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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
60/126

4-3


 第一中隊、備品倉庫。中隊舎は荒瀬中佐が電話中のため、他に内密の話ができる場所といえばここしかない。

 倉庫内には二人しかいない。綜士郎と、御庄軍医少佐と。

 綜士郎は御庄医師から、五十槻の生い立ちについて、あらましを聞かされている。

 青年は香賀瀬修司を敬慕していた。だから、その胸糞悪い話を到底受け入れられるはずもなかった。香賀瀬さんを馬鹿にするなと、目の前の軍医に掴みかかっていたかもしれない。


──以前までなら。


 綜士郎はズボンのポケットに突っ込んだ手の内で、件の領収書に触れながら話を聞いている。


「私が八朔五十槻くんの主治医に任じられたのは、あの子が三つのときです」


 当時、五十槻が百雷山から神祇研へ引き取られて、半年くらい経った頃だった。前任の主治医が諸事情で離職することとなり、後任となったのが御庄康照軍医、当時中尉である。

 その頃の五十槻はどこにでもいるような三歳児だった。自分のことを「いっちゃん」と呼び、よく泣く子だった。転んで泣くのはよくあることで、父親から貰った小刀を無くして大泣きしたり、叔父から貰った戦艦のおもちゃを勝手に捨てられて、やっぱり大泣きしたりしていた。

 いっちゃんは「どんぐりころころ」の歌が特にお気に入りである。よく神祇研の敷地でどんぐりを拾いながら歌っていた。けれど生来なのか何なのか、その頃から基本的に真顔であった。

 御庄医師は、五十槻が神祇研へ引き取られることとなった詳しい事情について、ほとんど説明されなかった。けれど香賀瀬が言うには、彼が尊崇する八朔達樹大尉の意向による措置らしい。

 そんな神祇研あずかりの訳あり神籠候補を、御庄医師は月に一度程度、往診することになった。

 男児と聞かされていた医師は、初回の検診でいきなり仰天する羽目になる。


「驚きました。本人が鼠経に湿疹ができているというので、患部を確認しているときでした……」


 五十槻の性別は診察中に判明した。

 御庄医師は当然、養育の担当である香賀瀬博士へやんわり問い質す。

 当時の香賀瀬は厳格そうな顔を心底困らせながら、こう語ったという。


「我々も正直、扱いに困っているところです。八朔大尉からのご依頼で、百雷山からあの子を引き取ったのですが……まさか女児を神籠候補に迎えているなどと」


 五十槻は生まれた当時から対外的には男子である。八朔大尉自身もすっかりそう思い込んでいるようで、香賀瀬はその真相を八朔大尉へ伝えあぐねているようだった。結局八朔達樹は、五十槻の本当の性別を知らないまま殉職を遂げる。

 神祇研での五十槻への教育は、たまに来訪する御庄医師の目から見ても偏っていた。未就学児に対し、読み書き、礼儀作法、武道を詰め込み式で朝から晩まで習わせる。泣いたり喚いたりしようものなら暗い物置に閉じ込める。「いっちゃん」の自称は、いつしか「僕」「自分」へと矯正されていた。

 けれど、時おり神祇研の職員とかくれんぼして遊んでいる風でもあったし、全般的に右側に偏った教育内容ではあっても、たまにまっとうな内容を指導していることもあった。傍から見ていて、ちょっと厳しめではないか、くらいの塩梅だっただろうか。

 おそらくはこのとき香賀瀬博士も、五十槻が本当に神籠になるとは思っていなかったのだろう。

 風向きが変わったのは、八朔大尉の殉職後である。


 五十槻が神籠を継いだ。


「それからです。厳しい教育方針が、虐待へ変じたのは」


 月に一度の往診のたびに、五十槻の様子は目に見えて変わっていく。

 ときどき笑みがこぼれていた表情は、常に真顔の状態を保つようになり。

 あのね、せんせい、と診察中に賑やかだった舌足らずなおしゃべりが、無口に静まり返る。

 どんぐりころころを歌っていた声は、子どもらしからぬ語彙で自らの使命を語るようになった。

 泣き虫いっちゃんは、泣かなくなってしまった。

 激しい折檻の痕が見つかることもあった。


「八朔くん。誰にも言わないから、先生に話してくれるかい?」


 ほかに誰もいない、診察用の部屋で。御庄医師は五十槻の二の腕にできた大きな打撲痕を診ながら尋ねた。誰かに叩かれたのかな、と。


「いえ。僕の不徳の致すところです」


 当時六歳の五十槻は、具体的なことは何も答えなかった。

 その後、御庄医師が香賀瀬へ打撲の痕のことをそれとなく指摘すると、次の診察以降、虐待痕のようなものは見つからなくなる。けれど医師は安心できなかった。往診と往診の間に、怪我が完治するくらいの期間を見計らって続けられているかもしれなかったから。

 五十槻は香賀瀬のことは、絶対に悪く言わなかった。


──香賀瀬先生は、素晴らしい方です。

──出来損ないの僕を、立派な八朔の神籠となるべく育ててくれている。


 当の香賀瀬は五十槻を養育しつつ、常に嫌悪の目を彼女へ向けているようだった。特に、過剰なまでに五十槻から女性らしさを排除しようと躍起だった。笑ったり泣いたりしないように強制していたのは、喜怒哀楽によって少女らしい、愛らしい表情がこぼれるのを防ぐためだ。


「軍医中尉。『あれ』を女として成長させないためには、どうしたらいい」


 そんな香賀瀬の質問に、御庄は度々頭を抱えた。


「この間、医学書で読んだんだ。女性を女性として成長させるのは、卵巣の働きによるものなのだろう? 『あれ』には終生必要のない臓器なのだから、いっそ子どものうちに摘出しては」


 この考えを改めさせるのに、御庄医師はかなり難儀した。手術に本人の負担が相当かかること、万が一予後が悪ければ、下手をすると八朔の神籠を失うことになるということ。けれど香賀瀬は諦めがつかない。「それじゃあどうしたらいい、代案を出せ」と、医師は香賀瀬に詰め寄られ。

 そうして提案したのが、今日まで続く五十槻の食事制限だった。

 なるべく糖質、脂質を抑え、タンパク質を多めに摂取させる。

 嗜好品は与えない。絶対に。

 香賀瀬が大豆の効能についてどこかで調べてきてからは、五十槻は大豆アレルギーということになった。以降、大豆製品は摂食禁止となる。

 また、月経の発生を妨げる薬もここに加わる。現在も、五十槻が毎朝食後に服用している薬である。

 それまでも五十槻の食生活は質素な方であった。けれど、制限後はよりさもしい食事となる。五十槻は唯々諾々としてすべての事象に従った。食事については、「身内に虚弱体質の者がいたため、念のための養生」と御庄から説明した。至極まっすぐな眼で、少女は疑うことなくすべてを受け入れた。


 八朔五十槻は神祇研でのあらゆる理不尽に、悲しいかな適応してしまった。食事も、勉学も、鍛錬も、精神も。卑屈も委縮も許されず、ただ気高くあることを強要され。

 少女は少年として、香賀瀬修司が用意した『八朔の神籠』という歪な型枠に、ぴったりはまって育っていく。

 学校で友達もできぬまま。他者と自身の幸福を、比較する機会も与えられず。枠の外側を、覗く機会も。


 いつも検診の終わりのときに、必ず五十槻はまっすぐ目を見ながら、礼を述べた。先生、いつもありがとうございますと、年に似合わないしっかりした口調で。御庄医師が「こちらこそありがとうね」と返すと、真顔なりに嬉しそうな顔をする。そのたびに医師は思った。この子は、他者からの善意に飢えていると。

 時々会える、御庄から。時々帰ることのできる、家族のもとから。

 五十槻は他者から与えられるわずかばかりの善意を、ずっと大事に大事に握りしめて生きてきたのだろう。


「──どこかで、救ってあげたかった」


 倉庫の暗がりの中で、顔に暗い影を落としながら御庄医師は続ける。


 御庄自身、二人の娘を持つ身だ。五十槻のことは決して他人事ではなかった。

 けれど、彼の力ではそれは叶わなかった。香賀瀬は憲兵隊とも通じているようであったし、小学校で五十槻に絡んできた公爵家の息子が謎の権力で転校させられたり、まるでかの博士の周囲を、不可解な権力が取り巻いているようであった。

 一度、五十槻の扱いについて、香賀瀬へ苦言を呈した際。

 下校途中の御庄の娘が、交通事故に遭い大怪我を負った。幸い命は助かったものの、娘は回復後に気になることを言った。「後ろから誰かに車道へ押し出された」と。

 事故後、香賀瀬は御庄へ、世間話の最中に「大変な事故でした。これからもお気をつけください」というようなことを口にした。ただの雑談上の注意喚起とは到底思えない言い方だった。けれど警告や強迫にはならないような、絶妙の表現であった。

 娘の事故と香賀瀬とを簡単に結びつけるのは、早計かもしれない。けれど万が一の家族の安全を考えて、御庄にはそれ以上、五十槻に関して手出しができなくなってしまった。

 ただひとつ、できたことは──御庄の旧知で現役の神事兵佐官であった荒瀬中佐へ、神祇研での経緯をひっそりと相談しておくことだけ。


「……これが、八朔五十槻くんの生い立ちです」

「…………」


 語り終えた御庄医師に、綜士郎は項垂れることしかできなかった。


「……俺の知っている香賀瀬修司じゃないようだ」


 絞り出すように言った一言に、医師は何も言わない。

 やはり思い返してみても、綜士郎の記憶にある香賀瀬修司とは別人のようなふるまいだ。同姓同名の別人と言われた方が納得できる。十二年前の大応連山の事件で、親身に綜士郎に寄り添ってくれた彼とは、とても。


「……本当にあの人が、五十槻にそんな残酷を強いたんですか」

「……はい」


 綜士郎はポケットの中で、ぐしゃっと領収書を握りしめた。御庄の話を、嘘だ、と思う自分もいる。けれど、恩人へ疑念を向ける自分もいる。綜士郎の中で、香賀瀬に関する処理がなにも追いつかない。


「五十槻……」


 今はただ、少女の身ばかりが案じられる。どうして今日の医務室で、自分はもっと彼女に真剣に向き合わなかったのだろう。がきんちょなんて気楽な軽口まで吐いて、俺は本当にばかたれだ。

 けれど、五十槻はやっぱりがきんちょなのだ。守り、育まれるべきがきんちょだ。


「あの子にはおそらく、第二次性徴が訪れています」


 御庄医師の言った言葉は、綜士郎には聞きなれない言葉である。いかにもよく分からない顔をしている彼へ、医師は苦悩の色を強めながら説明した。


「簡単に言うと、女性としての成長が本格的に始まっているということです。今回の貧血に至った自主的な過剰な食事制限、睡眠不足は、それに起因するものかと」

「…………」


 それには綜士郎も心当たりがある。五十槻がめちゃくちゃな鍛錬を始めたり、外食に付き合ってくれなくなったり。たしかに本人も、「女性のほうが脂肪を貯めこみやすい」というようなことを言っていた覚えがある。

 ふと、青年は思い出した。あれは二人でサイダーを飲みながら、色々対話した夜のことだ。

 五十槻は確か、香賀瀬の名を聞いてから少し様子がおかしくなったのだ。香賀瀬の名が出たとたん、サイダーを咳き込みもせずに一気飲みし、それまでの和やかな雰囲気を断ち切るかのように宿舎へ帰っていった。

 それからだった。五十槻が過剰に食事を抜き始めたのは。睡眠を削り始めたのは。


「あんな状態で、雲霞山で門を壊して、神祇研へ連れていかれて……」


 御庄の語った香賀瀬が本当なら、五十槻は神祇研でどんな扱いを受けるだろう。

 万都里もどうなっているか分からない。本当なら、一刻も早く神祇研まで駆け付けたい、けれど。

 綜士郎も御庄医師も軍人だ。いまは待機命令が出ている。それに今回の件を処理すべきは、神事兵である自分たちではなく──憲兵のはず。

 しかし先程の御庄の話を聞く限り、憲兵はあてにならないかもしれない。そもそも、憲兵出身の楢井があちらにいるということは、癒着の可能性もなくはない。

 神事兵という枠組みは、やっぱり綜士郎にとっては窮屈だ。自由を封じられ、人生の選択肢を奪われて。

 こんなときに、大事な部下を迎えに行くことすらできない。

 二人が無力感に押し黙っているときだった。


「お、話終わってる?」


 倉庫の扉を開けて入ってきたのは、甲精一だ。キツネ顔はさほど深刻さのない顔で、「荒瀬さーん、いたよー」と背後へ声を上げている。続いて現れたのは、いま呼ばれたばかりの荒瀬中佐だ。


「ああ、ここにいたか。いまさっき、やっと話がついてね」

「中佐……」

「さ、八朔くんと獺越くんを助けに行こう」


 中佐の晴れやかな声に、綜士郎は御庄医師と顔を見合わせた。いま、助けに行くとか言ったか、このおっさんは。綜士郎はいかにもそう言いたげな顔である。


「あ、あの中佐……それはいったい、どういう……」

「『上』から許可が出た。対人でなければ神籠も使用していいそうだ。ちょっと今回、憲兵はあてにならないからね。ぼくらで対処せよとのことだ」


 中佐は説明するけれど、なにもかもよく分からない。憲兵に関してはさきほど綜士郎も想定していた通りだけれど、少尉二人の奪還に神籠まで使用していいとなると、ちょっと思っていた方向と全然違う。まず、中佐の言う『上』とはなんだ。神事兵が役割の(のり)をこえることへの責任は取ってくれるのか。


「荒瀬中佐……色々と聞きたいことはありますが」


 綜士郎は鷹のような眼差しを、まっすぐに荒瀬中佐へ向ける。疑問は大量にあるが──こんなに望み通りなことはない。


「説明は後でいいです、八朔と獺越を取り戻してからで。とっとと指示をください」

「はっはっは。藤堂くんがこんなに職務に前向きなの、初めてかもしれないね。よし、じゃあ」


 そのあとの中佐の台詞を引き継いだのは、なぜか精一である。キツネは遠足前のノリで雄たけびを上げた。


「神祇研にカチコミじゃあ──っ!」

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