5-1 八朔の神籠
一
八朔達樹は一見、気弱そうな男だった。香賀瀬と知り合った頃、彼は二十八歳の神事兵大尉だった。穏やかで謙虚で、驕らず高ぶらず平身低頭。けれど常に背筋と眼差しをまっすぐ保ち、温厚さの中にも凛とした気概のある男だった。病弱な身であるにも関わらず、自ら志願して前線に立ち続け、禍隠の討伐に力を尽くす──まさに擲身報国の士である。
八朔達樹は年下ではあったけれど、香賀瀬修司はそんな彼に対し、常に畏敬の念を抱いていた。
香賀瀬は多津河淵深水神を祀る神實の一族である。修司はその本家の次男として、誕生から十代半ばに至るまで、神籠の候補として手厚く養育されてきた。
神籠となることは、八洲の人々にとっては名誉なことである。神の代に選ばれるのだから。
だから修司も自らが神籠となる日を心待ちにしていた。一つ下の弟を、神籠の資格なき者と蔑みながら。
ついに神籠としての資質を試される日、修司は香賀瀬の祝部に連れられて氏族の本籍地を訪れる。そこで晴れて、水を司る香賀瀬の神籠に目覚めるはずだった。しかし。
現在の香賀瀬修司が神祇研究所で研究者をやっているということは、それは果たされなかったということである。
香賀瀬の神籠には、結局彼の弟が選ばれた。
屈辱だった。修司は神籠となるべく、これまで涵養されてきたのだから。自己を否定されるに等しい出来事である。
けれど神籠への憧れを断ち切ることはできず、修司は研究者として、かの神秘の異能へ携わり続けることを選ぶ。
そういう鬱屈した思いも相まって、香賀瀬の八朔達樹への感情は傾倒と言っていい域にあった。
「ああ、香賀瀬さん──」
きっかけとなったのは、達樹が現政権下初となる、門の破壊に成功したときだ。皇都郊外に現れた禍隠の群れを激しい迅雷でことごとく焼き尽くし、その中央にあった謎の構造物──門を撃破した直後のことである。
白獅子の面を外し、こちらを振り返った達樹の表情を見たとき、香賀瀬の中で、畏怖の感情が生まれた。
「すみません。香賀瀬さんが興味を持たれていた妙な構造物、壊しちゃいました」
整った顔に、うっすらと笑みを浮かべ。八朔の神籠の特徴である、紫の眼の瞳孔を異様に窄ませて。
八朔達樹はまるで夜叉のように佇んでいた。皇国がために禍隠を狩る、夜叉である。
強い力を持ち、国のために戦う神籠は──香賀瀬修司の憧れであった。
八朔達樹はまさしくそれを体現する存在だった。
達樹は元々身体が弱く、医師からも前々から長くは生きられないと言われていた。それでも無理を押して、八朔の神籠として戦地へ赴き続けていた。どんなに熱を出していても、咳き込んでいても、顔面が蒼白であっても。
一度、どうしてそんなに身体を張って死地へ臨むのか彼へ尋ねたことがある。その答えすら、香賀瀬の理想通りだった。
「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍。我が命は皇国がため。僕の使命は、八洲の蒼生を守ることです」
ふだんの達樹の笑みは穏やかなものである。その笑みで香賀瀬へ答えた。
「僕の幸福は神域の内にあります。禍隠の群れの中で死ぬるなら本望だ」
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に
神實八朔達樹 恐み恐み白く
八尋八十尋に厳しき雷鳴轟かし
五百千五百に蔓延る禍隠の尽く
僕が太刀に汝命が大御稜威宿らせしめ
神域が内を敵共の屍で満たしたまえ
八朔達樹の立つ神域は常に暴雷が鳴り響いていた。おびただしい数の禍隠を紫電と化して灼き、斬り、屠り、嬲り、いつしかついた異名が皇都雷神である。
そんな彼があるとき、香賀瀬へ困った様子で相談を告げた。
甥の五十槻が生まれてすぐ、祝部らの手によって、八朔の本籍──神奈備である百雷山へ引き取られてしまったという。おそらくは、ようやく生まれた八朔の男児をなんとしても神籠とすべく、厳重な庇護下に置くための対応かと思われるが。
さすがに愛妻を亡くした直後に我が子とまで引き離されて、兄が可哀そうだと達樹は語った。
「香賀瀬さんのお力でなんとかなりませんかねぇ?」
ダメ元で聞いてみよう、という程度の言い方であった。けれど敬慕する神籠からの相談に、香賀瀬は真剣に対応を考える。
当時、八朔家は当主である克樹の妻が身罷ったばかりで、克樹には妾もおらず、後妻を迎えるつもりもなかった。弟である達樹も、自分がいつ病や軍務で死んでもおかしくない身であったことを鑑みてか、妻子はいない。八朔家の分家筋も絶えていたため、最も神籠を継ぐ可能性が高かったのが、その時点では五十槻であった。
祝部は神籠の継承条件を把握し、管理している。彼らが幼い五十槻を拉致同然に百雷山へ連れ帰り、神籠の条件を満たす人物へ養育しようとしていることは、明白であった。大皇の臣下である彼ら祝部は、そういった強引な対応を可能にする強力な権限を有していた。
しかし、祝部の職掌を侵さぬよう、育成の方針を共有してもらえれば。五十槻は実家、もしくは実家に近い場所で養育できるのではないか。そう考え、香賀瀬は陸軍の伝手を頼りつつ、百雷の祝部のもとへ訪れ、五十槻の扱いを打診することにする。
けれど香賀瀬の憶測は外れていた。百雷の祝部が五十槻を自分たちの手元へ置いているのは──あくまで彼女の性別を隠すためであった。
百雷の荘厳な社殿の中で、あっさりとそれを告白されたとき。香賀瀬は祝部を非難した。「女児を神籠の候補として育てるなど」と。
けれど祝部は落ち着き払って言うのである。他の神實がどうかは知りませんが、と前置きをして。
「五十槻殿は性別いかんに関わらず、次の八朔の神籠に最も近い方です」
と。性別を偽っているのは、香賀瀬同様、世間には神籠になれるのは男児のみ、すなわち男児のみに神籠の資格ありと考えている者が多かったからである。性別の隠蔽は、五十槻の後難を避けるための措置であった。
香賀瀬は冷静に祝部の説明を聞いている面持ちを保ちつつ、内心は面白くなかった。候補として英才教育を受けてきた自分ですらなれなかった神籠に、女子がなれるはずはないと。
百雷の祝部は五十槻の性別の隠匿を条件に、あっさりと彼女の身柄の受け渡しに同意した。
しかし問題は山積である。まず、祝部が言うには、八朔家で五十槻の性別を知っている者は、彼女の父しかいない。まだおむつも外れていない幼い五十槻の面倒を見るうえで、父親以外の者が五十槻の世話をする可能性を考えれば、実家で性別を知られることなく生活させることは困難である。
いたしかたなく、香賀瀬は神祇研で五十槻を預かることにする。遠く離れた百雷山よりは家族と会える機会も多いだろうし、達樹の望みに一番近い処遇だと考えることにした。
五十槻を引き取って最初の数年は、穏やかなものだった。一応は神籠の候補としてそれなりの教育を施しつつ、時たま職員と遊ばせたり、家族と会わせたりしていた。一度だけ、「せんせえもうたお」と舌足らずな声に誘われて、いっしょに童謡を歌ってやったりもした。
神籠の候補と目された者が結局神籠になれないなんてことは、間々あることだった。自身もそうだったように。香賀瀬はきっと、五十槻もそうであろうと思っていた。なにせこの子どもは、女子なのだから。
時おり会う達樹から「五十槻は実家に戻せませんか」と尋ねられることだけが、香賀瀬を心苦しくさせた。結局、祝部との約定もあり、彼に五十槻の性別を打ち明ける機会は永遠に訪れなかった。
達樹が死んでからすべてが変わった。
継承の儀のため百雷山へ連れて行かれた五十槻は、紫色の瞳を宿して帰ってきた。八朔の神籠を受け継いだ証である。
香賀瀬は腸が煮えくり返るような思いだった。
神籠とは、自分が望んでもなれなかった聖なる存在である。
それを、女子が。憧れの人である八朔達樹の跡を継いで、神籠に。だから。
香賀瀬はそれ以降、五十槻から女性の要素を一切排除しようとした。そのうえで五十槻を、己が憧憬を抱いた「八朔達樹」の型枠へぴったりはまって育つように支配した。少女は愚直にも、香賀瀬の歪んだ教育方針へ適応してしまう。
そして。
五十槻は女性の身でありながら、八朔達樹そっくりに育ってしまった。立ち居振る舞いも、精神も、あの夜叉の笑みも。
それが許せなかった。彼女をそう育てたのは、自分自身であるにも関わらず。女が八朔達樹の顔で夜叉の如く笑う様を、彼は到底受け入れることができなかった。
──女は神籠になれないはずだ。いや、なってはいけない。私を、差し置いて。
香賀瀬は自らの身勝手を振り返ることもなく、養い子へ嫉妬と憎悪を募らせている。
「おい、もっと飛ばせないのか」
香賀瀬は運転士へ冷たく言い放つ。自動車の後部座席で、香賀瀬は苛々と研究所への到着を待っていた。
先刻、研究所の警備から連絡があった。神域を展開していないのに、八朔の神籠が発動した、と。
知らせを受け、香賀瀬は自宅での家族団欒もそこそこに職場へ戻っている。
どうして神域外で神籠が発動したのか。そもそも一部の神實は、神域外でも自身の身体を神域代わりにして、神籠に近しい現象を起こすことが稀にあると、研究者の一部には知られている。主に、自らの身に危険が迫った場合などに起こり得る現象だが。
香賀瀬には心当たりがある。楢井に命じてきたことだ。きっと今ごろ、あの顔で二度と笑えなくなるくらい、ずたずたにされていると思っていたのに。
「何もかも出来損ないだな……」
苛立った呟きを漏らした頃、香賀瀬の車は研究所近くへ到着する。「ここでいい」と正門より少し手前で車を降り、香賀瀬は足早に職場へ向かう。
その途上。研究所を囲う塀に、誰かが寄りかかっているのが見えた。満月の光の下、女性らしい輪郭を描く人影が佇んでいる。こんなところに夜鷹かと、蔑んだ目で一瞥し、通り過ぎようとするけれど。
「こんばんわ、香賀瀬先生」
太華の旗袍を着たその女は、すれ違いざまにおっとりとした声音と笑みでそう言った。一瞬急ぎ足の視界によぎった美しい顔は、香賀瀬の見知らぬ顔である。
誰だ、と振り返った香賀瀬の目の前から、すでに美女は姿を消していた。
「…………」
なんとなく、嫌な感じがする女だった。けれど気にしている場合ではない。
香賀瀬は研究所の正門を通り過ぎていく。
遠目からその後姿を眺め、旗袍の女は顔から笑みを消した。
──こんばんわ、そしてお久しぶり。香賀瀬先生。




