3-8
八
門はやはり赤く、不気味に光を放っている。
山中に忽然と現れた異物に、万都里は呆然と見入っていた。
ふと、赤い円はひときわ強い輝きを放った。その直後、円形の内側から、どろりと黒い粘性の液体が大量に排出される。
「おいおいおい!」
異様な状況に、思わず万都里は後じさった。しかし背後の男は一歩も引かないため、ただ万都里の背中に銃口が食い込むばかりである。
言っている間に、黒い液体はずるずる這いずるように蠢くと、次々と分裂して固体を形成し始める。
豺狼型、猩々型、蝦蟇型。黒い粘液から生み出されたのは、多数の禍隠である。櫻ヶ原のときと同様に、数は百体前後。
しかし万都里以外の一行は落ち着いている。騒ぎ立てもしない。神祇研の職員四名が、常盤木を持って周囲に散開した。本職の式哨と同様の落ち着きと素早さで、神域が展開される。
「神域展開完了、神籠使用可!」
その報告が上がるや、万都里の背後の男が、良く通る低い声を発した。
「動くな」
ぴたり。にじり寄っていた禍隠たちが、一斉に動きを止める。そして微動だにしなくなる。
「便利な神籠だな」
思わず万都里はふつうに感想を漏らしてしまった。甲精一の持つ神籠とは別種の便利さである。
「便利だが、いつもはどうやって禍隠を討伐するんだ? 動きを止めるだけかキサマ?」
「ふだんは動きを止めた後、共食いを命じている」
「ハッ、趣味の悪いことだ」
「楢井」
その呼び声に、言霊の男が香賀瀬の方を向く。どうやらこいつは楢井というらしい。
「さっそく調査を始める。八朔の神籠の巻き添えにならないよう、離れていてくれ」
「はっ」
楢井はおそらく、神祇研付きの将校か何かだろう。禍隠からの護衛目的で、神祇研にも少数神籠が配備されていると、万都里は聞いたことがある。それよりも。
「お、おい! オレも身体が動かないんだが! 禍隠と一緒くたに神籠を使いやがったな、キサマ!」
「いいじゃないか獺越くん。特等席で見ていてくれたまえ」
「ふざけんな! 巻き添えがどうとか聞こえたぞいま!」
直立不動で喚き散らす万都里の後ろから、小柄な軍装の人影が近づいてくる。五十槻だ。
「……獺越さんには、絶対に危害を加えません」
「ばか、オレはいいから、無理をするな!」
「巻き込んで、ごめんなさい」
二人のやりとりは、五十槻が万都里の横を通り過ぎながらである。おそらく立ち止まって話をすると、香賀瀬に叱責されるのだろう。他の誰にも聞かれぬよう、会話は小声だった。
そして五十槻が門の前へ立つ。周囲には百近い数の禍隠が、静止したままひしめいている。
五十槻は一行の最前で門と向き合っている。懐から白獅子の面を取り出し、少年は蒼白な顔面へ装着した。周囲には静止した禍隠の大群。白獅子の面の奥から、紫の眼が舌なめずりするような視線で悪鬼の群れを撫ぜる。
「いいか、周囲の禍隠は攻撃するな。門だけに力を注げ」
「はい、先生」
五十槻は禍隠から視線を外す。
淡々と返答して五十槻は佩刀を抜刀した。少年の周囲へ、パリッと紫の稲妻が現れる。
「なるべく低出力からだ。いきなり破壊するな」
「はい、先生」
白獅子の将校は刀を構えると、門へ切っ先を向けた。
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に恐み恐み白く
清浄なる霹靂あらわし 千早振る神寶の剣刀以て
頑狂醜の禍隠出だす 異つ世の門を
尽く砕き 祓い清めたまえ
いつもより抑揚のない調子で祝詞を唱え、八朔の神籠が門へ紫電を放ち始める。
刀の切っ先から微弱な稲妻が、断続的に赤い円へ向けて放たれる。
それから五十槻は、香賀瀬の指示に従いつつ、徐々に出力を上げていく。
「ハッサク……」
万都里の間近くで、八朔の雷は段々と強大な威力へ変わっていく。それに従い、五十槻の姿勢にもブレが生じていく。
ピンと伸びていた背筋は、神籠使用の反動によりふらつき始めている。体調不良だけでなく先程の暴行も相まって、五十槻の身心は限界に近い。その状態で、万全の制御ができるはずもなく。
「うあッ!」
どぉ、と閃光とともにひときわ大きな雷声が鳴った。衝撃に耐えきれなかったのか、自身の神籠に弾き飛ばされた五十槻が、万都里の横へ弾き飛ばされた。
「お、おい! 大丈夫か!」
「う……」
思ったほど痛手ではなかったらしく、五十槻は呻きながらすぐに身を起こした。
門はどうなったか。万都里と五十槻が門の方向へ顔を向ける。ちょうど五十槻が制御を失った瞬間に破壊の閾値に達したらしく、周囲の禍隠をいくらか巻き込んで門は消えていた。だが、まだ多数の禍隠が、静止した状態で残っている。
つかつかと、香賀瀬が突然こちらへ歩み寄ってきた。紳士の顔には怒りの色が浮かんでいる。
香賀瀬は五十槻を無理矢理立たせると、白獅子の面をはぎ取り、その頬を思いっきり平手で打った。パシン、と林間に乾いた音が響く。
「いきなり破壊するなと命じただろう!」
「はい、申し訳ありません。香賀瀬先生」
「くそっ、休眠状態にできるか確認したかったのに……」
五十槻は香賀瀬へこわばった瞳を向け、謝罪している。隣でそれを見せられている万都里は、激怒どころの騒ぎではない。いったい何度、この胸糞悪い光景を見なければならないのだ。
「キサマふざけるなよ! ハッサクも、もうこんなやつの言うことなんか聞くな! その軍刀で小突いてやれ!」
「ったく、お前もいい加減騒がしいやつだな」
再び楢井が近づいてきて、今度は正面から万都里へ拳銃を向けた。ちらりと見えた撃鉄は倒れているので、いますぐどうこうというわけではなさそうだ。楢井の手の内のものを馬鹿にしたように一瞥して、万都里は「撃ってみろよ」と挑発する。
「ハッ、やっぱり二十二年式短銃だな。正式採用されて日が浅い銃だ。なおかつ口径も従来品より小さく、官製の専用実包を装填しなければならない。銃、弾薬ともに、現状は陸軍内のごく一部でしか支給されていない代物だ」
「…………」
「神籠は軍人のくせに銃器に疎い奴が多いからな。もしかして新式の銃だからと、その辺よく考えずにウキウキで携行してたか? それでオレを殺したところで銃痕から簡単にアシがつくと思うが、まあそれでも良ければ撃ってみるがいい」
「口の減らない御曹司さまだな。うるさくてかなわん」
「悪いな、地味な神籠のせいで銃火器には人一倍うるさいんだ」
嫌味たっぷりに言う青年に、楢井は「ふん」と鼻を鳴らして、拳銃を仕舞った。
それから言霊の神籠は、取り上げていた万都里の愛銃をぽんと彼の足元へ放る。それを見下ろして、再び楢井へ視線を戻し、「なんのつもりだ」と万都里は問う。
答えたのは香賀瀬だ。
「門が消滅した以上、我々がこの場へ留まる必要はもうない。獺越くん、巻き込んでおいて申し訳ないのだが……」
厳格な面持ちに、冷酷な笑みが浮かぶ。
「色々と見られたくないものを、見られてしまったからね。きみにはここで禍隠のエサになってもらう」
「は!? 勝手に見せつけてきたのはキサマらだろうが!」
「銃で始末するのが手っ取り早いんだけど、たしかにきみの言う通りアシがつくしね。一番自然なのは、神籠らしく禍隠と戦って死んでもらうことだ。ちょうど、ここはきみのご実家ゆかりの地だというし。我々が安全圏へ退避した後、楢井に神籠を解かせよう。その地味な神籠でせいぜい華々しく、二階級特進を遂げてくれたまえ」
だから銃を返したわけだ。
周囲に残る禍隠は数十体はいる。万都里の弾薬盒に入っている手持ちの銃弾は、三十発前後だろうか。圧倒的不利の状況の中、これから単身放置されるわけだ。くそくらえ、と公爵家の御曹司は微動だにせぬ拳を握りしめる。
「香賀瀬先生!」
五十槻が楢井と万都里の間へ割って入った。いまはもう、香賀瀬の操り人形のような状態ではない。ただ切羽詰まった様子で万都里のことを案じている。
「どうして獺越さんにこのような仕打ちをなさるのです!」
「…………」
「獺越さんをここへ残すと言うのなら、僕も残ります!」
「ハッサク……!」
いま万都里をかばってくれているのは、いつもの、真顔だけれどお人好しの五十槻だ。けれど。
香賀瀬が「楢井」と部下の神籠を呼ぶ。楢井は低い声で、五十槻へ命じる。
「動くな」
「……ッ!」
動きを封じられても、紫の瞳はまっすぐに香賀瀬と楢井を見据えている。その態度へ、香賀瀬が「聞き分けがない」と冷たく一声発した。ゆったりと楢井が拳を振り上げる。「おいやめろ!」と万都里はとっさに叫んだが。
動けない少年の腹部へ、大柄な軍人の渾身の拳が叩きつけられる。
「うぐっ……」
しかし五十槻は耐えた。動けない体勢のまま少量の嘔吐をして、口元から胃液を軍服へ垂らしつつ、再び眼差しを香賀瀬へ向けた。薄紫の虹彩の中心にある瞳孔が収縮している。
「やれやれ、服を汚すなと言ったのに。楢井、指導が足りないようだ。失神させろ」
「はっ」
楢井が再び、拳を振りかざした瞬間だった。周囲に、紫の閃光が爆ぜる。
狂ったような雷鳴が鳴り響いた。雲霞山山中に発生した禍隠の一切へ、おびただしい雷霆が降り注ぐ。
そして迅雷が已む。焦げ臭いにおいが周囲を満たしている。焼けているのは、禍隠の骸だけ。雲霞山を覆う雑木林は、何事もなかったかのように風にそよいでいる。
「…………」
香賀瀬は忌々しげな目で、養い子同然の少年を見下ろしていた。五十槻もそんな彼を見上げている。異様に瞳孔の窄まりきった紫の眼で、うっすらと、悦ぶような微笑を浮かべながら──。
「その顔をやめろ!」
「ぐぅッ」
反射的に香賀瀬は五十槻を殴り飛ばした。「ハッサク!」と悲痛な声を上げる万都里の視線の先で、五十槻はもんどりうって転げた後も、なおも香賀瀬へ顔を向けていた。まだ楢井の神籠が解けていないため、倒れた体勢のまま動けない。
「……香賀瀬先生。禍隠はすべて焼けて死にました」
「…………」
「獺越さんを解放してください。僕は、どんな折檻を受けても構いませんので」
五十槻からすでに微笑は消えている。幼気な顔に、殴打の痕と滴る鼻血。真顔の淡々とした命乞いに、香賀瀬は憤懣やるかたないように、長めの鼻息を漏らした。
「博士、獺越の神籠はいかようになさいます。こいつの手持ちの小銃で自害に見せかけますか」
「いや……一度身柄は確保しよう。腐っても公爵家獺越の次男だ、上の連中なら良い活用法を見いだせるかもしれない」
上の連中? 万都里は五十槻を案じていた目線を上げ、香賀瀬を睨む。まだ黒幕がいるというのだろうか。
おもむろに楢井が万都里へ近づいてきた。身じろぎすらできない万都里の足元から、やれやれと彼の愛銃を拾う。
「珍しい造りだな。銃床を鉄板で覆っているのか。涙ぐましい工夫だが、いまはちょうどいい」
「くそっ……!」
それは、万都里の神籠を銃床にも機能させるための工夫であったが。
楢井は銃身を握り、銃床を振り上げる。
ガツッ、と万都里の後頭部へ衝撃が走った。強い痛みの中で万都里の意識は混濁し、急速に暗闇へ落ちていく。
「獺越さん!」
最後に五十槻の悲痛な声が聞こえたところで、万都里は完全に意識を失った。




