3-7
七
暗い面持ちのまま、綜士郎は第一中隊へ向かっている。
あのあと、喫茶店の周囲を多少探してみたが、すでに清澄京華はいなくなっていた。領収書の出所がどこなのか、そもそも資料にあんなものを紛れ込ませてどういうつもりなのか、問い質せたらよかったのだが。おそらく京華は、綜士郎の出自をある程度把握したうえで接触してきている。けれど何が目的なのかはさっぱり分からない。
しかしいったいなぜ、十二年前の神祇研が実父へ多額の謝礼のようなものを支払っているのか。提供したという情報とは、なんだったのか。
──条件を知っている者が、あえて神籠の継承を仕組むこともあるかもね。
京華のつぶやいた言葉が、猜疑の炎へさらに油を注ぐ。いまある手持ちの要素だけを組み合わせてみても、想像は悪い方向へ巡るばかりだ。
(さっきまで、五十槻の心配をしてたはずなんだがなぁ……)
次から次に立ち現れる難題や苦悩に、綜士郎は歩きつつ嘆息した。気付けば彼の足取りは、もうだいぶ第一中隊へ近づいている。もうすぐ正門だ。
「おー、綜ちゃんおかえりー」
現時刻の門衛を務めているのは、甲精一伍長である。このキツネ顔を見てほっとすることもあるんだなと、綜士郎は疲れた顔で正門横の門衛詰め所へ近づいた。
「どしたん、なんかめっちゃ疲れてない?」
「なんでもない。それより、五十槻はどうしてる? だいぶ前に戻ったろう」
そう問いかけた綜士郎へ、精一はきょとんとしつつ「一緒じゃないの?」と尋ね返す。
「いつきちゃん、まだ帰ってきてないけど……」
「はぁ……?」
「そういえばまつりちゃんもだな」
綜士郎は途端に顔面蒼白になる。五十槻が連隊本部を出てから、ずいぶん経つ。
「──式哨!」
思わず綜士郎は焦燥のまま叫んでいた。
「式哨誰か、早く式を打て! 八朔五十槻少尉が……えーと、たぶん迷子だ!」
「まつりちゃんもね」
── ── ── ── ── ──
伊房県雲霞山は辺鄙な場所にある。
汽車を伊房の最も大きな街より少し手前の駅で下車して、万都里は無人駅の歩廊から東の方面を望んだ。獺越家の所有地である雲霞山の登山口は、駅から少し歩いた所にある。
皇都から伊房中心部へ向かう路線ながら、この辺鄙なところで降りる乗客はめったにいない。路線の敷衍の際、たまたま主要地の途上にあったため、おざなりにではあるが停車駅が作られたらしい。山と多少の田畑のほかには、何もない土地である。
いまも駅にいるのは、万都里と五十槻、香賀瀬の三人だけだ。しかし駅から出れば、さすがに付近には雲霞山管轄の部隊所属の式哨が禍隠の哨戒に立っているはずだろう。雲霞山に門が出現したとなれば、なおさらに。
「香賀瀬博士、お待ちしてました」
不意に三人の後方から、複数名の足音が近づいてきた。振り返ってみると、白衣の者が数名に、神事兵の軍装をした者が二名。香賀瀬の出迎えの者たちらしい連中が、無人駅なのをいいことに、遠慮なく駅舎内へ上がり込んでくる。
「ああ、出迎えありがとう」
香賀瀬は片手をあげて軽く応答を済ませると、出迎えの一行のうち、軍人へ何事か小声で話しかけている。おい、紹介とかないんかい、と万都里が勝手に苛立っていると。
不意に香賀瀬が五十槻へ近づいた。五十槻は相変わらず直立不動で、歩廊へ立ち尽くしているが。
「上体、屈め」
香賀瀬が急に短く指示を下し、五十槻はそれに従って上半身のみを屈ませる。最敬礼のような姿勢だ。そのまま停止している、五十槻の横から。
さきほど香賀瀬に耳打ちされた軍人がおもむろに近づき、ドッ、と五十槻の華奢な胴体へ思いっきり膝蹴りを入れた。
「おい!」
突然のことに万都里は怒声を放った。彼の見ている前で、五十槻がよろよろと地面へうずくまる。「うぇ……」と五十槻の苦しそうに呻く声。
香賀瀬は苛立った歩みで少年へ近づくと、軍帽を脱がし髪を乱暴に掴むと、四つ這いの五十槻の頭を線路際へ突き出した。
「服を汚さないように吐け」
五十槻はえずきながら「はい」と返事して、命じられた通り服を汚さぬよう、歩廊から線路の道床の上へ嘔吐した。さきほど食べたばかりの駅弁の中身が、胃液を纏ってぼたぼたと落ちていく。
「残りは自分で吐け。喉奥に指を入れろ、できるな」
「やめろ! 何をやっているんだキサマらは!」
慌てて駆け寄ろうとする万都里の目の前で、やはり五十槻は愚直に、自らの指を口内奥深くへ突っ込んで嘔吐を続けている。万都里はやめさせようと、五十槻へ向けて手を伸ばす。
「動くな」
唐突に後ろから聞こえてきた低い声。動くなと言われて、万都里は本当にぴくりとも動けなくなった。声の主は、五十槻へ乱暴を働いた軍人とは別の、大柄な男だ。顎の角ばった屋根瓦のような輪郭の顔に、蔑んだような笑みを浮かべている。
「くそっ、動けん……! 何をしやがった!」
「やれやれ、獺越家は家柄ばっかり立派で、神籠は大したことないな」
大柄な男は万都里の背後から歩み寄ると、中途半端な体勢で静止している彼から、難なく小銃を取り上げた。
万都里は信じられない面持ちでその軍人や周囲を見回した。いつの間にか白衣を着た者たちが四人、万都里たちを囲うように常盤木を歩廊に設置している。禍隠退治のためではなく、万都里へ──人間へ神籠を用いるために。
神籠の使用は禍隠に対してのみ限定される、と大皇陛下の勅令で決まっている。神聖にして強大な神々の力を、人間に対して使用するのは重罪だ。
「おい、勅令違反だろうが! 人間相手に神籠を使いやがったなキサマら!」
「ははは、地味過ぎてひと家系だけ勅令から免除されている、貴家に言われてもな」
大柄の男の言う通り、獺越家だけは勅令の適用から外されている。なぜなら禍隠に対しても人間に対しても、脅威の度合いが変わらないからである。獺越の神籠が神域内で人を傷つけても、適用されるのは勅令ではなく、一般の刑法だ。万都里からしてみれば、神籠の地味さを肯定されているようで腹の立つ処遇である。
おそらくこの男は言霊遣いの神籠を宿している。そういう類の神籠もあると、万都里は士官学校で習ったことがある。
「さて、獺越くん」
動けない万都里へ、香賀瀬が立ち上がりつつ口を開く。苦しそうに嘔吐を続けている五十槻を足元に、紳士は柔和そうな笑みをこちらへ向けた。
「きみには少し、刺激の強い場面をお見せしてしまったね。謝るよ」
「なにが謝るだ、オレじゃなくてハッサクに謝れ! なんで急に、あんな……!」
「『これ』はね、八朔の神籠として、相応しい肉体を作らねばならないから」
万都里には理解できない返答を述べて、香賀瀬は目元から笑みを消した。
「できれば穏便にことを運びたい。貴家の所有地へ、案内してもらえるかな。獺越の御曹司殿」
人に神籠を使っておいてなにが穏便にだ、と万都里は奥歯を噛み締める。勅令違反を受けた当事者を、きっとただで返すつもりはあるまい。
香賀瀬は万都里から顔をそむけると、次に五十槻を見下ろした。少年は嘔吐を終え、苦しそうに咳き込んでいる。
「立て」
再びの短い指示。五十槻は即座に顔を真顔に戻し、すくっと立位を取った。まるで香賀瀬の操り人形だ。けれど。
紫の眼差しだけが、不安そうに万都里の方を向いている。その視線を万都里も、心配の面持ちで受け取った。
「さあ行こう。門が待っている」
歩き出した香賀瀬に従うように、一行は駅から立ち去る。言霊の拘束が解けた万都里は、得物を奪われたいま、神祇研の連中に従うしかない。隙を見て、五十槻を連れて逃げられたら良いのだが。
背中に拳銃の銃口を突き付けられながら、万都里も一行に従った。
── ── ── ── ── ──
「ひえっ、万都里坊ちゃん!」
雲霞山は登山口脇の、管理人小屋。管理人を任せている男は万都里とは顔なじみだ。万都里は年に一度くらいの頻度で、この山へ狩猟へ訪れている。銃の腕を試すためだ。けれど去年ここへ来たときには、門のような異様な物体は見当たらなかったはずだが。
「いやぁ、いらっしゃるならご連絡いただけるものかと……すみません、急なことでお迎えの準備を、何も……」
「構わん、突然来たこちらが悪い」
管理人を任せている中年の男は、人の好さそうな顔で万都里の背後の面々を見渡した。
「坊ちゃん、こちらの方々は……?」
「神祇研の職員と、護衛の神事兵だ。雲霞山の調査に来られた。オレが案内を任されている」
万都里は今現在は銃口を突き付けられてはいない。けれど、対応を間違えれば、五十槻だけではなく、目の前の無関係の管理人まで荒事に巻き込むかもしれない。自然、万都里の対応は硬い。
いつもより不愛想な獺越家の次男へ、管理人は「ああ、やはり」と少し不安そうな顔をする。
「山の中の、妙な赤い光の調査でしょう? 禍隠らしい黒い影を見たって近所の者もいますし、不安だったんですよ。管轄の神事兵の方々にも通報はしたんですが、ちょうど別方面に禍隠が出たとかで対応を後回しにされてしまいまして……」
でも、坊ちゃんが来てくれたなら安心です! と管理人は純朴な顔で言った。
そんな彼から、万都里は赤い光が山のどのあたりで見えたのか、簡単に聞き出す。管理人は目撃情報を語り終えると、心底人の好い顔で申し添えた。
「皆さん、もし私どもに出来ることがございましたら、何なりとお申し付けください。こちらの管理小屋で、休息を取って頂くこともできますので」
「なら……」
万都里は香賀瀬へ視線を送る。目と表情と口の動きで、「ハッサクを休ませろ!」と伝えてみる。けれど香賀瀬は首を横に振った。養い子同然の五十槻に無理矢理乱暴して嘔吐させた挙句、登山までさせて門の調査と破壊を強行させるようだ。本当に育ての親だろうか。やっていることは完全に虐待だ。
「……いや、結構だ。山に入らせてもらうぞ」
「坊ちゃん、ご案内は……」
「不要だ。禍隠が出るかもしれん、お前は小屋の中にいろ。下山時の見送りもいらん」
横柄にそう告げて、万都里は一行をぞろぞろ引き連れて山へ入っていった。管理人の視界から外れたあたりで、再び背中に硬い感触が突き付けられる。比較的小さめの口径の拳銃のようだ。
「用件が済んだら、オレを山中に殺して棄てる気か」
「どうだかな」
万都里に拳銃を突き付けているのは、あの低い声の大柄な男だ。
登山道とは名ばかりの、ほとんど獣道に近い細道を一行は進む。先頭を万都里が進み、彼へ銃口を突き付けながら、言霊の神籠の男がそのあとに続く。香賀瀬ら研究者と五十槻は連れ立って歩いていて、五十槻は時折ふらつきながらも、規則正しい足取りで傾斜を登っていた。しんがりはもう一人の軍人の男である。
「……オレは去年もこの山に来ている。そのときは赤く光る妙な物体なんて、なかったはずだけどな」
歩きながら万都里が香賀瀬へ問う。神祇研の所長は、こともなげに疑問へ答えた。
「羅睺蝕の接近に伴い、門が活性化しているのだろう。おそらく去年までは影も形もなかったように見えただろうが、門はずっと休眠状態でその場に在り続けていたはずだ。蝕の発生時期が近づいているせいで力を帯び、顕在化したわけだ。櫻ヶ原地下の門も、最近顕現して、禍隠を吐き始めたんだろうね」
専門家の見解は、万都里にはさっぱり分からない。
「今後、八洲には同様の事例が増えるだろう。潜んでいた門が各地に現れ、禍隠を吐き出し、八洲を混乱に陥れる……そして控えているのは羅睺蝕だ」
「さっきから、羅睺蝕ってなんなんだよ! 専門用語ばっかりでしゃべるな、アホ!」
「口が過ぎるぞ」
後ろの男が、さらに銃口をごりっと強めに押し付けた。香賀瀬は背後で呆れたように肩を竦めている。羅睺蝕については、どうやら説明してくれないらしい。
「おや、見えてきたぞ」
香賀瀬が好奇心に満ちた様子で、前方を見つめている。
少し暮れかけた山中の景色の中に、夕陽の落とす茜色以上に、禍々しく光るものが見えてきた。
鬱蒼とした雑木林の中、宙に浮く円形の赤い光。
「門……」
いままで黙り込んでいた五十槻が、ぽつりとつぶやいた。




