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四
獺越万都里は八朔五十槻が大嫌いだ。というか、八朔家がそもそも大嫌いである。
代々獺越家は八朔家を敵視している。なぜなら、向こうの方が神籠が派手で目立つからだ。
獺越家の奉じる神、山津大鉄神は、鉄──すなわち、金属を司る神である。その神實である獺越家は、当然金属を司る神籠を宿す。
がしかし、その実態はめちゃくちゃ地味であった。金属を司るといっても、鉄製の武具に禍隠を殺傷させる力を付与させるくらいである。
太古の昔、他の神籠が雷を起こしたり火を起こしたり大風を起こしたりする中、獺越の神籠は鉄剣に神の力を宿し、ちまちま禍隠を斬っていた。
戦国の世に海外から鉄砲が伝来してからは、攻撃手段に銃撃が加わるようになった。しかし獺越が鉄砲でバンバン撃っている間に、八朔の神籠は雷撃で火縄何千丁分の大規模攻撃をかましているのである。いつしか獺越の一族は、派手な見た目の神籠──とりわけ八朔家を目の敵にするようになった。要はおよそ千年以上に及ぶやっかみである。
万都里自身も、神籠を使うときの得物は銃剣だ。遠近両用で使い勝手がよく、現場ではかなり有用な能力だった。だがいかんせん天変地異のような現象を起こす他の神籠に比べて、地味である。万都里は努力だけは人一倍してきたので、武功もそれなりに挙げている。しかし地味である。
そんな彼にとって、八朔五十槻の存在は目の上のたんこぶだった。
万都里の父は八朔に跡取りが生まれた時、当時五歳の愛息に懇々と言って聞かせた。「絶対に八朔のクソガキに遅れは取るな」と。
もちろん万都里もそのつもりであった。しかし。
敵である八朔五十槻は、幼いころから容姿に恵まれ、勉学もおそろしいほどよくこなし、運動も抜群にできる少年であった。家名を汚さないため、人一倍努力していた万都里の自尊心を脅かすほどに。
小学校では五十槻は万都里の後輩だった。しかし、さる事件の際に万都里はこのいけ好かない後輩に完敗し、別の学校へ転校する羽目となる。万都里にとっては悔しい話であるが、ここで八朔との縁は切れたと、ちょっぴり安心していた。彼と五十槻は五歳も年が離れている。年の差を考えればこれ以降、中学校と士官学校で所属時期がかぶることはあるまいと、獺越の一族はたかをくくっていた。
しかし八朔五十槻は卑怯にも、飛び級というズル……いや、特例を駆使して人より早く小中学校を卒業することになる。
そしてかぶってしまったのだ。士官学校の入学年度が。
入学式で涼しい顔をして座っている五十槻を見て、万都里は開いた口が塞がらなかった。
そこからである。万都里が本格的に、五十槻へ鬱陶しく絡み始めたのは。
しかも五十槻は万都里を覚えていなかった。とはいえそれも仕方ない話である。小学校で最後に会ったときから、万都里の髪色は黒から飴色に変わってしまっていたのだから。
士官学校在学中においても、万都里がどんなに皮肉や嫌味を言おうとも、五十槻は涼しげな顔ですべてをさらりとかわすのである。そのたびに、万都里のなかで五つ下の少年に対する敵愾心が燃え上がっていく。
今回の編制で五十槻と同じ部隊に所属するよう辞令を受けたとき、この青年の胸中はいかばかりであったろうか。
ましてや、宴席で隣り合うなどあってはならない話である。
「第三中隊より転属の獺越万都里だ。有象無象の凡夫共と馴れ合う気はない。無論、神籠が派手なだけの神實ともだ! 以上!」
満座がシーンと静まり返る。転属の挨拶としては最悪の部類に入る口上を述べ、万都里はどかっと座敷に座った。ふと横を見ると、忌々しい紫の瞳と目線がかち合ってしまう。
「獺越少尉、改めてこれからもよろしくお願いします」
「誰がキサマなんかとよろしくするか!」
握手を求める五十槻の手をぱちんと弾き、万都里は不機嫌な顔で酒杯をあおった。
ここは軍営近くにある、大部屋のある居酒屋だ。第一中隊の面々は警邏の当直を営内に残し、参加可能な人員で新年会、兼歓送迎会を行っている。万都里が存分に冷やした場の空気は、次に自己紹介の順が回ってきた崩ヶ谷中尉の小粋な冗談で多少緩和されたようである。段々と士卒の飲み会らしく、大部屋は騒がしさを取り戻していく。
「精ちゃん、いままでありがとう! はなればなれになっても、おれたちずっ友だよ!」
「タヌさんがいなくなると寂しいよ俺……! でもまた一緒に飲みに行こうね、週五で!」
大親友同士の田貫大尉と甲伍長は、むさ苦しく別れを惜しんでいた。週五で飲みに行くのが別れと言えるかどうかはともかく。
けっ、と万都里はまた杯を傾ける。なんでこんな面白くもない会合に参加せねばならんのか。特に隣にいる八朔家の跡取りがひときわ不快である。士官学校の頃から変わらない辛気臭い顔で、じっと転属者挨拶に耳を傾けている。ちなみに未成年の彼には温かいお茶が配膳されていた。
あちこちで仲の良い者同士が談笑する中、尉官の下座──万都里と五十槻周辺の空気は極寒であった。他の少尉階級の者達が、そそくさと自分の杯を持ってどこかへ退散していく。
そんな状況を見かねたのか、万都里の隣へ誰かがどかっと腰を下ろした。万都里と同じく、第三中隊から転属してきた、崩ヶ谷黄平中尉である。
「どうした若人たち。せっかくの飲み会なのに、葬式みたいな雰囲気しやがって」
「崩ヶ谷中尉……」
年頃は三十手前、常に生意気そうなしたり顔を浮かべている、いけ好かない人物である。神依の神籠で、土砂を操ることができる。もちろん万都里の神籠より派手だ。同じ中隊の所属だったため万都里とは面識があるものの、親しくはない。
「崩ヶ谷中尉、その節は大変お世話になりました」
五十槻が居住まいを正して、崩ヶ谷へ頭を下げた。櫻ヶ原の事件の際、非番だった崩ヶ谷中尉が急遽呼び出され、女学校の敷地を掘削して彼や要救助者の救援に一役買ったことは、万都里も知っている。崩ヶ谷は「いいっていいって」と気安い仕草で手を振った。
「気にしなくていいよ、八朔少尉。おかげで臨時収入があったから」
「臨時収入?」
「やめろ、聞かなくていい。どうせろくでもない話だろ」
崩ヶ谷黄平は守銭奴で有名である。どうせハッサクの救助にかこつけて、特別手当だかなんだかをせびったんだろ? と万都里は見当をつけるが、事実まったくもってその通りなのであった。
「ねえねえ! なにここ盛り下がってんじゃん! 士官学校の同期同士でしょ? それでなんなんこの空気!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら精一までもが現れた。すでに出来上がっているのか、キツネ顔は真っ赤である。キツネは万都里の隣にいるケチを見つけると、にぱっと相好を崩した。
「やっほお黄ちゃん、奥さん元気ぃ?」
「よぉ精一。もちろん元気元気、俺の稼ぎでたんと美味い飯食わしてっからさ~」
「あんたら知り合いかよ!」
なんとキツネとケチは友達同士。精一が持ってきた一升瓶から仲良く酒を注ぎ合って、さっそく「かんぱーい」とよろしくやっている。「さすが伍長、お顔が広い」などと五十槻はどうでもいいことに対して感心していて、万都里はよりいっそう帰りたくなった。
「それにしても、八朔少尉と精一はさぁ、櫻ヶ原のとき大変だったよなぁ」
崩ヶ谷中尉は酒を飲みながら続ける。
「特に少尉は、禍隠百体前後を相手によくあんだけの怪我で済んだもんだ。カシラもいたのにな。精一はなんか女装してたし」
「女装関係あるか?」
「それにさ、なんつったっけ? 羅睺? 門? なんかけったいなこと言ってたらしいなあ、カシラのやつ」
五十槻は真剣な眼差しを送りつつ、崩ヶ谷へ頷いて見せる。
「はい。羅睺というのは禍隠の故郷のようなものだと。門は実際にこの目で見ましたが、一度に大量の禍隠を呼び出すことのできる装置のようです」
「それで、その門を破壊できるのが……八朔の神籠だけと」
万都里は隣の真剣な真顔を、「けっ」と馬鹿にした顔で盗み見た。なんでもかんでも、八朔を特別扱い。禍隠ですらその例に漏れないときた。
「荒瀬中佐からちょっと聞いたんだけど、八洲にはその門とやらが複数あるかもしれんということだ。発見の都度、八朔少尉が出向いて破壊することになるな」
「俺ぁあんなやばい現場は二度とごめんだね。いつきちゃん、気をつけなよ。また前みたいな危ない目に遭うかもしれないぜ?」
「いえ、御心配には及びません。自分の使命は、皇国の蒼生を守ることですので」
本望です、と五十槻はごく当然のように言う。自分以外の大人たちが「無理すんなよ?」と八朔少尉へ親のような目線を向けるので、万都里は心の底から居たたまれない。八朔五十槻を囲む会ならよそでやってくれ。
「やれやれ、羅睺だの門だの、嫌な話だよな。ま、神祇研のやつらは喜びそうだけど」
崩ヶ谷がうんざりした口調で言う「神祇研」とは、陸軍神祇研究所の略である。主に神籠や禍隠の研究を行っている機関だが。
「あっ」
不意に万都里の隣から声が上がった。見れば五十槻が卓の上にお茶をこぼしている。四六時中隙の無い彼が、珍しいことである。しかし万都里にとっては見逃せない失態だ。反射的に彼の喉は嗤笑を発した。
「はははは! なにドジ踏んでんだハッサク! ほら、ちゃんと自分で拭けよ!」
「はい……面目ありません、獺越少尉」
「あー愉快愉快!」
意地悪く嘲笑う万都里に気を悪くする風もなく、五十槻はしゅんとしながら手巾を取り出すと、卓を拭き始めた。その様を見ながらゲラゲラ笑う万都里の飴色のつむじに、崩ヶ谷中尉が無言でガツンと拳を落とす。中尉は決して万都里と親しくはないが、結構手厳しい。
「あーあー、いつきちゃん代わって代わって。俺が拭いたげるよ」
「しかし甲伍長……」
「うーん、じゃあ店員さんに布巾借りてきて! いつきちゃんの手巾だけじゃちょっと心許ないわ」
伍長の指示へ素直に従う少尉である。五十槻は大部屋を出て店員を探しに行ってしまった。精一はそのまま五十槻の手巾で、甲斐甲斐しく卓を拭いている。
一方、崩ヶ谷中尉は万都里のつむじへ落とした拳を、まだぐりぐりさせていた。
「獺越、なんなんださっきから感じ悪い。だから友達いないんだよお前は」
「う、うっさいわ! 友達なんか別に必要ないっ!」
「まつりちゃんはそんなんじゃ、友達どころか女の子も寄り付かないんじゃないの?」
「まつりちゃん言うな! 大体女なんか引く手あまただわ!」
大きなお世話だ! と高飛車に言う万都里へ、精一と崩ヶ谷から「ほほう言ったなこいつ」と邪悪な笑みが向けられる。
「ほうほう。引く手あまたなのに、公爵のお家柄であらせられる獺越家の次男坊に結婚の話がないのは、一体どういうことなんだろうな?」
「性格悪すぎて縁談こないの?」
「るっさいなぁ、そんなわけないだろう! 毎月毎月親に見合いの話持って来られて、うんざりしてるぐらいだわ!」
万都里は現在二十歳である。
一般の華族の家督相続は、基本的に嫡子による財産総取りである。しかし神實の華族は少々事情が異なり、家督を継ぐ長子とは別に、次子以降が神籠を発現した場合、神籠自身に分家を立てさせて財産を幾ばくか分与することが多い。将来本家の血筋が絶えそうな場合に備え、なるべく神籠を発現する因子を多くするためだ。
また軍務を三年終えれば、神籠当人に対し爵位と金録も与えられる。そんなわけで、神實華族の場合、神籠となった者も嫁ぎ先としては人気であった。
万都里も将来分家を立てる身として許嫁くらいいてもいい年頃だが、そういう話は一切ない。顔よし、家柄よし、資産ありの名門華族にしては珍しいことだ。それにしても、煽れば煽るほど自ら墓穴を掘る若造に、ケチとキツネは心底愉快そうである。
そんな悪い先輩たちの思惑には気付かず、万都里は酔いも手伝って、勝手に吐露しはじめる。
「大体、獺越家に縁談を持ってくる令嬢なんて、親も含めて下心しかないと決まっている。オレはそういう俗っぽい野心が透けて見える女は大嫌いなんだ! 実際、親に言われて会った女はろくでもないやつらばかりだったし」
「つまり、選り好みしていると」
「嫌な言い方をするんじゃない。だって、一生をともに過ごす伴侶なんだぞ? 適当に選べるものか!」
「分かる、分かるよ獺越。俺もそこだけは同意見だ。俺も雪江ちゃん以外とは絶対に結婚したくない」
雪江ちゃん、というのは崩ヶ谷中尉の細君だ。中尉は度を越した守銭奴であるとともに、面倒くさい愛妻家としても知られている。飲み会で崩ヶ谷黄平に奥方の話をさせると、明け方までかかると言われている。途中でその奥方が迎えに来ない限り、のろけは延々と続くらしい。
精一はそれをよく弁えているので、話題が雪江ちゃんへ持っていかれないように万都里へと話を逸らした。
「そんじゃあさあ、まつりちゃんはお見合い結婚は否定派なんよね?」
「そうだ。できるならそれなりの名家の出で、世間ずれしていない深窓の令嬢と偶然出会って恋愛結婚したい」
「こいつめちゃくちゃ言ってるぞ」
万都里の言う希望の令嬢に出会える確率など、晴れた日に街を歩いていて雷に打たれるぐらいの奇跡である。崩ヶ谷が奥方ののろけ話を差しはさむ隙も与えず、万都里は勝手にしゃべりだした。
「もちろんオレに釣り合うくらいの美人で、清楚で……できるなら口数は少なめで、静かで落ち着いている子だな。いついかなるときも凛としていて、けれども眼差しはまっすぐで、背筋のしゃんと伸びた八洲撫子こそ、この獺越万都里の隣に置くにふさわしい!」
「へ、へぇ……」
万都里は酒が入れば入るほど、熱弁をふるう質である。熱が入り過ぎて崩ヶ谷は引いている。ふと、クソケチ中尉は気付いたように精一へこっそり耳打ちした。
「お、おい……獺越の理想の女、性別だけ変えたらほず……」
「黄ちゃんシッ! 言わない方が面白いから黙っといて!」
たしかに、と崩ヶ谷は何も気づかなかった顔になる。そんな大人のやりとりに気付かず、万都里は続けている。
「だがいまの八洲に、そんな貞淑な令嬢はいないと見える。まことにけしからん限りだ!」
「おいお前たち。八朔少尉はどこに行った?」
ほろ酔いの少尉がくだくだと演説をかましているところへ、さらにのそっと長身が現れた。藤堂大尉である。よくもよくも、この卓には万都里の嫌いな連中が集まるものだ。
「いつきちゃんならさっきお茶をこぼしちゃってさ、店員に布巾を借りに行ってるよ」
「そうだったのか。てっきりお前らに使い走りにされてるのかと」
「大尉、俺たちのことなんだと思ってます?」
そのまま藤堂はどかっと精一の真向かいへあぐらをかいた。ここに居座る気である。
「で、お前らいったい何の話してたんだ?」
「恋バナ~」
「そうか、じゃあ俺は別の席で飲む」
「こら逃げるな綜士郎!」
居座る気から一転。
恋愛沙汰から逃げるように腰を浮かしかける藤堂大尉を、精一が卓ごしに引っ掴んで引き留めた。キツネ顔を振り返る綜士郎の顔一面に、うんざりした表情がにじんでいる。
「やめろやめろ! さっきも嫁がどうとか女がどうとかって話題から必死で逃げてきたってのに!」
「そりゃ無理ですよ藤堂大尉。もう大尉になったんですもん」
無理矢理押しとどめられる藤堂へ憐れむ視線を浴びせつつ、崩ヶ谷はぐびりと杯を煽った。
「いいですか。神籠の将校が大尉になったら、なんのかんのと結婚を強制されるのが神事兵の習わしです」
獺越もちゃんと聞いとけよー、と崩ヶ谷は続ける。
「神依も結婚して子どもが生まれると、その子どもが神籠を継ぐ可能性がある。それが三代続けば神實華族の仲間入りってね。ま、要は政府もなるべく神籠の数を増やしたいってこった」
崩ヶ谷の言う通りである。神籠は貴重な人材で、それゆえに神實の家系は華族階級として丁重に扱われ、保護されている。
そして稀にであるが、神依の子どもが父と同じ神籠を宿すこともある。確率としてはかなり低いものの、それが三代続けば華族に召し上げられ、特権を受けることができる制度が存在する。なお現政権による制度の施行以降、まだ例はない。
藤堂大尉はその話を、どこか暗い面持ちで聞いている。
「獺越も藤堂大尉も、よーく聞いてほしい。結局な、八洲の政府は俺たち神籠を、害獣処理部隊兼、種馬みたいに思っていやがる。より良い血統を残すために神實華族なんてもんがあるわけだし、神依にだって可能性がわずかでもあるなら片っ端からお節介ババアみたいな真似をする。もし理想の女や意中の女がいるなら、いまのうちに射止めとくことをおすすめするよ」
そう、俺と雪江ちゃんのように。
そう締めくくる崩ヶ谷に、万都里は「けっ」と反抗的に顔を逸らし、一方の藤堂は、心底うんざりという面持ちで、吐き捨てるように言った。
「俺は絶対に結婚しない」
いやに決意のこもった一言だった。けれど横合いからそれを茶化すような声。
「そうだね、綜ちゃんにはいつきちゃんがいるもんね」
へらへらと笑いながら言うキツネ顔へ、かなり強めの拳骨が落ちた。そのやりとりを見ながら、万都里は「どうしてそこでハッサクが出て来るんだ?」と精一へ問うけれど、彼の代わりに大尉が「やめろ、あいつの親衛隊が来る」とよく分からない返答をよこす。万都里には何が何だかさっぱり分からない。
そんなやりとりをしていると、「追加のお料理でーす」と給仕が大皿料理を次々と運んできた。もはや最初の席決めなどなかったかのように、第一中隊の面々は好きな卓で好きなようにしゃべっている。うだうだしているこの卓にも、どしどしと料理が並べられた。
「すみません、戻りました」
その直後に、布巾を手に五十槻が戻ってきた。途中で女性の店員に捕まり、「やだかわい~!」などと絡まれていたために料理よりも帰りが遅くなったのだが、それはともかく。
五十槻は自分の席へ帰ってくるなり、紫の眼をカッと瞠目させた。卓の上にこぼれたお茶は、結局精一がきれいに拭きあげてしまっている。いや、注目しているのはそこではない。卓の上にある、大皿の料理である。
「か、か……」
──からあげだ!
「……なにやってんだ、ハッサク?」
「い、いえ……あまりにまぶしくて……!」
あまりに胡乱な挙動に、思わず万都里は声をかけてしまった。五十槻は強烈な発光体を目前にしているかのように、顔の前に手をかざし、なにやら耐え忍んでいるような面持ちをしている。士官学校までの彼がこんな表情をしているところを、万都里は見たことがない。
「いいから座りなさい、八朔少尉」
「と、藤堂大尉……?」
自分の横の畳をバンバン叩いて指示する藤堂に、五十槻が「どうしてこの席にいるんだろう」と問いたげな目を向けた。しかし言われた通りに五十槻は藤堂の隣へ正座する。それから改めて、綺麗に拭かれた卓が目に入ったようで、恐縮しながら彼は精一へ頭を下げた。
「すみません、甲伍長。結局全部やってもらってしまって……」
「いいのいいの! さあ若人よ、からあげを食べるがいい!」
「わ、わあ……!」
謝罪をさらりとかわしつつ、精一は洗練された飲み会仕草でからあげを小皿に取り分けている。目の前に置かれた小皿に盛られたからあげを見て、五十槻は瞳を輝かせた。
恐る恐る箸を取り、ほとんど畏怖に近い眼差しをからあげへ一心に注いで。五十槻は鶏皮カリカリの、最も美味しそうなひとかけらへ狙いを定めた。震える箸の先がからあげに触れる、その瞬間。万都里が整った顔をにやりと歪ませた。
「すきあり!」
「えっ」
万都里はひょいと五十槻の皿を掠め取る。そして紫の目が見ている前でぱくっと丸ごと頬張った。
揚げたてを頬張ったのでめちゃくちゃ熱い。けれど万都里はハッサクに無様な姿を見せるわけにはいかないので、ひたすら我慢した。アホである。
獺越少尉の口元からこぼれる、カリッ、ザクッという衣の音。カリカリに揚がった鶏皮をバリバリとかみ砕く音。
「あっ……ああ……!」
こんな八朔五十槻の表情を、万都里は見たことがない。この世の終わりを見るかのような表情は、万都里が長年熱望していたものだった。これで口の中を火傷した甲斐があるというもの。ごくんとからあげを飲み込んで、万都里は満足げにだははと笑う。
「ははは、ざまみろ! キサマのからあげはオレのものだ!」
「バカなことするんじゃない獺越! ほら八朔少尉も、獺越のを食え」
横から崩ヶ谷中尉が、万都里のからあげの皿をさりげなく五十槻の方へ寄せた。
結果、ただ五十槻と万都里がからあげを交換しただけである。五十槻は改めて恐る恐るからあげを口にした。
カリッ、サクッ、ジュワッ。
ざくざくの鶏皮を噛むと、その下から染み出してくる濃厚な鶏の脂。下味のよく染みた肉は柔らかく、やはり旨みのこもった肉汁が、噛めば噛むほど、あとからあとから溢れて来る。
「くぅ……背徳の味がする……!」
「ねえ藤堂大尉。八朔少尉ってこんな子だっけ?」
「こいつ食事の席では情緒豊かなんだよなぁ……」
崩ヶ谷中尉の戸惑いに、藤堂大尉はしみじみとつぶやいた。
その後の宴席は穏やかなものだった。ときおり万都里が五十槻の好みそうな料理を横取りしたりして、崩ヶ谷中尉から鉄拳制裁を受けたりはしていたが。
「よし、五十槻。そろそろ帰るぞ」
「え、もう?」
突然藤堂大尉がやおら立ち上がった。大部屋の置時計は、まだ八時前を指している。
さっさと帰宅の準備をする大尉を、他の四人がぽかんと見ている。呼びかけられた五十槻ですらもだ。
あっけに取られる同席の連中へ、不機嫌な面持ちで藤堂は告げた。
「仕方ないだろう、ガキはもう帰る時間だ。外も暗いし、俺が送っていく」
「藤堂大尉、自分はひとりでも帰れます」
「ばかたれ。夜中にガキンチョ一人で帰らせたら、お前んとこの姉ちゃんたちがうるさいだろ。お前が入院したとき、めちゃくちゃおっかなかったんだからな。どうせ今日も家で待ってるんだろう?」
「はい……実家に帰る予定でしたし」
「じゃあ四の五の言わず、御令姉様がたの中隊殴り込み防止に協力してくれ」
五十槻の軍帽を拾うとぼすっと持ち主の頭へ押し付けて、大尉はさっさと出入口へ向かう。なしくずし的に五十槻もその背を追わざるを得ず、少年は同席の面々へ「お先に失礼します」と丁寧に礼をして、藤堂の長身を追った。
「藤堂大尉ー! お持ち帰りですかー!」
「うっさいわボケ! 俺はともかく、未成年に迷惑のかかる冗談はやめろ!」
兵卒の席から飛ばされる野次へ怒鳴り返して、藤堂大尉、八朔少尉を連れ怒りの帰宅。精一はその顛末をキツネ目で追いながら、「いま野次ったやつ、明日うさぎ跳び二十周だな」と追悼の口調でつぶやいた。
お持ち帰りの一部始終を眺めて、万都里はふと得心した。
(なるほど、藤堂とハッサクのやつ、妙に距離が近いと思ったら……)
──ハッサクは藤堂のお稚児をやっているわけか。
面白いことを知った、と万都里は静かに嘲笑った。明日はこれをダシにどうやって馬鹿にしてやろう、と途端に心持ちは愉快になる。
万都里は第一中隊でのつまらない生活に、やっとささやかな展望を見いだせた気がした。けれども彼の命運は、自身が思ってもみなかった方向へ向かうこととなる。
急に機嫌よく酒を飲み始めた万都里を、キツネの目が邪悪な笑みを湛え、見つめている──。




