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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
34/97

1-5


「ねえねえまつりちゃん。話は戻るんだけどさ」

「あ?」


 酒を飲んでいる万都里(まつり)へ、精一がにこにこと話しかけてきた。

 色々くだらない話をした覚えはあるが、どこに戻るのだかさっぱり分からない。


「いわゆる八洲撫子(やしまなでしこ)みたいな子が好みって言ってたじゃん?」

「ああ、そんな話もしたな……」


 たぶんその話から一時間も経っていないのだが、もうずいぶん前のことのように思える。さきほどは結構な熱弁を奮っていた万都里も、いまは別の面白事案の発生にちょっとどうでもよくなっている。できれば精一には藤堂とハッサクの仲を問い質したいのだが、どうやら第一中隊でその話は禁句らしい。その件に触れるとどこからともなく屈強な男が複数現れて、うさぎ跳び運動場二十周を強要してくるそうだ。「どうなってんだこの部隊」とは崩ヶ谷(つえがたに)の弁である。


「たしか、美人で清楚で落ち着いてて、背筋のしゃんとした子だっけ?」

「そうだな。そういう娘以外と添い遂げる気はない」

「なるほどぉ……」

「……なんなんだよ?」


 企むような笑みを浮かべる不気味なキツネ顔に、万都里は若干の警戒心を抱いた。しかし所詮世間知らずのお坊ちゃん、警戒するのが遅すぎる。隣の崩ヶ谷中尉は旧知の精一が浮かべる笑みを眺めながら、「なんかやらかす気だな」と事態を静観することに決めた。


「いや、俺さ。まつりちゃんの言うような子に心当たりがあるんだよね~」

「それはお前……年増じゃないのか?」


 第一中隊の(きのえ)精一(せいいち)伍長の女の好みは、連隊内では大変に有名である。熟女好きを公言して憚らず、実際に色町へ一緒に繰り出した者からの証言は数知れない。そんな彼が紹介する女なんて、言わずもがなである。

 けれど精一は(かぶり)を振った。そしてあくまで親切な口調で言う。


「いやいや、年の頃はそうだなぁ……十代半ばだと思うんだけど」

「ほんとかぁ?」

「ほんとほんと。顔もいいし、家柄もかなりいいとこの子よ? 性格も同じ年頃の子らに比べたら、随分と落ち着いててさ……」

「ふーん」


 万都里は精一の話を半信半疑で聞いている。正直、彼の理想とする女子には今まで出会えた試しがない。今後も見合い以外の手段でそういう娘と出会えるかと言われると、青年にはちょっと自信がなかった。


「まつりちゃんさえよければ、紹介してあげられるよ」

「…………」


 どう? とお節介な先輩の問いかけに、万都里はぐっと考え込んでいる。もしそんな娘が実在するなら一度会ってはみたいが、このクソキツネの伝手というのがあまりにも不安だ。しかし試しに会ってみたとして、気に入らなければ袖にすればいいだけの話。現在十代半ばなら、うまくいけば許嫁からの関係になるかもしれない。


「ま、まあ……どうしてもというなら」


 懐柔される後輩を、「それでいいのか獺越(おそごえ)」という言葉を飲み込みつつ崩ヶ谷中尉は見守っている。

 精一はその返答へにんまり満足そうに笑うと、「はいこれ」と卓の端に寄せられていた白い物体をべちゃりと万都里へ手渡した。


「うっわ、なんだこれ! べっちゃべちゃじゃないか!」

「それねー、いつきちゃんの忘れ物の手巾(ハンカチ)。さっきこぼれたお茶拭いたやつ」

「拭いたあとに絞ってないのかよ!」


 べちっと手巾を卓へ叩きつける万都里へ、精一は続けた。


「紹介してあげるのはいいんだけど、条件があってさ。その手巾を、今日の帰りにいつきちゃん家に届けてほしいんだよね」

「はァ!?」


 そんな条件があるなら先に言え。万都里は一転、色白の顔へ怒気を露わにした。獺越家の神籠である自分が八朔の屋敷くんだりまで忘れ物を届けに行くなど、そんな使い走りのような真似は御免である。

 残念だがこの話は最初からなしだ。万都里はつっけんどんな口調で精一へ断りを入れるけれど。


「女のために八朔の屋敷まで出向くなど言語道断だ! こんなもん破談だ破談!」

「やっぱりぃ? まつりちゃん、やたらいつきちゃんに厳しいからそう言うと思った。すごい良い子なんだけどな~。じゃあ、しょうがないから別の士官の人に紹介しに行くかぁ……」

「いや待て甲伍長」


 慌てて万都里は精一を引き留める。もしかしたらめちゃくちゃ好みかもしれない女を他の男に紹介されるのは、それはそれで癪である。精一はわざとらしく「え~?」と困った素振りを見せた。


「いま破談って言ってたじゃん?」

「気が変わった! べ、別に一度くらいなら会ってやってもいい!」

「じゃあ八朔さんちにこれ届けてくれる?」

「くっ……!」


 突き付けられた手巾を、青年は苦渋の表情でにらみつける。

 八洲撫子を取るか、獺越の矜持を取るか。万都里の中で凄まじいせめぎ合いが巻き起こり、そして。


 結果。獺越万都里は五十槻の手巾を持って、飲み会から退出した。

 後輩の後姿を見送ってから、崩ヶ谷中尉は精一へ問いかける。


「なあおい精一……お前いったい何企んでやがる?」

「へっへっへ、まあまあ黄ちゃん。うまくいけば、明日すっげえ面白いものが見られるかもしれないぜ?」


 キツネはめちゃくちゃ悪い顔でにんまり笑った。


「そう、俺は甲精一……人間関係をしっちゃかめっちゃかにすることに定評のある男……!」

「俺なんでこいつと友達やってるんだろう」


      ── ── ── ── ── ──


 年明けの閑静な住宅街を、青年は白い息を吐きながらつかつか歩いていた。先程から手のひらの上で、湿った布切れを投げては掴んでを繰り返している。五十槻の手巾だ。

 結局万都里のなかで、獺越の矜持が敗北してしまった。憎き八朔へ膝を屈し、彼は八洲撫子との邂逅を切望したのである。

 別にさっきの崩ヶ谷の話に焦りを感じたわけではない、と本人は自分自身へ言い聞かせるが、実際のところ万都里は焦っていた。このままでは、家や国の都合で、どこの馬の骨とも知れぬ女と縁組させられてしまう。

 正直藁にも縋る思いだった。一度きりの人生なんだから、心から納得できる女性と添い遂げたい。


「くそぉ、あのキツネめ……これで適当な女を紹介してきたら、絶対に許さん……!」


 てくてくと進む万都里の視野に、八朔の屋敷の門灯が見えてきた。ハッサクのチビは、藤堂に送られてもう屋敷にいるのだろうか。それとも二人でしっぽりどこぞかへしけこんだか。


(八朔の家のやつに、お前らんとこの跡取りは神依(かむより)の大尉相手に尻を献じているぞ、と教えてやるのも面白いかもしれん)


 名門華族の子息とは思えない下卑たことを考えつつ、万都里の歩みは八朔家の門前で止まった。相変わらず生意気な門構えである。例の噂を伝えるかどうかはともかく、応対の使用人に手巾を渡してさっさと帰ってもいいだろう。


「あー、誰かいるか?」


 ゴンゴン、と門扉を叩くと、しばらくして使用人らしい若い男が門を開いて顔を出した。


「はい、どちらさまで?」

「えーと、オレは……」

「神事兵の装いということは、坊ちゃんのご同僚の方でいらっしゃいますね。いまお呼びしますので、少々お待ちを」

「あ、おい待て!」


 男は勝手に納得して勝手に門を閉じ、勝手に屋敷へ戻っていった。ここんちの使用人の教育はどうなっとんじゃい、と万都里が門前で怒り心頭に達していると。


「すみません、お待たせしました」


 ぎぃ、と厚い門扉を開けて別の誰かが現れた。

 門前にやってきた人影を一瞥し、ほろ酔いかつ怒り加減だった万都里の表情は、一転してキリッと引き締まる。

 それはまるで雷に打たれたかのような、衝撃的な出会いであった。


──めちゃくちゃ好みだ。


 門灯に照らされているのは、十代半ばの少女である。艶やかな長い髪に、しゃんとした立ち姿。紫色の品のよい着物がよく似合っている。顔立ちは憎きハッサクに瓜二つだが、少女の装いからか知らないが、それすらも可愛らしく見えた。

 理想よりちょっと幼いが、まさしく好みドンピシャの八洲撫子である。


「獺越少尉……!」


 門前の八洲撫子は万都里の顔を見るなり、少し驚いたように眉を上げた。けれど表情の変化はそれっきり。少女は本職顔負けの動作で挙手礼を行い「お疲れ様です」とまっすぐに万都里を見上げた。愛らしい仕草だ、と思いながら万都里も挙手礼を返す。

 しかし、なぜ自分のことを知っている? というかこの娘はいったい誰だ。ハッサクにめちゃくちゃそっくりだが。

 挙手礼同士で見つめ合いつつ、万都里の胸中では刹那の間に様々な憶測が巡る。

 

(こんなに可愛らしい娘がいるとは聞いていないぞ、八朔め……!)


 万都里の知っている八朔家の姉弟は、五十槻を含め四人のはずだ。上二人の姉妹はすでに嫁に行っているし、年が合わない。下二人も男兄弟だ。見た目のそっくりさ加減を加味して、もし目の前の彼女が八朔の家中の者ならば、五十槻の双子の妹と言われればしっくりくる。

 そうか、ハッサクの双子の妹か。万都里は勝手に納得した。見てみるがいいこの美少女具合を。これはハッサク含め、八朔の連中がおいそれと外に出したくなくなるのも頷ける愛らしさだ。つまり箱入り育ちということ。

 しかし、少女はどうして万都里を知っていたのだろう。ハッサクから聞いていたのだろうか。それにしても一目で自分を獺越万都里と見抜いたということは、もしかしたらどこかで会ったことがあるのかもしれない。自分がそれを覚えていないのが悔しい限りだが、無関心な相手にいまのような可愛らしい挙手礼はさすがにしないだろう。すなわち、この娘は自分を悪しからず思っている。たぶん。

 というか、あのキツネの言っていた紹介したい娘とはこの乙女のことだろうか。いや間違いなくそうだ。そうに決まっている。

 酒の勢いもあって万都里の思考回路ははちゃめちゃである。

 そして万都里の懸念は次の段階へ進む。もしこの娘と両想いになれたとして、獺越家は八朔家の嫁など断固拒否するだろう。なにせ両家は千年来の仇敵なのだから。獺越側の一方的な思い込みではあるが。


 よし、じゃあ将来結婚するなら駆け落ちだな。万都里は大暴走の思考をそう結論付けた。娘と目が合ってから、一秒の間のことである。


「失礼、お嬢さん。駆け落ちにご興味はありますか?」

「え? かけ……?」

「い、いやすみません。早まった」


 万都里の意味不明な言動に、八洲撫子は少々戸惑った様子を真顔に浮かべ、それから申し訳なさそうに口を開いた。


「あ、あの、獺越少尉。お見苦しい姿ですみません……帰宅するなり、姉に無理矢理着替えさせられまして……」

「よくお似合いです」

「いや、そうじゃなくて」


 少女は困惑を深めつつ、けれど万都里をまっすぐに見つめながら弁明した。


「僕です。五十槻です」


 そして時が止まる。

 万都里はまだキリッとした面持ちで五十槻を見つめていて。

 五十槻は申し訳なさそうにちょっとだけ眉を傾けている。


「……お前、ハッサクか?」

八朔(ほずみ)です」


 やっと口を利くことができた万都里へ、五十槻はお約束の返事を返す。言い方がまるでハッサクのそれなので、やっと万都里は目の前の少女が、憎き八朔五十槻だと飲み込むことができた。

 しかし万都里は意外にも冷静であった。「そうか」といまだキリッとした表情でつぶやくと、右手に持っていた手巾を五十槻へ差し出す。


「まったく紛らわしい格好で応対しやがって。お前、今日の飲み会でこれを忘れていただろう。わざわざ届けにきてやったんだ」

「ああ、御足労をおかけして申し訳ない。遠いところをありがとうございます」


 いつも通りの尊大な口調になった万都里に、五十槻も少し安心したらしい。手巾を受け取ろうと、万都里の右手にそっと自分の手を重ねる。


「……あの、獺越少尉」

「なんだ」

「手を離していただけませんか」

「え?」


 言われてやっと気付いたように、万都里は五十槻の手を離した。いつの間にハッサクの手を握っていたのだろう。まったくの無自覚だった。


「いやなに、寒くて手がかじかんでしまっただけだ」

「お寒い中、本当にありがとうございます。よろしければ温かいお茶など用意しますが、ぜひ上がって行って……」


 万都里の苦しい言い訳を鵜呑みにして、五十槻はそっと門を開けて屋敷へ招こうとするけれど。

 この展開に、万都里はさすがに「やばい」と思った。このまま八朔の屋敷に上がり込んでしまったら、なんだか本当に取り返しがつかなくなってしまう気がする。


「いや、いい。オレはもう帰る」

「そうですか? ご遠慮なさらずとも」

「いや遠慮する。オレ、カエル、マタアシタ」


 最終的に片言になりながら、万都里はさっと踵を返した。


「獺越少尉、おやすみなさい」

「ウン、オヤスミ。カゼヒクナヨ」


 五十槻に見送られながら、万都里は颯爽とその場を去っていく。

 やがて八朔の屋敷が遠くなったころ。万都里の歩みは段々と早まっていった。

 最終的に全力疾走となる。まるで八朔の門前に立つ八洲撫子の記憶を、宵の闇へ置き去りにするかのように。

 けれど消えてくれない。可愛らしく挙手礼をしてくれた、あの愛らしい姿がずっと脳裏にこびりついている。

 万都里は叫びだしたかったけれど、夜も遅い時間、ご近所迷惑になるのでそれはできなかった。なんだかんだ、育ちのいい男である。

 そしてどうやって下宿先に帰ったのか、万都里は覚えていない。

 気が付いたらちゃんと湯あみして歯を磨いて、布団に入ってきっちり八時間眠っていた。

 起床後。白み始めた空を窓辺から眺めて、青年は意外とすっきりした頭でこう思うのだった。


──きっと、夢だったんだ。オレの仇敵があんなに可愛いわけがない。

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