3-3
三
狭い穴の中を、随分長いこと滑っている。軍靴ごしにざらざらと土の感覚が続き、服の上には常にぼろぼろと頭上の土が崩れて来る。五十槻は軍帽が脱げないよう手で押さえつつ、下方へ落ちるままに身を任せていた。土の中へ入ってしばらくして、右手を引く感覚は消えた。
不意に狭い穴から広い空間へ放り出された。どれくらいの高さに放られたかは分からない。とっさに受け身の姿勢を取った五十槻を受け止めたのは、巨大な蜘蛛の巣だった。
「う……」
顔や手足に張り付いてくる糸を剥がしつつ、五十槻は周囲を伺う。地中にも関わらず、周囲にはおぼろげな光がある。光源は、ところどころにある蜘蛛の巣のようだ。もちろん五十槻を包んでいる巣も、やんわりと光を放っている。
せっかくの暗所に光源を配置するとは、利敵行為ではないのか。五十槻はカシラの生態はよく分かっていないものの、そんなことを思う。
五十槻がいまいる場所はそこそこの高所ではあったが、地面に飛び降りられないほどの距離ではない。迷わずに跳んで、今度こそ受け身を取って地面へ降り立った。
藤堂中尉からはかなり広い空間がある、と聞いていたが、いまいる場所はあまり開けていない。通路の一部、といった雰囲気だ。ただ高さはかなりあり、頭上にはいくつも微発光する蜘蛛の巣がかかっている。
五十槻は懐から白獅子の面を出して装着した。いつ戦闘になるか分からない。祓神鳴神の代となる準備は、いつでもしておくべきだ。
(神域は張られただろうか)
地中に落下した直後である。まだ少し時間がかかるかと思ったが、異能の感覚を手のひらに呼び出してみると、果たして彼女の掌中にはパシパシと紫の火花が起こった。無事、近辺に神域は張られたらしい。
「誰ッ!」
不意に女性の声が響く。聞き覚えのある声だ。五十槻は落ち着いた声で応じる。
「自分です、薬師寺先輩」
「キ、キミか……」
陰になっている場所から恐る恐る姿を現したのは、薬師寺昴である。五十槻同様、体のあちこちに蜘蛛の巣が引っ掛かっている。髪は乱れ顔は蒼白で、男装の麗人はもうすっかり恐怖に怯える少女の様相であった。ただ、先刻の中隊でのやりとりから少し時間が経って落ち着いたのか、はたまた異常事態に巻き込まれて、それどころではなくなったのか。昴の男性嫌悪は治まったようで、現在は五十槻に対しても受け答えはしっかりしている。
「いまここにいるのは、薬師寺先輩だけですか」
「……そうみたいだ」
とはいえ男のそばに寄るのには抵抗があるのか、昴は五十槻とは一定の距離を取っている。もし彼女が禍隠なら、一人で乗り込んできた神籠を始末する、絶好の機会だが。
「…………」
気まずそうに沈黙している昴へ、五十槻は聞きたかったことを聞いてみることにした。万一に備え、佩刀に手をかけ、いつでも神籠の異能を発動できるよう、心構えをしながら。
「薬師寺先輩。こんな状況ですが、つかぬことをお伺いします。先輩は最近の春岡雫さんに、疑問を持っているようでしたね」
昴は五十槻の質問へ、まず意外そうな顔をしてみせた。雫のことを聞かれたのが予想外だったようである。中隊本部では禍隠の嫌疑をかけられていたから、そのことを責められると思っていたのかもしれない。彼女は少し困ったような表情になって言った。
「……いまのあの子は、雫じゃない気がするんだ」
やはり。昴は現在の春岡雫に、疑念を持っていたのだ。
「今日の大豆事件で、春岡さんは僕に毒を盛るような行いをなされました。それは、以前の彼女では考えられないと?」
「そうだよ。だって、雫は本当に、虫も殺せないような、優しい女の子だったから……」
「虫を……」
つぶやきながら、五十槻の脳裏をよぎるのは、先日昼休憩の時間、雫が握り殺したバッタの死体である。
「今日の帰りがけにも、雫に会ったんだ。学校近くの電停で。あの子、たくさんの虫を殺して、ものすごく冷たい笑いを浮かべて去っていった。わたしの知ってる雫じゃなかった……」
その酷薄な冷笑には五十槻も覚えがある。一瞬だけ浮かべた表情なのに、鮮烈に記憶へ焼き付いている。
「春岡さんは、以前は命を大事にする方だったのですね」
「そうだよ。だから、一緒にいて安らいだし、可愛い後輩だった」
「その春岡さんを傷つけるような行いをしたのは、何故ですか?」
そこからの昴の沈黙は長かった。五十槻には禍隠討伐という目的があるため時間は無駄にはしていられないが、それでもこの話を聞くための時間は無駄には思えなかった。もし昴が禍隠なら、彼女の話は全て嘘っぱち。だけれども、もし人間ならば。五十槻が春岡雫に違和感を持っている以上、重要な手掛かりたりえるのではないだろうか。
やがて昴が重い口を開く。
「一ヶ月前まで……わたしには、好きな男の人がいてね」
一人称がいつの間にか「わたし」に変わっている。これが本来の薬師寺昴なのだろう。少女は訥々と、雫を翻弄するに至るまでを語る。
「その人とは、家の近くの電停で会ったの。毎日同じ路面電車に乗ってて、いつの間にか一緒に話すようになって……」
その頃の昴はなんでも持っていた。たくさんの友人に、学力に、恵まれた容姿に。虫好きの面白い後輩と出会って、エスの関係にもなった。昴自身は親愛の情を向けていたけれど、後輩──雫から向けられる感情が、自分と同じものではないことには薄々気付いていた。男とはその頃出会った。
電停や電車内で度々会話を交わすようになり、親にも学友にも隠れて交際するようになった。
一ヶ月、昴は男と身体の関係を持った。そのときは、自分が愛されていると思って満たされた気持ちだった。それに、クラスメイトや他の在校生よりも、ずいぶん早く大人になったようだった。しかし、優越感は長く続かない。
昴は男と電停で会わなくなった。向こうから姿を消したのである。通学のとき、学校に行くのを諦めて何時間も電停で待っていたけれど、彼はついに現れなかった。
何日も学校を休んだ。捨てられたと認めたくなかった。だって、昴はなんでも持っていたから。プライドの高い昴には、どうしても事実が受け入れられなくて。
いつしかお気に入りの服や、矢絣の制服は着られなくなっていた。どの服にも、男との思い出がこびりついている。また、彼が撫でてくれた髪の毛も、櫛を通すたび苦痛に思うようになった。
そんなとき、兄のお古の学生服を見つけてしまった。最初に黒の詰襟へ袖を通したときは、ただ虚しいだけだった。しかし昴には他の服が着られなくなっていた。捨てられた方の性別には、もう戻れなくなっていた。
「初めて男装で登校したとき、先生に怒られるしクラスメイトには変な目で見られたし、散々だった。でも、似合ってるって声をかけてくれる子がちらほらいてね。それで自惚れちゃったのかな」
やがて端正な容姿が手伝って、昴は周囲からもてはやされるようになってしまう。捨てられたはずの自分が誰かから求められるのは気分が良かった。
清澄美千流に見初められて連れ歩くようになり、昴は彼女を連れて敢えて春岡雫の前へ姿を現した。およそ十日前の話である。
雫は昴の見込み通り、一番ほしいものをくれた。それは捨てられる女の目であった。
「わたしは雫が傷ついているのを見て、心底嬉しいと思ってしまった。わたしはもう、捨てられる側じゃないからって」
「…………」
心の底から品行方正の五十槻にはよく分からない心理である。昴の独白は続く。
「雫はその日家に帰らなかったみたい。学校のお手洗いに籠って、一晩中泣いていたみたい。わたし、それを聞いてすごく嬉しかった……でも」
彼女の声が嗚咽混じりになる。訥々と語っていた口調に後悔が混じっていく。
「本当は悪いことだって分かってた。自分を慕ってくれる後輩を裏切るような真似をし続けて、悦に浸って……でも、どうしようもなくて、あなたのことも利用しようとした……」
薄暗い地底へ、ぐすぐすと泣き声が響く。
昴の心理はともかく、男装の理由、男性嫌悪の原因、春岡雫への態度の訳は分かった。要は、傷ついた自己を認められないがゆえの逃避行動、ということだろうか。
(十日前、春岡さんはお手洗いに一晩こもっていた……)
ちょうど禍隠が櫻ヶ原女学院の生徒を襲い始めた時期である。また、雫はそれ以前より、クロちゃんなる不審な蜘蛛と接触している。それから。
「薬師寺先輩。もうひとつお尋ねしたいことがあります。その首元の痣ですが」
彼女が多数の女学生に痣をつけているとしたら、ひとつ解せないことがある。首の痣である。五十槻自身も体験したことではあるが、この痣はおそらく、対象を地中へ引き込むための目印のようなものだ。それが昴自身にもついているのは、どういう意味があるのだろう。
「あ、あの……これは」
昴は五十槻の問いかけに口ごもっている。言いづらそうなので、五十槻は淡々と憶測を述べた。
「それはもしかして、春岡さんにつけられたのではないですか?」
昴の身長は女子にしては高く、対して雫は小柄である。雫がつま先立ちしてようやく、口元が昴の首のあたりに届くかくらいの身長差だ。質問に対し、昴は「うん……」と消え入るような声で答えた。
「雫が学校から帰らなかった日の次の日、さすがに心配だから、こっそり会いに行ったんだ。そのときに、雫に呼び止められて……」
「…………」
そのときに、五十槻が思っていた通りの顛末があったようだ。変わってしまった先輩へ、雫は精一杯引き留めようと抱擁したのだろう。そのときに、昴の首筋へ雫の唇が触れた。昴の口調は、今までで一番気まずそうである。
「昴先輩。ねえ、それだけじゃなかったでしょう?」
突然通路へ声が響く。五十槻にも、昴にも聞き覚えのある声だ。けれど、この声の主は気弱で臆病で、こんなに自信に満ちた声音ではなかったはず。
いつでも抜刀できるように柄に触れながら、五十槻は声の元へ紫の瞳を向ける。
「雫……?」
土壁の影から姿を現したのは、春岡雫だ。矢絣の着物に紺の行燈袴、眼鏡とおさげ。五十槻たちの知る、春岡雫そのままの姿である。けれど、その顔に浮かんでいる表情は──
「雫! 雫もここへ落とされたのかい!?」
昴の声を、雫はあの冷笑で受け止めている。先輩の質問には答えず、雫は口端をさらに歪めて見せた。
「ねえ先輩。私が学校のお手洗いで一晩を明かしたときね、私、本当に辛くて苦しくて、死んじゃおうかと思ったの」
「うっ……」
「でも先輩は次の日、私に会いに来てくれた。すごく嬉しかったの。だから私、先輩に抱き着いて、それで……」
雫は微笑を保ったまま、もじもじと恥じ入るような仕草をする。様子のおかしい彼女に、昴は困惑の極みのような顔をしているし、五十槻は念のため彼女らの間に入り、即応体勢を取った。
春岡雫はとたんに表情をうっとりさせた。視線は五十槻を通り越し、昴を貫くように見つめている。
「昴先輩が、私に口付けしてくれた。本当に本当に、願いがかなった気分だった」
「あ……」
五十槻は昴をじろりと見る。首の痣についてを語るときの、妙に気まずそうな口調の原因はこれか。
「先輩はきっと、罪滅ぼしのつもりだったのよね。わざわざ私に清澄さんと睦まじい様子を見せに来た挙句、私が一晩おうちに帰らず、学校の御不浄で泣き明かした。これで罪の意識を感じずにいたら、本当にあなたって人でなしだもの。でも先輩は中途半端に罪悪感を持っていた。だから──罪滅ぼしのつもりで口付けを交わしてくれた。本当はあなたに私……春岡雫の気持ちに応える気なんてなかったくせに」
そこで雫はぺろりと舌を出した。赤い舌の上に這う──黒い蜘蛛。
「でも、おかげでクロちゃんはあなたの口の中。ふふ、気付かなかったでしょう?」
「し、雫……?」
「ねえ先輩。いいこと教えてあげる。クロちゃんね、実は卵を抱えていてね?」
雫が台詞を言い終わるか終わらないかのうちに、昴が胃のあたりと口元を抑えた。明らかに嘔吐の前兆のような動作である。五十槻は抜刀の機を見計らいながら鋭く問う。
「貴様、いったい何を……!」
「だめよ、見てなくちゃ。私が薬師寺昴を選んだのは、彼女の顔が苦痛に歪む様を見るためなのに」
雫がうっとりと見つめる先で、昴はうずくまり、胃の中のものを吐き出した。
地面へぼたぼたと落ちてきたのは、決して胃の内容物などではない。大量の黒い蜘蛛だ。
「薬師寺先輩!」
「あははははは! ねえ、もっと顔をこっちに向けてよ先輩! よく見えないじゃない!」
慌てて昴へ駆け寄るけれど、ただただ苦悶の表情の彼女は蜘蛛を吐き続けている。大量の蜘蛛は地面から、昴の体から、五十槻の体の上にも這い上がってきた。
「くっ」
五十槻の体表に紫電が奔り、纏わりついていた蜘蛛をことごく焼き尽くす。立ち上がった勢いのまま、五十槻は軍刀の鯉口を切った。
超短距離の稲妻が、地面を走るように起こる。間違いなく春岡雫の姿をした何かへ、詰め寄ったはずだけれど。
「ねえ、あなたもあなたで傑作だったわよ? 大豆が食べれない、なんて馬鹿正直に言っちゃって」
雫は五十槻の背後で哄笑を続けている。振り返りざま振り下ろした五十槻の一刀を、雫は指で掴みこともなげに受け止めた。
「禍隠め……!」
「ま、そうそう自分が死ぬような事を迂闊に話すわけないとは思ってたけどね。ああ、本当に死んだらもっと面白かったけれども。でも、今朝の授業は本当に面白かった。見損なったなんて、本当に私が友達だと思ってたんだ?」
この雫はわざと煽るようなことを言う。五十槻には許しがたい行状と発言であるが、戦いの最中に心を乱してはいけない。五十槻は平静通りの真顔で、雫に掴まれている刀身に雷電を流し込む。
「おっと」
さすがに雷を直接食らうのは避けたいらしい。雫はひょいと刀を離すと、ふわりと昴の方へ飛んだ。
──いけない。
昴の身柄を保護しなければと、五十槻が神籠を発動しかけたときだった。
彼女の脇にある壁面が、突如破裂するかのように砕けた。そして五十槻を押しつぶすかのように到来する巨大な質量。逆側の壁へ押し付けられながら、五十槻はつぶさにその正体を確認した。自動車ほどの大きさの、巨大なジグモである。
とっさに五十槻は自身の体表へ電流を迸らせる。けれど効いているような手ごたえはない。
(外殻が絶縁体になっているのか?)
刀で遮るようにしながら、五十槻は蜘蛛からかかる圧を逃がそうとしている。蜘蛛の見た感じや外殻の感触からして、自分の考えに間違いはなさそうだ。また祓神鳴神の加護を受けた刀の刃も通らない。雷を通さないだけでなく、強度もかなりある。
「せっかく八朔の神籠をお呼びしたのに、対策していないわけないじゃない」
相変わらず嘲笑を続けながら雫が言う。もうすでに、蜘蛛を吐き終えた昴を俵担ぎにして、五十槻からは遠く離れた場所にいる。「どういうことだ!」と問う五十槻の声に、どうやら答える気はないらしい。代わりに違う話をし始める。
「とりあえずご安心なさって。地下へお呼びしたご令嬢たちは、無事にお待ちいただいているわ」
「!」
「今のところは、ね。ついでに言っておくと、春岡雫も生きている」
禍隠の言に、五十槻は安心ではなく、不信感を抱いている。禍隠とは人間を害するものであり、わざわざ生かしておく道理がないのではないか。それも、春岡雫まで生かしているとは。どういう了見での発言なのか、五十槻には見当もつかない。
雫は五十槻から視線を外すと、愛おしそうに肩に抱えた昴へ言葉をつむぐ。
「ねえ昴先輩。まだ気絶なんてしちゃいやよ? 先輩にはもっと、見せたいものがあるんだから」
昴はなにも答えない。意識があるのかないのか、こちらからはまったく分からない。そうこうしているうちに、五十槻を圧し潰そうとしている蜘蛛が、より力を増してくる。
その様を愉快そうに一瞥して、雫はふわりと跳躍し、通路の奥へ消えていく。
「それじゃあね、八朔の神籠。生きていたら、あなたにも面白いものを見せてあげる」
「ま、待……!」
捨て台詞へ反応する暇もない。
ぎしっ。
五十槻が背を預けている土の壁面が、大きく砕けた。刀で蜘蛛から向けられる鋏角を防ぐ反面、前肢の攻撃が加わり始めた。鋭い足先が、五十槻の右肩に食い込んでくる。
(外殻が絶縁ということは、僕がいま取れる手段はひとつしかない)
五十槻は刀を支えていた左手を外し、脇差を抜き払うとためらわず蜘蛛の鋏角の下へ突っ込んだ。口中のかなり奥まで刺し貫いたがため、腕にはがりっ、とかじられる感触と痛み。
「ぐぅっ!」
堪えながら、五十槻は目前の蜘蛛の体内へ、遠慮なしの迅雷を放った。
焦げ臭いにおいが一瞬鼻孔をかすめ、そして蜘蛛は巨体を爆散させる。
蜘蛛の体内が通電できる物質で構成されていたのは、幸いであった。巨大ジグモの破片がぼたぼたと落ちるなか、五十槻の足元にはまだ昴の胃から現れた蜘蛛がわらわらとたかっている。けれど五十槻は落ち着いてそれらを紫電で焼き払った。
(右肩と左腕を負傷した)
痛みはあるが、動けないほどではない。左手も問題なく可動する。負傷部位の衣服は血にまみれているが、止血を要するほどではないだろう。
急がなければ、と五十槻は雫が消えた方へ駆けだした。
もはや敵が誰かははっきりした。やっぱり四の五の考えるのは、五十槻は得意ではない。まっすぐな目的が現れてはじめて、やっと自分はまっすぐ走れる気がする。
禍隠を殲滅しなければ──。




