3-1 羅睺の門
一
自宅で軍装に着替えた五十槻は、出立してすぐ自宅近くの式哨の詰め所へ赴いた。
今日の出来事は早めに本営へ伝えた方がよさそうである。なにせ、禍隠らしき蜘蛛が現れたのだから。
式哨は五十槻の報告をもとに、素早く式を編み、飛ばしてくれた。ついでに連隊へ軍医に受診してもらう旨も追加してもらう。式を飛ばした後、五十槻は少しその場で待たされた。本営から了解の返事を待つためだ。
返ってきた式に記録されていたのは、少し意外な指示であった。五十槻は連隊本部から、行き先を変えることになる。
『本日軍医殿は第一中隊へ出向される。八朔五十槻少尉は第一中隊本部へ向かうこと』
── ── ── ── ── ──
「八朔少尉!」
「八朔少尉おかえりなさい!」
「なぜ女学生の姿ではないのですか!」
「廣島は少尉の女学生姿を残すため、写真機まで購入したのですよ!」
「わしの給金二ヶ月分が……!」
久しぶりの第一中隊である。五十槻が門前へ姿を現すと、やたら屈強な士卒たちが出迎えてくれた。一斉に挙手礼をしながら、賑やかに五十槻を歓迎してくれる。五十槻も精緻な動作で答礼を行う。
「皆さん息災そうで何よりです。服装については、風紀を乱す恐れがあるため、軍営には軍装で出入りするよう藤堂中尉よりご指示いただいておりますゆえ」
「くそぅ! また中尉だよ!」
彼らが言っていることはよく分からないが、やはり女学生の服装より、神籠の軍服の方がしっくりくる。久しぶりに佩いた軍刀の重みが懐かしかった。
「八朔少尉」
背後から呼びかけてくる声に、五十槻は振り返り、上官へ対しての礼を示す。
おもむろに歩み寄ってきたのは、藤堂綜士郎中尉である。いつぞやの兄のような優しい顔ではなく、五十槻のよく知る厳しい上官の顔である。
「よく戻った、少尉。委細聞いている。右手を見せてくれ」
五十槻は言われた通り中尉の前へ右手を差し出した。藤堂は遠慮なく五十槻の手を取る。五十槻の後ろでは、親衛隊たちが静かに唇をかみしめている。
別に藤堂中尉は親密さを見せつけているわけではなく、五十槻の右手の痣にじっと見入っている。
「これか、禍隠からつけられた痣というのは」
「蜘蛛の禍隠です。中央の小さな穴は、蜘蛛の口吻にある鋏角の痕かと」
「そうか……。これから軍医殿に診てもらうんだな?」
「そのつもりで参りました」
「よし、俺も一緒に行こう」
思ってもみなかった一言だったが、五十槻は「なぜですか」と言いそびれてしまった。中尉は五十槻を置いて、さっさと中隊舎の方へ歩みを進めている。慌てて五十槻も後を追った。
── ── ── ── ── ──
「禍隠がつけた傷で、こういうのは見たことがないかなぁ」
のんびりした口調で軍医・御庄康照少佐は五十槻の手を離した。診察室代わりの中隊事務所には、五十槻と御庄、藤堂の三人しかいない。
「御庄先生も、ご覧になったことがないのですか」
「うーん、禍隠関連の外傷も結構見てきたはずなんだけどねぇ」
連隊付けの軍医で、かつ五十槻の主治医でもある御庄少佐は、あまり権威ぶらない話し方で人気の医師である。白髪混じりの頭髪はあまり整えておらず、無精ひげも生えている。そろそろ五十に差し掛かる年齢だそうで、娘がふたりいるらしい。
「カシラはそもそも出現が稀だし、記録もあまり残ってないんだよ。この痣がどういう意味を持つのかは、経過観察するしかないかなぁ」
「悠長なことを言っている場合ではないのでは? 命に関わったらどうするんです」
後ろで診察を見守っていた藤堂中尉からの棘のある一言に、御庄少佐は「いやぁ」と優柔不断そうな仕草で頭を掻く。
「申し訳ない。私がもう少し出来の良い医師だったらよかったんだけどねぇ……」
「いえ、御庄先生にはいつも助けていただいています。僕にとっては一番のお医者さまだと思います」
五十槻は御庄医師とは長い付き合いである。それこそ本当に幼い頃から世話になっている。自分の本当の性別ももちろん知っていて、五十槻が立派な将校になれるよう、これまでしっかりとそのことを内密にしてくれていた。
御庄は「ありがとうね」と少し照れた様子で礼を言う。
懇意の医師への信頼に揺るぎはないのだが、藤堂中尉は診察の最中、まるで取り調べでもするかのように五十槻の背後に陣取っている。診察前の段階ではさほど険悪な雰囲気ではなかったのだが、御庄少佐が五十槻の十余年来の主治医だと知ると、一段と眼差しがきつくなった。
「あの、もう一点、御庄先生にお伺いしたいことが」
「うん、なんだろう」
後ろの中尉が気になるが、五十槻は大豆の件を御庄医師へ尋ねてみた。
「実は今朝、女学校の調理実習で、どうしても豆腐と油揚げの入った味噌汁や、冷ややっこを食べるはめになってしまいまして……」
「きみ、前もそういうことあったよねぇ」
やっぱりのんびりとした口調で相槌を打ち、御庄はにっこりと微笑みながら問う。
「八朔くん。食べてから体調が悪くなったり、いま調子が悪いところはあるかい?」
「いいえ。まったくもって元気です」
「うん、なら大丈夫じゃないかな。食べてすぐ症状が出なければ平気だよ」
そうですか、と頷きつつ、五十槻は少しほっとした。小学生の頃に食べさせられたときは平気だったが、今回も同様に無事で済む保証は、いま考えるとなかったかもしれない。ただ、信頼している先生にそう言ってもらえると随分と安心できた。
「そうだねぇ。今度設備の整った場所で、改めてアレルギーの検査をしてみよう。もしかしたら、免疫反応が弱まっているかもしれない。結果次第では、大豆製品が食べられるようになるかもしれないね」
「そ、そうですか……」
五十槻は真顔のまま、少し俯いて「油揚げ……」などとつぶやいている。診察風景を観察する藤堂の視線は、相変わらず鋭い。
「よし、じゃあ診察おしまい。八朔くんはいつも頑張っているね。でも、無理しないでね。痣のことでなにか変わった症状があったら、すぐに言うんだよ」
「ありがとうございます、御庄先生」
五十槻は椅子から立ち上がり、医師へしっかりと頭を下げた。「お大事に」と見送る御庄へもう一度会釈して、五十槻は部屋を出ようとする。しかし、壁に背を預けて厳しい顔をしている中尉は、動こうとしない。やはり先程から御庄医師に対し、あまり良い感情を持ってなさそうである。
「……中尉?」
「俺は御庄少佐と話がある。先に行ってなさい」
尊敬する上官が、同じく尊敬する医師を快く思っていなさそうなのは、五十槻としては心苦しいことである。しかし、言う通りにはしなければ。
五十槻は了解の意を示し、事務室を後にした。
── ── ── ── ── ──
五十槻が扉を閉めたことを確認し、綜士郎は医師へずかずか歩み寄ると、彼女が座っていた席へどかっと腰を下ろした。
御庄医師は動じず、「藤堂中尉もご受診でしょうか」とのんきなことを言っている。
そんな軍医をじっと鋭い目で見ながら、綜士郎は口を開いた。
「……八朔少尉は、営内の食堂で修行僧のような食事をずっと摂っている」
「はあ」
御庄は気の抜けた相槌を打つ。綜士郎は続けた。
「まだ十五の子どもが、麦飯だの脂身のない鶏肉や魚だのを、ずっと食べているんだ。他の士卒が脂の乗った肉だとか白米だとか、美味そうなものを食っているなかで。俺は、炊事担当の者からは、八朔少尉は相当な偏食なのだと聞いていた」
険のある雰囲気ながら、語り口は淡々としている。御庄は五十槻のカルテを記入しながら、うん、うんと聞いている。
「でも本人と話をすると、どうも偏食などではなさそうに思える。出されたものは全部食べると言っていた。先日無理矢理あんみつを食わせたが、あいつは美味そうに食っていた」
「ふふっ」
不意に医師が笑う。五十槻があんみつを食べている姿を想像して、微笑ましくて笑ったような様子だ。
「そういえば藤堂中尉は、八朔くんが女の子だということをご存じでしたっけ」
御庄は世間話のような口調で言った。綜士郎が五十槻の性別を知っていることを把握しているのは、連隊長の荒瀬中佐だけだ。やはり中佐とつながっている、と綜士郎は不審の念を抱く。
その不審をわざと裏付けるように、軍医はにこにこと続けた。
「さっきの大豆の話ですけどね……まあ正直、八朔くんにアレルギーなんて無いんです。私は別に禁止する必要ないとは思ったんですけどねぇ」
「なぜ、そんな嘘を?」
「いやぁ、上がうるさいんです。どうやら最近の研究ではね、大豆には女性らしい成長を促す成分が含まれていると分かりまして」
困りますよね、と苦笑いしながら医師は語る。
「私としては、大豆製品を常食したとしても、懸念するほどの効果はないと思うんです。ほら、私だって毎朝毎晩、豆腐入りの味噌汁を飲んでますけど、これが一向に女性らしくならない。ただ、上の人たちは万一に女性らしい身体つきになってしまっては困るようなんですよ。だからアレルギーということにして、八朔くん自らそういった食品を摂らないよう仕向けた」
「……普段の食事制限も、そういうことですか」
食事制限という言葉に、医師は「ええ」と頷いた。
やはりそうだったか、と綜士郎は膝の上に置いた拳へ力を籠める。この医師は、悪びれることもしらばっくれることもなく、さも当然のように語る。それに先程から「上」という言葉を使うが、それはおそらく神事兵連隊、もしくはそれより上位の階層の将校たちを指しているのだろう。その上とやらには、目の前のこの医師自身も含まれていると綜士郎は思う。
軍上層部の一部か全部かは知らないが、こいつらは八朔五十槻を男性に仕立て上げるため、無茶苦茶な食事制限を強いている。
「ばかばかしい話ですよね。そんなことしなくても、女の子なんだから然るべき時期に、然るべき成長を遂げるんです。ただ、彼らはなるべくそれを遅らせたかった。せめて、神籠の将校として実戦経験を積む間は」
「それで、あんな年頃で少尉になぞ任官したと……」
聞けば聞くほど胸糞の悪い話である。おそらくは陸軍上層部だろうが、なんらかの目的で、五十槻に禍隠との戦闘経験を積ませようとしている。まだ彼女の身体が、男性だと誤魔化しの効くうちに。
「ああ、ご安心ください。健康を損なわない程度の脂質や糖質は、きちんと管理して摂らせていますから」
「……あんたたちは、一人の子どもに惨いことを強いている自覚はあるのか?」
「もちろん。私だって、自分の娘に同じことをされたら、自分が一体どうなってしまうのか分からない」
一連の対話の間、綜士郎はずっと怒りをこらえている。いまの御庄の一言だって、本当に許せないと思った。
けれどここで綜士郎が怒鳴ったり抗議したりしたところで、五十槻を巡る事態は好転しない。もしいま綜士郎が目の前の男を怒りのまま恫喝したとして、綜士郎はよくて左遷、悪くて収容所送り。五十槻は他に誰一人真実を知る者のいない中隊に残ることになり、それこそ上層部の思うがままである。
せめて自分が中尉の身分のまま彼女のそばに在れば、何らかの手助けはしてやれるかもしれない。
綜士郎は盛大に息を吐いて、自らの義憤を鎮めようとした。少しは冷静になれた気がする。
「……どうして上の連中がそんなに焦って八朔少尉に戦績を積ませたがるのか、それは教えてもらえないんでしょうね?」
「ええ。というか正直私も知らないんですよね。私の職掌は医師ですし、そこまで詳しい情報は開示されていません」
知っていても教えてくれないんだろう、と綜士郎は眼差しだけは厳しいままで医師を見る。御庄少佐は神籠の中尉に臆することなく、興味深そうな口調で続けた。
「しかし、医師の目から見ても、八朔の神籠は面白い。祓神鳴神は雷を司る神ということですが、言ってみれば電気を操るということですね」
「電気?」
「近年は人体の造りに関しても色々と研究が進んでいまして、どうやら人間というのは、脳からの電気信号を身体の各部位に伝えることで様々な運動を行う仕組みを持っているようなんです。その電気信号とやらをうまく制御すれば、自らの身体能力を大幅に底上げすることもできるかもしれない」
「…………」
「心当たりのある顔ですね?」
図星である。たしかに五十槻はつい最近、小柄な体格には似合わない膂力を発揮したばかりである。先日の親衛隊騒動がそうだ。御庄少佐は続ける。
「しかもどうやら神域の範囲外でも効果を発揮することがある。八朔くんは小学生の頃、自分より大柄な上級生を数人病院送りにしたことがありましてね。もちろん神域なんて展開されていない場所でです。おそらくは、神實特有の現象かもしれません。神實は神の子孫と言われていますから、その血肉はすなわち神の血肉と言っていい。神實の身体そのものが、ある種神域と同様の役割を果たしているのかもしれませんね」
綜士郎はそんなこと初耳であった。神實華族の将校にも数人知り合いがいるが、普段の働きぶりや神籠の発動状況などを鑑みても、そのような特異な体質であるという印象はない。雷──電気を司る八朔の神籠特有の現象、ということか。
「……つまり、八朔少尉は体内の電気信号を操作して、身体能力の飛躍的向上を果たすことができる、と。御庄少佐はそうお考えなんですね」
「おそらくとっさの場面で、無自覚にやっているようですけどね。ま、私の目からみて興味深いと思ったのはそんなところです。神籠の専門家なら、また別の意見があるかもしれませんが」
八朔の血統が特別な力を持つことは、なんとなく分かる。そもそも身体の強化などなくとも、迅雷を操り、凄まじい速度で移動することができるのだ。
だからといってその血族に、子どものうちから極端な食事を与えたり、偏った教育を行い、性別を偽らせることが正当化されるとは到底思えない。
「藤堂中尉。ここまでお話ししましたけれど、お分かりかと思いますが以上のことは内密にお願いします」
御庄少佐は人好きのする笑みを崩さずに言った。もちろん綜士郎に拒否権はない。青年はもう一度盛大にため息を吐いて、了承の意を示す。先程考えた通り、ここで少佐に逆らったり、他の者へ口外すれば、綜士郎は中隊を出て行くことになる。五十槻へ適切に手を貸してやれる者が、いなくなってしまう。
「……八朔の御当主は何も言わないので?」
最終的に呆れながら綜士郎はそう尋ねた。御庄少佐は「ふふ」とまた微笑ましく笑いながら答える。
「もちろんご不満ですよ。ただおいそれと彼女のことを公にはできない。いまのところ八朔くんは折々の機会に実家へ帰ることができていますが、もし御当主が新聞社などへこのことを公表しようとしたら、彼女は一生家族のもとへ帰ることはできなくなるでしょうね。我が国は一応検閲がありますし、すべての新聞や刊行物は発行前に官憲の目を通る。世間への公表という目的は果たせず、娘と一生会えなくなるような愚行は、あの御当主はなさらないでしょう。ただまあ……先日は御子息が生まれたどさくさで、彼女を除隊させようとしたとお聞きしましたが。よほど軍に取られた我が子を取り戻したいんでしょうね。私も気持ちは痛いほどに分かる」
「……あんたら本当にクソだな」
御庄少佐は、一見朴訥のようでいて、べらべらと饒舌だ。もはや上官など関係なく正直な嫌悪感をぶつけて、綜士郎は最後に確認をする。
「少佐。八朔少尉にアレルギーはないんだな? 何を食べても、本当は問題ないと?」
御庄はクソなどと詰られても特に気にした風もなく、口角をくいっと上げて答えた。
「ええ。いましばらくは現在の食事を続けてもらいたいところですが、たまには彼女の食べたい物を食べさせてやって結構ですよ。八朔くんを気遣ってくれて、ありがとうございます」
つくづく腹の立つ男である。心からの感謝の顔で言うところが特に。
綜士郎は席から立ち上がると、不本意ではあるが敬礼をする。御庄少佐は相変わらず柔和そうな医師の顔で、答礼を行った。
綜士郎が退室した後のことである。
しばらくして、事務室へノックの音が響く。「どうぞ」と御庄が声をかけると、扉を開いて入ってきたのは連隊指揮官・荒瀬史和中佐だった。
「……藤堂くんとやりあっていたようだね」
「あれ、聞こえてました?」
「いや、不機嫌な顔でここから出るところを見かけた。どうせそんなことだろうと」
荒瀬中佐は今日は煙管を持参していないのか、紙巻き煙草を取り出して火をつけた。御庄少佐の差し出した灰皿へ使い終わったマッチを置くと、煙草をくわえ、そして紫煙を吐く。
「……どこまで話した?」
「私に話せる部分は全部。だめでしたか?」
「いや、いい。下手に詮索されるより、ある程度知らせておいた方が制御しやすい」
「正義感の強い方なんですね、藤堂中尉」
「そうだな……八朔五十槻の境遇に肩入れするのは、藤堂の生い立ちのせいもあるかもしれんなぁ」
荒瀬中佐は独り言ちるようにつぶやくと、険しい顔で椅子に座る。さっきまで綜士郎が座っていた席だ。
「……カシラは八朔くんに接触したか?」
「ええ。蜘蛛の禍隠に噛まれて、右手に刻印が」
「目論見通りか。ま、女学院に身を置いていれば、いつか向こうから目をつけてくると思ったよ」
そこで会話を区切り、荒瀬はもう一度煙草を吸った。煙を吐きながら、中佐は少し疲れた背中で言う。
「……羅睺蝕が近い。今回の件で『門』が見つかるといいのだが」
「『門』を閉じられるのは……」
「祓神鳴神の力を継ぐ、八朔の神籠だけだ」