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三
厄日だ。
部隊所有の車を運転しながら、綜士郎は今日という日の不幸を噛み締めた。
「本当に、申し訳ありませんでした……」
「もういい。謝るな」
五十槻は助手席で縮こまって、本当に申し訳なさそうにしている。
二人は自動車で、子北区にある神事兵連隊本部へ向かっていた。第一中隊隊長の田貫大尉には尉官の人事権がなく、除隊願の処理ができないからだ。
八洲では徐々に自動車が普及しつつあるが、行政が追い付いているとはまだまだ言えない。皇都内とはいえ、主要な道路以外はまだまだ舗装が行き届いていない。ガタガタの道をタイヤが踏みしめる度、二人は車内で軽く揺さぶられるのであった。
綜士郎はハンドルを握りつつ、ちらりと横目で五十槻を見る。
体つきは、少年にしては華奢な方で、少女にしては丸みがない。胸は厚みがなく真っ平だ。髪も短く顔つきも普段は凛としているので、一見すれば少年である。しかし改めて見れば、いまの五十槻の横顔は完全に少女のものだった。目元に影を落とす長い睫毛に、淡い紫色の大きな瞳。俯き加減で憂いを帯びた表情は、まるで深窓の令嬢である。軍服姿ということを除けば。
どうして今まで気づかなかったのか、と綜士郎は自問自答したが、答えはすぐに出た。普段の五十槻にはまるで表情がないのである。常日頃から人形のように微動だにしない表情というのは、どうやら性別を韜晦させてしまうものらしい。
そういえば綜士郎は、五十槻が笑ったところを一度も見たことがない。
もちろん五十槻が申し訳なさそうにしているところなんて、今日初めて見た。本人は落ち込んでいるけれど、綜士郎はなんだかほっとしている。なんだ、普通の子どもじゃないか。
「でも、中尉……」
謝るな、と言ったのに、五十槻はまだ言葉を続ける。
「中隊の皆には誤解されたままではないですか」
「あー……」
五十槻の弁で、先刻の阿鼻叫喚が再び脳裏に蘇る。
それは、本当にひどい顛末だった。
── ── ── ── ── ──
人間拡声器こと、甲精一による醜聞喧伝の被害は甚大であった。綜士郎が五十槻を組み敷いているところを発見するや、アホのキツネは韋駄天の如く営内を駆け巡り、戦場に響く砲撃の如き大音声であちこちへ触れ回った。
「ねーみんな聞いてー! 藤堂中尉が八朔少尉を押し倒していかがわしいことをー!」
「まじ?」
「ワロタ」
とはいえ、日頃の行いは大事である。精一は普段からあんな感じで、綜士郎は一応は厳格な将校である。大半の者は「また甲がホラ吹いてんな」と聞き流してくれたようだが。
「あの顔で浮いた噂聞かねえと思ったらさぁ」
「いやー、中尉殿はお稚児趣味であったか」
口さがない者たちもいるもので、精一を取っ捕まえようと通りがかった廊下で、綜士郎はそんな会話を聞いてしまった。
これは仕方がない。上官とは往々にして嫌われるものだ。何かしら批判できる事柄があれば、これ幸いと陰口を叩かれる。綜士郎だって上官の悪口を言った覚えがないとは言わない。だが言われっぱなしも癪なので、「コラァ!」と一喝し追い散らしておいた。
ここまではまだマシだった。綜士郎はすっかり忘れていた。五十槻には非常に厄介な信奉者がいることを。
屋外の運動場にて、やっと精一を捕獲して猿ぐつわをかけている時だった。
「藤堂中尉……いや、藤堂綜士郎!」
「貴様ァ! 我らの神聖なる八朔少尉を穢したとは何事だァ!」
「おどりゃあブチまわすぞテメコラァ!」
「うわ……」
その場に集まってきたのは、綜士郎が率いる小隊の中でも、とりわけ屈強な男たちである。二十人くらいが徒党を組み、綜士郎を取り囲んでいる。
彼らこそが五十槻を神の如く崇める信奉者集団、自称「八朔少尉親衛隊」である。全員が全員いかつい。
「いや、あの、誤解……」
「誰が口をきいていいと言ったァ!」
もはやどっちが上官だ。普段は従順な部下たちだが、五十槻が絡むと理性のタガが外れるということを、綜士郎は今日初めて知った。
そんな場面を救いに来てくれたのが、当の五十槻である。精一を追う前に手持ちの刃物は全て回収しておいたが、作戦室に彼女を残してきたことが少し気がかりだった。もしかしたら舌を噛んでるやも、と一抹の不安もよぎったが、五十槻は無事に駆け付けてくれた。上官が不名誉を被っている最中に自決を優先するほど、この年若い少尉は身勝手ではないようだ。
「やめてください! 誤解です!」
綜士郎と親衛隊の間に入り立ちふさがると、いつもの凛とした声で五十槻は綜士郎をかばった。
「八朔少尉! そこをどいてください!」
「俺たちが少尉の仇を取ります!」
「落ち着いてください!」
しかし五十槻本人の制止があっても、親衛隊の勢いは止まらない。しかも騒ぎが大きくなって、野次馬の兵卒がわらわらと集まってきた。これはもうどう収拾をつけていいものか、まったく分からない。元凶の精一は、猿ぐつわを噛まされたまま一人キャッキャと喜んでいる。
「僕は中尉になにもされていません! 皆さんは誤解されている!」
「おいたわしや少尉……! きっと何か弱みを握られて……!」
「許せん!」
「な、何故……!」
五十槻自身がなんと否定しようと、親衛隊は頑なに少尉が穢されたと信じて疑わない。むしろかばえばかばうほど、怒りの炎は燃え上がる。そこで五十槻は思ったのだろう。この顛末の原因は全て、自分のせいなのだと。そもそも、自分が性別を偽っていたからだと。
自分が女の身であること。ずっと性別を偽って軍務に就いていたこと。しかし、それが故に除隊願を出そうとしたこと。
隊の皆々を欺いていたことへの自責甚だしく、自決を決意したものの、中尉が身を挺して割腹を止めてくれたこと。その際のもみ合いの結果が、あらぬ噂につながってしまった。それらを全部説明すれば、この場にいる全員納得するのではないかと、五十槻は考えたに違いない。あとからこの状況を回顧して、おそらくそういうことだろうと綜士郎は思う。
「僕が、僕が悪いんです!」
今まで以上に声を張り上げて、五十槻は烏合の衆に向けて深々と頭を下げた。
「僕が実は女……」
「俺が襲ったァ!」
五十槻が何を告白しようとしているのか察して、綜士郎はとっさに大声で叫んだ。最悪の展開である。
もう殴られるのは必定なのだから、早いとこタコ殴りにされてでもこの状況を終了したい。綜士郎はもはや自暴自棄だった。
果たして親衛隊の諸君は怒りに満ちた鬨の声を上げた。野太い鯨波の中で、五十槻が綜士郎へ驚愕の目を向ける。「なんで誤解を深めるんですか!」とでも言いたげだ。そんな少尉に対し、綜士郎は「言・う・な」と声には出さず、唇の動きだけで伝える。ここで八朔少尉が本当は女子だと知れたら、本当にまずいことになる。
「少尉どいてそいつ殴れない!」
「あっ」
ひょいっと五十槻が脇によけられて。
屈強な青年たちが綜士郎へ殺到した。もうすでに藤堂中尉は胸倉を掴まれている。綜士郎はもちろん一方的に殴られるだけのつもりはない。ただ、骨の一本や二本は覚悟しなければならないだろう。だが。
「やめてっ」
脇によけられたはずの五十槻が、ひょいと戻ってきた。綜士郎の胸倉を掴んでいる上等兵の首に後ろからしがみつき、腕を回してぎゅっと絞める。ごきっ、と音がして上等兵はくにゃりとへたり込むように倒れた。
「くだっ」
向かってくる屈強な兵士たちの数々を、ある者は足払いで蹴倒し、ある者には大外刈り、あるいは背負い投げ。ある者には関節技をしかけ、ちぎっては投げちぎっては投げ。
「さい!」
華奢な身体で親衛隊の二十余名を、あっという間に地面へひれ伏せさせるのであった。
五十槻は普段、あまり格闘術が得意ではない。綜士郎も普段の調練でよく知っている。他の士卒には普通に力で負けるし、よく投げ飛ばされている。だが、一人だけ居残りの稽古をして、真剣に取り組んでいたものだ。
おそらく今の大立ち回りは、火事場の馬鹿力というのもあっただろう。しかしそれだけではなく、頭に血の上った親衛隊員達の動きは単純で、動きが読みやすく、技をかけやすかった。また、背の低い五十槻なので、死角に入りやすいのも立ち回りに有利であった……のだろう、たぶん。
「中尉、お怪我は!」
「いや、全然大丈夫……」
小さな体で大立ち回りをやり遂げて、息を荒げながら五十槻はまず綜士郎を気遣う。綜士郎はお陰様で結局無傷だが、この状況にちょっと引いている。
「うっ」
「ううっ……」
地面に倒れている親衛隊たちが息を吹き返した。呻いているのかと思ったら、よく見たら泣いている。
「くっ……少尉……親衛隊の俺たちではなく、まず中尉を心配するのですね……」
「いや、それは……」
「つまり合意だったってことですか……!」
どうしてそうなる。藤堂綜士郎中尉は頭を抱えた。五十槻も困惑のあまり、唖然としている。
「聞けよみんな……あんなに小柄な少尉が、藤堂中尉をかばって俺たち全員倒しちまったんだぜ……? これが愛の力でなくてなんなんだよ……?」
「つまり相思相愛ってことかよ……」
「純愛じゃあ……」
「ボーイズラブ……」
親衛隊員全員がはらはらと涙を流した。汚い嗚咽があちこちから聞こえてくる。なぜか周囲の野次馬から感動の拍手が上がりはじめた。ひどい茶番である。
綜士郎はぐっと腹に力をこめて大喝した。
「総員さっさと持ち場に戻らんか、ばかたれーッ!」
藤堂中尉マジギレの命令に、さすがにみな蜘蛛の子を散らすようにわーっと去っていく。勝手に敗北を喫した親衛隊員たちの背中が、特に寂しい。
「ひー、ひー……めっちゃ面白かった……! 草!」
最後に残った精一が、痙攣する腹筋をおさえながら、息も絶え絶えに感想を伝えてきた。いつの間にか猿ぐつわを外している。さすがの五十槻も呆れた眼差しをキツネ顔へ向けざるをえない。
綜士郎はすべての元凶たるアホ伍長の脳天へ、全身全霊の拳骨を見舞ってやった。
── ── ── ── ── ──
……というのが、皇都守護第一中隊に起こった阿鼻叫喚の一部始終である。
「どうしたら中尉の不名誉は晴れるでしょうか……」
五十槻は責任を感じている様子だ。確かに彼……いや、彼女が動転して自害などしようとしなければ、こんな経緯にはならなかっただろう。どぼどぼと油を注いで炎上させたのは甲伍長だが。
「もう終わったことだ、仕方がない」
気丈に振る舞いながらも、綜士郎は明日が見えないような心持ちだ。明朝、どんな顔で登庁すればいい。
「少尉は自分のことを気にしなさい。除隊が認められれば、中隊でのことは金輪際関係なくなるのだから」
そう言葉をかけている間に、車はもう子北区四馬神の神事兵連隊本部の門前だ。
綜士郎は車を停め下車し、門衛へ所属と来訪理由を告げる。訪問が認められると、再び車に乗り込んでアクセルを踏んだ。
駐車のための所定の場所へ向かいつつ、綜士郎は気にかかっていたことを一つ吐露した。
「八朔少尉。先刻は少尉の自決を止めるために、神籠の力を用いて少尉を窒息させた。知っての通りもちろん触法行為だ。これから連隊長に目通りするが、報告してくれて構わん」
「……しません。絶対に」
五十槻は両ひざの上に置いた拳を、ぎゅっと握りしめながら言った。それは助かる、と綜士郎は心の内に思う。神事兵に自由は少ないが、一生出られない神籠者用の収容所よりずっとマシだ。
ほっとしている綜士郎の心境を知ってか知らずか、五十槻はぽつりと尋ねた。
「……ところで、親衛隊ってなんですか?」
車を停めてエンジンを切り、綜士郎は疲れた声で答えた。
「それは……分からん……」