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四
「御庄軍医少佐。あんた、あいつの長年の主治医なんだろう」
五十槻が立ち去った後。
医務室にて、綜士郎は御庄軍医を振り返り、やや高圧的に問いかけている。
「香賀瀬先生とは真反対、っていうのはどういうことだ? あいつ、神祇研で香賀瀬さんとどんな関わり方をして、どういう育てられ方をしたんだ」
語調はほとんど詰問に近い。御庄医師は、神祇研、という単語に眉をぴくりと反応させた。
「……彼女が神祇研にいたことをご存じ、と。荒瀬中佐に聞かれました?」
「いまさっき聞いたばかりだ」
「そうか……あなたにも打ち明けられたのですね、中佐は……」
「具体的なことは何も教えてくれなかったけどな。どうやら、五十槻を神祇研と関わらせたくないらしい」
綜士郎の返答へ、医師は考えこんでいる。何をどう伝えるか思案しているのか、相当難しい顔をしている。
そこへ、コンコンと遠慮がちなノックの音。続けて医務室の外から呼びかける士卒の声。
「失礼します。こちらに第一中隊隊長の藤堂大尉はいらっしゃいますか」
御庄医師が「こちらにおいでですよ」と応答すると、扉を開けて連隊付けの式哨が入ってくる。式哨は形式通りに敬礼をすると、綜士郎へ向けて用件を告げた。
「御用談中、失礼いたします。藤堂大尉殿、実は──」
用件を聞くなり、綜士郎はがっくり項垂れた。
「……はぁ、禍隠を取り逃がしたうえ、見失ったと。第二中隊め……」
思わず嘆息がこぼれる。また第二中隊が禍隠を討ち漏らしてしまったようだ。確かに綜士郎の神籠は、逃走した禍隠を見つけるのにうってつけである。被害者を出さないためにも、すぐにでもここを発たねばならない。
間の悪いことだ。御庄医師から五十槻について、詳しい話を聞けそうだったのに。
軍帽を被り直し、綜士郎は式哨へ「了解」と短く答えると、御庄医師をちらりと振り返った。
「さっきの話、いずれ必ず続きを聞かせてもらいます。では」
医師が頷くのを確認し、綜士郎は式哨の後を追って医務室を出た。
それにしても、と廊下を歩きながら綜士郎は思う。
(五十槻のやつ、かなり様子がおかしかったが……大丈夫か、あいつ)
けれど綜士郎は疑っていなかった。八朔五十槻は、言ったことは決して違えぬ部下である。彼女が帰投すると言ったのなら、きっと第一中隊へ帰るであろうという信頼があった。
帰路で体調が悪化しなければいいのだがと、綜士郎はただ、弟のような少女の身を案じた。
── ── ── ── ── ──
万都里は連隊本部の入り口で頭を冷やしていた。
銃を背負った美青年は、ぽけっと間抜けに口を半開きにして呆けている。どう考えても頭を冷やせていない顔である。
(オレは……あいつのことが好きだったのか? 本当に?)
とめどない自問自答が、脳裏をぐるぐる巡っている。考えれば考えるほど、自分の気持ちがよく分からなくなっていく。
そんな彼めがけて、ひときわ荒っぽい北風が吹きつけてきた。二月の寒風の猛攻を受け、さすがに万都里は我に返る。
「うー、寒……」
さすがに建物の内に戻るか、と万都里は正面玄関の方を向いた。そのときちょうど。
「おわッ! ハッサク!」
「獺越少尉」
連隊本部の玄関から異様に整然とした足取りで現れたのは、八朔五十槻である。万都里のひっくり返った裏声など気にも留めず、五十槻はいつものように、整った挙手礼を同期へ示した。いたってふだん通りの真顔である。いまだに顔面が蒼白なことを除けば。
「獺越少尉、さきほどは大変失礼いたしました」
「あ、ああ。ききき気にするな」
──くそっ、好きだ!
頬を紅潮させて盛大にどもる万都里にやはり何の反応も見せず、五十槻は「では」と、身体の向きを正門の方へ向ける。そのままスタスタと正面方向へ歩き去っていく。
「お、おい待てハッサク! どこへ行く! 藤堂を待つんじゃないのか!」
先刻の立ち眩みと激昂が嘘のように、五十槻は落ち着いている。というか、まるで機械仕掛けの人形のごとく感情そのものが感じられない。
凍てついた紫の瞳を万都里へ向け、五十槻は一言。
「自分は先に帰営します。それでは」
「おい、それならオレも……」
「結構です」
最後の結構ですは、はっきりと冷淡であった。どうにも他者を寄せ付けぬ雰囲気である。真顔ではあるけれどお人好しで疑うことを知らない、そんないつもの五十槻とは、別人のようだ。
──この短時間に何があった、ハッサク。
ピンと背を伸ばし去っていく彼の後姿を、万都里は呆然の面持ちで見送っている。
好きだ。けれど様子がおかしい。
万都里の視界の中で、五十槻が正門を通り過ぎる。
第一中隊へ帰営するには、門を出て左側へ進まねばならない。
しかし五十槻は右へ曲がった。
「ハッサク……?」
万都里はこっそり後を追った。正門の陰に身を潜ませて、右手の街路を進む五十槻の背を見守り。角を曲がりそうになったところで、青年は足音を潜ませてあとを追う。
追跡が露見しないよう一定の距離を保ちつつ、万都里の尾行は始まった。
「あいつ、どこへ行くつもりだ……?」
五十槻は迷いのない足取りで、四馬神の街を足早に進んでいく。万都里はときに建物の陰に、ときに瓦斯灯の柱の陰に隠れつつ、さらにときには匍匐前進も織り交ぜて年下の同期を追跡した。白皙の美青年が不審な挙動でこそこそしているので、通行人は一様に怪訝な目線を投げかけていく。けれど距離を取っていたことが幸いしたか、五十槻が彼に気付く気配はない。
追われている本人以外にはバレバレの尾行で、なんとか万都里は四馬神の電停まで追いつくことができた。
「いや、電停?」
五十槻は路面電車に乗る気である。本当にこいつどこへ行く気だ? と万都里がじりじりと距離を詰めていると。
キキーッ、と路面に敷かれたレールを、鉄の車輪が擦る音が響いてくる。ちょうど電車が来たようだ。
チン、とベルを鳴らして電停に停車した車両は、どうやら五十槻の目的地行きの電車だったらしい。やはり迷いなく少年は乗降口の階段を踏み、車両へ乗り込もうとする。行き先表示は「終点、皇都中央駅」とある。
しかし万都里と五十槻が乗った電車との間には、かなりの距離があった。このまま中央駅までハッサクを逃せば行方を晦まされると、焦った万都里は銃を背負ったまま遮二無二全力疾走する。
「くそぉ! あいつマジでどこへ行く気だ!」
発車直前のすんでのところで、万都里は路面電車の車体後方にある取っ手に取りついた。そして五十槻に気付かれないよう、車窓から見えぬように姿勢を低くする。そのまま電車はチンチン、と二回ベルを鳴らして出発した。
車体後部へセミのようにしてくっついている軍人ごと、電車は街を走り抜けていく。
「お母さーん、あの軍人さん無賃乗車?」
「こら、指さしちゃだめよ」
「将校がキセルしてて草」
街路の人々から好奇の目で見られつつ、万都里は羞恥の面持ちのまま電車の振動に静かに耐えた。
(くそっ、なぜ獺越の神籠であるこのオレが、軽業師のような真似をして無賃乗車せねばならんのだ! おのれハッサク! )
でも好きだっ。
好意を自覚した二十歳の青年の胸中は、複雑である。
やがて電車はいくつか辻を過ぎ、終点の皇都中央駅へ到着した。五十槻は途中下車することなく終点まで乗車し、電車が停まるや運賃を支払って下車していく。こっそりと窓からその様子を確認して、万都里も電車の後部から飛び降りた。
「ちょ、ちょっとお客さん!」
「四馬神からの乗車だ! 運賃は神事兵連隊へ請求しておけ!」
横柄な口調でひと息に車掌へ言いつけて、万都里は再び徒歩での尾行を再開した。
皇都中央駅は、レンガ造りの洋風の駅舎だ。皇宮と最も近い位置にあり、皇都内における交通の要衝である。八洲全国の各主要都市へ接続する路線がいくつも通っているため、いつも人でにぎわっている。
瀟洒な駅舎の内で、人混みのなか、万都里は五十槻の小柄な背を追う。五十槻は切符売り場まで来ると、ちょうど空いていた窓口へ向かった。
「伊房までの切符をお願いします」
五十槻が駅員へそう告げたところで。
「こらハッサク。こんなところでいったい何をやってるんだお前は!」
追いついた万都里は、少年の軍帽の脳天へ手刀をごすっと見舞ってやった。
呆れたものである。伊房県雲霞山での門の破壊任務は、万都里が聞く限り明日の出立だったはずだ。
振り向いた五十槻は、少し驚いた様子で万都里を見上げた。
「獺越少尉、なぜここに……!」
「おい駅員。いまの切符は取り消しでいいぞ」
五十槻の切符の購入を勝手になかったことにすると、万都里は同期の手をぐいっと引っ張って、他の客の邪魔にならない場所へ移動した。状況が状況なので、惚れた腫れたなどと言っている場合ではない。
万都里は整った顔をしかめて五十槻を見下ろすと、先輩面で説諭を垂れる。
「愚か者め。第一中隊と逆方向へ向かうから、どこへ行くのかと追いかけてみれば……作戦は明日だったはずだろうが」
「いえ、僕の体調不良が原因でさらに延期になりました」
「なおさらお前はここで何をやってるんだよ! 帰って飯食って寝ろ!」
当然の叱責が万都里の口から飛び出す。けれど五十槻の真顔は微動だにしない。少年は当然のように抗弁する。
「それは出来かねます。雲霞山の門がいつ頃の出現かは分かりませんが、櫻ヶ原の事例を鑑みれば、大量の禍隠を排出している可能性が高いものと思われます。周辺住民への被害が出る前に討伐、及び門の破壊を完了することが、僕の使命ですので」
「お前、いまさっき延期になったっつってただろうが。つまりお前はいま自分がやってることが、独断専行の命令違反って自覚はあるんだな?」
「…………」
「まったく……何を焦っているんだ、ハッサク」
命令至上主義の五十槻にしては、ちょっと理解に苦しむ行動である。作戦延期の仰せが出たにも関わらず、五十槻はおそらく言いつけられているだろう療養を放棄して、雲霞山へ単身赴こうとしている。
それに万都里には、このやりとりに違和感がある。さっきから万都里はハッサクを連呼しているのに、お約束の「八朔です」の訂正が入らないのだ。それはそれでちょっと寂しい。
そもそも今日の五十槻は本当に変だ。立ち眩みはするは、珍しく激怒するわ。おかげで万都里の情緒は翻弄されっぱなしである。
「……いいのか。このままだと、藤堂大尉に背くことになるぞ」
万都里は若干悔しいが、藤堂の名前を出して宥めすかしてみることにした。なんだかんだ五十槻は藤堂に信頼を寄せているし、万都里もそれは十分すぎるくらい理解しているつもりだ。
「オレだって、お前が日頃から職務へ忠実に励んでるのを評価してやってるんだ。がっかりさせないでくれ」
「…………」
果たして、五十槻のこわばっていた瞳が、氷解するように揺れた。少年はばつの悪そうな真顔で、万都里へ縋るような視線を向ける。
「……獺越さんの、おっしゃる通りです。どうか、してました……」
僕のやろうとしたことは、独断専行の命令違反です、と五十槻は反省の口調で言う。
「ごめんなさい、獺越さん。今日はあなたに対しても無礼を働きましたし、なんだか、自分で自分がよく分からなくて……」
「その気持ちはちょっと理解するな……奇遇だがオレも今日は自分がよく分からん。お前のせいでな」
「え?」
「なんでもない」
万都里が赤面で無理矢理誤魔化したところで、不意に五十槻のお腹から「ぐぅ」と間抜けな音が鳴る。少し恥じ入る様子で腹を抑えている五十槻から、青年は慌てて視線を逸らした。
──おのれハッサク、かわいいやつめ!
万都里は照れを誤魔化しながら帰営を促す。
「まったく、腹の虫は正直だな。それじゃあ帰るぞハッサク。ま、今日のことはちょっとした寄り道ということにしておけ」
「はい、獺越さ……」
同期へ呼びかけた五十槻の言葉が、途中で止まった。
万都里は思わず左腕を同期へ中途半端に伸ばしたまま、ぎくっと固まった。さりげなく肩を抱こうとしたことがばれたのだろうか。
しかし違った。五十槻は視線を、じっと一カ所へ注いでいる。
「見た顔だと思ったら……五十槻じゃないか」
雑踏のなかから、こちらへ歩み寄る紳士がひとり。洒落たスリーピースのスーツを着こなし、白髪の割合の多い髪をオールバックになでつけている。年は五十代半ばくらいだろうか。端正かつ厳格そうな面立ちには、柔和な笑みが浮かんでいる。
五十槻の目線は、じっとその紳士を見つめたまま微動だにしない。紫の瞳は、再びこわばっている。
誰だこのおっさん、と万都里が怪訝な顔で睨みつける横で。
五十槻は突然カッと軍靴を踏み鳴らし、儀仗隊でもそこまで精緻にはしない、というほど精密な動作で挙手礼を捧げる。蒼白な顔が、よりいっそう青ざめた。
「お久しぶりでございます──香賀瀬先生!」




