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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第一章 八朔少尉、女学生になる
22/126

2-14

十四


「ぶわっはっはっはっは! いつきちゃん停学食らってやがりますわめっちゃ草ーー!」


 昼下がりの校門である。五十槻の真顔は若干ぶすっとしている。五十槻の行いは薬師寺昴への暴行とみなされ、五十槻は停学処分となった。もし清澄美千流がいれば大いにコケにしたであろうが、彼女は昼休みを境に早退してしまった。よほど五十槻に言い負かされたのが悔しかったらしい。

 見送りに現れた大福院きな子はもちろん大爆笑である。昼休みの一件を伝えたいのだが、なかなかこの笑い上戸伍長、爆笑が長い。

 結局あの後、教師に無理矢理二人と引きはがされ、職員室でガンガンに怒られてしまった。そしてその場で言い渡される停学処分。雫と昴は、おそらくあの後それぞれの教室へ戻っていっただろう。


「ま、ご安心なさっていつきちゃん」


 やっと笑いやむ気配を見せつつ、きな子は一瞬精一に戻り、声を潜めて五十槻へ耳打ちする。


「俺ら任務で来てっから、明日にでも連隊本部から復学の要請してくれるって」


 そうだと信じたいものである。このままでは寝覚めが悪すぎる。やっときな子が笑いから落ち着いてきたので、五十槻は先刻あったことを手短に伝えた。


「……というわけで、妙な蜘蛛を取り逃がしまして」

「そう気落ちしなくてもいいじゃない。調べはだいぶ進展しましてよ!」


 ひとしきり五十槻を元気づけた後で、それより、ときな子は五十槻の右手を取る。もちろん見ているのは手の甲の痣だ。


「あらら、見事につけられちゃいましたわねぇ」

「ええ。どうやら痣をつけていたのは蜘蛛のようです」


 昴の口の中にいた黒い蜘蛛。特徴は雫が可愛がっていたという「クロちゃん」と一致する。しかし今日見た蜘蛛とクロちゃんなる個体が同一のものかは、分からない。雫は五十槻を止めるのに必死で、蜘蛛には気付いていないようだった。

 今日の蜘蛛は昴が五十槻へ接吻を試みた直後に口内へ現れたので、もしかすると口付けの前後に口内へ出現する仕組みだったのかもしれない。


「まあクロちゃんのことも気になりますけどね。いつきちゃん、その痣一度病院で診てもらったら? ほら、せっかく停学になったんですし、お時間たくさんありましてよ!」

「うーん……」


 きな子の言う「病院」とは、すなわち軍の医療機関のことだ。確かに軍医なら禍隠につけられた傷などの症例も多く知っているだろうし、見解を聞いてみるのも手である。もしかすると、カシラの特徴など分かるかもしれない。


「あと聞きましたわよぉ。大豆事件」

「うっ」

「お医者様に食べちゃダメ! って言われてるものを食べちゃったんだから、その相談もしてきなさい! これから体調崩すかもしれないじゃない!」

「……はい」


 お嬢様口調で五十槻を諭し、受診の約束をさせるときな子はにぱっと笑った。


「ま、今日のところはわたくしにお任せヨン! 放課後は校庭でひとり蜘蛛狩り大会開催決定ですわねオーホッホッホッホッホ!」


 今日も大福院きな子はとっても元気。

 高笑いの迫力に押されながら、五十槻は学校を後にした。


(……女学生の姿で軍営に来てはいけないと、中尉に言われている)


 五十槻の主治医は連隊本部に勤めている。一度実家で着替えてから向かわねばなるまい。


      ── ── ── ── ── ──


 なによ、なによ、なによ!

 清澄美千流は憤慨しながら歩いていた。もうすでに涙は引いている。

 早退後の帰り道。ふだんは学校の行き帰りに自動車での送り迎えをしてもらっている美千流だが、彼女は今日の早退を家の者に伝えていない。供も連れず、一人で街をずんずん歩いている。

 午後の授業なんてとても無理だった。あんなことがあった後で、あの稲塚いつきの真顔の隣で授業を受けるなど、そんな屈辱あってはならない。

 令嬢には行く当てがあった。ずっとずっと調べていたことを、確かめに行く機会を何日も伺い続けてきた。

 ふだん、美千流は習い事やお稽古事で忙しい。この件を調べに行く時間がなかなか持てなかったのだ。稲塚いつきの件で早退したことは腹立たしいが、それでも貴重な時間をやっと手に入れることができた。活用しない手はない。

 美千流は懐から数枚の紙を取り出した。一番上の紙に記されているのは、雷の神籠(こうご)の一族、八朔(ほずみ)家の住所である。


──やっぱり、八朔の家の人だったのよ。


 美千流は学校でいつきにちょっかいを出したりする傍ら、ここ数日は八洲の神話や神籠に関する文献を図書館で漁っていた。どうしても会いたかったのだ。あの夜、美千流を禍隠から救ってくれた──白獅子の君に。


(もう私にはあなたしかおりません。もう一目だけでも、お会いできないかしら)


 少女は一途であった。途中、昴さまやいつきと茶をしばいていた美男や、学校周辺に出没した美少年やらへよそ見しながらではあるが。しかし一番美千流の心を捉えて離さなかったのは、やはり白い獅子の面の少年将校で。

 文献にその記述を見つけたとき、美千流は心躍るかと思った。

 真っ先に候補から外した八朔家が、色々調べた結果、一番白獅子の君に近かったのだ。

 いままでひげもじゃの武神という絵図で描かれることが多かった、八朔の祖先神・祓神鳴神(フツカンナリノカミ)。千年ほど前の文献では、どうやら白い獅子を連れた女神の姿で描かれることが多々あったらしい。参考にした書籍には、巻末に百雷山社殿蔵の図像が掲載されており、まさしくたおやかな女神が稲穂を手に、白獅子を連れている姿であった。

 これこそが祓神鳴神の正しい姿ではないかと、美千流は考えた。白い獅子というところも、あの人の面と同じではないか。

 令嬢は今日という日を傷心のまま終えたくない。稲塚いつきを見返してやる。

 八朔の家を突き止めて、あの人に再会して。


(目指せ! その場で婚約! プロポーズ! ハネムーン!)


 お嬢さまは鼻息荒く天へと拳を突き上げた。通行人が胡乱な目で見ている。立ち直りが早いところは、この性悪娘の長所であるのかもしれなかった。

 そんなわけで、美千流は路面電車を乗り継ぎ、現在は物陰に身を潜め、八朔家の門前を眺めている。

 華族の住まいが多く立ち並ぶ、閑静な住宅地である。

 目的地へ無事たどり着いたのはいいが、美千流の目から見ても八朔の屋敷の門構えはあまりに立派であった。美千流の自宅も瀟洒な洋風の屋敷で規模は負けていないが、要は彼女は怖気づいたのである。そもそも、なんの連絡もせずにお宅を訪問するのは不躾ではなかろうか。ここまで来ておいて美千流は、やっとそのことに気付いたのである。


(でも私帰らないわ。もしかしたら、あの方がお屋敷を出入りするところを見られるかもしれないじゃない!)


 そんなわけで、美千流はかれこれ一時間ほど、お向かいのお屋敷の塀の脇に隠れて様子を見守っていた。八朔の屋敷はしんと静まり返っており、人の出入りもなく誰も門をくぐらない。


「……お嬢さん、なにしてるのかしら?」

「きゃっ」


 あまりにその姿が不審だったのか、背後からご近所のおばあさんが話しかけてきた。別に質しているような雰囲気ではなく、心配して声をかけてきたようである。


「わっ、わわ、私……!」


 突然だったので盛大にどもる令嬢に、おばあさんは「八朔さまに何かご用事かしら?」とさらに問う。なんと答えてよいものやら、美千流が口をぱくぱくさせていると。


「あら、分かったわ。八朔さまの御曹司をご覧になりに来たんでしょう」

「!」

「この辺じゃものすごく綺麗な方で有名ですからねぇ。お嬢さんみたいに、こっそりお顔を見にいらっしゃる方もたまにいるのよ」

「そ、それ、本当ですの!?」


 美千流は食いついた。おばあさんは不審令嬢の剣幕に「え、ええ」と少し気圧されながらも、気のよさそうな語り口で続ける。


「私も遠目からでしたら、お顔を拝見したことがあるのよ。男の子とは思えないくらい、綺麗で涼やかなお顔立ちの方だったわ。神籠の軍服姿が大変お似合いでねぇ」

「ッッしゃあ!」

「お嬢さん?」

「なんでもないのよ。続けてくださる?」


 美少年確定ッ! 心の中で拳を天に突き上げながら、美千流は上品に続きを促した。


「でもね、残念だけどこちらのお屋敷には、あまりお戻りにならないようなの。生まれてすぐ将校の英才教育を受けるために、御実家を離れられたそうでね」

「うっうっ、ご苦労されてらっしゃるのね……」


 美千流は白獅子の君の境遇を想い、目元を手巾で拭った。


(きっとご家族との時間を持てなくて、寂しい思いをしてらっしゃるわ……私がしっかりお慰めして、お支えしないと!)


 決意を新たにするものの、ご老女は気になることを言った。「こちらのお屋敷にはあまりお戻りにならない」と。


「あ、あの……その方って、あまりこちらの御実家にはいらっしゃらないのかしら?」

「そうねぇ……あ、でも最近、御兄弟がお生まれになったそうだから、お帰りになる機会はあるんじゃないかしら」

「そっ、そうですのね!」


 無駄足になるかと思ったが、どうやら希望はあるようだ。美千流は上ずった声で返事をしつつ、ほっと胸を撫でおろす。しかしおばあさんが次に教えてくれたのは、不穏な情報である。


「そういえば、八朔さまといえば……最近、お屋敷に可愛らしい女学生さんが出入りしてるわね」

「……は?」

「上の娘さんたちはもう成人されて嫁がれてらっしゃるし、あれはいったい誰なのかしらねぇ」


 こっちが聞きたい。何者だそいつ。美千流は一瞬にして、稲塚いつきも裸足で逃げだす真顔となる。

 おばあさんの爆弾発言は続く。


「そういえば、お嬢さんがいまお召しの制服と同じ矢絣(やがすり)だったわね」

「は……?」


 よりにもよって同じ学校の生徒!? 美千流の射干玉(ぬばたま)の目が見開かれた。

 人の良いおばあさんは美千流の顔色に気付かず、「さあ、そろそろお買い物に行かなきゃね」とにこにこしている。


「それじゃあね、お嬢さん。お坊ちゃんにお目にかかれるといいわね」

「え、ええ! ありがとうございますわ、ごきげんよう……」


 おばあさんと別れて。美千流はなおもお向かいの塀に隠れながら思案した。

 おそらく白獅子の君は八朔家の御曹司で確定である。仮面の内側も大変麗しい目鼻立ちである様子。

 しかし問題は謎の女学生だ。せっかくたどりついた白獅子の君には、すでに他の女の影がある。美千流と同じ矢絣、ということは櫻ヶ原女学院の生徒だろうか。

 美千流の心がざわざわと不安に揺れるなか、答え合わせの瞬間はすぐに訪れた。

 閑静な通りに、ひときわパタパタと急いでいるような足音が聞こえてくる。美千流はとっさに身を低くして、よりいっそう気配を潜めた。

 果たして、通りの向こう側から若干駆け足気味で現れたのは、誰あろう、美千流の最大最悪の怨敵。


──稲塚いつき!


 いつもは腹立たしいくらい落ち着き払っている憎き娘は、少し急いでいる様子で通りを駆けている。もうすぐ八朔の屋敷の門前へ差し掛かるところだ。


(お願いだから通り過ぎてちょうだい!)


 美千流は祈った。きっと稲塚いつきの自宅がたまたまこの辺りで、ただ単に帰宅の途中に通りかかっただけ。というか下校にはまだ早い時刻である。なぜいまここに現れた稲塚いつき。


(お願い神様……あいつに八朔の門をくぐらせないで!)


 虚しくも、少女の祈りは通じなかった。稲塚いつきは八朔の屋敷の前で立ち止まる。

 そしていつきは当然のように八朔の門を通り、玄関へ向かっていった。


「ただいま戻りました、五十槻です」


 その声を背に、美千流は駆け出した。少しふらつきながら、たまに転びそうになりながら。

 人通りは少ないけれど、行きかう人々は驚き、案じるような視線を投げかけてくる。けれど美千流は止まらない。

 いつの間にか頬を涙が伝っていた。胸には悔しさが満ちていた。

 いまごろ、あの屋敷の中で。稲塚いつきは何をしているのだろう。なぜあそこにいたのだろう。なぜ急いでいたのだろう。

 それは、もしかしたら普段はあまり御実家に戻らないという、あの人が屋敷にいたからで。

 逢瀬のために学校を早引けしたのかもしれず。彼の自宅を訪れたということは、つまり親公認で。

 いまごろ、彼女は白獅子の君の抱擁を受けているのかもしれない。


 悪い想像は駆け巡る。美千流は走るのをやめ、うずくまった。むき出しの地面へ、ぽたぽたと涙の跡がたくさん増えていく。白獅子のあの人の腕の中は、本当は美千流の居場所のはずだった。少女はそれを奪われたと思った。

 みじめで虚しくて、こんなに辛いことはない。ひと気のない路地に、美千流のことを慰めてくれる人は誰もおらず。


(稲塚いつき! 絶対に許さない!)


 私のいっとう大事で大切な人を!

 悔しい気持ちの後に美千流の胸を満たしたのは、怒りであった。美千流は涙の跡を踏みしめ立ち上がる。


「絶対に絶対に……白獅子の君を取り戻すんだから!」


 そもそも元々美千流のものではないのだが。


「だいたい! あいつこの間、広瀬町で美男と茶ぁしばいてたじゃない! 昴さまは誘惑するし、まったくどういうことよふしだらね!」


 自分のことはさておき。怒りに燃え、ふるふると震える美千流の右の拳だったが、不意にふと動き出した。

 美千流の意志ではなく、誰かに引っ張られているわけでもない。


「えっ……?」


 妙な虫刺されがいまだに治らない美千流の右手は、彼女の制御をはなれて地面へ引き寄せられる。思わず視線を地面へ落とした美千流は見た。

 自らの足元へ、ざらりと開く深い穴を。

 異変に気付いたときはもう遅かった。


「でゅわっ!」


 珍妙な叫びを残し、令嬢は穴の中へ右手から引き込まれていった。

 あいにくひと気のない場所でのこと、見ていた者は誰もいない。

 美千流を飲み込んだ穴は、今度は開いたときとは逆回しの様相でふさがっていく。

 何事もなかったかのように、あたりには静けさが戻った。

 清澄美千流の痕跡は、涙の跡ごと消えた。


      ── ── ── ── ── ──


「蜘蛛狩りでっすわ、蜘蛛狩りでっすわ!」


 放課後、櫻ヶ原女学院校庭。

 五十槻から得た情報をもとに、大福院きな子こと、甲精一伍長は軽やかなステップで、校庭の草むらを闊歩していた。

 ピンクのドレスの裾をひらりと可憐にひらめかせ、突如精一は地面へ這いつくばる。


「ジグモに似てるって言ってらしたわね。ガキの頃以来ですわねー、ジグモ取り」


 精一は八洲西部の山間の村出身である。幼いころの娯楽はもっぱら虫取りであった。ジグモもよく取った。

 ジグモとは、地中に住む蜘蛛である。地中に糸でできた袋状の巣を作り、ジグモ自身はその中に潜んでいる。ジグモの巣がある場所は大抵樹木の根本や家屋の壁際だ。この蜘蛛の巣があるところには、幹や壁などに地中から伸びた巣の一部が張り付いていることがある。地表に見えている部分の巣を引っ張ると、地中の巣をごっそり引き抜くことができる。

 少年時代の精一は、特に意味もなくジグモの巣を引き抜いて遊んでいたものだ。巣の中にはジグモ自身だけでなく、この蜘蛛の食糧となる昆虫なども入っていることがある。

 細い目で木の根元を探して、精一は見覚えのある痕跡を見つけた。ジグモの巣の一部分である。


「おりゃ、ですわ!」


 精一は迷いなく慣れた手つきで引き抜いた。ごっそりと巣が引き抜かれる。


「ごっそりすぎじゃね?」


 思わずきな子の口調を忘れて、精一は眉間にしわを寄せる。引き抜いた円筒状の巣の中には、バッタやコオロギがこれでもかと詰まっている。普通のジグモの巣に、こんなに獲物が詰まっていることがあるだろうか。しげしげと観察してみるが、巣の主であるジグモは入っていないようだ。

 そもそもではあるが、精一が探している蜘蛛は、普通のジグモではない。まず大きさが本来のジグモと違う。五十槻に聞いた話では、手のひらより少し小さいくらいだったか。精一の知るジグモはもっと小さい。一寸にも満たないはずだ。

 ジグモに似ている、というのは、昴の弁ごしに聞いた雫の感想である。形態が似ている別種の可能性もあるが、八洲にいるデカい蜘蛛で、ジグモに似ている種類というのは精一には心当たりがなかった。


「もぉ~、クロちゃーん、早く出てきてくださいまし! さもなくば、クロちゃんの貯めこんでるご飯ぜーんぶ取っちゃいますわよぉ~」


 ひとまずジグモ取りは続行。精一は普通に童心に返って蜘蛛取りを楽しんでいた。任務はどうした。


「ほらほらぁ、ここの巣も引き抜いちゃいますわよぉ、アよいしょぉ~」


 もう一カ所巣を見つけ、精一はどこにいるかも分からないクロちゃんへ見せつけるように手をかけた。気の抜けるような掛け声とともに引き抜き、中身を見て。

 精一は顔から笑みを消した。巣の中にあったのは、白くて細い硬い物。人間の、指くらいの大きさの。


「……人骨?」


 確かめようと、キツネの目をよくよく凝らして見ようとするけれど。

 精一は急にくらりと、身体が前のめりに倒れるような感覚に見舞われた。おわっ、と声を上げる間もなく視界が暗転する。

 そして、校庭から大福院きな子は忽然と姿を消した。

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