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五
陸軍神祇研究所の敷地は広い。
三階建ての研究棟二棟に、広い森のような土地で構成されている。神籠の研究の際に異能を発動する関係上、敷地を広く取る造りになっているらしい。皇都十二区内に所在するが、山間部近くの閑散とした場所に位置している。
その神祇研正門奥の本棟三階の窓に、紫色の雷光が閃くのを綜士郎は見た。続けてごぉん、と轟く音に、青年は同行の一団へ目配せを送る。
「八朔くんの身になにか起きているね」
荒瀬中佐が言った。
一同は研究所から少し離れた路上に車を停め、遠目から様子をうかがっている。
現場付近には荒瀬中佐と御庄軍医が待機することになっている。他は、神域の展開と、式の感知を担当する式哨が数名。
荒瀬中佐の指揮により、八朔少尉と獺越少尉の救出にあたり、藤堂大尉と甲伍長が二名で神祇研へ潜入する。正面から馬鹿正直に「返してください」と言っても、たぶん返してもらえないからだ。第一中隊から強奪された五十槻と万都里を、強奪し返しに行くわけである。
今回潜入する二名とも、拳銃の携行を命じられた。もしものときには発砲せよとのお触れである。
渡された拳銃を手に、綜士郎と精一は顔を見合わせた。そして「甲。お前、銃撃ったことあるか?」「ない。むり。こわい」「俺も……」という不安極まりない会話が交わされる。神籠はふだん、銃器の効かない禍隠への対処が職務である。士官候補生、士官学校、任官後と、一般的に神籠の神事兵が銃器の取り扱いを学ぶ機会はほぼない。例外が銃火器を得物とする獺越の神籠と、職務上、対人の制圧を行う可能性がある憲兵の神籠くらいである。
また、綜士郎と精一は、それぞれ右手の甲に式を貼り付けている。神籠の使用が必要な場面で、式哨へ手を振って合図を送るためだ。
今回は少尉二名の救出にあたり、神籠の使用が許可されている。ただし敵方にも神籠がいる以上、常時展開はしない。必要時だけ式による合図を使って連絡を取り、神域の展開を行う。
「いいかい、絶対に神籠を人へ向けてはいけないよ」と、作戦前に荒瀬中佐は再三念押ししてきた。もちろん綜士郎は、自身の異能を人へ向けるつもりはいささかもない。
「藤堂くん。準備はいいかい?」
「はっ、いつでも」
中佐の確認へしっかりと返事をして。綜士郎は意識を集中する。彼の神籠の利点の一つは、神域の展開に気付きやすいことだ。大半の神籠は実際に能力を発動することでしか神域の機能を確認できないが、綜士郎の神籠には探知能力が付随している。この探知能力を知覚することで神域が機能しているかを、攻撃能力の発動なしに把握できる。こんな場面でもなければ、あまり便利さを自覚できない利点である。
やがて綜士郎の頭部へ、脳領域が拡張されるような感覚が訪れた。神域が展開されたのだ。
神域は神祇研の敷地をすっぽり覆うように展開されている。綜士郎の神籠は、建物の構造、木々の一葉一葉、人々の配置等の事細かな位置情報を、一瞬のうちに脳へ叩きこんでくる。
あまり時間がない。綜士郎は雑多な情報はなるべく排除して、建物の構造や人物等の配置にのみ焦点を絞って探知を行う。
「……やはり目の前の建物三階に、五十槻はいるようです。獺越も同じ棟の一階にいます。両名とも怪我をしているようですが、命に別状はないかと。あいつらの武器や装備も、一階の別室にあるようだ」
「よかった、獺越くんも無事か」
「それと……」
綜士郎は目を瞑りながら、眉根を寄せている。探知域の中で見つけたそれは、あまりにも異質な存在だった。
「森の中に妙な物体があります。宙に浮く、丸い穴のような……」
その報告に、荒瀬中佐は目を細める。おそらく綜士郎が見つけたその丸い穴は、きっと櫻ヶ原の地下と雲霞山にあったものと同じものだろう。門だ。
「なるほど、神祇研の敷地に門ねぇ……」
大義名分だな、とひっそりつぶやいて。荒瀬中佐は作戦の決行を告げる。
「ひとまず門は置いておこう、八朔くんも消耗してるだろうしね。禍隠どもへの対処は後で考えるとして、さしあたっては少尉二名の救出を優先してくれ。それじゃあ作戦開始!」
「はっ!」
「うっす!」
と、威勢よく出撃する綜士郎と精一であったが。
研究所の正門には当然門衛がいるし、周囲にも警備の兵が配備されている。先程の雷鳴に、少々浮足立っている様子であったが。
研究所の敷地は高い塀に囲まれている。塀の内には、建物より高いクヌギの木が何本か、整然と植わっているようである。
物陰に隠れつつ、綜士郎と精一は様子をうかがう。さて、どこから侵入しよう。
「くそっ、意外と死角がないな……」
「無いのなら、作ればいいじゃない、死角」
危険な潜入任務にも関わらず、精一はふだん通りのふざけたキツネ顔だ。
精一は研究所の高い塀から覗いている木に目をつけると、「破ァーッ」と気を放つような仕草をした。たぶんそんなことしなくても、彼の神籠は発動する。
果たして、塀の上からバサバサと音を立て、大きめの木の枝が塀の外の目立つ位置へ落ちてきた。なんだなんだ、と衛兵がそれを覗き込んでいる。
彼らの注意が逸れている間に、綜士郎と精一は研究所の塀へ近づき。
精一が別の木へ神籠を使い、今度はにょろりと長い枝が縄のように二人の目の前へ垂れ下がった。これに掴まれということだろう。綜士郎と精一が枝に掴まると、今度は上へ上へと引き上げられる。
衛兵らが持ち場へ注意を戻すころには、彼らはすでに塀の内の、高い木の上である。
「やっぱり便利だな、甲の神籠は」
「へへ、そーじゃろそーじゃろ。俺、兵隊さんよかニンジャとか泥棒の方が向いてっかもね~」
神籠を悪用するんじゃないと、本来なら拳骨のひとつも落とすところであるが。
綜士郎は鉄剣制裁を免除して、クヌギの幹に掴まりつつすぐそばの研究棟を見渡した。ここの三階に五十槻がいて、一階に万都里がいる。
「中佐の指示通り、ここで二手に分かれよう」
「よし、じゃあ俺はまつりちゃんのお迎えね」
「いいか、もし獺越が戦闘可能な状況なら、対戦闘要員への発砲許可が出ている旨を必ず伝えてくれ」
綜士郎は自身の神籠で把握した研究所の間取りを、手短に精一へ伝える。もちろん、鹵獲された万都里の装備品の位置もだ。精一は聞いているのかいないのか、よく分からない顔でハイハイウンウン適当な相槌を打つと、話し終えた綜士郎へ、何やら紙包みを複数手渡してきた。
「……なんだこれ?」
「おせんべ。で、これは飴ちゃんね。いつきちゃん、お腹空かしてるでしょ、きっと」
「ああ、そうだな……」
受け取った菓子を大事にしまい込み、綜士郎は「じゃあ頼む」と、頭上の少し太めの枝へ、勢いをつけて両手でぶら下がった。ちょうどこの枝の位置が、目前の研究棟の屋上と同じくらいの高さだ。精一が「おうよ」と応じる。
綜士郎が掴まっている枝は音もなくぐんぐん水平方向へ伸びていき、やがて研究棟の直上へ到達する。綜士郎が屋上へ飛び降りると、枝は何事もなかったかのようにするすると元の位置へ戻っていった。
(神籠が使えなくなったな)
精一はクヌギの木が何も反応しなくなったことを確認すると、自力で素早く高木を降りていく。まるでキツネ顔の猿のようである。
いったん神域が解除された。ここからはよっぽどの緊急時以外は、神籠なしで潜入しなければならない。
(さてさて、まずはまつりちゃんの武器の回収といきますか~)
行動にも思考にも、一切緊張感のない精一とはうらはらに。
一方、建物屋上へ侵入した綜士郎は、神籠で感知した三階の状況を思い返し、面持ちを沈ませていた。
五十槻がいるであろう小部屋とは別室に、三人ほど気絶している男がいる。そのうち一人は確か、元憲兵の楢井だ。さきほど雷光が起こった部屋である。
──何か、されたのではないか。
八朔の神籠は、神域外であっても自身の神経の電気信号を無意識に操作して、身体能力を底上げする特性を持つ。
……のかもしれないと、以前御庄軍医が語っていた。神實は神の末裔である。つまりその身体には祖先の神性が宿っており、肉体自体が神域の代わりを果たすこともあるのかもしれない、と。
五十槻に関しては、ふだんは火事場の馬鹿力という形でそれが引き起こされることが多い。
先程の稲光の時点では、神域は展開されていなかった。あの部屋で、五十槻が身の危険を感じるような何かが起こったのかもしれない。けれど、馬鹿力はともかく、五十槻は神域外で雷撃を起こしたことはないはずだ。
幸い今のところ、神祇研はまさか、第一中隊の神籠が侵入してくるとは思ってもみないようだ。人んところの部隊の将校二人も攫っといてどういう油断の仕方だよ、と綜士郎は思うが、ひとまず恩恵にあずかることにする。三階には倒れている三人と五十槻以外、警備人員はいないようだ。
綜士郎は屋上の出入り口から屋内へ入ると、まっすぐ五十槻が隠れている部屋へ向かった。
それにしても。
(香賀瀬さんはいない、か)
神籠で確認できた限り、この研究所のどこにも、疑惑の恩人の姿はない。できれば鉢合わせることを願ってすらいたのだけれど。
少し古びた建物の中を、綜士郎は足音を潜めて歩く。
今日は満月だ。廊下に並んだ窓からは、月明かりがよく入る。
周囲は静まり返っている。けれど、五十槻が雷撃を起こした以上、誰かが様子を見に来るかもしれない。綜士郎は目的の場所へ、足早に向かった。
五十槻が隠れている場所は、乱雑に物が置かれた部屋のさらに中にある、がらんとした小部屋だ。物置といっていい。
綜士郎は入れ子になっている部屋のまず外側の方に入り、閉ざされている物置の扉へゆっくり近づいた。
五十槻、と静かに呼びかける。
返事は返ってこない。
けれど、ここにいるはずだ。
「俺だよ、五十槻。藤堂だ」
綜士郎は扉を開いた。
五十槻はいた。雑多なものが詰め込まれた棚へ、身を寄せるように。背中をぴったりと壁にくっつけて。月明かりの横たわる物置の中で、暗闇の影に膝を抱えて身を潜めている。
「藤堂、大尉……」
紫の瞳は信じられないものでも見るように、こちらを見つめていた。しかし五十槻はすぐに顔を伏せる。
「五十槻……」
「来ないでください」
歩み寄ろうとした綜士郎が、ぴたりと止まる。少女は震える声を無理矢理押さえつけるような、気丈な声で拒絶している。
「僕は──僕はもう、あなたの部下ではありません」




