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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
36/97

1-7


 (かけ)まくも(かしこ)祓神鳴大神フツカンナリノオオカミ(かしこ)み恐み(もうさ)く。

 毎日とても楽しく過ごしていますが、僕は本当にこれでいいのでしょうか。


 櫻ヶ原の一件以降、五十槻(いつき)の日々は随分と変わった。

 八朔(ほずみ)の屋敷で過ごす休日の夜、五十槻は父母の部屋で、弟の弓槻(ゆつき)へじっと観察の視線を注いでいる。生後三ヶ月を過ぎ、弓槻は新生児の頃よりもむくむくと大きくなっている。

 今日、父は留守である。仕事で地方へ出かけている。八朔家は神實の華族として伯爵位を賜ってはいたが、家業として昔から米の流通や卸売りを手掛けていた。八朔の本籍である百雷山は昔から米どころとして有名で、山麓には広大な水田が広がっている。五十槻の父はそこで収穫された米を商っているのだ。

 父の不在を少々寂しく思いつつ、五十槻は座布団に寝かされている弓槻をひたすら注視していた。継母の和緒から小用の間、「ちょっと弓槻のこと見ててね」と頼まれたからだ。そんなわけで兄(姉)は弟を凝視している。

 その視線が気になったのだろうか。弓槻が突然、顔を歪ませて泣き声をあげはじめた。赤子はそのままふにゃふにゃとむずかっている。

 そんな弟に、五十槻は真顔の眉根をぎゅっと寄せた。

 

(どうしよう)


 対応方法が分からない。五十槻は冷静な表情の内側で狼狽している。

 

「ゆ、弓槻」


 呼びかけてみるが、当然弟は泣き止まない。むしろ火がついたように泣くばかりである。

 五十槻は弓槻が生まれて以降の、和緒の行動を思い返してみる。弓槻が泣いたとき、和緒さんはどうしてたっけ。

 記憶をなぞりつつ、五十槻は赤子の衣類をめくって、おむつを確認してみる。濡れたような様子はないので、おむつ替えを要求しているわけではなさそうだ。

 おなかが減ったのだろうか。眠くて機嫌が悪くなったのだろうか。色々と考えをめぐらしつつ、五十槻はふと思い出した。

 

「……どんぐりころころ、どんぶりこ」


 なんとなく口をついて出たのは、五十槻が唯一知っている童謡だった。そういえば和緒さんはよく子守唄を歌っているな、となんとなく思い出しただけのことである。

 

 どんぐりころころ どんぶりこ

 おいけにはまって さあたいへん

 

 歌っていると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。

 五十槻はどんぐりころころの歌が好きだ。この曲を聞くと思い出す。黄金色の銀杏の葉を踏みしめて、誰かとこの歌を歌いながらどんぐりを拾った記憶を。


(……あれは、先生と歌ったのだったっけ?)


 物心つくかつかないかくらいの、とても幼い頃の記憶である。もう景色以外はずいぶんと曖昧だ。そして弓槻は泣き止まない。

 

「どじょうがでてきて、こんにちわ」

「ぼっちゃんいっしょにあそびましょう」


 五十槻に合わせて最後のひと節を歌いつつ、継母が部屋へ戻ってきた。

 

「五十槻さんありがとう。よかったわねぇ弓槻。お兄ちゃんがおうた歌ってくれたのね」


 継子へ嬉しそうに礼を言うと、和緒は弓槻を座布団から抱き上げた。そのまま継母の声は、どんぐりころころの二番を続けて歌っている。そんな母の声と体温に安心したのか、赤子は少しずつ泣くのをやめた。


「あら、弓槻笑ってるわ」


 やがて母の腕のなかで、弟は嬉しそうな笑みを見せている。

 幸せとはこういうことを言うのかな、と五十槻は思った。同時に、少し虚しくもなる。


──僕は実の母に抱かれたことはない。いいな、弓槻は。


 自分の実母は、五十槻を産んですぐに亡くなっている。その後五十槻はろくに実家で過ごさず、祝部(はふりべ)のもとへいったん引き取られたらしい。その後の人生は、自分自身で知る通りだ。

 目の前の幸せな母子の姿が自分にはなかったものだと思うと、五十槻はどうしようもなく寂しい心地がするのだった。

 けれどセンチメンタルは長持ちしない。


「ちょっと五十槻! ここにいた!」

「いい加減に今日は振袖を着てもらいます」


 襖をシャッと開けて平穏を乱すのは、ふたりの姉である。皐月(さつき)奈月(なつき)は弟兼妹をとっ捕まえようとするけれど。


「そろそろ僕はお風呂に行ってまいります」

「あっ、こら! 逃げるな五十槻!」


 軍隊仕込みの身のこなしでささっと姉ふたりをかいくぐり、五十槻はあっという間に廊下へ避難した。楽しい日々ではあるが、女性であることを強要する姉たちには、最近少し辟易しつつあった。この間も意図せぬ女装で、獺越(おそごえ)少尉を盛大に誤解させたばかりである。



 五十槻はこの二ヶ月ほどで、人生の色が変わった気がしている。

 いままでは神籠の軍人として、禍隠(まがおに)と戦い戦場に骨を埋めることこそが、自分の人生の第一義であった。

 けれども五十槻は、世の中には楽しいこと、面白いこと、喜ばしいことがたくさんあることを知ってしまった。人生が鮮やかに彩られようとしている。


 一番はやはり食べ物である。これまでの五十槻の主食は麦飯で、それに芋や味のない白魚、鶏のささみなどを取り合わせたものがふだんの食事であった。ときおり脂質の補給目的で出される豚ばら肉が、唯一の贅沢である。


 櫻ヶ原の一件のあと、御庄(みしょう)軍医少佐による最新の検査の結果、五十槻の食生活は大幅に変わることとなる。禁忌とされていた大豆製品が解禁され、また平素は今まで通りの食事を続けつつも、ときどき藤堂大尉が外食へ連れ出してくれることになったのだ。

 藤堂大尉と食べた美味しいものは、枚挙に暇がない。カツカレーにからあげに、オムライス。甘味もたくさん食べさせてもらった。あんみつはあの後三回くらい食べたし、アイスクリームなんて恐ろしいものがこの世に存在することも衝撃だった。

 それにこのたび、五十槻は年末年始を初めて実家で過ごした。跡取り在宅の八朔家の年越しと新年の祝いは盛大なもので、さらに食べられるものも増えたとあり、毎度の食事はそれはそれは豪勢なものだった。


 そして五十槻に餌付けする者は、なにも藤堂大尉や家族ばかりのみではない。今年から五十槻の直属の上官となった崩ヶ谷(つえがたに)中尉が先日、自宅の夕食に招いてくれて、彼の奥方が自慢の親子丼を振る舞ってくれた。(きのえ)伍長も、頻繁に飴だの煎餅だのを分けてくれる。獺越(おそごえ)少尉はこの間、「キサマは食ったことがないらしいな! 有難く施しを食らうといい!」とわざわざカステラを取り寄せて持ってきてくれた。


 風呂場でざばっと手桶の湯をかぶり、五十槻はこれまでの珍味佳肴(ちんみかこう)を思い返している。今度、藤堂大尉がうまい天麩羅(てんぷらや)屋に連れて行ってくれるらしい。揚げ物は特に楽しみだ。月末の休日に清澄さんと出かけるときも、また未知なる美味しいものが食べられるかもしれない。


 ふと、五十槻は気付いた。俯いた視線の先、自らの腹部の些細な異変に。

 以前よりも、腹筋の陰影が薄くなっている気がする。

 そういえば最近、禍隠を斬っていない。ふだんの調練以外に身体を使う機会が少なくなったのと、ここのところの美食三昧の日々。その結果が体脂肪に影響するなんて明らかで。

 はっと真顔を上げて、五十槻は身体のあちこちを確かめた。女子にしては引き締まっていたはずの体には、ところどころに弾力がある。二の腕が「ぷにっ」という感触を発したので、五十槻は無表情のまま戦慄した。


──まずい、太った。


      ── ── ── ── ── ──


 翌日から五十槻は減量の鬼になった。


「行ってまいります」


 早朝。自宅の玄関へ爽やかに出立の挨拶を告げて、五十槻は門を出るなり全力疾走である。

 屋敷と軍営は同じ区内ではあるが、かなりの距離がある。ふだんは歩いて登庁する通勤路を、五十槻は真顔で走りぬいた。


「はーい、みんなおはよぉ……はぁねむ……」


 本日の門衛は、再びの甲精一である。とくに面白いことがない朝、精一にとって門衛業務はただ眠いだけの苦行である。が。


「おはようございます甲伍長!」

「うっわ、オハヨォ……」


 ずざざざざっ、と。

 ものすごい勢いで現れた八朔五十槻のせいで、甲伍長の眠気は霧散した。五十槻はきちんと立ち止まり、敬礼を行い。精一が鈍い動作で答礼するのを見届けると、再び凄まじい速度で中隊舎まで駆け抜けていった。


「どしたん、いつきちゃん……?」


 周囲から見れば、それは五十槻の奇行である。急に自身へ過酷な鍛錬を課し始めたのだから。

 ふだんの調練を、いっそうの気合で励むだけに及ばず。

 五十槻は軍務が終わった後も、調練用の服で軍営の周囲を何周も走り込んでいた。より脂肪の燃焼を期待して、八洲の軍歌を歌いながら。


禍隠(まがおに)寄せる八洲の大地 祓い清める神事の兵

 八百万(やおよろず)の神々の 御稜威(みいつ)あらわす神域(ひもろぎ)

 我ら示さん 大皇(おおきみ)の安けく御世の長久なるを


「なにやってんだ八朔少尉?」


 熱唱しながらご近所を爆走する部下に、崩ヶ谷(つえがたに)中尉も困惑の目を向け。


「ゴルァ獺越! 貴様はもう十周じゃあ!」

「クソッ、なぜオレがこんなことを……!」


 うさぎ跳びで運動場を走らされている獺越少尉あらば。


「獺越少尉、お先に失礼します!」

「ハ、ハッサク!?」

「えっ、なんで八朔少尉が!?」


 同じくうさぎ跳びで制裁に参加し、誰よりも早く駆け抜けて。


「ま、待てハッサク! 絶対にお前には負けん!」

「望むところです! 勝負!」

「オレが勝ったら女装させてやるからな!」

「獺越ー、あと二十周~」


 そして剣道場にて、夜遅くまでひとり竹刀を振り続けた。


「千五百、千五百一、千五百二……!」

「いややりすぎだろ!」


 さすがに様子がおかしすぎるので、陰ながら見守っていた藤堂大尉である。「もうやめなさい!」と大尉は横合いから、五十槻の竹刀をはっしと掴んだ。しかし、竹刀にはまだぐいぐいと力が籠っている。


「止めないでください、藤堂大尉。僕はやり通さなければなりません」

「やり通すって、いったい何をだ?」

「減量です」


 まっすぐな五十槻の目を、綜士郎は「マジかよこいつ」という目で見返している。


「最近、美味しい物を食べ過ぎたからか、少し肉がついてきました。落とさなければなりません」

「いやお前……別に必要ないんじゃないか?」


 綜士郎は竹刀を押しとどめながら、呆れた目で五十槻を見下ろした。見る限り、痩せ型の体型だ。女子にしろ男子にしろ、もう少し太くてもいいくらいである。

 大尉の反応にあまり納得がいかない五十槻は、少しだけ真顔の眉根を寄せ、彼にしか聞こえないような小声でぼそっと告げる。


「……男子より、女子の方が脂肪を蓄えやすいのだそうです」

「だからって……」

「僕は男子たるために、相応の努力をしているだけです。他と違う境遇である以上、僕は人一倍の奮起奮励をせねば、人並みとは言えません」

「…………」


 覚悟の決まった返答だが、藤堂大尉は竹刀を離さなかった。むしろもぎ取るように、五十槻から竹刀を奪い取る。「大尉!」と抗議の声を上げるやりすぎ少尉へ、綜士郎はきちんと目線を合わせて説得を試みる。


「ばかたれ。この調子で毎日これを続けていたら、体を壊してしまうだろうが。いいか、ちょっとくらい食べ過ぎても、普段の運動に少し足すだけで帳尻は合うもんだ。過ぎたるは及ばざるが如しと言うだろう?」

「う……」


 敬慕する上官にこう諭されては、五十槻も自らの非を認めざるを得ない。しゅんと肩を落とす五十槻に、藤堂大尉は兄のような口調で続ける。


「それでお前、夕飯は食べたのか?」

「いいえ……」

「本当に倒れるぞ? 今の時間、営内の食堂は閉まってるし……とりあえず、蕎麦でも食べにいくか」


 まただ、と五十槻は思う。周囲の人々が優しいのはうれしい限りだが、なんだかそれが甘やかされているように感じてしまう。


「せっかくだから天麩羅そばにするかなぁ。五十槻、天麩羅食べたがってたろ?」

「いえ、蕎麦だけで結構です」

「重症だな……いつもはちょろいのに」


 結局その日は、二人して薬味がネギだけのかけ蕎麦を食べた。食事の最中、綜士郎はたびたび「天麩羅本当に食べたくないのか?」と悪魔の問いかけを続けていたが、ついに五十槻は首を縦に振らなかった。


 その後も五十槻は、大尉の言いつけを守り、過度になり過ぎない範囲で減量に取り組んだ。

 数日後、再び実家で風呂に入っているときである。


「……よかった」


 腹筋の深みが戻ってきた。二の腕も以前の通りの引き締まりを取り戻している。しかし。


「どうしよう、ここだけ肉が落ちない……」


 五十槻は自身の胸を確かめて、落胆した。女子としてはずいぶんなだらかなそこは、軍服の上からでは一見平らで男子とほとんど見分けがつかない。けれど慎ましいながらも若干のふくらみと、触れるとたしかな柔らかさがあった。


(……このままでは)


──香賀瀬(かがせ)先生に怒られてしまう。


 紫の瞳が、焦点の合わぬままこわばる。

 禍隠(まがおに)相手でも一切怯まない五十槻がいま、確かに恐怖を覚えている。


 (かけ)まくも(かしこ)祓神鳴大神フツカンナリノオオカミ(かしこ)み恐み(もうさ)く。

 神さま、神さま。僕はどうして、男の身に生まれなかったのでしょうか。

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