百雷で儀式を受けたときから、僕はまごうことなき八朔の神籠だった。僕の(こたえ)は、そのときすでに遂げられていたのに。僕はありのままで、あなたに認められるまでもなく八朔の神籠であったのに。あなたは幼い僕を(さいな)め抜いて価値観を歪め、八朔の神籠というすでにある解を、あなたの恣意的な虚像へとすり替えた」

「…………」

「そして僕がどれだけあなたの示した虚像を追い、肯定を求めても、あなたは絶対に僕をお認めにならなかった」

「…………」

「先生、そもそも僕をお認めになる気はなかったのですね。僕は今日、あなたが命じた不可逆をも受け入れようとしたのに、直後に先生は、最悪の形で僕の身心を踏みにじろうとなさった。やはりあなたは僕に対して何の情愛も持たず、存在を認める気などさらさらなかったのです。僕にとってあなたと関わった十数年は……まったくの徒労だった」


 香賀瀬はただ一言、うるさい、と小さく叫んだ。それ以上に言い返せない。五十槻は続ける。震える声で。


「僕はやはりあなたを許せない。僕の自我を奪い、時間を奪い、尊厳を奪おうとしたあなたを。あまつさえ……僕の大事な人の人生まで、踏みにじって──!」

「黙れ!」


 香賀瀬が嫉妬に歪んだ顔を上げた。そしてなけなしの侮蔑を、大声で言い放つ。


「黙れ、何が許せないだ出来損ない! 神籠としてあるまじき、おん……」


 いかん、と綜士郎が神籠を発動させる前に。

 香賀瀬の至近距離へ、がぁん、と一際大きな落雷が落ちた。侮蔑は轟音にかき消される。


「僕の居場所は奪わせない」


 五十槻の口調は完全に嚇怒(かくど)している。


「僕の居場所は皇国陸軍中央第一師団神事兵連隊麾下、皇都守護大隊第一中隊隊長、藤堂綜士郎大尉の御許(おんもと)だ! まかり間違っても、あなたの支配下である神祇研究所ではない! 僕は当代の八朔の神籠にして皇国陸軍少尉、八朔五十槻! 僕は……僕は!」


 そこでやっと、綜士郎と万都里が屍の山の頂上へ到達する。興奮している五十槻へ、「おい、落ち着け」と綜士郎が後ろから手を伸ばすけれど。


「そして僕は──藤堂大尉の犬だ!」

「は?」


 犬。

 宣言はあたり一面へ響き渡った。それこそ雷の如く。

 眼下であくびをかみ殺していた大隊精鋭が。心配して様子を見に来た御庄軍医少佐が。

 五本目のたばこをふかしていた荒瀬中佐が。なとなくその場に留まっていた神祇研の警備隊が。

 怒りと嫉妬で震えていた香賀瀬が。

 一様に唖然としている。精一だけが屍の山の中腹で「わん?」と一言ふざけている。

 当の綜士郎は五十槻へ手を差し伸べた体勢で静止していて、万都里はそんな彼へ「おい」と胡乱な視線を投げかけている。


「そう、僕は藤堂大尉の犬である!」


 五十槻は止まらない。香賀瀬への糾弾から、話の流れは妙な方向へかっ飛んでいく。

 けれど少女は真剣である。夜叉の瞳はにわかに恍惚の色を宿して、背後の飼い主を──綜士郎を仰ぎ見た。


「先刻の大規模な殲滅で、僕は改めて思いました。大尉とともにある神域は、春の陽だまりのようにあたたかであると。あなたのいらっしゃる斎庭(ゆにわ)を駆け巡る僕は……まさしく犬でありました」

「落ち着けばかたれ」

「僕は至極冷静です」


 明らかに冷静じゃねえよ、と万都里が苦い表情でやりとりを見守っている。

 東の山際から曙光が差してきた。清冽な光が、自称犬の面持ちを照らしはじめる。


「このような喩えを大尉が好まれないのは百も承知です。けれど僕は、あなたへ向かうこの気持ちを犬としか表現できません。美味しいごはんを与えられ、背を撫でられて、あたたかい居場所を作ってもらえて。その恩義に応えたく思う僕の衷心はやはり、犬なのです」


 犬。犬はやはり、五十槻自身の思慕の形態を表すのに最適の言葉である。この純粋な憧憬を──渇仰(かつごう)を。

 五十槻の独白を、綜士郎はなんとも言えない顔で聞いている。眼下から集まる視線が痛い。


「藤堂大尉のためならば、僕は牧羊の犬にも、狩猟の犬にもなりましょう。我が雷を(あぎと)となし、震霆(しんてい)を咆哮となし、この刀を爪牙となし。禍隠どもをひとところへ集め、屠り、食いちぎり、あなたのために鏖殺の限りを尽くして見せます。狂犬の如く、忠犬の如く」


 少女の瞳はやはり、夜叉の瞳のままで。薄紫の中の黒い点のような瞳孔が、綜士郎を捉えて離さない。


「僕は八朔の神籠です。この身の内には禍隠を殺傷せんと滾る欲が、暴雷の如く荒れ狂っている。おそらくこれが、祓神鳴神の力を継ぐ者の本性。僕はあなたにこの暴雷を……」


 昇る朝日が五十槻の紅潮した幼顔(おさながお)を、宵闇からいっそう鮮やかに輝かせた。


「この滾る暴雷を、御してほしい。首輪をつけて、鎖につないで」


 五十槻のほんのりと笑んだ顔は、血に酔い痴れる修羅のようでもあり。

 ひたむきな心酔を捧ぐ部下のようでもあり。

 恋する乙女のようでもある。

 少女の純情はとめどない。


「僕を飼い馴らしてください。僕を躾けてください。藤堂大尉」


 蕩けるような視線を、綜士郎は仏頂面で受け止めている。

 累々と積み上がる屍の山の上で繰り広げられる少女の独壇場は、まるで愛の告白だ。暁の東雲が赤く燃えている。

 しばらく憮然とした面持ちを保っていた綜士郎が、ふと口を開いた。


「躾けてくれというわりに、お前、さっきは俺の言うことを聞かなかっただろうが」


 それはそうである。もっともな指摘に、すん、と五十槻はふだんの真顔になる。綜士郎は続ける。


「俺は最初止めたんだからな。それを無謀を押し通しといて、何が躾けてほしいだ、ばかばかしい」

「確かに……」

「まったく……大勢の前で、デカい声で恥ずかしい宣言までして……」


 呆れのクソデカため息を吐いた後、青年は困惑しきった面持ちを部下へ向けた。

 

「五十槻。お前は俺がどんな思いで出撃の許可を出したか、分かっているのか」


 咎めるような口調だが、綜士郎の表情は心底の憔悴を浮かべている。胸の内に抱えた、呆れと安堵と不安が入り乱れた、複雑な心境がありありと見えるようだ。

 

「俺は……お前に何かあったら、ほんとうにどうしようかと……」

「……ごめんなさい、藤堂大尉」


 五十槻も心の底から申し訳なく思うけれど、それでもこればかりは譲れない。

 

「本当にごめんなさい、藤堂大尉。でも、僕にとっては、どうしても為さねばならないことで」


 門の破壊、禍隠の殲滅。八朔の神籠として、血潮に刻まれた義務と悦楽。

 綜士郎も、その様を見せつけれられていた一人だ。俯く五十槻へもう一度困惑の眼差しを投げかけ、彼は再び口を開く。

 

「……禍隠をぶっ殺したくてたまらない欲、っていうのは、やはりどうしようもないことなのか」

「はい。自己に対するはちゃめちゃな肯定を感じます」

「自己に対するはちゃめちゃな肯定を感じるのか……」


 なるほど、分からんという顔で綜士郎は頷いた。


 先刻少女は言った。香賀瀬先生に答えを示したいと。

 その答えとやらが──禍隠に対する縦横無尽の殺戮。すなわち八朔の神籠であることの証明だ。同時にそれは、香賀瀬修司への復讐ともなっていたわけで。

 八朔五十槻は出来損ないなんかではない。れっきとした八朔の神籠である。それが答え。

 かくして五十槻の存在証明は相成った。

 綜士郎は見込まれたわけだ。五十槻を庇護し、監督し──肯定する者として。

 青年は一瞬瞳に諦めの色を浮かべた後、覚悟の決まった声色で「分かった」とすべてを受け入れた。


「お前がそういう性分を抱えているなら、俺も今後はそういうものとしてお前を扱う。八朔五十槻の上官として。それが望みなんだろう、八朔の神籠」

「藤堂大尉……!」

「だが!」


 綜士郎は続ける。


「今回は命があってよかったものの、さっきみたいな強引な真似は二度と認めないからな! ちゃんと反省しろばかたれ!」


 あとお前は犬じゃないからな! 誤解を招く表現はやめろ! と口やかましく説教する綜士郎を、五十槻は嬉しそうな真顔で見上げている。すでに夜叉の表情は去り、いまはふだんの八朔五十槻の佇まいだ。紫の瞳の中央で、瞳孔は平常の大きさに戻っている。


「はい、以後気を付けます。次回以降の門の破壊任務においては、きちんと食事と睡眠を取り体調を整えて臨みます。大尉のご指示も、今後はきちんと守ります」

「おうおう、そうしろそうしろ!」

「綜士郎だけに、ってね」


 藤堂大尉によるやけくその応対のさなか、精一も屍山の頂上へたどり着く。えいやらやっと登攀を終えると、キツネは登ってきた山を感慨深そうに見下ろした。


「いやぁ、それにしても壮観だねぇ。こんな山になるほど禍隠の死体が積み上がるなんて、こりゃ冗談抜きで五百千五百(いおちいお)は殺したんじゃないの? いつきちゃん」

「そうかもしれません。楽しかったです、とても」

「やれやれ、これだから八朔の神籠ってやつぁ……」


 肩を竦めながら、精一はどこか懐かしそうにつぶやいた。

 太陽が昇る。冬の明け方に、ほんのりとぬくもりをもたらしながら。山のような悪鬼の死骸をありありと映し出しながら。


「……ところで獺越はどうした? やけに静かだな」


 ふと部下を気にする綜士郎の言葉に、精一が気の毒そうな顔を向けた。万都里は小銃を抱えたまま、一同と同じく禍隠の山で立ちすくんでいるが。


「見なよふたりとも。まつりちゃん……さっきの犬云々の熱烈なやりとりに耐えられなかったんだ」


 曙光の中、白皙の美青年は立ったまま放心している。まるで魂を手放してしまったかのように。


「かわいそうに。死んでるよ、これ」

「え……」


 獺越万都里、享年二十歳。死因、八朔五十槻。


「いつきちゃんが綜ちゃんのワンコになったからだよ、きっと」

「そうだぞ。獺越のためにも犬とかいう自認をやめろ!」

「そんな……!」


 五十槻は狼狽した。同期がわけの分からない理由で死んでしまったから。


「お、おそごえさ……!」


 慌てて駆け寄ろうとした少女は、不意にくらりと目を回して前のめりに倒れかける。昨日と同じ感覚だ。連隊本部の廊下で、眩暈を起こしたときと。


「お……おい! しっかりしろハッサク!」


 倒れ込みそうな五十槻をすんでのところで支えたのは、死んでいたはずの万都里である。とっさに駆け寄った万都里の胸元へ、五十槻が身体を預ける形で寄りかかっている。


「お、獺越さん……生きて……」

「いや生きとるわ! ちょっとばかし前後不覚になってただけだ、たわけめ!」


 そして二人は密着の体勢である。早くしないと万都里がまた死ぬ。


「やれやれ、さすがに体力を使い果たしたなクソガキめ」

「藤堂大尉……くそがきとは」

「まつりちゃん、おんぶして下までおろしてあげたら?」

「ま、ままままま待て、まずはこの体勢のハッサクを、どどどどどうしたら」

「だめだ。これはまた死ぬわ」


 惑乱する万都里の腕から五十槻を離しつつ、精一は「綜ちゃん」と呼びかける。


「綜ちゃん、いつきちゃんおんぶして行ったげて。まつりちゃんにやらせたらまた死ぬ」

「おい……どこも負傷してないお前が運ぶべきじゃないのか?」

「やだよ、俺ひろみ以外背負う気ないもん」

「人のおかんを呼び捨てにするな! 大体、この空気のなか俺がこいつを運ぶのか!?」


 綜士郎は青ざめた顔で眼下の烏合の衆へ視線を落とす。どよどよざわめく大隊精鋭を中心に、きっと犬と飼い主の仲を邪推するいかがわしい話題でひしめいているに違いない。しかし。


「いえ、甲伍長。藤堂大尉は脚部を負傷なされています。僕なら、ひとりで……」


 ふらつきながら自力で立とうとする部下を見れば、自らの風評に対する諦めもつくというもので。

 綜士郎は長息すると、黙ってしゃがみ込み、五十槻へ背中を差し出した。


「いけません藤堂大尉、お怪我に障ります。僕なら大丈夫です」


 五十槻は申し訳なさそうな真顔で固辞するけれど、綜士郎も頑なである。


「いいや八朔少尉。上官命令だ。大人しく負ぶわれろ」

「しかし……」

「いきなり約束を反故にするのか? 次からちゃんと指示を守ってくれるんだったよな?」

「う……」


 五十槻は二の句が継げなかった。まさか、つい今しがたの約束をこんな風に即利用されるとは。

 上官命令ならば、致し方ない。

 遠慮がちに五十槻は広い背中へ身体を預けた。怪我をしている箇所へ負担をかけぬよう、細心の注意を払う。

 綜士郎は五十槻の両足をしっかり掴むと、軽々と立ち上がった。後ろからは「泣くなよまつりちゃん」「泣いてねえよ!」という会話が聞こえてきて。


「足場が悪い。ちゃんと掴まってなさい」

「……はい」


 藤堂大尉の首まわりへ腕を回し、五十槻は言われた通りにぎゅっと掴まっている。

 どこもかしこもあたたかい人だ、と五十槻は思っている。綜士郎の背中に感じるぬくもりで、少しずつ少女に微睡みが生じ、濃くなっていく。慎重に禍隠の遺骸を踏みしめる足取りが、心地よい揺らぎをもたらしていた。


「……香賀瀬、修司は」


 ふと、綜士郎がつぶやいた。五十槻も片眠(かたねぶ)りの心地を醒まし、さっきまで香賀瀬がいた方へ視線を向ける。

 かつての恩師の姿はない。いつのまにかどこかへ消えてしまったのだろうか。気付けば綜士郎は、すでに禍隠の山を下りきったところ。ちょうど「藤堂くん」と歩み寄ってきた荒瀬中佐へ、綜士郎は尋ねた。


「荒瀬中佐。香賀瀬はどこに」

「それが、いつの間にか姿を消していたようでね」

「待ってください、神籠で探知を──」


 綜士郎の言葉の途中で、五十槻は「だめです」と腕の力をぎゅっと強くする。


「藤堂大尉、もう神籠を使わないでください」

「しかし、お前……」

「僕はもう、あの人のせいであなたが負荷を負うところを、見たくありません」


 背中からぐす、と鼻を鳴らす様子に、綜士郎と荒瀬中佐は顔を見合わせた。中佐は「いいよ、藤堂くんも今日は神籠を使い過ぎだ」と、人を呼んで香賀瀬の捜索を命じている。


 それから五十槻はしばらく、綜士郎の背中ですすり泣いた。

 波乱万丈の一晩だった。自分のこと、綜士郎のこと。香賀瀬先生のこと。

 五十槻は思う。綜士郎と自分は似ているのだと。同じ人物に人生を狂わされ、同じ傷を背負って生きている。

 背中で泣いている部下に、綜士郎は苦笑を漏らしている。


「まったく……忙しいやつだな、お前も。禍隠ぶち殺して笑ったり怒ったり、妙な発言をしてみたり、かと思えばそんなにぐすぐす泣いて……ほら、もう泣くな」


 五十槻は余計にしゃくりあげた。綜士郎は御庄医師の姿を探しつつ、ゆっくり歩きながら問いかける。


「五十槻。ひとまず御庄先生に治療してもらいなさい。それから元気になったら、また一緒に飯でも食いに行こう。何が食べたい?」


 兄のような声へ、五十槻は涙声をこらえつつ答えた。


「カツカレー……」

「それだけか?」

「あんみつ……びふてき……天麩羅の乗ったお蕎麦も……」

「ははは、欲張りなのはいいことだ」


 隣で万都里が、からあげがどうのと言っている。

 精一はそれを茶化している。

 温かい体温で意識が溶かされるように、微睡みが再び強くなる。

 いつのまにか五十槻は、綜士郎の背中で寝息を立て始めた。


「はぁ、本当にとんでもねえがきんちょだな、こいつは……」


 呆れかえった言葉とはうらはらに、綜士郎の顔には安堵の微笑みが浮かんでいる。つい先ほどまで、自身の人生を根底からひっくり返すような出来事が起こっていたのに。いまはこの背中にあるぬくもりだけで、それだけで十分だと思っている自分がいる。

 香賀瀬修司への怒りは晴れない。恨みも深い。歪曲された自らの人生への虚しさも、心の奥底にわだかまっているけれど。

 綜士郎にとっても五十槻は陽だまりだ。無理矢理入れられた神の籠の中、一途に自らの善性を肯定してくれる背中のぬくもりは、何物にも代えがたい宝物である。ちょっと扱いが難しい宝物ではあるが。


「それにしてもいつきちゃん、今日はだいぶ荒れたねー」


 隣をぶらぶら歩く精一が、五十槻の寝顔を覗き込みながら軽い口調で言った。そりゃあんなことがあればな、と綜士郎は五十槻を起こさないよう揺すって、少し抱え直した。

 そのとき、五十槻の軍服のズボンに、妙な湿り気があった。なんだ、と少女の足を抱えていた手を眼前にかざしてみる。

 うっすらと血がついている。


「……五十槻、足怪我してたか? 血が出ているが」

「ハッサクが足を? そんな様子はなかったはずだが……」


 五十槻はすやすや眠っていて、答えるはずがない。


「……はっ!?」


 そのとき、朝日の中でただひとり、精一だけが思い当たった。


 昨朝から貧血気味の体調不良。破格の情緒不安定。下半身の衣類に染みている血。


「あ、あー! そういうことだったの!? えーと御庄せんせー!? 御庄せんせー早くきてー!」

「おい甲、なんか思い当たりでもあるのか?」

「もうっ、これだから童貞は!」


 どどど、童貞ちゃうわ! などと、自分が言われたわけでもないのに顔を真っ赤にして反論する万都里は置いといて。

「御庄せんせー!」と軍医を呼ぶ精一の声が神祇研へ響き渡った。

 眠い目を擦りながら解散する大隊精鋭らが、迷惑そうにそれを聞き流している。

 一部の者はひそひそと、綜士郎らの方を見ながら何事か小声で下卑た憶測を交わし合っている。それに対して「見世物じゃねえぞコラァ!」と万都里がガラ悪く牽制している。獺越の御曹司はなんだかちょっと泣いている。

 そんなことは何も知らずに、八朔の神籠はいまは幼い子どもの顔で、ただ昏々と眠っていた。

渇仰かつごう

人の徳を仰ぎ慕うことを、のどの渇いた者が水を求めるのにたとえた語。(広辞苑 第六版より)

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