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五
香賀瀬修司の語ったことは、清澄京華の推論とほぼ同じ内容であった。
大応連山に棲む神、香瀬高早神と、それを祀る神實の一族、明見氏。明見はさる大罪を犯し、当時の大皇によって取り潰しの憂き目に遭う。けれど一族の生き残りが細々と血脈を繋ぎ、現代まで人知れず家系は続いていた。数十年前に平民苗字必称義務令が施行された際、しれっと明見の姓を再び名乗るようになったという。
その明見の生き残りが、綜士郎の父である欣治だった。
彼はあちこちで借金を作り、それを当時十二歳の我が子に押し付けた挙句に蒸発した。
神祇研が欣治と接触したのは、その後のことである。
「明見欣治は我が子に借金を背負わせてもなお、飽きずにまた借金を作っていた。外見も素行も目立つ男だったから、彼を探し当てるのにさほど苦労はしなかったよ」
もともと香賀瀬が五瀬県へ赴いたのは、明見の末裔を探すためである。
彼が明見欣治と接触を果たした際、欣治は金に困っていた。香賀瀬は明見へ、親類に十代の若い少年はいないかと問うた。それに欣治が軽い調子で名を出したのが、我が子である綜士郎だった。
続けて綜士郎の住所を尋ねようとした香賀瀬に、欣治は大金を吹っ掛けた。情報を教えてやる代わりに、見返りをよこせということだった。かくして綜士郎は二度も実父に売られてしまった。領収書はこのときのものだ。
当時すでに綜士郎は炭鉱で働いていた。欣治も香賀瀬へ彼が違法炭鉱で就労させられていることを伝えてはいたが、神祇研が炭鉱へ赴く前に事件が起きる。綜士郎が啓太らと連れ立って、炭鉱を出奔したのだ。
「まったく、せっかく明見に払った金がパーだ。綜士郎、きみたちの行方を捜すのに、さらに神祇研は多額の費用を支払ったんだ」
やがて綜士郎ら少年の集団は、米山の街で拘束される。神祇研が綜士郎を捕捉したのが、この時点であった。
その後、本来綜士郎たちは留置所に移送されるべきところを、担当警官の私的制裁のためという名目で大応連山へ連行されることとなる。
一連の暴露を、綜士郎は真っ青な顔で聞いている。握りしめられた拳がわなわなと震えている。
「……俺や、啓太たちが……あの山へ連れて行かれたのは」
「きみが思っている通りだよ、綜士郎。米山の警官を買収したのも私たちだった」
神祇研は、かつて滅びた神實の、神籠の継承条件を保管している。大皇から下賜されたものだ。
神籠は貴重な存在で、年々絶対数が減っている。一度滅びた神實の神籠であっても、国難の際に蘇らせる可能性を残すためであった。
香賀瀬が香瀬高早神の神籠を復活させようと思ったのは、八洲における神籠戦力の増強のためと、幾ばくかの好奇心のためである。
香瀬高早神の神籠の継承条件は三つ。
──明見の血族に連なる年若い少年であること。
大応連山の神奈備に、神籠の候補含めて複数人で入ること。
同行者が禍隠に殺害されること。
当時の状況は香賀瀬にとって、とても都合が良かった。
明見の年若い子孫がいて。
親に見捨てられたような、不良少年の集団と行動をともにしていて。
大応連山には、折よく、禍隠発生の報が出ていた。
綜士郎が神籠に目覚めたのは、偶然でもなんでもない。仕組まれたからだ。
陸軍神祇研究所に──香賀瀬修司によって。
「…………なぜ」
愕然としながら、綜士郎はやっとのことで口を開いた。
「なぜ、俺を神籠にした」
「神事兵のくせにそれを聞くのか?」
香賀瀬の小ばかにしたような声。
「知っての通り、神籠は希少な存在だ。禍隠に対抗するため、香瀬高早神が授ける強力な神籠を求めるのは当然のことだ」
「それだけじゃないよね、香賀瀬博士」
そこで突然、会話に飄々とした響きの声が割って入る。後方へ皇都守護大隊の精鋭を待機させ、こちらへ歩み寄ってくるのは、荒瀬中佐だ。「荒瀬さん」と声をかける精一へ軽く手を挙げて応じてみせ、荒瀬は綜士郎と五十槻の横へ進み出る。
「あなた方は以前から、大規模に広範を制圧できる神籠を求めていた。古来から残る記録に見える限り、香瀬高早神の神籠はたしかに最適だ。広い地域を探知し、また大気を操作して大量の殺傷を可能にするんだから」
五十槻は急に現れた荒瀬中佐へ、ぽかんとした表情を向けている。綜士郎も、怒りと呆然がないまぜになったような顔のままだ。
「香賀瀬博士。本当のところ、藤堂くんを神籠に目覚めさせたのは、禍隠駆除のためなんかじゃないよね。香瀬高早神の力を──外征へ転用したかったんだ」
「……は?」
綜士郎の声に、いっそう怒気が宿る。荒瀬は淡々と続ける。
「我々神事兵自体は国内の害獣駆除が専門だから、そういう視点には乏しいが……ぼくたちの持つ神籠の力は、他の兵科の将官から見ればさぞ魅力的に映るんだろう。神籠という人的資源と神域を展開する常盤木さえあれば、大規模な設備や軍需品を必要とせず、超自然的な破壊行為を起こせるわけだ。その力を外国への侵略へ向けるべき、という勢力も当然、八洲の中には存在する」
あなたがそうだよね、と荒瀬中佐は香賀瀬へ確信の口調で問う。香賀瀬は答えない。
「しかしながら、我々のこの神籠という力は……禍隠という害を八洲から取り除くため、大皇を通して神々から与えられた神聖な力だ。それを夷狄とはいえ、自分らと同じ人類に向けるのは、ぼくはいささかどうかと思うけどね」
「今の中佐の話は、本当ですか香賀瀬さん」
抑揚のない声で綜士郎が問う。しかし続く言葉は荒い語調だ。
「あんた、人殺しをさせるつもりで、俺を神籠に──!」
「それの何が不満なんだ綜士郎!」
綜士郎の語勢を上回る剣幕である。香賀瀬は大喝すると、眦を決して喚き散らした。
「強力無比な神籠に魅入られて、いったい何が不満だと言うんだ! お前は選ばれたんだ、神に……香瀬高早神に! 恵まれた立場いる者が、これ以上何を望む! 八洲の神に与えられた力なら、八洲の国の、より一層の繁栄のために使うべきだ!」
「あんたは一体、俺の何を見てきたんだよ!」
綜士郎のそれは、寄る辺の無い少年のような、悲しみに満ちた叫びだった。
「俺が神籠で友達殺して苦しんでたのを、あんたも間近で見てたよな。夜眠れないことも、眠れても夢に啓太たちが出ることも、あんたは全部知ってたはずだ。それに……俺が死のうとしたのを必死で止めたのもあんただ。なのに……!」
「安い芝居に騙されたね、綜士郎」
「…………ッ」
五十槻は綜士郎の瞋恚を、傍らで見守ることしかできない。青年は肩を震わせながら、悲憤の面持ちを俯かせている。
「……つまりあんたは、人を殺して苦しんでる奴に、さらに人殺しをさせようと目論んでた。そういうことなんだな?」
「大義の上では問題ない行為だ。きみの友人らも、強力な神籠を現代へ復活させる礎となったのだ。泉下で喜んでいるだろう」
「そんなわけ、あるかよ……」
もはや怒りを通り越したのか、綜士郎の長身ががっくりと膝をついた。そのまま片手で目元を覆って、悄然と面を伏せている。
森の奥からは羅睺の門が放つ赤い光が届いている。鈍い暗赤色の明滅が、あたりを照らしている。
香賀瀬の苛立ったような顔もまた、不吉に赤く染まっている。
「被害者面はやめろ綜士郎。神籠に選ばれた身で……! 神籠に選ばれたこと自体を不幸だと嘆くなど! あまりにも許しがたい!」
「うるさい! 俺は──!」
綜士郎は大声を上げる。けれどその後の言葉が続かない。
五十槻は彼のそばへしゃがみ込んだ。なんと声をかけていいか分からない。かけるべきかも分からない。
けれど、こういう時の寄り添い方は、傍らの彼自身から教わっていたから。五十槻の手が綜士郎の背へ添えられる。
少女の手は綜士郎以上に不器用だった。ぎこちない動きで背中を撫でる部下に、青年は声を押し殺している。
許せない、と五十槻は思っている。自分が受けた仕打ち以上に、大事な人の、その人生を狂わせてしまった恩師の所業を。
「いいか! 神籠に選ばれるのは名誉なことだ! 私が望んでも得られなかった名誉だ!」
香賀瀬修司は喚き続けている。段々と光度と明滅の度合いを増す、赤い輝きの中で。
「だが名誉は往々にして義務とともにある! 神籠は国のために尽くさねばならぬ! 八洲の──八紘一㝢の繁栄のために!」
偏った主張を、荒瀬中佐はやれやれと聞いている。万都里は様相の変わっていく門に対し弾丸を手早く小銃へ装填していて、精一はぼんやりと状況を見守っている。
五十槻は綜士郎の背中から手を離し、そっと立ち上がった。
森の中から、門の光と熱が放たれている。宙に浮く赤い正円からの鮮紅を、紫の瞳が受け止めている。
瞳孔は収縮している。
「……まもなく門から禍隠が放たれるだろう。そこの出来損ないが、考えなしにそこら中へ雷撃を起こして門を刺激するからだ」
香賀瀬は門を背にしつつ、時折視線をちらりと後ろへ傾けている。赤い光の逆光の中、面持ちは少し慄いているようだ。
「どうする綜士郎! 今なら禍隠の討伐にかこつけて、私を巻き添えにする好機だ! 憎いんだろう、お前に神籠を宿らせた私が!」
自棄になって挑発するような言動に、綜士郎が顔を上げた。満面に激怒の色が漲っている。
「本当に情けない限りだ! 強い神籠を宿しておきながら、子どもの頃からぐずぐずと……! なぜ八朔中佐のように力を奮わない! なぜあの人のように、強くあろうとしない! 国のために身を粉にしない!」
五十槻は落ちていた軍刀を拾い上げた。静かな挙措で刀身を鞘へ納める。
「さあもう禍隠が現れる。どうした綜士郎! もう何人も殺してるんだ、いまさら何を怖気づくんだ! 香瀬高早神の神籠の力を、身をもって私に知らしめて──」
「黙れ! 俺が……!」
「藤堂大尉がそのようなことを、なさるはずがない」
綜士郎の激昂を遮って。五十槻は淡々と、けれどよく通る声で否定する。
いよいよ極まる羅睺の門の放光の中で、香賀瀬の顔は忌々しげな表情に変わった。五十槻は続ける。ゆっくりと、香賀瀬修司へ歩み寄りながら。
「僕は藤堂大尉の神籠が、人を救った場面しか見たことがありません」
五十槻の記憶の中で、香瀬高早神の神籠が八洲の蒼生を傷つけたことはない。その力は常に、誰かの生命を守るため、誰かの尊厳を守るために使われてきた。そのために、綜士郎自身が身心へ激烈な反動を受けたとしても。
香賀瀬の目の前で五十槻は立ち止まった。紫の瞳はまっすぐ恩師を捉えている。糾問するような、力を湛えて。
「藤堂大尉は、ご自身の神籠が引き起こす風巻の荒々しさを心底から憂いておられる。今に生きる人々を慮るだけでなく、その力が後代の罪科とならぬために、世間的な幸福も求めず、一身を律していらっしゃる。僕は、そんな大尉の優しい心根をお慕いして已みません」
そう語る五十槻の言葉に、当の綜士郎は怒りの勢いを削がれ、やや放心しているような面持ちを浮かべている。背後からゆっくり歩み寄ってきた精一が、青年の肩をぽんと叩いた。
「僕にとって、藤堂大尉は尊敬する上官であり、大好きで大事な人です。けれど、あなたはその大尉の人生へ、取り返しのつかない瑕疵を与えてしまった。僕はいま、それを許しがたく思っている」
「ふっ」
香賀瀬は嘲笑う。
「それで? いったい私に何を請う。謝罪か? 賠償か? 自決か? それとも、このまま禍隠に食われることか?」
「そんなことは望みません。あなたが為したことは、到底償いきれるものではない」
「出来損ないの半端者が、偉そうに……! 八朔の神籠であることもおこがましい、おん……」
──女の身のくせに。
そう香賀瀬が叫びかけた瞬間、彼の周囲に突風が起こった。言いかけた罵倒が途絶する。
「藤堂大尉……!」
振り返りながら呼びかけた五十槻の視線の先で、綜士郎は頭を押さえつつこちらへゆっくり歩み寄っている。彼が神籠を使い、香賀瀬の言葉を遮ったことは明白だ。
「いけません大尉、こんな些細なことに神籠を使っては……!」
「ばかたれ! こんな奴の不用意な一言で、お前の居場所を奪われるわけにはいかんだろうが!」
隣へ並び立った綜士郎から、いつもの上官の眼差しが落ちてくる。
綜士郎は五十槻から香賀瀬へ視線を移すと、厳しい口調と面持ちで告げた。
「香賀瀬修司。俺もあんたが許せない。俺の人生を歪めたことはもちろん、俺の部下の人生を奪ったことは、絶対に」
「負け犬どもが、傷を舐め合いおって……」
「確かにあんたの言う通り、あんたを内側から破裂させてやれたら良かったかもな。だけどこいつの言う通り、俺はそういう人間じゃない。俺はこの八朔五十槻の上官だ。部下の信頼を損なうような真似は、死んでもできん」
そう言って五十槻の肩へ載せられる手のひらには、ぐっと力が籠っていた。
うれしい、と五十槻は思う。藤堂大尉が、僕を部下としてお認めくださっている。少女の紫の瞳は陶然とした様子で、赤い光を映している。
「それから──もう言い合っている時間はないようだ。様子を見る限り、門の臨界が近い」
綜士郎の鷹のような目が森の奥の門へ向けられる。不気味な輝きと熱は、いつ極致に達してもおかしくない。
「ったく逼迫してる状況で、キサマら話が長すぎるんだよ! ほらハッサク、早く来い!」
銃を抱えつつ、万都里が駆け寄ってきた。蚊帳の外から話へ割り込む隙を伺い続けていたようである。荒瀬中佐はいつのまにか、紙巻きたばこをふかして状況を見守っている。
「香賀瀬さん。認めたくはないが、いまあんたは庇護対象だ。余計な口をきかず、ともに退避してもらいたい」
「…………」
「五十槻。俺たちも退避しよう」
さきほどまでの心痛を押し込めて場を仕切る綜士郎が、五十槻へ呼びかけた。
「五十槻!」
五十槻は背を向けたまま動かない。「ハッサク!」と万都里が腕を取るが、華奢な身体はびくともしない。万都里は同期の顔を覗きこみ、呼びかけるけれど。
「おい! 聞いているのかハッサ……」
言いかけて、万都里の顔が色を失った。思わず掴んでいた腕が離される。年上の同期は、慄いたような顔で後ずさった。
クヌギの木立ちがざわざわ揺れる。月光が不吉な輝きに負けていく。
周囲が赤く染まるなか、ジリッと紫色の火花が宙を走った。
遠くでは雷鳴が轟き始める。
「ごめんなさい、藤堂大尉。退避の御命令は聞けそうにありません」
門の方を向いたまま、淡々とした口調が答えた。それから「ふふ」と、少し自嘲気味に漏らされる細やかな笑声。
「どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろうな……」
独り言ちるようにつぶやいて、五十槻は後ろを振り返った。
その顔に、うっすら浮かぶ酷薄な微笑。
紫の虹彩の中心で、異様に窄まっていた瞳孔がさらに収縮し、極小の黒点と化す。
月下、紫電を纏い、嫣然と笑む様は夜叉である。ぐわらりと轟く半色の遠雷が、薄明るく微笑を映し出した。
「や、やめろ……その顔で……!」
香賀瀬がその場へへたり込んだ。かつての皇都雷神──八朔達樹とまったく同じ微笑を浮かべる五十槻を、一同が息を呑んで見つめている。
「やはり僕は──八朔の神籠です。どうしようもなく」
そして門が臨界の輝きを放つ。




