1-7
七
掛まくも畏き祓神鳴大神に恐み恐み白く。
毎日とても楽しく過ごしていますが、僕は本当にこれでいいのでしょうか。
櫻ヶ原の一件以降、五十槻の日々は随分と変わった。
八朔の屋敷で過ごす休日の夜、五十槻は父母の部屋で、弟の弓槻へじっと観察の視線を注いでいる。生後三ヶ月を過ぎ、弓槻は新生児の頃よりもむくむくと大きくなっている。
今日、父は留守である。仕事で地方へ出かけている。八朔家は神實の華族として伯爵位を賜ってはいたが、家業として昔から米の流通や卸売りを手掛けていた。八朔の本籍である百雷山は昔から米どころとして有名で、山麓には広大な水田が広がっている。五十槻の父はそこで収穫された米を商っているのだ。
父の不在を少々寂しく思いつつ、五十槻は座布団に寝かされている弓槻をひたすら注視していた。継母の和緒から小用の間、「ちょっと弓槻のこと見ててね」と頼まれたからだ。そんなわけで兄(姉)は弟を凝視している。
その視線が気になったのだろうか。弓槻が突然、顔を歪ませて泣き声をあげはじめた。赤子はそのままふにゃふにゃとむずかっている。
そんな弟に、五十槻は真顔の眉根をぎゅっと寄せた。
(どうしよう)
対応方法が分からない。五十槻は冷静な表情の内側で狼狽している。
「ゆ、弓槻」
呼びかけてみるが、当然弟は泣き止まない。むしろ火がついたように泣くばかりである。
五十槻は弓槻が生まれて以降の、和緒の行動を思い返してみる。弓槻が泣いたとき、和緒さんはどうしてたっけ。
記憶をなぞりつつ、五十槻は赤子の衣類をめくって、おむつを確認してみる。濡れたような様子はないので、おむつ替えを要求しているわけではなさそうだ。
おなかが減ったのだろうか。眠くて機嫌が悪くなったのだろうか。色々と考えをめぐらしつつ、五十槻はふと思い出した。
「……どんぐりころころ、どんぶりこ」
なんとなく口をついて出たのは、五十槻が唯一知っている童謡だった。そういえば和緒さんはよく子守唄を歌っているな、となんとなく思い出しただけのことである。
どんぐりころころ どんぶりこ
おいけにはまって さあたいへん
歌っていると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。
五十槻はどんぐりころころの歌が好きだ。この曲を聞くと思い出す。黄金色の銀杏の葉を踏みしめて、誰かとこの歌を歌いながらどんぐりを拾った記憶を。
(……あれは、先生と歌ったのだったっけ?)
物心つくかつかないかくらいの、とても幼い頃の記憶である。もう景色以外はずいぶんと曖昧だ。そして弓槻は泣き止まない。
「どじょうがでてきて、こんにちわ」
「ぼっちゃんいっしょにあそびましょう」
五十槻に合わせて最後のひと節を歌いつつ、継母が部屋へ戻ってきた。
「五十槻さんありがとう。よかったわねぇ弓槻。お兄ちゃんがおうた歌ってくれたのね」
継子へ嬉しそうに礼を言うと、和緒は弓槻を座布団から抱き上げた。そのまま継母の声は、どんぐりころころの二番を続けて歌っている。そんな母の声と体温に安心したのか、赤子は少しずつ泣くのをやめた。
「あら、弓槻笑ってるわ」
やがて母の腕のなかで、弟は嬉しそうな笑みを見せている。
幸せとはこういうことを言うのかな、と五十槻は思った。同時に、少し虚しくもなる。
──僕は実の母に抱かれたことはない。いいな、弓槻は。
自分の実母は、五十槻を産んですぐに亡くなっている。その後五十槻はろくに実家で過ごさず、祝部のもとへいったん引き取られたらしい。その後の人生は、自分自身で知る通りだ。
目の前の幸せな母子の姿が自分にはなかったものだと思うと、五十槻はどうしようもなく寂しい心地がするのだった。
けれどセンチメンタルは長持ちしない。
「ちょっと五十槻! ここにいた!」
「いい加減に今日は振袖を着てもらいます」
襖をシャッと開けて平穏を乱すのは、ふたりの姉である。皐月と奈月は弟兼妹をとっ捕まえようとするけれど。
「そろそろ僕はお風呂に行ってまいります」
「あっ、こら! 逃げるな五十槻!」
軍隊仕込みの身のこなしでささっと姉ふたりをかいくぐり、五十槻はあっという間に廊下へ避難した。楽しい日々ではあるが、女性であることを強要する姉たちには、最近少し辟易しつつあった。この間も意図せぬ女装で、獺越少尉を盛大に誤解させたばかりである。
五十槻はこの二ヶ月ほどで、人生の色が変わった気がしている。
いままでは神籠の軍人として、禍隠と戦い戦場に骨を埋めることこそが、自分の人生の第一義であった。
けれども五十槻は、世の中には楽しいこと、面白いこと、喜ばしいことがたくさんあることを知ってしまった。人生が鮮やかに彩られようとしている。
一番はやはり食べ物である。これまでの五十槻の主食は麦飯で、それに芋や味のない白魚、鶏のささみなどを取り合わせたものがふだんの食事であった。ときおり脂質の補給目的で出される豚ばら肉が、唯一の贅沢である。
櫻ヶ原の一件のあと、御庄軍医少佐による最新の検査の結果、五十槻の食生活は大幅に変わることとなる。禁忌とされていた大豆製品が解禁され、また平素は今まで通りの食事を続けつつも、ときどき藤堂大尉が外食へ連れ出してくれることになったのだ。
藤堂大尉と食べた美味しいものは、枚挙に暇がない。カツカレーにからあげに、オムライス。甘味もたくさん食べさせてもらった。あんみつはあの後三回くらい食べたし、アイスクリームなんて恐ろしいものがこの世に存在することも衝撃だった。
それにこのたび、五十槻は年末年始を初めて実家で過ごした。跡取り在宅の八朔家の年越しと新年の祝いは盛大なもので、さらに食べられるものも増えたとあり、毎度の食事はそれはそれは豪勢なものだった。
そして五十槻に餌付けする者は、なにも藤堂大尉や家族ばかりのみではない。今年から五十槻の直属の上官となった崩ヶ谷中尉が先日、自宅の夕食に招いてくれて、彼の奥方が自慢の親子丼を振る舞ってくれた。甲伍長も、頻繁に飴だの煎餅だのを分けてくれる。獺越少尉はこの間、「キサマは食ったことがないらしいな! 有難く施しを食らうといい!」とわざわざカステラを取り寄せて持ってきてくれた。
風呂場でざばっと手桶の湯をかぶり、五十槻はこれまでの珍味佳肴を思い返している。今度、藤堂大尉がうまい天麩羅屋に連れて行ってくれるらしい。揚げ物は特に楽しみだ。月末の休日に清澄さんと出かけるときも、また未知なる美味しいものが食べられるかもしれない。
ふと、五十槻は気付いた。俯いた視線の先、自らの腹部の些細な異変に。
以前よりも、腹筋の陰影が薄くなっている気がする。
そういえば最近、禍隠を斬っていない。ふだんの調練以外に身体を使う機会が少なくなったのと、ここのところの美食三昧の日々。その結果が体脂肪に影響するなんて明らかで。
はっと真顔を上げて、五十槻は身体のあちこちを確かめた。女子にしては引き締まっていたはずの体には、ところどころに弾力がある。二の腕が「ぷにっ」という感触を発したので、五十槻は無表情のまま戦慄した。
──まずい、太った。
── ── ── ── ── ──
翌日から五十槻は減量の鬼になった。
「行ってまいります」
早朝。自宅の玄関へ爽やかに出立の挨拶を告げて、五十槻は門を出るなり全力疾走である。
屋敷と軍営は同じ区内ではあるが、かなりの距離がある。ふだんは歩いて登庁する通勤路を、五十槻は真顔で走りぬいた。
「はーい、みんなおはよぉ……はぁねむ……」
本日の門衛は、再びの甲精一である。とくに面白いことがない朝、精一にとって門衛業務はただ眠いだけの苦行である。が。
「おはようございます甲伍長!」
「うっわ、オハヨォ……」
ずざざざざっ、と。
ものすごい勢いで現れた八朔五十槻のせいで、甲伍長の眠気は霧散した。五十槻はきちんと立ち止まり、敬礼を行い。精一が鈍い動作で答礼するのを見届けると、再び凄まじい速度で中隊舎まで駆け抜けていった。
「どしたん、いつきちゃん……?」
周囲から見れば、それは五十槻の奇行である。急に自身へ過酷な鍛錬を課し始めたのだから。
ふだんの調練を、いっそうの気合で励むだけに及ばず。
五十槻は軍務が終わった後も、調練用の服で軍営の周囲を何周も走り込んでいた。より脂肪の燃焼を期待して、八洲の軍歌を歌いながら。
〽禍隠寄せる八洲の大地 祓い清める神事の兵
八百万の神々の 御稜威あらわす神域に
我ら示さん 大皇の安けく御世の長久なるを
「なにやってんだ八朔少尉?」
熱唱しながらご近所を爆走する部下に、崩ヶ谷中尉も困惑の目を向け。
「ゴルァ獺越! 貴様はもう十周じゃあ!」
「クソッ、なぜオレがこんなことを……!」
うさぎ跳びで運動場を走らされている獺越少尉あらば。
「獺越少尉、お先に失礼します!」
「ハ、ハッサク!?」
「えっ、なんで八朔少尉が!?」
同じくうさぎ跳びで制裁に参加し、誰よりも早く駆け抜けて。
「ま、待てハッサク! 絶対にお前には負けん!」
「望むところです! 勝負!」
「オレが勝ったら女装させてやるからな!」
「獺越ー、あと二十周~」
そして剣道場にて、夜遅くまでひとり竹刀を振り続けた。
「千五百、千五百一、千五百二……!」
「いややりすぎだろ!」
さすがに様子がおかしすぎるので、陰ながら見守っていた藤堂大尉である。「もうやめなさい!」と大尉は横合いから、五十槻の竹刀をはっしと掴んだ。しかし、竹刀にはまだぐいぐいと力が籠っている。
「止めないでください、藤堂大尉。僕はやり通さなければなりません」
「やり通すって、いったい何をだ?」
「減量です」
まっすぐな五十槻の目を、綜士郎は「マジかよこいつ」という目で見返している。
「最近、美味しい物を食べ過ぎたからか、少し肉がついてきました。落とさなければなりません」
「いやお前……別に必要ないんじゃないか?」
綜士郎は竹刀を押しとどめながら、呆れた目で五十槻を見下ろした。見る限り、痩せ型の体型だ。女子にしろ男子にしろ、もう少し太くてもいいくらいである。
大尉の反応にあまり納得がいかない五十槻は、少しだけ真顔の眉根を寄せ、彼にしか聞こえないような小声でぼそっと告げる。
「……男子より、女子の方が脂肪を蓄えやすいのだそうです」
「だからって……」
「僕は男子たるために、相応の努力をしているだけです。他と違う境遇である以上、僕は人一倍の奮起奮励をせねば、人並みとは言えません」
「…………」
覚悟の決まった返答だが、藤堂大尉は竹刀を離さなかった。むしろもぎ取るように、五十槻から竹刀を奪い取る。「大尉!」と抗議の声を上げるやりすぎ少尉へ、綜士郎はきちんと目線を合わせて説得を試みる。
「ばかたれ。この調子で毎日これを続けていたら、体を壊してしまうだろうが。いいか、ちょっとくらい食べ過ぎても、普段の運動に少し足すだけで帳尻は合うもんだ。過ぎたるは及ばざるが如しと言うだろう?」
「う……」
敬慕する上官にこう諭されては、五十槻も自らの非を認めざるを得ない。しゅんと肩を落とす五十槻に、藤堂大尉は兄のような口調で続ける。
「それでお前、夕飯は食べたのか?」
「いいえ……」
「本当に倒れるぞ? 今の時間、営内の食堂は閉まってるし……とりあえず、蕎麦でも食べにいくか」
まただ、と五十槻は思う。周囲の人々が優しいのはうれしい限りだが、なんだかそれが甘やかされているように感じてしまう。
「せっかくだから天麩羅そばにするかなぁ。五十槻、天麩羅食べたがってたろ?」
「いえ、蕎麦だけで結構です」
「重症だな……いつもはちょろいのに」
結局その日は、二人して薬味がネギだけのかけ蕎麦を食べた。食事の最中、綜士郎はたびたび「天麩羅本当に食べたくないのか?」と悪魔の問いかけを続けていたが、ついに五十槻は首を縦に振らなかった。
その後も五十槻は、大尉の言いつけを守り、過度になり過ぎない範囲で減量に取り組んだ。
数日後、再び実家で風呂に入っているときである。
「……よかった」
腹筋の深みが戻ってきた。二の腕も以前の通りの引き締まりを取り戻している。しかし。
「どうしよう、ここだけ肉が落ちない……」
五十槻は自身の胸を確かめて、落胆した。女子としてはずいぶんなだらかなそこは、軍服の上からでは一見平らで男子とほとんど見分けがつかない。けれど慎ましいながらも若干のふくらみと、触れるとたしかな柔らかさがあった。
(……このままでは)
──香賀瀬先生に怒られてしまう。
紫の瞳が、焦点の合わぬままこわばる。
禍隠相手でも一切怯まない五十槻がいま、確かに恐怖を覚えている。
掛まくも畏き祓神鳴大神に恐み恐み白く。
神さま、神さま。僕はどうして、男の身に生まれなかったのでしょうか。