2-8
八
「うっ、うっ……お父さまのバカ……ここまでする?」
美千流は薄暗い自室で、膝を抱えて泣いている。
屋敷の二階にある彼女の部屋は、南向きの大きな窓が自慢であった。その大きな窓は現在、無理矢理外から板を打ち付けられて塞がれている。居心地の良かった部屋も、こうなってはまるで牢獄だ。
父の宣言通り、美千流はここ数日、軟禁生活を送っている。学校へ通う以外は、ほとんどすべての時間を彼女はここで過ごしていた。
昼なお暗い部屋の中で、美千流は涙を拭い、机の上の洋ランプに灯をともす。広げていた医学書のページが、橙色の灯かりに照らされた。
ここ最近、美千流は少しずつ看護の勉強を進めている。以前の女学院地下での事件の折、過呼吸を起こしていた五十槻に何もできなかったことが、ずっと悔しかったのだ。もし将来彼と一緒になるのなら、傷ついて帰ってくることもあるだろう。そのときのために、適切な処置ができるようなっておきたかった。その役目をまた、あの藤堂綜士郎に奪われるわけにはいかない。
(やっぱり泣いてちゃだめよ。前向きに勉強しなくちゃだわ!)
気を取り直して机についたところで。コンコン、と美千流の部屋の扉が叩かれた。
「美千流さん、入っていいかしら?」
「お姉さま!」
この家で唯一、美千流の味方をしてくれるのは、姉の京華だけである。姉はそっと扉を開けると、美千流のそばへ歩み寄った。今日も黒基調の上品な旗袍を着ている。姉は一通の封筒を手にしていた。
「美千流さんあてに、例の方からお手紙が届いてたわよ。念のため、お父さまに見つかる前に確保しておいたから」
「お姉さま! さすが私の自慢の京華お姉さまだわ、あまりにもデキる女すぎる!」
「うふふ、そんなに言われると照れちゃうわ。それより、早く読んでみたら?」
姉が手渡してくれた封筒に記されているのは、待ちわびていた硬い字体である。裏書きを見れば、送り主は「稲塚いつき」だ。丁寧に封筒を開ける妹へ優しい視線を投げかけつつ、京華は問いかけた。
「ねえ。例のお話しがうまくいけば、美千流さんは彼と婚約ということになるのかしら? きっとお父さまは大反対するでしょうし、お伝えはできないわね」
「もちろんだわ。お互い十八歳の結婚できる年齢になったら、即駆け落ちね!」
「そうなっても、私にだけはこっそり住所を教えてちょうだいね?」
「当たり前ですわ! お姉さまはいつだって私の特別だもの!」
うふふ、と仲良し姉妹は笑顔を交わし合う。姉の方は、少しだけ寂しげな余韻を見せていたけれど。
やがて美千流は、もどかしい手つきで封筒から手紙を取り出した。文を広げて読んでみれば。
「二月五日正午、寅山区青木、料亭吉野へ来られたし……」
ごくりと美千流は喉を鳴らした。決戦は四日後だ。二月五日、彼女の運命が決まる。けれど。
「……困ったわ。その日までに、お父さまがこの軟禁を解いてくださればいいんだけど」
目下の懸念はこの状況である。あまりの憂鬱さに俯く妹へ、京華は相変わらずの優しい眼差しで、元気づけるように言った。
「大丈夫、心配しないで美千流さん」
「お姉さま……」
「信じて。私はいつでも、あなたの味方だから」
姉の優しい笑みは、途中ちょっとだけ、不穏なものに変わった。
── ── ── ── ── ──
そしてやってきた二月五日である。朝から美千流はそわそわしていた。
軟禁はやはり解かれていない。朝食の席でも、父はじっと美千流へ疑わしげな視線を向けていた。姉はいつも通りのほほんとしたものだったが。
今日は日曜日。学校は休みで、本来なら美千流は家から一歩も出られない。けれど正午の決戦に向けて、美千流は悲壮な覚悟で水色の振袖をひとり着付けていた。幸い、軟禁中のお嬢様の部屋へ勝手に入ってくるような、不躾な者はこの屋敷にはいない。
いないはずだった。
「美千流さん!」
どばたん! と乱暴に部屋の扉が開かれた。現れたのは、最もこういうことをしでかしそうにないはずの──姉である。
「きょ、京華お姉さま!?」
「お待たせ、迎えに来たわ!」
京華はいつにもまして快活な笑みを浮かべている。なにより、その片手で持ち上げているのは……ぐったりと気絶している今津川。
「ちょ、ちょっとお姉さま! 今津川はどうしちゃったの!?」
「手刀一発で気絶! 言ってなかったけど私、太華で拳法を習ってたのよね!」
「初耳!」
「さあ、美千流さん!」
京華は今津川をほっぽり出して美千流の部屋へ入り込むと、南向きの大窓のガラスを開け。
外に打ち付けられていた板へ、思いっきり蹴りを放った。美千流を閉じ込めていた檻が、あっけなく破壊される。
がんがん音を立てて板の残骸が、屋敷の植え込みへ落ちていった。美千流は唖然とそれを見守っていたのだが。
「美千流さん掴まって! 飛び降りるわよ!」
「お、お姉さま!? ここ二階! あびゃあっ!」
有無を言わさず姉に抱えられ、珍妙な悲鳴を上げながら美千流は諸共に窓から身を躍らせた。
京華はなんの危なげもなく妹とともに地上へ着地し、どこからともなく美千流の履物を差し出して履かせると、さっと身を翻した。黒い旗袍の裾がふわりと揺れる。
「さっ、お父さまに気付かれる前に出かけましょう!」
「ま、待ってお姉さま! 聞きたいことが山ほどありましてよ!」
「おいで紅箭!」
「う、馬!?」
姉がピーッと指笛を吹くと、どこからともなく、赤っぽい毛並みの馬が庭を横切って駆け付ける。京華はなんら迷うことなく手綱を取り馬にまたがると、美千流へ向かって手を差し出した。
「行くわよ美千流さん!」
「ちょっと待って、この馬なに!?」
「気にしない気にしない!」
京華は強引に、けれど優しく美千流の手を引くと、そっと馬上へ妹を引き上げる。振袖の美千流を横抱きにすると、京華は馬の腹を足で軽く小突き、走らせた。
「駕!」
太華の言葉で馬を御しつつ、京華は妹を抱えて通りを疾走する。
(なに、この状況は……!)
美千流の知っている姉は、淑やかでおっとりしていて、けれども才学非凡の才媛のはずだ。こんな武侠小説の登場人物のような、荒事を演じる姉は知らない。けれどもなんだか段々痛快になってきた。
「こらー! 京華ーっ! 美千流ーっ!」
やっと姉妹の逃走に気付いたらしい父の叫びが、遥か後方から聞こえてくる。しかしもうこの距離だ、自動車でももう追いつけないだろう。
「行けーっ、お姉さまー!」
「ひゅーっ! 私実はこういうの大好きー!」
仲良し姉妹は一路、寅山区青木の料亭、吉野を目指す。大通りを疾駆する大陸の馬に、通行人が仰天しながら彼女らを目で追った。
── ── ── ── ── ──
「清澄さん、遅いな……」
料亭の前でぴしっと背筋を伸ばし、五十槻は美千流を待っている。店内では、何も知らない綜士郎が、母と卓を囲んでいるはずだ。藤堂親子が料亭へ入るのを確かめてから、五十槻らは店外でひっそり待機していた。
「ははは、怖気づいたんじゃないか、あの性悪め」
「まつりちゃんなんできたん?」
五十槻の他には、精一と万都里もいた。三人とも軍服姿である。なぜなら藤堂綜士郎嫁取り作戦は、荒瀬中佐直々の命令で、あくまで軍務だからである。この軍大丈夫か。
「お、なんかきたぜ」
精一が気付いたように声を上げた。彼方から、だららっと馬蹄の音が近づいている。馬? と一同が目を凝らして見つめるなか。
「はい到着ー」
ぱからっと蹄を止めて、赤っぽい毛並みの馬が料亭の前で止まった。乗っているのは、女性二人組である。一人は五十槻が待ちかねていた人物だ。
「清澄さん……!」
「待たせたわね、五十槻さん!」
馬上で寒風を浴びながら駆けつけてきた、美千流の頬は真っ赤だ。姉にそっと馬から降ろしてもらい、少女は軍装の少年へ駆け寄った。
「なかなかいらっしゃらないので、心配していました。迎えに行こうかと……」
「その格好でうちまで来られたら、ちょっと厄介だったわ。間に合ってよかった……」
「あの、そちらは?」
五十槻の紫の眼は、美千流とともに現れた美女へ向けられる。
黒い太華風の衣装──旗袍を上品に着こなし、その上から厚手のコートを羽織っている。美千流によく似た顔立ちは、最初なぜか切なそうな表情を浮かべていたけれど、すぐにおっとりとした笑みを浮かべる。
「こんにちわ、八朔五十槻くん。妹がお世話になっています。美千流はあなたに何度も助けていただいたそうね? 私は京華、この子の姉です」
「姉君でいらっしゃいましたか」
よろしくお願いします、と握手を乞おうとした五十槻を。
「待って、五十槻さん」
「やめとけハッサク」
美千流と万都里が、息ぴったりに遮った。
美千流は五十槻の年上趣味を懸念している。万都里はただ、ハッサクに新たな女を近づけたくないだけ。精一はキツネ顔をひたすらにやにやさせている。
「五十槻さん! 今日の主役は私でしてよ! たしかにお姉さまはお綺麗ですけど、目移りしないでくださいまし!」
「目移りとは」
「ああいう手合いの女は上級者向けだ。お前にはまだ早い」
「獺越さんに至っては言っている意味が分かりません」
京華はにこにこと三人のやりとりを見守っていたかと思うと、ふとその端正な眼差しを、万都里へ向けた。のんびりとした口調が万都里へ語り掛ける。
「あなたが獺越万都里さんね。二年前の舞踏会で、美千流さんが大変お世話になったそうね?」
「ハッ、いつの話だ?」
「あらあら、心当たりがないはずないんだけれど。それに、つい先日もあなたが美千流さんたちに絡んだおかげで、美千流さん、清澄のお屋敷でひどい目にお遭いになったのよ?」
「知るかそんなもん。そっちこそ、妹の教育がなってないんじゃないか? 口の減らないはねっ返りに育ておって」
「ちょっと、獺越次男……!」
万都里のあんまりな言いように、美千流が抗議の声を上げた。その瞬間、京華の雰囲気が突然変わる。
「まあ、獺越の御曹司さんはよくキャンキャン吠えて、とっても可愛らしいわね」
「はぁ!? バカにして……」
「ほんと、調教のし甲斐がありそうだこと」
京華から、ねっとりとした視線が万都里へ絡みつく。ただならぬ雰囲気に、慄いた万都里が「はわわ」と五十槻の後ろへ避難した。
そんな彼に構わず、五十槻は口を開いた。こんなことしてる場合ではない。
「清澄さん。お越しいただき早々で申し訳ないのですが、僕と一緒に来てくださいませんか」
そう言って差し出された五十槻の手を、とっておきの振袖を纏った美千流の手が、しっかりと握る。
「もっ、もちろん! 末永く!」
「では参りましょう」
「はい!」
美千流は夢のようであった。軍服姿の五十槻にエスコートされて、赴きある料亭の庭園を歩いている。
店の中では、彼の両親が待っているのだろうか。ああ、きちんと挨拶を考えておくんだった。
「美千流さーん、頑張ってね!」
「ハッサク! 頼む置いていかないでくれ!」
「京華さん俺、縛るのにちょうどいい縄持ってるよ」
姉たちの声援を受け、美千流は白獅子の君を傍らに決戦へ臨む。




