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五
「さあみなさん! こちらですわーっ!」
女学生一同は走った。なぜか大福院きな子に先導されるがままに。美千流も致し方なくそれに続いている。
きな子は手際よく、雫を背負ったまま昴を助け起こし、蜘蛛の巣の部屋の──通路と思しき回廊を目指している。全員が部屋の壁際を一列になって走るなか、広間の中央では激しい迅雷が起こり続けていた。
(白獅子の君……!)
美千流は走りながら、彼の姿を目で追う。けれど稲妻に乗り神速で移動する白獅子の彼は、常人では到底視認することなどできない。ただ群がる大量の巨大蜘蛛を、幾筋もの雷光が貫くのが見えるばかりである。
それにしても、さきほど雫の姿をした禍隠は、白獅子の君へなんと言っていたか。
──ここにはあなたを害そうとした娘もいるというのに。
窮地の最中ではあるが、美千流にはその発言が引っ掛かっている。いままさに一緒に走っている学友たちのなかに、まさか白獅子の君へ危害を加えようとした者がいるということか。だとしたら美千流には許せない。
けれどそんなことを悠長に考えている場合ではなかった。
「あっ、やべ! 皆の衆伏せて!」
きな子の焦る声に、美千流たちは慌ててしゃがみ込んだ。巨大蜘蛛の一匹が頭上から飛来して、立ちはだかるように前方に降り立った。美千流の後方から怯える声や悲鳴が聞こえてくる。先頭を務めるきな子からも、慌てたような、そうでないような声が上がり。
「きゃあーっ! 大変大変! ワロタ様、お願いきな子ちゃんたちを助けてくださいましっ!」
目前の蜘蛛が巨大な前肢を持ち上げて振り下ろそうとしたので、全員が悲鳴を上げながら目を瞑った。瞬間、ずしんと響く鈍い音。しかし少女たちは誰一人負傷しておらず、彼女らが恐る恐る目を開けてみれば。
「な、なにこれ!?」
「オホホホホ! ワロタ様の思し召しですわーっ! 日頃からの信心最強ーっ!」
高笑いする大福院きな子の真ん前には、床から巨大蜘蛛の柔らかな腹を貫き、天井へめりこむ巨木の根。
大福院きな子こと、皇国陸軍神事兵科所属の甲精一伍長。彼の神籠は、生草和呂多神の力を借り、草木を操る能力である。当然、地中であれば木の根を操ることもわけはない。
精一は地中へ落ちたのち、定期的に神籠が使用できるかを密かに確認しつつ、神域が張られた時点でこの広間周辺に、地上近くの木の根を伸ばし、張り巡らせておいた。第一中隊で最も便利と言われる異能である。
「さあ皆さまっ! ワロタ様に感謝しながらこちらへ! はいっ、おいっちにーおいっちにー!」
精一はノリノリで逃避行の水先案内人を務めている。後から後から少女らを逃がすまいと蜘蛛が襲い掛かるが、そのたび天上やら壁やら床やらから、木の根が生えてきてはべちんばちんと禍隠を弾き飛ばす。
「ね、ねえこれ! 大福院さんがやってるの!?」
「まっさかー! 偶然ワロタ様のご加護が降りてきちゃったみたい! 草生える!」
堂々と草生やしながらはぐらかす、大福院きな子。設定上では十五歳。
嬉々として神籠を使いこなしながらも、いまの精一はあくまで一般女学生・大福院きな子である。役者は役柄を貫き通してこそ役者だろぉ! とは本人の信条だ。彼は殊勝にも最後まで大福院きな子をやり通す気であった。なぜその殊勝ぶりをふだんの素行にも活かさないのか。
ちなみに信心信心とやたら口にしているが、精一は神棚を拝んだこともない。
「さあ、皆さまこちらの通路へ!」
きな子は比較的安全と思われる通路へ、全員を誘導する。
美千流は後ろ髪引かれる思いだった。せっかくまた見えることができた白獅子の君は、全力を賭して禍隠と戦っている。
そんな彼を置いて逃げるなんて。
「清澄さん、お早く!」
「でも!」
激しい雷鳴の轟く広間の中央へ目を遣り、美千流ははたと目を見開いた。一瞬視界に現れた白獅子の彼が、一段と血にまみれているように見えたから。
「ああ……」
そこで彼女は一瞬避難が遅れた。頭上の蜘蛛の巣から、巨大な影が眼前へ落ちてくる。蜘蛛だ。
見上げた時にはすでに、黒々とした前肢が振り下ろされようとしていた。
「やばい、清澄の嬢ちゃん!」
きな子が精一の声で叫んだときには、蜘蛛の一撃が振りおろされた後だった。美千流の瞳に一瞬映る、紫の光。
「あ……」
誰かに突き飛ばされた、と思った。後ろざまに地面へへたり込み、多少の痛みに呻きながら少女は目を開ける。目の前に見えるのは、血まみれの軍服。
美千流をかばうように、覆いかぶさっていたのはずっと恋焦がれていた白獅子の面で。けれど白い面には鮮血がにじんでいて、厚手の軍服もだいぶ血を吸っている。なにより、左肩へ深々突き刺さっている、蜘蛛の前肢が痛々しい。
白獅子の彼が、とっさに身を挺してかばってくれたのだ。そう気付いたとき、美千流は自分の軽率さを心底悔いた。
──私のせいで!
美千流の目に、涙がこみ上げる。けれど。
不意にからりと白獅子の面が落ちた。激しい戦闘で、緒が切れたのだろう。
その下にあった顔は、確かに美千流の期待通りの美しい相貌だった。
しかし美千流はこの紫の瞳も、涼しげな顔立ちも、すでに知っている。
常に真顔の軍人かぶれ。ここ数日の間に、美千流の最大最悪の怨敵となった転校生。
そう、これは稲塚いつきの顔である。
「……え?」
仮面の下にあったいつきの表情は、いつもと違い、苦痛をこらえている。しかし美千流を見つめる紫の目は、見慣れた通りの真っ直ぐさで。
「甲伍長! 早く避難を!」
いつきは大きな声できな子へ向かって叫ぶと、一瞬勇ましい顔で歯を食いしばり、肩に前肢が刺さったまま背後を振り返る。間髪入れず軍刀を蜘蛛の鋏角の間へ突っ込むと、禍隠の体内へ雷電を送り込んだ。焦げ臭いにおいと、目を灼くような断続する紫の閃光。
「ほら、清澄さん! 行きますわよ!」
「う、うん……」
きな子に引っ張られながら、美千流はようやく立ち上がる。その目の前では先刻の蜘蛛を内側から炭化、粉砕し、新手に立ち向かう軍服の背中。
美千流は慌てて足元の白獅子の面を手に取った。
「あ、あの! これ!」
「持っていてくれ!」
短いやりとりをして、いつきは再び紫電の稲光となって蜘蛛を翻弄し始めた。「早く!」と急かすきな子の声に、美千流ももう従うしかない。白獅子の面を大事に抱え、美千流はピンクのドレスの後について走る。
走りつつも、美千流の中には様々な思いが去来している。
彼が稲塚いつきなわけがない。似ているのはきっと、血縁があるからだろう、とか。
そうだとしたら、たぶん兄妹か双子だろう、とか。
でもそれら全部を打ち消してくるのが、先程の禍隠の発言だった。
──ここにはあなたを害そうとした娘もいるというのに。
あれは美千流のことだったのだ。禍隠は今朝の調理実習のことを言っている。白獅子の君が稲塚いつきならば、矛盾しない発言だ。だって雫──いや禍隠も、あのとき調理室に居合わせたのだから。
腑に落ちるとともに、少女の胸が後悔で満ち溢れていく。
──私は、あんなにひどいことをしたのに。
あんなに恋焦がれていたあの人は、こんなに近くにいて。
近くにいたのに気付かずに、嘘をついて陥れようとしたり、傷つけようとしたり、果てには当人にとっては毒に近しいものまで食べさせた。
なのに命を懸けて美千流を、皆を守ろうとしてくれている。
美千流は走りながら泣いていた。悔しくて泣いたことはたくさんあるけれど。
自分が情けなくて泣くなんて、初めてのことだった。




