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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
70/97

5-6


──ねえねえ、せんせえもうたお。

──……仕方ないな。ひと節だけだぞ。どんぐりころころ……。

──どんぐい、こおこお、どんぶいこおー。

──さ、満足したか。お勉強に戻りなさい。


──せんせえ、あそぼ。

──今は忙しい。手の空いている者に遊んで貰いなさい。


──あのね、いっちゃんね。ほずみのこおごになるんだよ。

──さあ、それは……どうだろうな。


──せんせい、ぼく……。

──神籠を継いだとはいえ慢心するな。誉ある立場に相応しいだけの素養と風格を身につけろ。


──先生、お言いつけの課題はすべて終えました。

──言いつけられたことだけして満足か。出来損ないめ……。


──痛い、痛いです。先生ごめんなさい、僕が至らぬばかりに。

──私が手を上げるのはお前のためを思ってだ。感謝しなさい。


──先生、僕は……。

──お前はただでさえ汚らわしい女の身で神籠を宿したのだ。正真正銘の八朔の神籠となるに、並みの努力で足りると思うな。常に私の言うことに従いなさい。


 先生、先生。

 僕はたくさん、たくさん頑張りました。

 先生のご指示もきちんと守りました。

 けれど返ってくるご評価はいつも、出来損ない、出来損ない、出来損ない。

 僕はいつ、立派な八朔の神籠になれますか。

 先生がお認めくださるような、八朔の神籠に……。



(本当にどうして気付かなかったんだろうな)


 赤い閃光が収束する。

 羅睺の門から、どろりと禍隠の粘液が吐き出される。

 蠢動し、分裂し、群れを成し。

 夥しい数の禍隠が地に満ちる。


(本当にどうして、こんなに簡単なことが)


 眼前に悪鬼の黒い軍勢を臨みつつ、五十槻は自嘲している。背後からは五十槻を呼ぶ、綜士郎や万都里の声。


 考えてみれば簡単なことだった。

 立派な八朔の神籠に、どうやったらなれますか。

 その答えなんて、とっくの昔にこの身の内にあったのに。

 赤い光を前に狂濤(きょうとう)の如く逆巻く、この血潮の中に。


「五十槻! 退避しろ!」


 綜士郎が五十槻の目前へ回り込み、彼女の両肩を掴んだ。鋭い目が厳しく五十槻に命じている。この場から離れろと。


「言うことを聞け五十槻! 体調、負傷の状況から言って、お前は戦える状況にない!」


 五十槻の背後には、荒瀬中佐が連れてきた大隊精鋭が、臨戦態勢で待ち構えている。藤堂大尉の判断は正しい。後事は戦闘可能な者に任せ、負傷者は前線を離れるべきである。楢井信吾はすでに、衛生兵によって戦線から移送されている。


「ハッサク、藤堂の言う通りだ! なぜそうまでして門にこだわる!」


 万都里が苦虫を噛み潰したような顔で、五十槻の前へもう一度進み出る。


──藤堂大尉も獺越さんも、僕の身を案じてくださる。けれども。


「いつきちゃん」


 後方から、精一が五十槻へ何かを放り投げた。

 少女は一顧だにせず、片手を掲げてそれを受け取った。白獅子の面だ。


「甲! 何を……!」

「藤堂大尉。獺越少尉」


 受け取った面を顔へ被せ、緒を結ぶ。


「ご心配をおかけして申し訳ない。けれど、本日最後の命令違反をお許しいただきたい」

「ハッサク、お前はまた……!」

「藤堂大尉」


 白獅子の将校の、仮面の奥から響く朗々とした声。夜叉の周囲では紫の電光が幾筋も、細い稲妻の如き描線となって現れ続けている。ビビッ、ジリッと、軽微な放電の弾ける音。


「出撃の命を請います。藤堂大尉」

「だめだ……許可できない」


 五十槻の両肩をもう一度掴み、猛禽の瞳は苦しそうに部下を見つめている。けれど五十槻は軍刀の柄に手をかける。


「お願いします、藤堂大尉」

「できるわけないだろう!」

「答えが見つかったんです。僕はそれを、香賀瀬先生へお示ししたい」


 部下の声は有無を言わさない。


「さあ、出撃の命を」

「言うことを聞け、八朔少尉!」

「出撃の命を。藤堂大尉」

「藤堂くん」


 応酬へ荒瀬中佐が割って入る。中佐は綜士郎へ、首を横に振って見せた。


「……八朔くんを行かせてやってくれ」

「中佐! こんなの……こいつをみすみす死なせに行かせるようなもんだ!」

「きっと、そうはならないよ。ねえ、八朔くん」


 荒瀬の諦めたような確認に、五十槻は白獅子の面でしっかりと頷いて見せた。

 門の方角から、数多の禍隠の唸り声と息遣いが徐々に近づいてきている。

 白獅子の面の奥、夜叉の瞳は揺るがない。どうしようもなく。

 綜士郎の緊張感に満ちた面持ちへ、不意に兄のような表情が兆した。鋭い目元の柔らかい眼差しは、心底からの心配を五十槻へ投げかけていて。


「……五十槻、やっぱりお前は子どもだよ。守り、慈しむべき……」

「…………」

「でも、それでも行くんだな」


 綜士郎のやるせない問いかけに、五十槻はやはり頷いた。

 わずかな逡巡を経て、綜士郎は五十槻の肩を離し、後ろへ下がった。瞳に、納得できない色を宿して。


「……分かった」

「おい、藤堂!」

「獺越少尉、八朔少尉を援護してやってくれ。甲伍長も」

「うん」

「クソッ……なんなんだよお前は、ハッサク……!」


 綜士郎の指示に、万都里は憤懣やるかたないし、精一も言葉少なだ。綜士郎は五十槻へ視線を戻す。


「八朔少尉。お前の生命に危険が及ぶようなら、俺たちは全力でお前を止める。救命目的で俺の神籠を使うことも辞さん」


 黙って指示を聞く五十槻へ、綜士郎は強めに命じる。


「だから命令にもう一つ追加させろ。絶対に死ぬな」


 優しい人だ、と五十槻は白獅子の面の下で微笑んだ。優しくて大好きな、藤堂大尉の命ならばこそ。

 紫の瞳は陶酔している。この状況に。禍隠の気配に。藤堂綜士郎の、部下であることに。


「行け! 必ず生きて帰ってこい!」

「はい!」


 敬愛する彼からの出撃の合図に、五十槻は凛然と刀を構える。


「身命を賭して!」

「だから簡単に身命を賭すなばかたれ!」


 綜士郎の怒声を背に、五十槻は刀の鯉口を切った。そして。

 間髪入れずの紫電一閃。

 不規則な軌道を描く稲光が、目前の禍隠の群れを斬り裂いた。須臾(しゅゆ)の間に無数の絶命が起こる。

 それから。

 荒瀬中佐は結局精鋭を動かさなかった。その必要がなかったからである。

 万都里も援護どころではなく、呆然のあまり銃口は終始下がったまま。

 もちろん綜士郎の神籠も、なにも為すすべなく。その凄まじい鏖殺へ他者が介入する間隙など、一切生じない。

 誰もがそれを、唖然の面持ちで眺めることしかできなかった。


 満月の見下ろす夜に起こったことは──縦横無尽の殺戮である。


 絶え間ない血飛沫。飛散する禍隠の四肢。臓物の焦げる臭気。

 迸る迅雷、轟く震霆(しんてい)。引きちぎるような荒々しい太刀筋。肉と骨を断つ生々しい手応え。

 五十槻は禍隠の心臓を貫く度、首を斬り飛ばす度、命を奪う度、紫の眼を見開いて悦んだ。

 雷光と化して悪鬼の塊を屠れば屠るほど、言いようのない興奮が全身の血中を駆け巡る。

 門が再び光りだしたとき、五十槻は歓喜した。まだ斬れる。もっと殺せる。

 血が騒ぐ。嵐の海の波濤のように。噴火のときを迎えた岩漿(がんしょう)のように。


 先生、先生。香賀瀬先生。

 見ておられますか。


 天を駆ける雷霆と化し、五十槻は夜天から恩師へ血走った眼を向ける。鳥類の禍隠が断末魔の叫びをあげ、飛び散るその生き血ごしに、地上の香賀瀬の姿が小さく見える。


「あ……」


 香賀瀬修司はただ戦慄いていた。

 異界の害獣を(あめ)(つち)に蹂躙する飛電は、まさしく往時の皇都雷神である。いや、苛烈さはそれ以上に。

 目前で繰り広げられる修羅の所業に、香賀瀬はへたり込んだままだ。どうあっても認めたくないはずの光景が、無慈悲な雷光によって網膜へと焼き付けられている。

 打ちひしがれているその背中へ、後ろから近づく者がひとり。


「……あんたさ、あの子を八朔達樹になぞらえて育てたんでしょ」


 傍らへしゃがみこみ、香賀瀬の肩をぽんと叩いたのは、甲精一だ。


「いつきちゃん見てたら分かるよ。言葉遣い、立ち居振る舞い。達さんそっくり」

「……なんだ貴様は」


 警戒する香賀瀬に構わず、精一はキツネの目を開き、三白眼で戦いの様相を眺めている。紫電を映す小さな瞳は、柄にもなく真剣だ。


「まったく八朔の神籠だからって、あの人を手本にすんのはいただけないぜ」

「さっきからあの人に対して、馴れ馴れしく……! お前は八朔中佐の何だ!」

「元部下」


 精一は雷声の中、香賀瀬へ憐れむような笑みを向けた。


「やれやれ。あんたはいつきちゃんや綜ちゃんだけでなく、尊敬してるはずの達さんのことすら、ちゃんと見れてなかったってわけだ」

「分かったような口を……」

「……あんたもどうやら達さんに騙されたクチらしいな。あの人、パッと見は愛国の士だったからさ。学もあったし、弁も立った。国のため、蒼生(あおひとくさ)のために禍隠と戦うこと、それが自分の使命であり、そのためなら死んでも構わない。それがあの人の口癖だった。そうだろう?」


 目を見開いたまま、精一はにやりと笑う。


「でもそれ、全部ただの言い訳。神域の内へ留まりたいだけのな。結局のところ、あの人は国にも民にも、さほど思い入れはなかったようだ」


 三白眼の視線は、再び荒ぶる八朔の神籠へ向かう。


「達さんは……あの人は、ただの戦闘狂だよ。今のあの子とおんなじ」


 轟雷は已まない。

 閃電は奔り続ける。


「五十槻……」


 立ちすくむ綜士郎の視界の中で、守り、慈しむべきひとりの子どもは、一個の夜叉と化している。

 千早振る神鳴(かんなり)は、まるで神そのものの奔逸を顕すかのようで。

 殺戮は祭礼の如く神々しく。雷響(らいきょう)はそれを囃すが如く。

 祝祭の締めくくり。震電の荒ぶる中、五十槻は羅睺の門と対峙している。山と積み上がる禍隠の屍の前で、軍刀の切っ先をまっすぐ天へ向け、厳かに示す捧刀ささげとう。神を寿ぐ(ことば)を奏す声は、歓呼の響きに満ちている。


「掛まくも(かしこ)祓神鳴大神フツカンナリノオオカミの大前に(かしこ)み恐み(もうさ)く!」


──ああ、神さま、神さま。

  一時(いっとき)のこととはいえ、あなたを疑ってしまい、慙愧の念に堪えません。

  いまや僕は感謝しています。僕を神籠に選んでくださったことに。

  僕の身へ、かくも深く厚き恩頼(みたまのふゆ)をお与えくださったことに。


(まつろ)わぬ(まが)(けもの)どもの(しし)をば幣帛(みてぐら)となし、滴る血をば御酒(みき)となし! ()が遠つ御祖(みおや)霹靂神(はたたがみ)御前(みまえ)に、神實八朔五十槻、恭しく捧げ奉らん!」


──感謝の証に、この血腥(ちなまぐさ)い供物を捧げましょう。僕の産土(うぶすな)ならば、このうえなく御喜びいただけるはずだ。

──それから……。


 白獅子の奥から、紫の狂喜の眼差しが綜士郎を捉える。彼の鋭い視線と、遠目にも目が合うのが分かる。


──ごめんなさい、藤堂大尉。また僕は、あなたの意に背いてしまった。


 残酷な決断をさせてしまった。

 五十槻の行いは、きっと綜士郎へ深い憂苦をもたらしているだろう。兄のような彼だから。五十槻のことを、慈しむべき子どもと抱きしめてくれた彼だから。そのことが心苦しいけれど。

 しかし少女は身中を荒れ狂う衝動に抗えない。我が血が叫ぶ。禍隠を屠り、門を破壊し、八洲に蔓延るすべての禍隠を殲滅せよと。

 それに綜士郎とともにある神域(ひもろぎ)は、陽だまりのようにあたたかい。背中を撫でてくれた手のように。高いところから降ってくる、柔らかい日差しのような眼差しのように。

 申し訳なさと、衝動と、幾ばくかの後ろめたさがすべて、春の陽光に似たぬくもりの中で有耶無耶になり、溶けていく。

 いま、藤堂綜士郎へ向かう少女の気持ちは、ただの混じりけのない純情。


──ありがとうございます、藤堂大尉。出撃をご許可くださって。僕を案じてくださって。

  どんな死地にあっても、あなたの傍らが僕の陽だまり。それが僕の居場所。

  僕はいま、幸福だ──。


 五十槻は刀の切っ先を羅睺の門へ向ける。

 門はすでに光量を落とし、暗赤色の鈍い明かりを息も絶え絶えに放つばかり。すでに禍隠を吐かなくなったものに、未練はない。


清浄(きよら)なる霹靂(かむとけ)よ、神寶(かんたから)剣刀(つるぎたち)よ! (こと)つ世の(かど)を打ち毀し、永久(とこしえ)に閉ざしたまえ!」


 祓いたまえ、清めたまえ。


 刹那、八朔の神籠は一筋の電光と化し、門の中心を紫の光で貫いた。不規則な稲妻の軌道に灼かれ、赤い正円の輪郭が砕け散る。

 ごぉん、と締めくくりに雷鳴。

 沈黙。

 かくして神祇研の敷地から、赤い不吉な光は消え去った。後には黒々とした魔性の屍山血河が、静かに横たわっている。

 黒い血を浴びたクヌギの木立ちから、ぼたぼたと垂れる粘っこい滴り。

 地面に転がるどんぐりが、(なまぐさ)い血に浸っていた。

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