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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第二章 純情は苛烈にして渇仰は犬の如く
32/97

1-3


 そして五十槻(いつき)は洋食屋のテーブル席でまんまとカツカレーを前にしている。己の自制心の脆弱さに、心底情けなくなる思いだ。しかし。


「うっ、これは……!」


 カツカレーなる背徳の料理の、なんと蠱惑的なことだろう。きらきらと光る白米の上に、ざくざくの衣をまとった揚げたてのカツが乗っていて、さらにその上には黒々としたカレールーがかかっている。ふわっ、と鼻孔をスパイスの香りが刺激して、五十槻の喉は抗いようもなくごくりと鳴った。

「くっ」と思わず視界を覆うように、空腹の少尉は眼前に手をかざした。皿の上がものすごくまぶしく感じる。まるでカツカレーが神々しく光り輝いているかのようである。


「なにやってんだ。冷めないうちに食え」


 翻弄されている五十槻に呆れながら、藤堂中尉がカツカレーへスプーンを差し込んだ。同時に精一も「いただきまーす」とさっそくカツを頬張っている。

 中尉と伍長がカツをスプーンに乗せて、サクッとかじる様を、五十槻は食い入るように見た。


「お、美味いもんだな。最初はライスカレーにトンカツなんてやりすぎだと思ったもんだが」

「うーん、野郎の空き腹には嬉しいお味」

「う……うわぁ……」

「お前はなんて顔してるんだ」


 最近の五十槻は、食事の席では百面相をしているらしい。といっても、本人に自覚はない。いま藤堂中尉の視界には、物欲しそうな目で人のカレーを食い入るように見ている八朔五十槻が映っているわけだが。


「だからいつきちゃん、食べなって。ほら、早く食べないとカツにされた豚さんがかわいそうでしょーが」

「は、はい……」


 精一に諭されて。物欲しそうな眼差しから一転、今度は自決前もかくやというほどの覚悟の決まった顔で、五十槻はスプーンを手に取った。

 わなわなと手を震わせつつ、カレールーのかかったカツを一切れ、白米の上に乗せてゆっくりと口元へ運び。

 はぐっと口に入れる。


「…………」


 もぐもぐと咀嚼。

 五十槻は揚げ物というものを最近はじめて食べた。元々ふだんの食事に油っけがあまりなく、油をふんだんに使用した料理というのになじみがない。以前味噌汁の油揚げをはじめて食べたときですら、油特有のコクを美味しく感じたものだけれど。

 このトンカツという食べ物は別格である。パン粉をまぶしてさっくり揚げた衣は、咀嚼のたびにサクサクと小気味よい食感をもたらし、また衣に包まれた柔らかい豚肉から染み出る肉汁は、まったりとした旨みであふれている。さらにそこへ加わる、ピリ辛のカレールー。そしてふっくらした白米とが渾然一体となって、まるで口腔に極楽が顕現しているようである。

 ごくっと極楽を嚥下して、五十槻はしみじみとつぶやいた。


「おいしい……!」

「そうかそうか! そいつはよかった!」


 一緒に卓を囲む藤堂中尉は、五十槻の様子を見て嬉しそうだ。

 最近の五十槻は、この時間が一番好きだった。藤堂中尉と、ときどき甲伍長もまじえて食卓を囲む、この時間が。

 毎回食事の支払いを中尉にしてもらっているのは、申し訳ない限りではあるけれど。自分で払うと言っても聞き入れてもらったためしがない。


「よし、俺のを一切れやろう。たくさん食え」


 中尉は別で用意されていた箸で自分のカツを一切れつかむと、五十槻の皿へ強引に載せようとする。思わず「それはだめです」と皿をかばおうとするが、中尉のカツは攻防の末、無理矢理五十槻の皿へ載せられてしまった。


「藤堂中尉……」

「たくさん食えって言ってるだろ。上官命令だ」

「綜ちゃん俺にも一切れちょうだいよぉ~」


 言いながら横合いからカツを奪おうとする精一へ、一瞥もくれず中尉は拳骨を落とす。それから中尉はあらためてカレーを頬張り、飲み下してからまた口を開く。


「五十槻、最近ご実家はどうだ? 休めているか?」


 そう尋ねる藤堂中尉の口調は、まるでお父さんである。

 女学院の事件以降、五十槻にはもう一つ変化があった。週に一、二回程度、泊りがけで実家へ帰れることになったのだ。

 神事兵の大半は宿舎住まいで、五十槻や藤堂中尉、甲伍長は全員そうである。なかには近隣に下宿を借りたり、妻帯していれば自宅から通ったりする者もいる。

 五十槻にはもともと宿舎で生活するよう連隊から指示が出ていたが、そこを取り計らって、実家限定の外泊許可を取り付けてくれたのも中尉である。五十槻は様々な面で藤堂中尉のお世話になりっぱなしであった。

 そんな経緯から、五十槻は恐縮しながら質問へ答えを述べる。


「はい、おかげさまで。赤子がいて、すごく賑やかです」

「そうだよねぇ、赤ちゃんいるとねー」


 精一ののんびりした返事に、五十槻はこくりと頷いた。

 最近生まれた弟は、弓槻(ゆつき)と名付けられた。よく泣きよく飲み、日々ぐんぐんと成長している。継母の和緒(かずお)や、古株女中のカヨさんによると、そろそろ笑ったりするかもしれないという。それが少し楽しみだ。

 しかしそれとは別に、五十槻には少し困っていることがある。ふたりの姉である。

 すでに嫁いだはずの皐月、奈月のふたりは、五十槻の帰宅を見計らって頻繁に実家へ帰ってくるようになっていた。目的はもちろん。


「最近、帰るたびに姉さまがたがいて……問答無用で女子の装いをさせられます」

「草」


 伍長が草を生やした通りである。姉たちは五十槻の帰宅のたびに待ち構え、とっ捕まえ、有無を言わさず女装を強要した。それだけでなく、五十槻自身に着付けさせたり、また女子の作法を教え込もうと躍起である。なお、使用人たちからは生暖かい目で見守られている。


「どうやら櫻ヶ原の一件で味をしめたようでして……」

「それは……ご苦労だな……」


 八朔五十槻は性別を偽り、女子であることを隠して男として皇国陸軍神事兵少尉を務めている。

 そんな五十槻の真実を知る藤堂中尉は、カレーを頬張りつつ反応に困っている。そして中尉は話題を変えた。


「ところで、五十槻は第三中隊にいる獺越(おそごえ)万都里(まつり)少尉を知っているか? 士官学校の同期と聞いたが……」

「ちょっと綜ちゃん、おいしいごはん食べてるのに仕事の話? やめてよね!」

「別にいいだろうが!」

「獺越少尉ですか……」


 話の腰を折るアホ伍長は置いといて。五十槻はスプーンを持つ手を休め、いつもの調子でまっすぐ中尉の目を見た。

 獺越万都里。五十槻とは旧知の仲である。(くろがね)を司る神籠を継ぐ、神代からの神實(かむざね)、獺越家の次男だ。士官学校の頃の彼を思い出しつつ、五十槻は生真面目な口調で語った。


「大変な努力家で、けれどとても気さくな方です。自らの神籠に真剣に向き合ってらっしゃって、能力の向上に日々励んでおいででした。それと、自分は同学年の他の方に比べて年齢が低く、周囲に馴染むことができなかったのですが……獺越さんだけは常々気にかけてくださって、よく話しかけてくれたのを覚えています」

「そうか……。五十槻がそう言うなら、いいやつなんだな」

「はい、とても良い方です」


 五十槻の弁に、中尉は満足そうな微笑を浮かべている。しかしどうして突然、獺越少尉のことを聞かれたのだろうか。


「実はな、俺の昇任の関係もあるんだが……部隊の編制が変わって、あちこちで配置換えがあるんだと。それで第一中隊にも何人か、尉官が転属することになった。獺越少尉もそのうちのひとりだ」

「そうでしたか」

「俺は獺越少尉に会ったことがないし、よく知らんやつだからな。それでちょっと聞いてみたわけだ」


 藤堂中尉はそう言うと、残り少なくなったカツカレーを平らげにかかる。精一はもう食べ終わっていて、メニューから甘味を選んでいるようだった。五十槻は一番ゆっくり食べている。がっついて食べたい気持ちはあるけれど、こんなに美味しいものを早々に食べ終わってしまうことの方が惜しい気がする。


「五十槻、気にせずゆっくり食えよ。甲、お前は全部自腹な」

「ええっ! 奢ってくれるんじゃなかったの!?」

「俺お前に奢るなんて一言も言ってないぞ」


 少女は一番最後に中尉のくれたカツを、大事に頬張る。少し時間が経ってふやけた衣も、これはこれで美味しい。

 五十槻は自分の顔が、ほんのわずかに微笑んでいることをまったく自覚していなかったし、それを藤堂中尉が満足そうに眺めていたことにも気付いていない。


(それにしても……獺越さんが、第一中隊に)


 獺越少尉の名前を、久々に聞いた気がする。にぎやかな彼を思い出し、五十槻は最後のカツを噛みしめながら、第一中隊でともに働ける日を待ち遠しく思うのだった。


      ── ── ── ── ── ──


 正月明けて数日経ち、新編成切り替えの日である。連隊本部での新年の式典行事を終え、各部隊がそれぞれの軍営へ戻った後のこと。場所は中隊舎前。


「やいやいやい! 久しぶりだなぁハッサク!」


 藤堂中尉、改め大尉から備品管理に関して指示を受けていた五十槻は、突然の聞き覚えある声に振り返った。

 ハッサク。五十槻のことをそう呼ぶのは、世の中広しと言えどひとりだけである。


「おいおいおい! まだちっこいままだなハッサク!」

八朔(ほずみ)です」


 獺越(おそごえ)さんはいつまでも僕の名字の読みを覚えてくれないな、と思いながら五十槻は訂正する。たしかに八朔はハッサクとも読むことができるが、五十槻の姓はホズミと読むのが正しい。ハッサクと呼ばれるたびに毎回「八朔(ほずみ)です」と正すのが、士官学校時代からの獺越と五十槻のお約束のやりとりであった。

 お久しぶりですと敬礼する五十槻のとなりでは、藤堂大尉が「なんだこいつは」と言いたげな目で、その青年を見下ろしている。


 獺越(おそごえ)万都里(まつり)。元第三中隊所属の少尉である。名門神實(かむざね)華族、獺越家の次男で、金属を司る神籠を持つ。

 身長はちょうど、五十槻と藤堂大尉の中間くらいだろうか。年齢は現在二十歳。すらっとした細身を軍服に包み、歩兵銃を背負っている。

 彼の容姿の中で一番目立つのは、八洲人にしては珍しい飴色の頭髪だ。代々の獺越家の神籠の特徴らしい。その飴色の前髪の下からは、ネコ科の動物を思わせる釣眼(つりまなこ)が覗いている。

 八朔家もそうだが、神實というのは神の末裔だからか、やたらと美形が多い。獺越少尉も当然のように白皙の美男であるが、その面立ちには意地の悪そうな笑みが浮かんでいた。


「キサマ、櫻ヶ原では派手な武勲を挙げたそうじゃないか。だが調子に乗るなよ! この獺越万都里が必ずやキサマを追い落とし、最速で佐官まで駆けのぼってくれるわ!」

「素晴らしい向上心です」

「素直に褒めるなムカつく!」


 やりとりを隣で眺めたのち、藤堂大尉は呆れた目線を、獺越少尉ではなく五十槻に向ける。

 お前、獺越さんはいい人だって言ってたじゃないか。大尉の目はいかにもそう言いたげである。


「あとそこのあんた!」

「え、俺?」


 獺越少尉は遠慮なしに藤堂大尉へも矛先を向ける。華族の青年は高慢な口調で言い放った。


「ちょっと背が高くて顔もよくて上司の評判もいいうえに神籠も派手だからって、神依(かむより)の者が上に立ってもらっては困るな! ハッサク同様、オレの踏み台になってもらおう!」

「前半すごい褒めてなかったか?」

「うるさいうるさい! いいか、覚悟しとけよキサマら!」


 ふん! と鼻を鳴らし、言いたいことを言いたい放題喚き散らした挙句、獺越少尉は去っていった。絵に描いたような、良いとこ育ちの鼻持ちならないお坊ちゃんである。

 嵐が去ったのち、藤堂大尉は少々おずおずと五十槻へ尋ねた。


「八朔少尉。獺越少尉は、士官学校の頃からあんな感じか?」

「ええ。お変わりなくて安心しました」

「安心すんなよ……」


 先日の洋食屋で、五十槻は獺越少尉について「獺越さんだけは常々気にかけてくれて、よく話しかけてくれた」と語っていた。しかし真相はというと、八朔五十槻を妙に敵視する獺越万都里が、むやみやたらに絡みに行っていただけの話である。鈍感な五十槻が悪意を悪意として受け取っていなかっただけだ。

 清澄(きよずみ)美千流(みちる)嬢といい、こういう自尊心高めの人物にやたら絡まれるのは、五十槻の宿命なのかもしれない。

 なんとも言えない空気になっているところへ、ひょっこりと(きのえ)精一(せいいち)が現れた。こいつが空気を読まず不意に現れるのは、いつものことである。


「あ、ねえねえおふたりさん! 今日さぁ、出席する? する? するよね?」

「は? なんの話だ?」


 突然鬱陶しい口調で出欠確認を取るので、大尉も少尉もなんのこっちゃか、という顔を精一へ向けた。

 キツネ顔はいつもより三割増しのごきげん顔で、楽しげに告げる。


「新年会兼、歓送迎会! 来るでしょ?」

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