2-6
六
「えっ、もしかして八朔少尉ですか?」
「わっ、気付かなかった! その格好だと完全に女の子じゃないですか!」
「みなさんもお疲れ様です」
万都里の連れている分隊は、当然同中隊所属の五十槻とも面識がある。式哨四人がきゃいきゃいと、女装の五十槻へ話しかけてきた。
「やーん! 八朔少尉、かーわーいーいー!」
「かわいいとは何だ貴様! 八朔少尉は凛々しくてカッコいいだろうが!」
「やんのかコラァ! かわいいをかわいいと表現して何が悪い!」
「やめろ、解釈違いで争うな! 見苦しい!」
揉める部下を注意したかと思えば、万都里はさらに自分勝手な指示を飛ばす。
「キサマらは先に中隊へ帰れ。オレはこの辺で食事してから戻る」
「えっ、自分らも一緒に……」
「か、え、れ!」
横柄な指示に、式哨四人はもちろん不満そうである。しかし一応は上官からの指示なので、悔しげにしつつも万都里の言う通りにするのだった。「藤堂隊長に言いつけてやる!」と捨て台詞を残し、式哨たちは駆け足でその場を去って行った。
その高圧的なふるまいをちょっと呆れた様子で見守る五十槻へ、さっそく万都里が声をかけてきた。声をかけてくるだけではなく、手まで取る。
「フッ、見苦しいところを見せたな。どうだハッサク、ちょうどこの辺に洒落た店を知ってるんだ、よかったら二人で食事でも……」
「いや、あの……」
「ちょっとちょっと! 未成年略取でしてよ!」
五十槻の手を引いてどこかへ行こうとする万都里を、美千流が大声で引き留めた。五十槻はわけが分からない。
「すみませんが獺越さん。本日は友人と食事の約束をしていますので」
真顔の眉をかなり困惑寄りにしながら、五十槻は万都里の誘いを断った。けれど万都里の手は八洲撫子の手首を頑なに離さない。慌てて駆け寄ってきた美千流も、白獅子の君の逆側の手首を掴んだ。傍から見れば修羅場である。実際にも修羅場である。精一がいたらきゃっきゃして喜んだであろう。
「獺越万都里! 久しぶりね。私の大事な友人をどこへ連れて行くつもりかしら!」
「げぇっ、清澄美千流! キサマ、ハッサクの知り合いか!」
両側から引っ張られながら、五十槻は二人を交互に見た。
「お二人は面識があるのですか?」
「残念ながらね! もう二度と見たくないお顔ですけれど!」
「それはこっちの台詞だ性悪女!」
「ていうかあなた、五十槻さんのことをハッサクって呼んでるの? だっさ!」
「相変わらず癪に障る女だな! ハッサクはハッサクだ!」
「八朔です」
間に挟まれながらの応酬に、五十槻は思った。これが喧嘩するほど仲がいい、というやつなのか。とりあえず二人とも、手を離してほしい。
五十槻の願いも虚しく、犬猿の二人は手を掴んだまま会話を続ける。
「というか、キサマらどういう仲だ? なぜハッサクに女装させて連れ歩いている、清澄美千流!」
「なんで私がこの人に女装させてることになってるのよ!」
「すみません獺越さん。この装いは今朝、僕の姉が無理矢理……」
「そうかそうか! お前の姉上はいい仕事をなさる!」
「もうっ、なんなんですかあなたは! 私は! 五十槻さんの友人! 今日は一緒に食事しにきたの!」
友人、と言ったあたりで、美千流の口調はちょっとやけくそになっている。そんな彼女へ、万都里はふと、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……おい清澄の。お前、こいつが男だって知ってるんだよな?」
そんな万都里の問いへ、美千流はやっぱりやけくその口調で答えた。
「も、もちろんよ。こう見えてれっきとした軍人さんっていうのも承知しているわ!」
「ほーお。ふふん、ハッサクとお前が友人ねえ……」
ちょっと小馬鹿にしたような万都里の冷笑。美千流も負けじと牽制の台詞を返す。
「そちらこそ、さっきから変な名前で五十槻さんをお呼びになって、ちょっと馴れ馴れしいんじゃなくて? あなたこそ五十槻さんの何?」
「何って、士官学校の同期だ。もっと遡れば小学校からの知己だ!」
「小学校の頃に、僕が獺越さんを大怪我させたことがあるんです」
「ぷっ、あなたずいぶん年下に痛めつけられてるのね? 草生え散らかしますわ!」
「おのれ! ハッサク余計なことを言うな!」
「八朔です」
「あだ名をあだ名として認識されてないところもお笑い種ですわね!」
「くっ、口の減らない女だな相変わらず!」
険悪な小競り合いのさなかだが、五十槻は紫の瞳を明後日の方向へ向けている。彼方から、こちらを見張っているような視線を感じたからだ。おかげであだ名云々のくだりはほとんど耳に入っていない。
美千流とのなじり合いをいったん終えた万都里も、五十槻と同じ方向へ眼差しを送る。
「……誰か、さっきからずっと見てるやつがいないか?」
「ええ。なんだか視線を感じるような」
「獺越の次男がぎゃあぎゃあ騒ぐから、そりゃあ当然あちこちから注目されるわよ」
「なんでオレのせいなんだよ! 騒いでるのはキサマもだろうが!」
ぎゃいぎゃい騒ぐ一同は、すっかり見逃してしまった。美千流を尾行していた今津川が、軍人二人に気取られたことに勘付き、「ひえっ」と慌ててその場を離れていく姿を。今津川からしてみれば遠目からなので会話内容は分からないものの、美千流お嬢さまと謎の美少女が、神籠の美男子を巡って揉めているようにしか思えなかった。
「それより、お二人はどういったお知り合いなんですか?」
視線の主が消え有耶無耶になり、五十槻は先刻から気になっていたことを尋ねてみた。
美千流と万都里は、先程までのいがみ合いっぷりが嘘のような同調っぷりで、声を合わせて言った。
「話せば長くなるわ」
「話せば長くなる」
── ── ── ── ── ──
長くなると言ったものの、別に大した話ではない。
二人が出会ったのは、とある舞踏会でのことだった。
八洲の富裕層は、交友関係を広げる目的であちこちに社交の場を設けている。数十年前に西洋の文化が一挙に流入して以降は、舞踏会なる催しも頻繁に開催されてきた。男性は洋風の紳士服、女性はドレスを身にまとい、ピアノの音に合わせてダンスを踊るのだ。表面上は西洋の文化を学ぶための催しだが、実態は未婚の男女の出会いの場である。良家の子女同士が舞踏会で出会って、将来的には結婚に至る。うぶな令嬢たちにとっては、憧れの舞台であった。
皇都内で開催された舞踏会へ美千流が参加したのは、二年前のこと。学校行事の一環としてだった。櫻ヶ原高等女学院は掲げているお題目こそ立派だが、実態は花嫁予備校のようなものである。在学中に結婚が決まって自主退学する生徒も少なくなく、学校としても縁談を推進する気風があった。自然、婚活目的の舞踏会へ生徒を送り出すことにもためらいがなかった。
美千流の父は「どこの馬の骨とも分からん奴に、娘を奪われてはたまらん」と当初彼女の参加を渋っていたが、結局は娘の癇癪に負け、美千流を泣く泣く舞踏会へと送り出すこととなる。
当時十三歳の美千流は、噂で聞いて知っていた。その舞踏会には、おそろしく美形の神籠の青年──獺越家の次男が参加するということを。もちろん神籠なので父には黙っていたけれど。
獺越家は公爵の家柄である。古来より鉄を司る神籠を継ぎ、またその一族は代々巨大な鉱山を所有している。獺越の山から産出される鉄鋼は開闢以降の八洲を潤し、開国黎明期においても官民隔てなく富をもたらしてきた。その関係で、獺越は鉱山運営だけでなく鉄工所や造船所を複数所有しており、現在もかなり儲かっている。
つまり超金持ちである。美千流の父が総帥を務める清澄財閥も負けていないが、嫁ぎ先もやはり金持ちであってほしい。
当時すでに万都里は神籠であった。神實の神籠として将来は分家を立て、幾ばくか獺越の資産を分与されることは確実である。
しかも獺越の次男は美形で将来有望な士官学校在学生。噂によれば、彼は八洲人には珍しい飴色の髪の持ち主で、類まれな整った容姿であるという。また銃剣道という耳慣れない武道を嗜む傍ら、ピアノの腕も非常に堪能であるという。
噂で聞く限り、彼は非の打ちどころの無い文武両道の貴公子である。性格に関しての情報がなにも流れてこなかったことが、美千流にとっては災難だったのかもしれない。
──獺越万都里。絶対に落としてみせる!
大変な気合で臨む、清澄美千流嬢に反して。
一方の獺越万都里は舞踏会になんか行きたくなかった。そんな場所へやってくる女など、金目当て顔目当ての魑魅魍魎ばかりと決まっている。そんな彼に舞踏会参加を命じたのは、実家の両親だった。
万都里には兄がいて、すでに結婚し、生まれた子には男児もいる。跡取り問題は解決しており、万都里が急いで結婚する謂れはない。本人はそうは思っていても、両親はやはり、当時十八になる息子には許嫁くらいいて然るべきと考えた。そこで彼らの両親は冷然と愛息に命じるのである。
「万都里。今度の舞踏会に出なさい。さもなければ士官学校を辞めさせます」
士官学校への在籍は、本人の意思でもなく両親の意向でもない。神實の神籠ならば士官学校へ強制入学するものと国の方針で決まっている。だから自主退学などできるはずもないのだが。
当時の万都里に、この脅し文句は効いてしまった。士官学校を辞めさせられては、憎きハッサクへ意趣返しをする機会が奪われてしまう。それに日々ハッサクにちょっかいかけることもできなくなってしまうではないか。おのれハッサク。
学校側に一度確認さえすれば解決したのに、万都里はアホなので勝手に懊悩した。懊悩した挙句、渋々舞踏会へ参加を決めた。当日、無理矢理父母に洋装をさせられて使用人の運転する自動車にぶち込まれ、万都里は不満たらたらの状態で会場入りを果たす。
そんな二人の邂逅である。
迎賓館のダンスホールで。万都里は知り合いもいない中、ぽつねんと無聊をかこっていた。
そんな彼を攻略するため、並みいる学友を性悪な眼光で牽制し、美千流は青いドレスで万都里の前へ進み出た。
初めまして、よろしければ一曲いかが、と淑やかに彼へ声を掛ければ。
「はぁ? 嫌だ!」
返ってくる返事がこれであった。
「あ、あの……」
「ったく、こんなところに来るだけあって、性格悪そうな女ばかりだな。くそっ、あと二時間もここにいなきゃいけない」
性格悪そうな女、のあたりで美千流は口元が引きつるのを感じた。確かに目の前の男は大変麗しい出来の顔面をしているが、性格の出来はあまりよろしくはなさそうである。
しかしやはり顔はいい。実家も金持ちだ。美千流は諦めない。
「獺越万都里さまとお見受けしますわ。もしよろしければ、一緒にこの会を楽しみませんこと? 二時間なんて、きっとあっという間ですわ」
「しつこいなぁ。大体、なんで女学生なんか動員してんだ? どいつもこいつも乳臭いガキじゃないか」
「ガ、ガキ……!?」
「ま、そのガキどもが必死で男に媚売ってる様を眺めてるのは、それなりに楽しいかもな。わはは」
──こいつ、マジで性格終わってるわね!
しかし十三歳の美千流は、意外にもこの時点では忍耐できていた。少女は数々の恋愛小説を読み、なんとなくこういう手合いの傾向が分かった気になっていた。こんな風に性悪気質な男ほど、いざ惚れた女性が現れたときには一途である、と。
美千流は持っていた扇子を広げて口許を隠しつつ、上目遣いに健気な口調で秋波を送る。
「そのような仰りようは傷つきます……みな、ただ素敵な時間を過ごしたいだけですのに」
「知らんわ、勝手に過ごせ」
「まあ、勝手にだなんて。私存じておりますわ、獺越の若様はピアノがご堪能なのでしょう? せっかく会場にもピアノがあることですし、ぜひ演奏をお聞きしてみたいですわ。なんなら、手ほどきも受けてみたく……」
手取り足取りで構いませんわよ! と自信満々に胸を張る美千流に、万都里の猫っぽい目から注がれる辟易の眼差し。
「なんでオレがキサマなんぞに演奏や手ほどきをしてやらねばならん。オレがピアノの稽古をつけてやるのは、心に決めた奴だけだ」
「あらあら、そんなこと言われたら俄然、心に決めてもらいたくなりますわね!」
粘り強く絡み続ける強気の令嬢だったが、万都里の辟易の眼差しは、徐々に苛立ち始める。
「まったく、本当にしつこいな。どこのマセガキだキサマ、名前を言ってみろ」
「き、清澄美千流でございますけれど……ま、ませがき?」
「あーあー、あの財閥んとこの娘か。名乗ってくれてありがとうよ、一生関わらないようにする。あばずれめ」
「ちょっと、あなた……!」
いかに美男が相手とはいえ、この発言には美千流の堪忍袋の緒も限界を迎えた。美千流にしてはよく持った方である。パチンと扇子を閉じ、令嬢は満面に怒りを露わにする。
「さっきからせっかくこちらが下手に出てダンスやらピアノの演奏やらに誘って差し上げてますのに、いったい何なんですのその態度は!」
「ハッ、さっそく本性を現したな性悪め! キサマらにくれてやる愛嬌など、こちとら持ち合わせておらんのだ!」
「誰が性悪よ、そっくりそちらにお返ししますわその言葉! この清澄美千流を、そのようなはしたない言葉で形容しないでくださいまし!」
「どうせ金目当て、顔目当てにこのオレに話しかけてきた手合いだろうがキサマは! オレだってこんな場所、来たくて来たわけじゃない!」
「それにしたって、大人の男性ならこういう場に相応しい態度くらい保って当然じゃなくて? いやですわ自分より年上の殿方が、お子様みたいな物言いで駄々をこねてらっしゃるなんて……見苦しいにもほどがありましてよ!」
「おのれ……小癪な小娘が!」
まあ、美千流と万都里の因縁などかくのごとくである。
紳士淑女の集まるダンスパーティーにあるまじき、華やかならざる罵詈雑言の雨あられ。
舞踏会を罵倒会に変えんばかりの有様に、周囲の参加者は唖然呆然のドン引き具合であったという。やがて美千流は女学校の学友に、万都里は他の男性参加者によって引き離され、会の終了後には揃って二人とも会場を出禁になった。八洲の社交界に二人の悪評が知れ渡ったことは、言うまでもない。
── ── ── ── ── ──
「……ということがあったのだ」
「あれは本当に思い出したくもない、嫌な事件でしたわ」
お通夜のような消沈っぷりで、万都里と美千流が語り終えた。白いクロスの敷かれたレストランの丸テーブルを囲み、美男美女の三人組はまったく盛り上がらない時間を過ごしている。
「……というか獺越万都里! なんであなたが同席しているの!」
ふと我に返り、美千流は指摘した。今日五十槻と昼食を取る予定だった目当てのレストランには、いつの間にかしれっと万都里も混ざっている。青年は小銃をテーブルに立てかけ、当然のように椅子へ深々と腰かけて、相変わらずの尊大な態度で足を組んでいる。
「ちょうどオレも昼食を取ろうと思っていたところだ。渡りに船だろうが」
「もー! 今日はせっかく五十槻さんと二人きりで過ごせると思ったのに!」
「清澄さんと獺越さんが旧知の仲なら、旧交を温め直す良い機会では……」
「お前は話を聞いていたのかハッサク! 旧知は旧知でも、不倶戴天の仇敵だぞ!」
「そうよそうよ! 犬猿の仲ってやつよこんな男!」
「息ぴったりにお見受けしますが」
五十槻は二人の剣幕を前に、のほほんとしたものである。そんな真顔をしばらく見つめて、つっこみの甲斐のなさに美千流と万都里は同時にため息を吐いた。
諦めたように美千流がメニューを手に取った。
「ほら、こんな人のことはほっといて……五十槻さん、今日は何を召し上がります? 私のおすすめは……」
「そ、それなのですが」
ぎくっとしながら。少し言いづらそうに、五十槻は美千流の言葉を遮った。五十槻には目下、懸念事項がある。せっかく楽しみにしていた美千流との食事であるが。
「僕はいま、節制中でして……なるべく量や脂質を控えた品があると助かります」
「ええっ、なんでいま節制中? 前々から私とお食事の約束をしてたのに?」
「うっ……」
美千流の射干玉の瞳が、悲しげに揺れた。五十槻の罪悪感がいっそう強くなる。
五十槻の減量はいま現在も続いている。嗜好品を一切取らず、なるべく脂質糖質を抑えた食事を摂り、少し多めの運動を行って節制している。最近は縁談ごり押しで疎遠になったからか、藤堂大尉とも食事に行っていない。
──僕はこれ以上、女の身体になるわけにはいかない。香賀瀬先生に、叱られるわけには。
ほとんど強迫観念である。けれど、久しぶりに会った美千流の寂しそうな様子も、それはそれで申し訳なく思うわけで。
「ま、まあ無理強いはしませんわ……。本当は、五十槻さんと美味しいお料理を食べたかったのですけれど。ほら、サラダならお野菜しか入ってませんから……」
「おいハッサク」
そこで万都里が口を挟んだ。青年はメニューを手に、ちょっとからかうような笑みを五十槻へ向けている。
「お前はそうやって、粗末な食事しか取らんから一向に背が伸びんのだ。見てみろ、この店ビフテキがあるぞ」
「び、びふてき……?」
「牛の肉を焼いたものだ。知らんのか? 西洋のやつらは、牛に限らず肉をよく食うからあんなに体格がいいんだと」
五十槻も西洋人は何度か見かけたことがある。たしかに、八洲の人々よりも背が高く、特に男性の体格の良さは強く印象に残っている。肉をたくさん食べれば、男らしくなるのだろうか。
「そ……それを食べたら、僕も男らしくなれるでしょうか」
「さあな。別にオレはそのままのお前でも構わんが……」
「清澄さん。僕、びふてきにします」
「まあ、五十槻さん!」
意を決した五十槻に、美千流は嬉しそうにしている。令嬢は射干玉の目線をちらりと万都里へ傾けると、ちょっとだけ微笑んであげた。
「……ま、いまの功績は認めてあげてもよろしくてよ?」
「別に。オレはハッサクがビフテキに翻弄されているところが見たいだけだ」
「翻弄?」
「ははっ、キサマ、こいつが美味い飯を食うところを見たことがないな?」
「はぁ?」
どやっ、と得意顔で自慢げに言う万都里である。美千流は彼の真意をはかりかねる顔をしていたけれど。
そして運ばれてくる三人分のビフテキ。白い皿に、付け合わせの野菜類とともに、湯気の立つ牛肉が盛りつけられている。
「にっ、肉のかたまり……!」
例のごとく、五十槻には肉が光り輝いて見えた。ここ最近の節制生活も相まって、肉塊はまるでお天道様のように輝いている。しかしナイフとフォークの使い方が分からず、五十槻はしきりに美千流へ助けを求めた。横合いからしゃしゃり出る万都里の指南も受けたりしつつ、一口目をぱくり。
「これが……これが、びふてき……!」
ナイフで一口大に切った肉を、フォークで口に運べば。口の中に広がるのは、意外にも八洲風の味付けである。みりんと醤油で整えられた風味は、食べなれない牛肉を少しでも八洲人に食べやすくするための配慮なのかもしれない。五十槻はこれまで醤油にもみりんにもあまり縁がなかったけれど、とても美味しく感じた。それにしても噛み応えのある肉だ。
真顔の瞳をきらきらさせてひたすら咀嚼する五十槻に、美千流が思わず噴き出した。万都里の言う「翻弄」の意味が分かったからだ。
「うふふ、そんなに美味しそうに召し上がる顔が見られるなんてね。今日は一緒に来た甲斐がありましたわ!」
「清澄の、オレのおかげだからな! ハッサクもオレがいなきゃビフテキなぞ選ばんかっただろう?」
「恩着せがましいわねこの男は!」
「お二人のお心遣いのおかげで、とても美味しいです。ありがとうございます」
礼を述べて、五十槻は慣れない手つきでナイフとフォークを使い、二切れ目を口へ運んだ。けれど。
(少し、脂身が多い気がする)
帰ったらしっかり運動して、摂取した脂質を排出せねば。真顔の内で、五十槻は神経質になっている。
美味しい。美味しいけれど。幸せの味は、以前に比べて薄い。
五十槻の胸中を知る由もなく、犬猿の二人はしばし喧嘩をやめて、微笑ましく食事風景を見守るのだった。
── ── ── ── ── ──
「そういえば」
食事の席で、万都里が不意に声を上げた。青年はふと美千流の顔をしげしげと見つめながら、続きを言う。
「清澄美千流。お前、姉はいるか?」
「いますけれど、それが何か?」
「いや、今朝実家から見合い写真が届いてな。写っている女がお前にものすごく似ていたのを、いま思い出した。なぜか太華の装束を着ていたな」
「うそ……京華お姉さま、獺越にも写真送ってるの? やだ趣味悪」
「趣味悪とはなんだ! オレだってキサマの姉なんか願い下げだ!」
「清澄さん、姉君がいらっしゃるのですか!」
再開される犬猿の諍いに、五十槻は首を突っ込んだ。いつにない食いつきっぷりである。その勢いに、美千流がちょっと気圧されている。
「え、ええ。最近外国から帰ってきまして」
「お年は」
「二十五歳ですわ」
「清澄さんから見てどういった印象の方ですか」
「お洒落で綺麗で、気立てもよくて……博学広才の自慢の姉ですわ!」
「キサマの姉ということは結構な毒婦じゃないのか?」
「お黙りなさい獺越万都里!」
美千流へ質問を二、三投げかけたあと、五十槻は沈思した。帰国子女で、聞く限り容姿も端麗、頭脳も明晰そうな女性である。さらには財閥令嬢。そして。
「……獺越さんに見合い写真が届いたということは、現在結婚相手を探しておられる?」
「え、ええ。そのようですけど……」
それは、五十槻にとってあまりにもちょうどいい人材であった。五十槻はまだ、例の件を諦めていない。
「清澄さん。折り入ってご相談があります」
五十槻は珍しく前のめりの姿勢で、両手で美千流の手を取った。女子の装いとはいえ、五十槻の真剣な面持ちに美千流が「え、あの、ちょっと!」とどぎまぎするなか。
「姉君をぜひ紹介していただきたい!」
「……は?」
紫の瞳はどこまでも真剣である。一方の美千流は半ば魂が抜けかけるような心地だ。
おいこら。言うに事欠いて姉を紹介しろとは、どういうことじゃコラ。
恋する乙女は遠のきかけた意識を必死で引き戻し、ぎりっと唇を噛み締めて五十槻を問い詰める。
「ちょ、ちょっと待って。あなた何!? 年上趣味だったの!?」
「と、年上? いや、年齢というか……」
「道理で私に興味ないわけよね! こんなに頑張っておめかししても全然気にもかけてくれないし!」
「あ、あの……清澄さん、なんの話を」
五十槻の言葉が足りないばかりに、会話はすれ違うばかり。五十槻はただ、藤堂大尉に結婚相手を紹介したいだけなのに。二十五歳の才女なら、同い年の大尉にお似合いだと思ったのだけれども。
美千流は最終的に目に涙を浮かべて、懇願するように五十槻へ言った。
「ねえ五十槻さん! それって、私じゃだめなの!?」
「えっと、それは……清澄さん自身も、ご結婚を考えてらっしゃるということですか?」
「当然よ!」
「し、しかし……年がまだ十五では……」
「ほらやっぱり年上が好きなんじゃない!」
「いや、そうと限ったわけでは」
万都里はひとり、「ぐっは」と笑いをかみ殺しながら状況を見守っている。五十槻の真意を知っているのは、この場では彼だけだ。もしこの場に甲精一がいたならば、一緒に大爆笑だったであろう。
五十槻は美千流からの物凄い剣幕を浴びながら、思った。これほど必死にご自分を推されるということは……本当に結婚に前向きなのだろう、と。鈍感少尉は相手が自分を望んでいるなどとは露ほどにも思わない。
「分かりました、清澄さん」
意を決した顔で、五十槻は再び美千流の手を取った。
「それでは今度、大事なお話をしていただきたいと思います。日時は改めてお知らせいたします」
「そ、その話って……いまじゃだめなの?」
「だめです。肝心の人がいませんので」
やっぱり真剣な紫の瞳を見つめ返しながら、美千流は思った。
肝心の人──それはつまり、八朔のご両親!?
もちろん五十槻の言う肝心の人とは、藤堂綜士郎大尉である。五十槻は縁談の取り付けに必死になるあまり、最も伝えなければならない事を伝え忘れていた。万都里だけが気付いていたが、この男が素直に指摘するはずもない。
「やだもぉ五十槻さんってば、ちゃんとそういう段取りの出来る方なのね! 美千流は嬉しいわ!」
「喜んでいただけて何よりです」
すれ違った挙句、双方満足そうな表情を浮かべている。万都里はそうとは悟られぬように嘲笑を浮かべながら、歓喜の美千流へ雑に言葉を投げかけた。
「おい良かったな、清澄の! 嫁の貰い手があってな!」
「ふふん! 獺越の次男も、仕方がないから式には呼んでやってもいいわよ!」
「わはははは! おうおうぜひとも招待してくれ!」
美千流は舞い上がっていた。五十槻が当初、姉を狙っていたことなどすっかりどうでもよくなってしまうほどに。
お父さまが神籠との結婚を認めなくても、関係ないわ。お姉さまの仰るように、勝手に保証人を立てて自分で婚姻届を提出してやればいいんだから!
万都里も万都里で、嗤笑の裏では計算高く目論見を立てている。
清澄美千流は間違いなく、五十槻へ好意を抱いている。だがしかしこの尻軽の女のこと、藤堂との見合いの席でも設けられたら、間違いなく男ぶりのいい藤堂の方へ転ぶであろう。もし彼女と藤堂が許嫁にでもなってくれたら、五十槻と距離の近い邪魔者が二人も同時に消える。
もしそうなったら、ハッサクの面倒は末永くオレが見てやろうではないか。別にこいつのことなんか、好きでもなんでもないんだけどな!




