4-6
六
「僕はもう、あなたの部下ではありません」
そう言って、五十槻は抱えた膝に顔を埋める。
物置部屋で、月明かりの明と暗に分かれながら。五十槻と綜士郎は向き合っている。五十槻はぎゅっと膝を抱える腕に力をこめた。
会いたかった人なのに、会わせる顔がない。五十槻はたくさん過ちを犯したから。頭がぐちゃぐちゃになるくらい、間違えてしまったから。
それにしても、どうして神祇研の建物の中に藤堂大尉がいるのだろう。五十槻の失態を叱りに来たのだろうか。
藤堂大尉がいる方向からは、呆れたようなため息の気配。
「……何を言ってるんだお前は」
すっかり聞きなれてしまった兄の口調だ。五十槻は顔を伏せているから分からないけれど、きっとこちらへ、あの柔らかい眼差しを向けているのだろう。
「お前は変わらず俺の部下だよ。じゃないとこんなところまで迎えにこないだろう」
「いいえ。僕の所属は、今後は神祇研になるそうです」
あたたかく語り掛ける言葉へ、五十槻は淡々と返す。
「……誰がそんなことを言ったんだ?」
「香賀瀬先生です」
「そんな辞令は出てないぞ」
「これから出るのではないですか」
「五十槻……」
違う。困らせたいんじゃない。大尉が迎えに来てくれたと思うと、正直嬉しかった。けれど五十槻は応じられない。
五十槻は伏せた真顔を保ちながら、懸命に堪えている。嗚咽を。涙を。
「……ごめんなさい」
五十槻がしなければならないのは、懺悔だ。
「ごめんなさい、藤堂大尉。僕は任務延期の指示を守らず、心配してついてきてくれた獺越さんを、危険に晒してしまいました」
「…………」
少女の懺悔を、綜士郎は静かに聞いている。
ごめんなさい、藤堂大尉。
「大尉がきちんと食べて寝ろと言ってくれたのに、僕は自分の都合を優先して、守りませんでした」
「心配してくれた大尉へ、生意気な口をききました。差し伸べてくれた手を、振り払ってしまいました」
「勝手に管轄地を離れ、雲霞山の門を破壊しました」
「僕は……」
恬淡とした声が震え始める。
「僕は、人に対して神籠を使ってしまいました。あなたが一番厭っている行為に、手を染めてしまいました」
だから、と五十槻は続ける。震え始めた声を、無理矢理平坦に押さえつけて。
「だから僕には、もう藤堂綜士郎大尉の部下を務める資格はありません。あなたの信念を穢した、僕に……」
懺悔の後にしないといけないのは。
訣別。
「お帰りください、藤堂大尉」
「…………」
「香賀瀬先生に聞きました。僕が第一中隊へ配属されたことは、間違いであったと。間違いは正さねばなりません。僕の所属は、神祇研です。それに過ちを犯した部下が異動することは、あなたにとっても利のあることでしょう。だから、あなたと僕はもう関係ないはずです」
「…………」
「あなたと出会わなければよかった」
綜士郎は黙って聞いている。
「僕の居場所は元々神祇研です。神域の中です。禍隠の群れの中です。神籠に目覚めたときから、末期のときまで。そう定まっています。なのに」
──僕は自らの宿命に、疑念を抱いてしまった。
感情も感性も表情も、すべて置き去りにして生きていたはずだった。そのはずなのに。
藤堂綜士郎の部下として生きる日々は、陽だまりの中のように温かかった。
賑やかな食卓を囲み、肉親と触れ合い、様々な人々とともにあって。
感謝の言葉をかけられて、優しい笑みを向けられて。
五十槻は知った。自分を囲う枠の外側が、こんなにも色鮮やかだったことを。
けれど自分にはすべてが過ぎたるもの。
五十槻にはもう、藤堂綜士郎の部下を務める資格はない。陽だまりの内にいる資格はない。
これからはここで。神祇研で。香賀瀬先生の部下として、まずは対人への神籠使用を償わなければならない。また先生のご意向が確かならば、改めて楢井さんの求めに応じなければならない。間違った教育をやり直さなければならない。
従順に、逆らうことなく。八朔の神籠として、あるべき形になるべく。
「もう僕を惑わせないでください」
美味しいものを一緒に食べないでください。
人の輪に入れないでください。
ばかたれって言わないでください。
叱ったり褒めたりしないでください。
名前を呼ばないでください。
あたたかな眼差しをこちらへ向けないでください。
背中を優しく撫でないでください。
陽だまりが、恋しくなってしまうから。
「僕に……宝物をたくさんありがとうございました。だから、さようなら。藤堂大尉」
そして五十槻は沈黙した。綜士郎はまだ黙っている。
静寂の中、衣擦れの音がした。ぎし、と古びた床がきしむ。目の前へ、長身がしゃがみこんだ気配。
「五十槻」
声は五十槻と同じ目線から発せられた。
呼びかけへ、五十槻はひたすら身を固くしている。
「俺もさ、宝物をたくさんもらってるんだよ。お前から」
顔を伏せたまま首を横に振る。
「一緒に飯を食ったこと、危険な任務から無事生還してくれたこと、甲や獺越にともに振り回され、ときにはお前自身にも手を焼いたこと、それから腹を割って話し合ったこと……ぜんぶ、俺にとっても宝物だよ。兄のようだと言われて、正直嬉しかった」
「…………」
「お前自身だって、俺やお前の家族、清澄のお嬢さんや、中隊のみんなの宝物だ。皆がお前を大事に思っているし、こんなところにお前がいることを、きっとだれも望まない。だからさよならなんて、言わないでくれ」
「……」
「なあ、五十槻」
自分の名を呼ぶ、優しい声。
「一緒に帰ろう」
五十槻は負けた。陽だまりのあたたかさに。
紫の瞳が、おそるおそる前を向く。月光の落ちる床の上に、藤堂大尉がしゃがみ込んでいる。心配そうにこちらを覗き込んでいる。
五十槻の痣と傷だらけの顔を見て、綜士郎はまず、悲痛な面持ちを浮かべた。それからそれを無理に押し込めるように、五十槻を安心させるように微笑を作る。
こちらへまっすぐ向けられているのは──鋭い目元をやわらげて、優しくこちらを見つめる、五十槻の大好きな眼差しだ。
「おいで、五十槻」
差し出された掌へ、たまらず五十槻は縋りついた。
暗がりの中から引っ張り出されて。
気が付けば、五十槻は藤堂大尉の胸に顔を埋めて泣いていた。声を放って。赤子のように。
「殴られたのか……。痛かったな、辛かったな……」
綜士郎の大きな手が、少女の背中を優しく撫ぜる。よし、よし、と幼子をあやすように。
「苦しかったな、五十槻……」
その声と、背中を撫でる温かさに、涙はとめどなく、後からあとから溢れてくる。ぐすぐすと、大尉の軍服にしがみついて五十槻は涙声を放った。
「ぜんぶ、ぜんぶ怖いです、大尉……!」
認めてしまえば楽だった。五十槻は怖かった。
女性として身体が成長していくこと。それを止めたかったこと。
先生の言う手術を受ければ成長は止まるはず──けれど、生まれ持った自身の身体の一部を取り去ることは、やはり恐ろしくて。自らの内心を、五十槻は嗚咽とともに打ち明ける。五十槻が手術の内容を口にした時、背中をさする綜士郎の手がこわばったように止まった。
「僕は出来損ないだから、先生の言う通りにしないと……立派な神籠になれないから……!」
「そんなことはないんだよ、五十槻」
しゃくりあげる五十槻を抱きしめながら、綜士郎も震える声で言う。
「お前の身体や心に──不可逆を強いる大人の言うことなんか、聞かなくていいんだよ……」
祈るような言葉だった。五十槻は声もなく、綜士郎の胸元でただ何度も頷いている。
それから五十槻は全部吐露した。
駅で偶然、香賀瀬先生と会ったこと。雲霞山へ同行を請われ、心配した万都里を伴って出立したこと。
三人で駅弁を食べたこと。到着後、それを吐かされたこと。万都里へ危害を加えられたこと。
門を破壊し、先生の指示を破って禍隠を殲滅したこと。
神祇研へ連れ帰られ、万都里の安全と引き換えに女性器の摘出手術を命令されたこと。
それから──。
先刻の、五十槻の神籠が暴発するに至ったあらましまでを聞き、綜士郎の目元は怒りで震えている。
「……すまない。嫌な出来事だったろうに、しゃべらせてしまった」
「いえ。聞いてほしかったです。大尉に」
「……俺にくっついてて大丈夫か?」
言いつつ少し身を引こうとする綜士郎に、五十槻はぎゅっとしがみついた。「藤堂大尉は平気です」と言うと、大尉は「そうか」とちょっと戸惑った様子で返した。それからまた、優しい手のひらが不器用に背中を撫でてくれる。
「……けれど、僕は人に対して神籠を使ってしまいました」
ひどく気に病む口調で、五十槻は悔いている。
「ごめんなさい。大尉が一番、厭われることです」
少女の悔恨に、綜士郎は少しだけ考えるような間を挟んだ後、前向きな声音で答えた。
「……いや。俺は思うよ。それは、お前の神さまがお前を守ってくれたんじゃないか」
「祓神鳴神が……?」
「出そうと思って出したわけじゃないんだろう? 仕方が、ないよ……」
言いながら、綜士郎は過去のことを思い出したのだろうか。少し言葉尻が気弱になっていく。「俺の神もそうだったのだろうか」と、ぽつりとこぼした呟きを、肯定したくて五十槻はいっそう綜士郎の胸へ顔を埋めた。五十槻を抱く腕の力が、少し強くなる。
「ともかく……お前のところの神さまは、子孫思いのいい神さまだ。俺はそう思う」
そうか、神さまが。綜士郎の優しい解釈が少し心を楽にする。神さまの心遣いは、勅令違反となるのだろうか。
「申し訳ありません、藤堂大尉……」
それから改めて、五十槻は今日の命令違反を謝罪した。やっぱり、謝らなければならないことがたくさんある。何度も何度も、謝っても足りないほどに。
「今朝僕が、あなたの指示を守らなかったばかりに……獺越さんまで巻き込んで、こんな大変な事態にしてしまいました。僕は軍人失格です」
どんな処分もお受けします、という彼女に、綜士郎はいったんふだんの上官の顔になる。
「……そうだな。お前のせいで足並みが乱れ、同僚を危険に晒してしまったわけだ。たしかに軍人失格だ」
そこで綜士郎は表情を緩めた。安心させるように、父のような、兄のような声で言う。
「けどな、お前はただの……十五の子どもなんだよ。子どもが時々わがままを言ったり、大人に歯向かったりするのなんて、当たり前のことだ」
「子ども……」
「今日はお前のことをがきんちょなんて言って、悪かったよ。でもさ……」
先刻は子ども扱いされて、あんなに苛立ったというのに。
そうか、僕は子どもなんだと思うと、五十槻はなんだか安心した。大尉の大きな手のひらは、子守唄のような調子に変わって十五の少女の背中をあやしている。とん、とん、と緩やかな律動を刻んで。
「五十槻は……守り、慈しまれるべき──ひとりの大切な子どもだよ」