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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
49/116

2-13

十三


 五十槻はただ辛い気持ちで押し黙っている。初めて知る綜士郎の過去は、凄惨極まりないものだったから。


「神依の大半は、地域の神奈備(かむなび)──つまりその地に宿るとされる神固有の、永続的な神域(ひもろぎ)の内で神籠(こうご)に覚醒する。本来は祭祀や正式な手続きを踏んだ者が神奈備に立ち入り、神籠に選ばれるか、その地を治める神の審判を受けるらしい。だが稀に、神奈備に偶然迷い込んだ者が神籠に選ばれることもあるそうだ。俺がそうだった」


 淡々と語る綜士郎の口調に、五十槻はぎゅっとサイダーの瓶を握りしめている。


「俺が自分の神籠を嫌っていることは、なんとなく分かるだろう」

「……はい」

「この力は本当に制御が難しい。これまで苦心して物にしてきたつもりだが、少し制御を間違えれば、いまでも啓太たちと同じ間違いをしでかしかねん。前にお前の自決を止めたとき、俺は死に物狂いだったんだぞ、五十槻」

「あのときは、本当に申し訳ありませんでした……」


 数か月前の例の件は、思った以上にこの上官へ負荷をかけていた。

 五十槻の心からの謝罪を「蒸し返して悪かったよ」と微笑で詫びて、綜士郎は続ける。


香瀬高早神(カゼタカハヤノカミ)の力は、人間には本来過ぎたるものだ。こんなものを俺に宿らせたあの神が心底憎いし、この神籠を俺は後世に残したくはない。神依の神籠が子に遺伝することがある、という話を聞いてから、ずっと誓っていたんだ。故意でも過失でも、惨たらしく大勢の人を殺すことのできる業を、絶対に子孫へ押し付けたくないってな」

「…………だから、結婚はしない、と」


 五十槻はとぎれとぎれに呟いて、そして沈黙した。自分が良かれと思って綜士郎にしていたことは、彼の覚悟を穢すような行為だったのだ。


「ごめんなさい、藤堂大尉。僕は……あまりにも独りよがりでした」


 そう詫びる五十槻の言葉を、綜士郎は「うん」と優しい相槌で聞いている。


──やはり、僕の知る世界は狭い。


 五十槻には禍隠を狩る使命だけあればよかった。生まれ持った性別も、温かい家庭も、友人も。ほとんど与えられない中で生きてきた。だから他人の人生なんて知る余地はなかった。

 知り合ってきた人々それぞれに、市井の人それぞれに、各々の人生がある。そんな当たり前のことに、五十槻はやっと気づかされた思いだ。自分では、分かっていると思っていたはずなのに。


「僕は、僕の知る枠組みの中の、自分では良識と思っていたもので、あなたの覚悟を否定するようなことをした。本当に、ごめんなさい」

「いいよ。さっきも言っただろう、それは俺も同罪だ。それに五十槻は、荒瀬中佐の命を忠実に守っただけだ。悪いのは、あのおっさんだよ」


 そう言って少し肩を竦めて。

 綜士郎は手の内でサイダーの瓶をしばらく無言でもてあそんだ後、五十槻、と呼びかけた。弱々しい声である。


「……今の話、幻滅したろう。俺は生きるためとはいえ、ガキの時分に犯罪に手を染め、挙句の果てに親友を殺してしまった」

「それは……」


 やむを得ないことではないか、と五十槻は口に出そうとして躊躇った。少女が口ごもっていると、綜士郎は鷹の目を伏せて少しぶっきらぼうな調子で言う。


「どちらにせよ、俺にはお前に尊敬される資格なんてないんだ。悪いな、お前が思っていたような上官じゃなくて」

「いいえ」


 五十槻ははっきりと否定した。綜士郎の過去を知った後でも、五十槻の胸の内にある気持ちは変わらない。むしろより慕わしいと感じている。


「僕が尊敬しているのは、あなたの在り方なのです。昨年末の田原の掃討のとき、神域内の小動物やご遺体を傷つけぬよう、我が身を省みず守っていたあなたを。難しい神籠を抱えながら、人を守り、人を救うためにそれを使うあなたを、やはり僕は尊敬している。……今のお話を聞いたら、なおさらです」

「…………そうか」


 綜士郎は俯いている。五十槻からは表情がよく分からない。

 ふと、五十槻はさきほどから握りしめているサイダーの瓶へ意識を向けた。隣の大尉が五十槻のためにとわざわざ買ってきてくれた飲料を、いま、なんとなく飲みたいと思った。


「藤堂大尉。サイダー……やっぱり僕も飲んでみたいです」

「……ああ。貸しなさい、栓を開けてやるから」


 やっとこちらを向いてくれた大尉の眼差しは、少し嬉しそうに見えた。サイダーの瓶を渡すと、綜士郎は栓抜きで蓋を開ける。飲み口から白い気体が流れ出す瓶を五十槻に返し、綜士郎は「炭酸がきついかもしれんから、ゆっくり飲めよ」とふだんの口調で忠告を告げた。

 瓶からしゅわしゅわと、小さく軽やかな音が湧き上がってくる。サイダーとは甘くてしゅわしゅわする飲み物なのだと、五十槻は精一に教えてもらったことがある。五十槻はさっき大尉がしてくれたばかりの忠告をうっかり忘れて、最初に彼がそうしていたように、ぐいっと思いっきり瓶を煽った。


「あ、おい!」

「! げほっ、げほっ!」


 口の中と喉に焼けつくような刺激。しゅわしゅわの意味が身に染みて分かった。五十槻は咳き込むけれど、口の中に残る甘味は爽やかだ。初めての飲料に目を白黒させている五十槻に、綜士郎は思わず「ははは」と、苦笑を送る。


「ばかたれ、ゆっくり飲めって言ったろう?」


 まだ(むせ)ている五十槻へ手を伸ばし、綜士郎が不器用に、けれど優しく背中をさする。その感触に、五十槻は櫻ヶ原地下でのことを思い出した。過呼吸に苦しむ自分の背を、彼がゆっくり撫でて落ち着かせてれたことを。あのときの手も、いまのように温かくて。

 段々と落ち着きを取り戻す五十槻の呼吸の様子を見つつ、綜士郎の手は段々と、とん、とん、と子どもをあやすような律動(リズム)へ変わっていく。


「まあ、その……炭酸、慣れたら美味いんだぞ」

「……こんな飲み物があるのですね。驚きました」


 五十槻の咳がやんだ後も綜士郎は手を止めない。背中に感じる感触は、まどろむように心地よい。五十槻は背をあやされながら、今度はゆっくりとサイダーを口に含んだ。しゅわっと気泡にまみれた甘さが、じわっと口の中に広がる。


「……やっぱり僕は、藤堂大尉が大好きです」

「えっ」


 急な告白に、綜士郎の手が止まった。ぎょっとした顔を浮かべている彼へ、五十槻は至極真面目に続ける。


「僕は大尉のことを、兄のように思っています。あなたのような兄がいたら、幸せだったろうなと。上官に対し畏れ多いことですが」

「ああ、好きってそういう……」


 思っていた意味じゃなかったことに安心したように、綜士郎は苦笑した。再び大きな手が、五十槻の背中をゆっくり、子守唄のような調子を刻んであやし始める。いつもはぴんと伸びている少女の背筋は、いまは少し丸まっていた。

 五十槻は少しずつサイダーを飲みながら、ぽつりぽつりと語った。それに対し、綜士郎も穏やかに返す。


「僕、大尉にもっと、色んなことを教えてほしいです」

「うん」

「もっと褒められたいし、僕がだめなときは叱ってほしいです」

「うん」

「……正直、今日の拳骨は嬉しかった。僕、甲伍長がずっと羨ましかったんです」

「何を言っとるんだ、ばかたれ」

「大尉の指揮で、禍隠をたくさん殲滅したいです」

「それは……いや、うん」

「いっしょに美味しいごはんをたくさん食べたい」

「ああ」

「ずっと藤堂大尉の部下でいたいです」


 最後の言葉に、綜士郎は返事をしなかった。五十槻だって、そんなことは無理だと分かっている。人事考課次第で、二人は簡単に離れ離れだ。それに五十槻は父親から、士官後三年経っての退役を命じられている。


──僕はいつから、こんなにわがままになってしまったんだろう。


 さっきから藤堂大尉へ紡ぐ言葉は、ぜんぶ五十槻の願望ばかりだ。ちょっと前までは、自分に意志なんて無いと思っていたのに。神籠の軍人として、禍隠を殲滅して戦場に骨を埋める以外の願望なんて、無かったはずなのに。


「俺もお前が好きだよ」


 ぽつりと漏らすように、綜士郎が言った。その言葉を、五十槻はやはり恋慕の意味としては受け取らない。紫の瞳は穏やかに藤堂大尉の横顔を見つめている。綜士郎の慈しむような眼差しが、五十槻の方を向いた。


「まったく、お前は手のかかる弟みたいなやつだ」

「弟……」

「妹が良かったか?」

「弟がいいです」

「ははは。ま、五十槻は五十槻だな。ただ、弟にしろ妹にしろ、懐き方はまるで犬みたいだ」

「犬……」


 犬。犬は三日飼えば三年恩を忘れぬという。五十槻は藤堂大尉から様々な恩恵を頂いている。その恩は三年どころか、生涯忘れ得ぬものであろう。


「犬ですか。それは……とても良い在り方です」

「こら、本気にするな。今のは失言だ。すまん、忘れろ」


 大尉は忘れろと言うけれど、犬は自分の思慕の形態を表すのに、最適の言葉である。妹よりも、弟よりも。綜士郎はあまりその言葉を使ってほしくはなさそうだから、五十槻はもう口にしないけれど。

 綜士郎の手は五十槻の背中を離れ、今度は彼女の髪をわしわしと撫でた。やっぱり不器用な撫で方だ。けれど温かくて心地よい。しばらくそうした後に、彼の手は五十槻の頭から離れていった。少し惜しい気持ちがした。


「……さっきの話、続き聞いてくれるか?」

「ええ、もちろん」


 綜士郎は、大応連山での惨劇の後を語り始めた。


 禍隠に襲われ、神籠に覚醒し、啓太たちを殺めてしまった翌朝。

 綜士郎は禍隠を追ってやってきた地元の神事兵に保護された。多数を殺めてしまった綜士郎は、死罪を覚悟していた。むしろ殺してほしいくらいだった。

 取り調べでは洗いざらいすべてを話した。その後、怪我を負っていた彼は、妙に待遇の良い病院で過ごすことになる。

 入院中には母親とも再会できた。母は泣きながら綜士郎にすがりつき、無事を喜んでくれた。母も母で、もともとの勤め先以外に方々で働き先を探し、寝る間を惜しんで金を稼いでいたそうだ。炭鉱から綜士郎を取り戻すために。


「でももうね、借金、返さなくていいんだって」


 母が言うには、貸主が不祥事で逮捕されたとかで、証文も有耶無耶になったそうだ。よく分からないまま、綜士郎の懸念はひとつ解決を迎えてしまった。

 お沙汰はいつ下るのだろうかと、眠れない日々を過ごしていた綜士郎少年は、ついに法廷に立つこともなく、すり、強盗、そして殺人の罪は不問となる。入院先の病院へある日、神籠の専門家を名乗る陸軍の高官が現れたのだ。


 きみが藤堂綜士郎くんだね、と身なりの良い厳格そうな人物に尋ねられたとき、綜士郎はやっと死罪を伝えられるのだろうと思った。けれど高官は真逆のことを言った。


「大応連山の事件の際、きみには香瀬高早神(カゼタカハヤノカミ)の神籠が宿ったとみられる。今後は陸軍神事兵の将校として育成するべく、国はきみの就学を支援したい考えだ」

「俺は死罪になるのではないのですか」

「神籠に死罪はあり得ない。無期懲役なら、あるけどね」

「無期懲役にもならないんですか」

「今回の件は、神籠の覚醒に伴う事故のようなものだ。また、きみたちが米山の街で重ねた悪事も、もともとは違法操業の炭鉱から逃れたことが原因だ。そちらの弁済も国費で賄う。きみは何も心配することはない」

「俺は……俺はどうやって啓太たちに償えばいいんですか!」


 綜士郎少年の激昂に、それまで寝台の脇で立っていた男は、しゃがみこんで綜士郎と目を合わせ、真摯に言葉を紡いだ。

 厳格そうだった面差しの眼は、思っていたよりも優しい。


「……きみは自分が死ねば、失われた命への贖罪になると思っているね。その気持ちは理解するけれど、きみの命が彼らへの手向けなるという考えはやめたまえ。きみに宿った力は、禍隠を討滅するために神がお与えくださった力。きみがそれをどう思っていようと」

「…………」

「私は、きみがその力でか弱き蒼生(あおひとくさ)を救い、禍隠の害を祓い、きみの友人たちのような犠牲者を二度と生まないことこそが──あの子たちへの、本当の弔いになるんじゃないかと思うよ」


 最初はその言葉に納得できなかった。やはり啓太は黄泉で、己を手にかけた綜士郎を憎んでいる。そんな妄執が頭から離れず、綜士郎の眠れぬ夜は続いた。

 高官はそれ以降、毎日見舞いに訪れた。神経症を発し、精神不安定な綜士郎の話を根気強く聞き続けた。少年が自死を企てた時も、彼は身を挺してそれを止めてくれた。いつの間にか綜士郎は彼を信頼するようになった。

 綜士郎は今でも、神籠に縛られる自分の人生を疎ましく思っている。けれど結局のところ、最終的に神事兵の将校としての進路を納得するに至ったのは、事件以降、親身に接してくれたかの高官の意向に依るところが大きい。あの人が言うならと、綜士郎は神籠として、八洲の臣民を守る使命を受け入れたのだ。とはいえ、その使命もかの人の助言がなければ、半強制的なものである。だからときどき軍隊を辞めたくなるけれど。


「俺は……俺の人生にはもはや、他に選択肢なんてなかった。神籠の軍人として、中学校、士官学校の費用は国が工面してやるから、一生命かけて戦え、なんてさ。当時の俺は、啓太たちへの償いのため、自分は死ぬべきだと思っていた。いまでも正直割り切れていない。でも、あの人が軍人になれって言うなら、俺はそれでいいんだろうと思った。ガキの俺に心から親身に寄り添ってくれて、本当に優しい人だった」


 信頼のにじんだ口調で、綜士郎はかの高官の名を口にする。


香賀瀬(かがせ)修司(しゅうじ)博士という方だ。俺の大恩人で、いまは陸軍神祇研究所の所長をしている」


──香賀瀬修司。


 その名を聞いた瞬間、五十槻の中でずくんとひどい動悸がした。続いて鼓動がどくどくと早鐘を打つ。

 けれど五十槻はおくびにも出さない。いつもの真顔はいつもの平静さで、ただ紫の瞳だけがこわばっている。


「香賀瀬先生なら僕も存じ上げております」

「へぇ、そうだったのか」

「大変すばらしいお方です。僕も幼少のみぎりより、いたく薫陶を受けておりました」

「そうか……」


 綜士郎は、よかった、と心から安心したような声音でつぶやく。


「俺は、お前の周りにはろくな大人がいないと思っていた。なんだ、香賀瀬さんと知り合いだったのか」

「はい」


 短い返事をして、五十槻は手に持ったサイダーの瓶へ視線を注いだ。まだ半分以上残っている。それを。

 五十槻は思いっきり瓶底を天井へ向けるようにして煽り、一気に飲み込んだ。飲料の中ではまだ強い炭酸が存在を主張している。痛みにも似たのどごしを、五十槻は(むせ)もせず一息に食道の奥へ流し込んだ。


「お、おいおい! 急にどうした!」

「ごちそうさまです」


 突然の奇行に綜士郎が驚いているけれど、五十槻は飲み切ったサイダーの瓶を持って椅子から立ち上がった。

 そして大尉へ向かい、いつもの如く挙手礼。


「本日は貴重なお話を聞かせてくださり、ありがとうございました。そろそろ就寝時間のため、自分は失礼いたします」

「お、おう……遅くまで付き合わせて悪かったな」

「では」


 綜士郎から見れば、さっきまで遠慮がちに甘えていた五十槻が、急に他人行儀になったようである。というか、中隊へ配属されたばかりの、いまよりもっと人形のようで、より意志薄弱だった頃の五十槻に戻ってしまったようだ。


「どうしたんだ、あいつ……?」


 去っていく姿を、綜士郎に怪訝な顔で見送られながら。

 廊下を歩きつつ五十槻は考えていた。今日、余分に摂取してしまった分の糖分を。

 与えられた食事や飲料を残すのはいけないことだ。さりとて、自らの身体を形作るため、余計な嗜好品を摂取するのも本来はあってはならぬこと。糖分の消化のために軍営を今からでも走りこみたいところだけれど、藤堂大尉は、自分が夜遅くまで減量に励むことを快く思われていない。

 ならば、自室に帰り、室内でもできる運動を──夜が明けるまで。それで帳尻は合うはずだ。女の身体から遠ざかるはずだ。

 恐怖に竦んだ思考回路は、極端な考えをはじき出す。

 僕が堪えれば、ぜんぶそれでうまくいく。僕は神籠の軍人。八洲の男子として、禍隠を滅し、身心を国のために捧げる者。香賀瀬先生にも、そう言われて育ってきたはずだ。


──僕の敬愛する藤堂大尉が信頼なされている、香賀瀬先生の言うことが間違っているはずがない。

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