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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
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4-2

本ページには性暴行の描写があります。閲覧の際はご注意ください。


 五十槻は目を覚ました。いつのまに眠っていたのだろう。


「獺越さん!」


 叫びながら飛び起きるけれど、同期の彼の姿は周囲にはない。板張りの床の上、資料室のような暗い部屋の中で五十槻は眠っていたようだ。後頭部にずくずくと疼くような痛みがある。


(神祇研究所──)


 部屋に見覚えがある。幼いころから過ごしてきた、神祇研の一室だ。

 徐々に雲霞山の記憶がよみがえってくる。目の前で万都里が後頭部へ銃床による強打を受け、昏倒してから。

 万都里の手当と解放をひたすら訴えた五十槻もまた、気絶するほどの一撃を受けたのだ。頭部の痛みはその打撲によるものだろう。触って確かめてみると、少量出血しているようである。気を失っているうちに神祇研へ連れてこられたということか。


(獺越さんは。獺越さんを探さないと)


 幸い五十槻は何も拘束を受けていない。いまはただ、姿の見えない万都里が心配だ。ふらつきながら五十槻が立ち上がったところで。

 ぎぃ、と古めかしい扉を開いて、誰かが部屋へ入ってきた。同時に部屋の電灯がパチンと灯される。ぶわっと急に明るくなる視野へ戸惑う暇もなく、入室してきた人物が五十槻の胸倉を掴んだ。香賀瀬先生だ。


「……自分が何をやったのか、分かっているだろうな」

「先生……」


 部屋に入ってきた人物は二人。香賀瀬修司と、楢井信吾。

 香賀瀬は五十槻の胸倉から手を離すと、「気をつけ」と指示を出す。五十槻は反射的に背筋を伸ばし、正しい体勢で待機する。楢井はその様子を、部屋の入口から静かに見守っている。


「まったく、獺越家の次男などと、厄介な交流を持ちおって……! 獺越は八朔を敵視してるんじゃなかったのか!」

「……獺越さんは」


 五十槻は指示通り直立不動を保ちつつ、紫の瞳をまっすぐに香賀瀬へ向けた。


「獺越さんは無事なのですか」

「…………」

「先生、どうして獺越さんに危害を加えようとなさったのです」


 真顔を微動だにさせず問う五十槻の胸の内では、心臓が早鐘のように鳴っている。神祇研在住時、香賀瀬修司の言動へ疑義を呈することは禁じられていた。もし禁を犯せば、相応の罰が待っている。それが幼い頃、どれだけ恐ろしかったか。けれど今回に関しては、禁を犯してでも問わなければならないと思った。


「彼はただ、門の調査と破壊に同行なされただけだ。神籠を用いた拘束を受けたり、ましてや暴行を受ける謂れはないはずです」

「…………」

「僕には先生のお考えが分かりません。僕には考えも及ばない、深慮があってのことだとは思いますが……けれどお願いです。もしここに獺越さんがいらっしゃるなら、即座に解放してさしあげてください」

「……獺越の神籠には、今日初めて会ったが」


 返ってくる香賀瀬の言葉は、五十槻の求めている答えなどではなかった。


「あれは相当の美男だな。そういえば、お前の上官も藤堂綜士郎だったか……」


 五十槻を見下ろす恩師の目は、冷めきっている。昔からよくよく知っている香賀瀬先生の目だ。幼いころから、まるで刑務官のように厳しかった、先生の。けれどその瞳は、どこか濁っている。


「……色気づいたか?」


 続いて吐き捨てるように言われた言葉は、五十槻の理解の範疇を超えていた。


「どういう、意味でしょうか」

「顔のいい男に囲まれて、本分を忘れたのではないかと問うている。お前の性別を言ってみろ!」

「男です!」


 段々と身体と瞳を硬直させていく五十槻へ、香賀瀬は低く抑えた声で命じる。


「ならば上を脱げ」


 先生の指示には、一瞬の戸惑いも見せてはならない。

 五十槻は即座に軍服の上着に手をかけて、床へばさりと脱ぎ捨てた。続いて内に着たシャツのボタンも、手早く外していく。

 部屋の入り口で立っている楢井が、おどけた調子で口笛を吹く。五十槻はシャツを脱ぎ上半身を露わにすると、再び直立不動の体勢を保った。

 香賀瀬は養い子の半裸へ、ゆっくりと近づきながらその身体つきを検分している。


「これはなんだ」


 突然、五十槻の胸部をわしづかみにして、香賀瀬が詰問した。ほとんどあってないようなふくらみである。発達途上の乳房を強く掴まれて、少女に耐えがたい痛みが走る。けれど苦痛をおくびにも出さず、五十槻はまっすぐ前を見据えながら答えた。


「乳房です!」

「なぜ男にそんなものがある!」

「それは……!」


 言い淀んだ五十槻の左頬へ、勢いよく拳が叩きこまれた。奥の資料棚へ激突しながら、五十槻は床へ倒れこむ。


「聞いているぞ、第一中隊ではさぞ甘やかされていたようだな!」


 香賀瀬は激昂する。八朔五十槻の何もかもが許せない、そんな様子だ。


「その挙句がこの身体だ! 八朔の神籠ともあろう者が、斯様なだらしない身体で許されると思うな!」

「はい、先生……」


 よろよろと立ち上がりながら、五十槻は返答をする。香賀瀬先生の教えには、すぐに返答せねばならない。僕にはあなたの教えが絶対だということを、態度で示さなければならない。

 五十槻にはすでに、万都里のことをかばっていたときの意志の強さはない。紫の瞳は凍りついている。

 よろめきながら立ち上がりかける五十槻を、香賀瀬は苛立った顔で蹴り飛ばした。


「……浅ましい女の身で神籠になぞなりおって……!」

「ごめんなさい、先生」


 憎しみのこもった目を向けられても、五十槻は従順でなければならなかった。

 先生がこんなに怒ったのは、初めてだ。

 僕が先生に逆らったから。僕が先生に口答えしたから。

 でも逆らわなければ、あのとき獺越さんは死んでいたかもしれない。


 僕は、僕は。


「うっ!」


 仰向けで倒れている五十槻の腹を、香賀瀬の足が踏みつける。革靴がぐっと、素肌ごしに五十槻の臓物へ圧を加える。


「出来損ないめ! そもそも第一中隊に配属されたこと自体が間違いだったのだ! お前は……本来は神祇研の所属だ!」

「そ……う、なのですか?」


 香賀瀬先生の言う事実は、五十槻の知らないことだった。先生の足はまだ、ぐりぐりと五十槻の腹を苛んでいる。


「くそっ、みすみす荒瀬になんぞ掠め取られなければ……!」

「間違い……」


 先生が何に対して悔しがっているのか、五十槻にはよく分からない。ただ、第一中隊への配属が間違いだったという言葉が、深く深く胸の内に落ちていく。


「五十槻」


 先生が自分の名前を呼ぶことは少ない。神祇研の中では五十槻に対し、二人称の使用すら稀である。所外で人目のある場所では、柔和な笑みで五十槻と呼んでくれるけれど。


「神祇研に戻りなさい」


 腹の上から革靴が除けられた。安楽な呼吸を取り戻す五十槻へ、香賀瀬は告げる。

 勧告ではない。命令だ。五十槻に選択肢はない。


「…………」

「どう思っていようと決定事項だ。昨年の卑怯な人事は取り消し、陸軍上層に諮って所属を書き換えさせる」

「…………」

「返事は」

「…………」


 はいと言わなければならない。ならないのに。


「……先生の言う通りにします」

「もったいぶるな。早くそう言……!」

「ただし、獺越さんの身の安全を保障してください」


 きっぱりとそう言い切った五十槻を、心底忌々しそうに香賀瀬の目が見下ろしている。


「この私相手に、交渉を持ちかけようというのか?」

「僕は昔、先生から学びました。友とは、決して裏切らぬものと。命を懸けて互いを助け合うものと」


 紫の瞳へ再び光が宿る。それはかつて、香賀瀬先生から伝えられた教えだ。時々優しい目をしていた頃の先生から。


「獺越さんは僕の同期で、大事な友です。あなたの教えを守らせてください、僕に」

「…………」


 香賀瀬もその教えを説いたときのことを、覚えていたのだろうか。厳格な面立ちは怒っているようで、少しばつが悪そうでもある。けれど。

 ぐっ、と五十槻の腹へ再び革靴が乗せられた。今度は下腹の方へ、ぐっと力が加わっている。


「分かった。獺越万都里は解放しよう」

「先生……あ、ありが……」

「ただし、お前には手術を受けてもらう」


 言いながら、香賀瀬は渾身の力で五十槻の下腹部を踏みしめた。「うぅ!」と養い子から苦痛の呻きが上がる。


「知っているか。ここに詰まっている臓器に、女を女らしくする作用のある物質を放出する働きがあるらしい」


 革靴のかかとが、五十槻の下腹の──子宮の位置を強く踏む。


「五十槻。子宮、及び卵巣を摘出する手術を受けろ。そうすれば獺越の神籠には危害を加えない。第一中隊にも無事戻してやる」


 香賀瀬は続ける。五十槻、本望だろうと。


「女性器を身体から取り去れば、お前の女としての成長は止まる。男として生きてきたお前には本望のはずだ」

「……はい」


 たしかに望んでいたことなのに、即答できなかったのはなぜだろう。しかし香賀瀬は五十槻の返事の前にあった一瞬の間には気付かず、蔑んだ眼差しで見下ろした後に彼女から足をどかした。


「……満足か。友とやらを救い、出来損ないなりに男の身に近づけて」

「はい。先生の寛大な御処置に感謝いたします」


 五十槻は起き上がり、先生へ向けて平伏した。

 僕は獺越さんのために、すべきことを成した。これで彼も助かるはずだ。

 これでいい。僕は男として育ってきて、これからも同じようにして過ごすだけ。

 手術を受ければ、変わっていく自身の身体に悩まされることもないだろう。

 先生の教えに、間違いはない。


「お前の所属は神祇研へ戻す。もう第一中隊には戻れぬものと思え」

「はい、先生」

「今日はこの部屋で待機。絶対にここから離れるな」

「はい、先生」

「……それから、服を着ろ。その見苦しい身体をこれ以上私の目に晒すな」

「はい、先生」


 言われた通り、五十槻はそばに落ちていたシャツを手に取った。香賀瀬はそのまま五十槻に背を向けて、部屋を出て行く。入れ替わるように、楢井がこちらへ歩み寄ってきた。


「手伝ってやろうか」


 楢井は大柄な体を五十槻の前へしゃがませると、彼女が羽織りかけていたシャツに触れようとする。


「いえ、お手を煩わせるまでもありません」


 五十槻は凍り付いた真顔で言うと、楢井の手が触れる前に手早くすべてのボタンをかけた。

 続いて軍服の上着に袖を通す五十槻を一瞥して、「ははっ、つれねえな」と笑いつつ楢井は立ち上がった。

 そのまま大柄な神籠の男も、香賀瀬に続いて部屋を出て行く。

 パチンと電灯が落とされる。それから古い扉がきしんだ音を立てて閉ざされた。

 後に残された五十槻は、真顔のまま正座で待機している。けれど、真顔のうちで思う。


──第一中隊への配属自体が、間違い。


 いやにその言葉が胸に深く突き刺さっている。


──そうだった。僕の居場所はここだった。

──僕が間違って第一中隊へ配属されなければ、獺越さんもきっと巻き込まなかった。


 知るべきではないことを、知らずに済んだかもしれない。

 ぜんぶぜんぶ、間違いだったんだ。

 あの陽だまりのような場所、すべて。大好きなひとたち、みんな。

 藤堂大尉との、ぜんぶ。

 僕が知らなくてもよかったこと。

……知らない方が、よかったこと。


 僕の使命は、神籠として八洲の蒼生(あおひとくさ)を守ること。禍隠を狩り、そして死ぬこと。

 香賀瀬先生に与えられた価値観の内側。神域(ひもろぎ)で囲われたその枠の中が、僕の居場所だ。

 僕は八朔の神籠。それ以外は、いらない。


「──いらないんだ」


 言い聞かせるようにつぶやいて、ぐっと膝の上に置いた手を握りしめる。どうしてかその手が、わずかに震えていた。


      ── ── ── ── ── ──


「で、獺越の神籠は約束通り帰してやるんですか?」


 廊下を歩きつつ、楢井が問う。目の前を歩く香賀瀬は、振り返りもせず、苛立った口調で答えた。


「まさか。いま上に対応を諮っている。おそらくは阿片漬けにでもして、獺越家から金をむしる材料にでもするんじゃないか。まあ、存在価値のない神籠だ。せいぜい何かしらの役には立ってもらおう」

「ははっ、可哀そうに。あの子、あれでお友達を助けたつもりですよ」

「人を、特に私を疑わんように育ててきたからな。心の底から、私が獺越を解放すると信じて疑ってないんだろう」


 そこでいったん言葉を切り、香賀瀬は大きめのため息をついた。


「それにしても出来損ないめ、反抗するようになったな。あの人の後継ぎとして相応しくあるべく、矜持を高く保つよう教育してきたが……裏目に出たか。間違ったな。すべてにおいて、育て方を」


 足元へ視線を落としつつ、香賀瀬は今日のことを思い返している。雲霞山で禍隠を神籠で一掃した後の、五十槻の笑みを。瞳孔を異様に窄ませて、うっすら悦んでいるような、あの不気味な笑みを。

 あの凄絶な笑みを浮かべていいのは、かつての皇都雷神、八朔達樹中佐だけだ。決して、浅ましくも女の身で神籠となった、あの出来損ないに許されていい表情ではない。


「楢井」


 厳格な面立ちの紳士は、背後の男へ呼びかける。


「お前の下卑た考えは分かっているぞ。五十槻(あれ)にそういう興味を持っているな」

「年頃の娘を人の目の前で脱がしといて、よく言えたもんですね」

「……ちょうどいい。お前の好きにするといい」

「ははっ、ひどい養父もあったもんだ」


 楢井の四角い顔がおかしそうに笑った。香賀瀬は立ち止まって、続きを告げる。


「なるべく尊厳を踏みにじってやってくれ。もう二度と、反抗する気を失うくらいに。どうせ女でも、男でもなくなる」


 香賀瀬は楢井の方を見ず、正面の廊下の先の暗闇を見据えながらそう告げた。

 八朔家には近頃、男児が──あるべき神籠の候補が誕生したばかりだ。今の『まがい物』は、後は使い捨てるばかり。


 香賀瀬は今日、駅で五十槻と出会ったとき、久々に会った養い子へさすがに情が湧くかと思っていた。けれど結局、彼の面影を残す顔立ちが、ただただ憎らしいばかりであった。

 そしてあの八朔達樹そっくりの凄絶な笑みを見たとき、それは心の底からの憎しみに変わった。


 八朔五十槻という存在に対し、香賀瀬修司の胸裏を満たしていたのは──劫火の如き嫉妬である。

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