1-1 除隊願
一
藤堂綜士郎には苦悩が多かった。
今日も今日とて、彼は兵営を仏頂面で闊歩している。
まず今朝、離れて暮らす母から手紙が届いた。子どもの頃には「あんたが元気で健康なら、母さんそれで満足だからね」と言ってくれた優しい母は、いまとなっては手紙の文面に「嫁はまだか」「孫の顔をはやく見せんか」「あんた顔もいいし背丈もあるんだから、さっさと誰かつかまえなさい」「嫁」「孫」と嫁、孫の二文字を乱舞させる始末。
朝から気が滅入ったところで、今度は上官から呼び出しを食らった。つやつやでっぷり肥満体型の田貫大尉は、執務室へ入ってきた綜士郎を見るなり、「最近藤堂くんとこの部隊たるんでない?」の一言である。どのツラ下げて抜かしてんだタヌキじじい、と綜士郎は内心吐き捨てた。皇都守護大隊の一番の問題児、甲精一を配属したのはタヌキ大尉自身ではないか。しかも聞くところによると、大尉のタヌキと伍長のキツネは夜の街の遊び仲間らしい。
腹が立ったので、綜士郎は率直に意見を突き付けてやった。「甲精一伍長を地方へ左遷するか、除隊すべきと愚考します」
するとタヌキ大尉は色をなした様子で「いや、精ちゃんはその……面白いからさ!」などとまったく擁護にならない擁護を言い出す始末。腐ってやがる、と綜士郎はこの組織に絶望した。
軍隊辞めたい。
しかし辞められないのである。ひとたび神籠の力に目覚めた者は、特段の理由がない限り、その力を失うまで兵役の義務を負う。
特段の理由、というのが厄介である。除隊の対象となるのは、基本的には何らかの要因で神籠の力を失ったり、軍人として再起不能になるほどの負傷をした者などだ。前者はあまり例がなく、大半は後者の理由で除隊となる。
また犯罪を犯した者も除隊処分を食らう。この場合は神籠専用の収容所へ送られ、無期懲役のような扱いを受ける。
さきほど綜士郎はタヌキ大尉へ、キツネ伍長の除隊を進言した。素行不良による除隊に関しては、刑務所とほぼ同じ内容の厚生施設へ送られる。模範生だった者は軍役に復帰することができるそうだが、精一が入所したとして、模範生になることは絶対にないだろう。
ということで、神籠の者の大半は人生に自由がない。
神籠には二種類ある。神代の神の血統と神籠の力を継ぐ『神實』と、一代限りで神籠に選ばれる『神依』である。神事兵科にいる神籠の大半が、神依の者だ。
綜士郎は十三の時に神籠に選ばれた。神依としてである。
神籠は禍隠へ対抗する唯一の力で、希少な存在だ。だから国の宝として厚遇され、また徹底的に管理される。
神籠になってから、綜士郎は学費を一切支払うことなく神籠士官学校へ通うことができた。片親育ちで実家に蓄えのない綜士郎にとって、それは破格の待遇だった。卒業後、数か月の見習いを経て少尉に任官すると、少年時代には思ってもみなかったほどの給金が貰えた。歩兵少尉など、他の兵科の同階級に比べると多い金額らしい。
そして現在は中尉である。金はある。けれど職場選択の自由はなく、隊内には様々なしがらみが多い。二十五の綜士郎にとって、神事兵という檻はそれはそれは窮屈なものだった。
「おっはよぉございまーす!」
突然前方から聞こえてきた能天気な声に、綜士郎の眉間の皺がさらに深くなる。
「今日も元気だ空気がうまい! 精力一番、甲精一伍長であります!」
昨晩肩を痛めていたはずの部下は、今朝はブンブンと元気に腕を振り上げている。タヌキ大尉の一件も手伝って、このキツネ顔を見ると必要以上に腹が立つ。
「ばかたれ、尋常小学校じゃないんだぞ。もっとまともな挨拶をしろ!」
「あはは、俺小学校まともに通ってねえからわかんね。草生える」
草生える、というのは、「笑っちまうぜ」くらいの意味だ。生草和呂多神という、草木を司る笑い上戸の神に由来する。笑うことを単に「草」と言うこともあるし、神名にちなんで、「笑った」を「わろた」と表現したりもする。いずれにしても最近流行りだした若者言葉だ。
「甲伍長。昨晩肩を負傷していたはずでは?」
「アッ、なんかあの後すぐ治りました!」
綜士郎は怒りを通り越して脱力した。もういっそ、こいつのようにアホに徹した方が人生楽かもしれない。
さて、藤堂綜士郎にはやはり苦悩が多い。中でも大きな悩みの種が二つあり、一つは何を隠そうこのアホの甲精一だ。
もう一つは、精一と正反対の人物である。
「中尉。今日いつきちゃん遅れて来るんだっけ?」
「八朔少尉と呼べ」
そう、いま名前が挙がった八朔五十槻少尉だ。
精励恪勤、神色自若。言動は常に品行方正、またあらゆる状況において冷静沈着を保つ、希代の将校である。ふるまいは終始恬淡としているが、擲身報国を旨とする義士でもある。
さらに容姿は絵に描いたような美少年ときた。宿した神籠の力も強力無比、まさに神事兵として完全無欠の逸材。
ただし、年齢を除けば。
士官学校を経るにしろ徴兵にしろ、成人年齢の二十を過ぎなければ軍役に就けぬと法律で決まっている。しかし五十槻は現在十五歳。軍の幼年学校に通っているはずの年齢だ。士官候補生というわけでもない。経歴的には皇都内の士官学校を卒業し、その後神事兵連隊にて少尉を拝命、ということになっている。
綜士郎が不満に思っているのは、五十槻本人というよりも、その背後にいる大人たちだ。綜士郎は成人前の子どもが、本来大人がすべき仕事をさせられることに否定的だった。ましてや軍役なぞもってのほかだ。ガキはガキらしく、隣家の柿を盗み食いして叱られていればいい、というのが綜士郎の持論だった。
「八朔少尉は午後から登庁予定だ」
「え~、兄弟が生まれたんだからさ、お祝いに何日かお休みあげてもよくない? 華族さまなんだから、絶対盛大にお祝いすると思うよー」
あやかりてえなー、なんて気の抜けた声でのたまうキツネ伍長はともかく。
八朔家は神實の華族だ。神籠の力を連綿と受け継ぐ神實の家系は、長い八洲の歴史の中で常々丁重に扱われており、その時々の権力者から庇護を受け、いまに続いている。なかには絶えてしまった家系もあるが、八朔氏は古来から雷神・祓神鳴神の力を継ぐ一族として存続しており、八洲の神實の家系の中でもつとに有名だった。
現政権になってからは血統を保護するため、神實の一族は一律に華族階級とされた。八朔家も例外ではない。
そして、華族となった神實は軍法上でも優遇されている。ほぼほぼ一般人で構成される神依たちに職業選択の自由がない一方で、神實華族は、三年勤めあげれば自ら除隊を願い出ることが認められているのだ。除隊後は実家の事業に携わる者、または新しく事業を立ち上げる者など様々である。綜士郎からしてみれば羨ましい限りだ。
さらに軍役中においても、神實華族は危険な前線勤務を免れ、後方においてゆるく軍務をこなす者が多い。禍隠と直接対峙する危険な任務は、主に神依の仕事だった。
そんな格差が厳然として存在する神事兵において、五十槻の存在は稀有だった。
華族階級にも関わらず自ら志願して前線に立ち、配属から日は浅いけれど勲功を挙げ続けている。
隊内にはそんな彼を信奉する者も少なくなく、むさ苦しい男たちが徒党を組んで「八朔少尉親衛隊」なる奇怪な集団を立ち上げていたりもする。五十槻自身が認知しているかは定かではない。
日頃から忠勤に励み、冷静沈着で品行方正。端麗な容姿も相まって、隊内での五十槻への信頼は大変に厚い。綜士郎だって、彼が並々ならぬ努力で日々の軍務に勤しんでいることを知っている。
けれど、それが綜士郎にはかえって不気味に見えた。職務に忠実ということは、裏を返せば自己を押し殺しているということ。十五のガキが不平も不満も言わず、ワガママなんか欠片もなく、大人顔負けの働きをしている。完璧すぎて薄気味悪いくらいだ。
「あれ、いつきちゃん?」
さっきから鬱陶しく綜士郎の周りにまとわりついていた精一が、すっとんきょうな声を上げた。考えに耽っていた綜士郎も、声につられて顔を上げる。
中隊の兵営の渡り廊下の先にいる小柄な人影は、確かに八朔少尉だ。柱の陰でなにやら立ち尽くしている。
背丈は同年代の少年と比較して、少し低いくらい。艶のある黒い短髪に軍帽をかぶり、物憂げに俯いている。いつもの凛とした面立ちは、軍帽の庇に遮られてあまりよく見えない。
「いつきちゃーん、今日お昼からじゃないのー?」
「だから少尉と呼べ」
ブンブン手を振る精一と、アホ伍長を横から小突く綜士郎に、五十槻はハッと顔を上げた。
「藤堂中尉、甲伍長。おはようございます」
五十槻は慌てた様子で挙手礼を行う。しかし、今日は動作にも表情にも精彩を欠いている。腕の上げ方にキレがない、と思いながら綜士郎は答礼。五十槻はおずおずと口を開いた。
「さ、昨晩は早々に帰宅させていただき、ありがとうございました」
「ああ。無事の出産だったか?」
「ええ、母子ともに恙なく」
「そうか。おめでとう、少尉」
会話の最中、五十槻はあまりこちらを見ようとしない。普段ならば物言いももっとハキハキしているし、眼差しも真っ直ぐだ。五十槻の瞳は珍しい色で、虹彩が薄い紫色をしている。その瞳と今日は一度も目が合わないので、違和感もひとしおだ。
「いつきちゃん、なんか元気なくない?」
さすがの精一も心配そうに声をかけている。心配するのはいいが、言葉遣いはもっとどうにかならんか。
五十槻は伍長の問いかけに「大丈夫です」と短く返答しているが、全然大丈夫そうな様子ではない。昨晩慶事があったばかりなのに、今朝はまるで葬式帰りの様相だ。
何やら憂いに満ちた様子の少尉だったが、やがて意を決したように綜士郎へ向き直った。
「中尉、少しだけお時間いただけますか。お話ししたいことがあります」