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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
52/97

3-3


「貧血だね」


 連隊本部の医務室にて。主治医である御庄軍医少佐の診断を、五十槻は「そうですか」といつもより蒼白な真顔で受け止めている。そんな彼女へ、少佐は人の好さそうな顔を多少曇らせて告げた。


「八朔くん、最近寝てないし、あまり食事を摂ってないでしょ。その顔見れば分かるよ、爪も荒れてるし」

「うっ」

「そりゃ藤堂大尉も、僕のところで診察を受けるように言いつけるわけだ。残念だけど、こんな状態で遠出の任務に向かわせるわけにはいかない。荒瀬中佐には私から伝えておこう」

「そんな……」


 御庄軍医少佐からの慈悲なき診断に、五十槻は肩を落とした。

 五十槻は本当にここ最近、急に自分を見失ってしまったような気分だ。女性としての成長を恐れるあまり、食事を減らし運動を増やし、睡眠時間も減らした。しかしその結果眩暈を起こし、助けてくれた獺越少尉に当たり散らした挙句、大事な任務まで延期させてしまった。

 いつになく落ち込んでいる旧知の患者に、御庄医師は苦笑気味にため息をついた。


「……八朔くん。もし悩みがあるなら、言ってごらん。できることなら私も協力するから」


 主治医からの申し出に、紫の瞳はすがるような視線を送った。そして少しの逡巡を挟み、五十槻は正直に吐露する。


「実は最近……どれだけ運動しても、胸についた肉が落ちません」

「なるほど……それでふだん以上に食事を制限した、と……」


 御庄医師は笑ったりせずに、真摯に考えこんでいる。

 そんな彼へ、五十槻も真面目に問いを投げかける。それは真剣ではあったが、少々飛躍しすぎた質問であった。


「先生、外科手術で胸部の贅肉を切除することは可能ですか」

「いやぁ……それは、うーん……」


 思い切りすぎた問いかけに、医師は心底困った様子である。頭を抱えてしばらく思案して、御庄医師は困り果てつつも、きちんと五十槻の目を見ながら告げた。


「八朔くん。いまきみの身体に起こっていることは、正常な発達によるものだ。きみの生い立ちを考えれば受け入れがたいことだろうけれど、私としては、そのまま自然な成長に任せてほしいところだ」

「…………」


 信頼する御庄軍医少佐の返答は、五十槻には到底納得できないものである。なにせ五十槻は、いままで男子たれと言われて育ってきたからだ。急に女性として成長する身体を受け入れろと言われても、簡単に受容できないのは自然なことで。


「……女子を男子にするような術は、ないのですか」

「そんなものはないんだよ。残念だけど」


 主治医の口調は、いつにもまして穏やかで、諭しかけるようだ。

 けれど、それなら──五十槻の十五年はなんだったのか。男子として育てられ、男子として生きるように躾けられ。

 その果てに、今度は女子の身体を受け入れろと。


「御庄先生、僕は──」


 言いかけて言葉が出なくなる。自分はいま、確かに御庄医師へ憤慨の念を持った。信頼すべき十余年来の主治医に対して。

 五十槻はぐっと堪えるように口をつぐむ。本当に言いたい言葉を飲み込んで、五十槻は話題を逸らした。


「……雲霞山の任務は、どれくらいの療養を経れば可能ですか」

「今日明日はしっかり休みなさい。もちろん、食事と睡眠をしっかり取ること。荒瀬中佐には、私から伝えておくよ」


 ということは、少なくとも出立は最短でも明後日ということになる。

 自分が不甲斐ないばかりに、任務に遅れを生じさせてしまった。こうしている間にも雲霞山にある羅睺の門からは、禍隠が数多這い出しているかもしれない。櫻ヶ原地下の門のように。

 五十槻の栄養不足の頭の中に、ぐるぐると自責と自己嫌悪と、強迫の念が巡る。


「一応鉄剤を処方しておくよ。あとで宿舎へ届けておこう。今日は第一中隊に帰って、しっかり休みなさい」


 御庄医師の言葉はもう頭に入ってこない。俯いたまま反応のない五十槻へ、医師が「八朔くん?」と呼びかけたときだった。

 コンコン、と強めに医務室の扉が叩かれる。どうぞ、と御庄医師が扉へ呼びかけると。


「失礼。八朔少尉、具合はどうだ?」


 扉を開けて入ってきたのは藤堂大尉である。正直、五十槻はいま会いたくないと思った。大尉に対してこんなことを思うのは初めてだ。除隊願を提出したとき以上に気まずい。

 答えない五十槻に戸惑ったような顔を向けたあと、綜士郎は御庄医師へ尋ねる。


「御庄少佐。こいつ、結局なんだったんです?」

「おそらくは貧血かと。少し栄養状況に懸念があるので、明日まで休養するよう伝えたところです」

「やれやれ……やっぱりお前、最近ちゃんと寝てないし、食事も抜いてるだろう? 食堂の炊事担当のやつ、八朔少尉があまり来なくなったって心配してたぞ」


 言いつつ大尉は、椅子に腰かけている五十槻のそばへしゃがみ込んだ。咎めているのではなく、純粋に案じているような口調と眼差しだ。綜士郎に悟られていたのかと思うと、五十槻はさらに情けなくなった。


「どうした? 何か悩みでもあるのか?」

「いえ、特に……」

「そうか……。ま、とりあえず任務は延期だな」


 なぜかほっとしたように言う藤堂大尉に、五十槻の胸がずきりと痛む。


「五十槻、今日はもう帰ろう。雲霞山へは体調が回復してから向かえばいい。明日までと言わず、ゆっくり何日か休みなさい」


 何日も休むだなんて。五十槻は膝の上に置いた拳を、ぎゅっと強く握った。なぜ藤堂大尉は、安堵したようにそんなことをおっしゃるのだ。僕を戦力として扱ってくれるのではなかったのか。

 けれど再び本当に言いたいことをこらえて、五十槻は絞り出すようにつぶやく。


「……それでは僕は神籠失格です。僕しか、門を破壊できないのに」

「お前しか成し得ないからこそ、きちんと休養を取るんだ。フラフラの状態で、禍隠がわらわら湧いて出るようなものには挑めんだろう。お前に万一があれば、八洲は門に対する対抗力を失う。軍人なら自分自身の価値を見誤るなよ」


 藤堂大尉の言うことは確かに正論だ。五十槻が調子を崩した状態で門へ挑み、死ぬようなことがあれば……八朔の神籠はいなくなる。弟の弓槻が、神籠に選ばれるまでは。

 反応の鈍い五十槻へ、綜士郎は一瞬、怪訝な表情を浮かべる。しかし元気づけるように笑みを作ると、五十槻の顔を覗き込みながら、兄のような調子で言葉をかけた。


「ばかたれ、そんなに落ち込むな。そうだ五十槻、今日は久々になんか食って帰ろう」


 言いながら、綜士郎の手のひらは励ますように五十槻の背中を軽く叩こうとする。けれど。

 五十槻は反射的にその手を振り払った。手のひらが大尉の軍服の二の腕あたりを強打し、ばすんと鈍い音が響く。綜士郎があっけに取られた顔をして、五十槻を見た。


「……五十槻?」

「僕は一介の軍人です。子ども扱いは結構だ」

「なに言ってんだ、軍人は軍人でも、がきんちょのくせに」

「ちょっと、藤堂大尉……!」


 大人げない軽口を返す綜士郎に、御庄医師が慌てて割って入ったところで。


「僕は第一中隊へ帰投します。お先に失礼します」


 恬淡を通り越して冷然と言いながら、五十槻は席を立つ。誰とも目を合わさないようにして、扉の付近へ立てかけていた軍刀を取りに行く。


「待て五十槻、一人で帰れるのか?」

「…………」

「……本当にどうしたんだお前? 今日だいぶ変だぞ」


 五十槻は背を向けたまま、無言で軍刀を腰の略刀帯へ吊り下げている。剣吊り帯のグルメットからガチャガチャと、多少苛立ったような音が鳴った。

 刀を佩いて、五十槻は医務室の扉を開けた。「五十槻!」とやっぱり兄の口調で呼びかける声に、少しだけ振り向いて。


「藤堂大尉は……香賀瀬先生とは、真反対なことをおっしゃるのですね」

「は?」

「僕をあまり惑わせないでください」


 捨て台詞のように言って、五十槻は部屋から退出した。

 後に残された綜士郎はぽかんと呆けていて、御庄医師はまた頭を抱えている。


 医務室を辞して、五十槻はひとり廊下を歩いている。リノリウムの床から苛立ったような足音が響く。荒い足取りに、足元では佩刀の(こじり)がいつになく惑うような動きを見せていた。ばたつく刀身を抑えるために鞘を掴む五十槻の手の動きも、やや乱暴である。


(どうして、僕は大尉にあんなことを)


 なぜだろうか。五十槻は今日は、自身の言動が制御できていない。獺越少尉に続き、藤堂大尉にまで八つ当たりのような真似をしてしまっている。大尉の腕を振り払ったときの手の感触を思い出して、鞘を掴む手にいっそう力が籠った。

 けれど五十槻は、決して心にもないことを言ったわけではなかった。

 藤堂大尉は香賀瀬先生を尊敬なされている。だから、香賀瀬先生はやはり正しいと思った。けれど大尉と先生の価値観は真反対だ。それを五十槻は、どう処理していいか分からなくて。


──惑わせないでください。


 大尉へ叩きつけたその言葉は、間違いなく本心だ。

 藤堂大尉は五十槻にたくさんのものをくれた。感謝の言葉を。兄のような眼差しも。美味しいごはんを食べる喜びも。背中を撫でてくれた温かさも。

 宝物が増えるたび満たされる反面、甘やかされ、弱くなっていく自身を感じずにはいられない。

 僕は神籠の軍人であり、禍隠を討伐し、果ては戦地に骨を埋めることが使命である。

 それが香賀瀬先生の教え。そのために五十槻は、表情も感性も感情も、置き去りにするように生きてきたのだから。


──使命を果たさなければならない。


 思考の末に。紫の瞳が、凍りついたようにこわばる。

 いつしか五十槻の足取りから荒々しさは消え、意志の感じられない、規則的な歩みに変わっていった。

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