2-12
十二
およそ一ヶ月ほど前まで、春岡雫と薬師寺昴は、女学校の中でも特別な間柄──エスであった。
シスターの頭文字を取って、エス。
この時代の八洲の女学校は、ほぼほぼ花嫁養成所のような役割を負っていた。理念としては八洲の発展に寄与する職業婦人の輩出を旨としながらも、この点は櫻ヶ原高等女学院も他校と変わりない。授業における家政分野の割合は大きかった。
女生徒たちは将来だれかの花嫁になることを期待されて、この学び舎で日々を過ごしている。結婚に大きな憧れを抱く者もいる一方、重荷に感じる者も当然存在する。顔も知らぬ相手に嫁がされる前に、彼女らは学び舎の中で特別な存在──エスを見出した。束の間の自由な時間を、いっとう大切な相手と過ごしたのである。エスという関係の意味合いが友愛であるか恋愛であるかは、各人それぞれ違った。
春岡雫と薬師寺昴が出会ったのは、去年のことらしい。その頃は昴も矢絣に行燈袴の女学生姿で、言葉遣いも女の子であった。精一が聞くところによると、昼休みによく二人でベンチに座り、弁当を食べていたらしい。
ひと学年違う雫と昴が、どうして知り合ったのかは分からない。けれど、槐の樹の下で仲睦まじく過ごす彼女らは、傍から見ると姉妹のようであったという。
昴が変わってしまったのは、いまからひと月前。
数日学校を休んでいた昴は、突然髪を切り男装で登校を始めた。
最初は奇異の目で見られていた昴だが、容色華麗であったため段々と受け入れられ、後輩のなかには本気で慕う者も現れ始めた。
そして昴は雫との昼食に現れなくなった。傍らに清澄美千流を連れていることが多くなった。また、美千流に隠れて他の女生徒にも交際の真似事をするようにもなった。
それを雫がどんな思いで見ていたか。
五十槻は眼鏡でおさげの、可愛らしい友人が気の毒であった。
もし薬師寺昴の正体が、彼女の姿を借りた禍隠なら──絶対に許せない。
── ── ── ── ── ──
「おはよう、稲塚さん……」
今朝も雫の声は暗い。自分もおはようと返し、五十槻はじっと少女を見つめている。
朝礼前の教室は騒がしい。背後では清澄美千流が昨日の美男がどうのと声高に話していて、教室のあちこちからも様々な話し声が湧いている。けれど雫と五十槻の周りだけが、水を打ったように静かだ。
「あ、あの……私の顔に、何かついてる?」
「いえ」
「そ、そう……。そういえば昨日、学校の周りにすごく綺麗な男子学生さんがいたんだって。私も会ってみたかったなぁ、なんて……ははは……」
無理に引き出したような雑談に、乾いた笑い。明らかに元気がない。それもそうだと五十槻は思う。昨日の昼休みに、大事な人が自分以外の女生徒と睦まじく過ごしていたのを目の当たりにしたのだ。
五十槻は本当は雫に、昴のことを聞いてみようと思っていた。
でもやめた。昴のことを尋ねるだけで、この繊細な娘は傷ついてしまいそうだったから。
雫は今日も五十槻に目を合わせてくれない。
五十槻はそっと雫の両手を盗み見た。白くて綺麗な手である。妙な痣はついていない。
「さあさあ皆さん、朝礼の時間ですよ! 席について!」
教師が入ってきたので、五十槻は「それじゃ」と雫へ告げて自分の席に着く。なんとも憂鬱な気分のまま、朝礼が始まった。
「さてさて皆さん、今日の一時間目は家庭科ですが──」
朝礼を聞きながら、五十槻は考えを巡らせる。精一から聞いた話では、昴の男装が始まったのは一ヶ月前である。禍隠による櫻ヶ原女学院生徒への危害が始まったのは、およそ十日前。もし現在の薬師寺昴が禍隠であったなら、やはり一ヶ月前、変化があった時期に入れ替わりが発生したと考えるのが妥当か。しかしそうなると、二十日ほど潜伏期間が発生する。いったい何のために?
五十槻が考えている間にも、教師は滔々としゃべり続けている。
「いつもは私が監督している調理実習ですけれどもね、今回学級委員長の清澄さんが、すばらしい提案をしてくれました」
考えに耽る五十槻の隣席で、美千流がフフンと得意げな顔を浮かべている。
「今日はなんと、生徒だけでお料理を作ってみたいと。その間、先生は溜まっているお仕事をこなしてくださいと! なんと先生思いの学生なんでしょうね! 先生嬉しいわあ」
先生の剽軽な話しぶりに、あはは、とクラス中から笑いが漏れる。
「授業の進行は清澄さんに一任しています。皆さん、先生がいなくても、清澄さんの言うことを聞いてしっかり授業してくださいね!」
「はーい!」
明るく答える少女たちの声。ふと、隣の美千流が自分を見ている気配がした。横目でちらりと見てみれば、やはりこちらを見て企み笑いをしている。
「……なにか?」
「別にあなたを見てたんじゃないわ。自意識過剰なんじゃなくて?」
やはりこの娘は苦手だ。改めて実感しつつ、五十槻は前を向く。教師は上機嫌で講話を続けている。
朝礼が終わり、三年二組一同は調理室へ向かった。
── ── ── ── ── ──
「というわけで、今回はこの清澄美千流が授業を仕切らせて頂きます。みなさんどうかご承知おきくださいな」
調理室の教壇に立ち、美千流は自信満々にそう切り出した。腰巾着たちや仲の良い少女らが、パチパチと拍手を送る。生徒らは制服の上に調理用の前掛けをかけ、それぞれ席についている。
五十槻はというと、調理台の上に置かれた材料をいぶかしげな目で見ていた。
味噌、醤油、油揚げ。そして豆腐。
「さて、今日は先生にお休み頂いていることですし、私たちだけでも安全に作れる献立にいたしましたわ」
美千流はさっと髪をかき上げ、仰々しく告げた。
「八洲の料理の基本中の基本! そう……お味噌汁!」
さらに……! と美千流はめいっぱい溜めを作って続ける。
「冷ややっこ!」
「美千流せんせー、簡単すぎではー?」
仲良しの学生からの野次に、美千流はホホホと上品な笑いで応える。
「そうね、三年二組の皆さんにとっては、もう簡単なお料理ですものね。ま、例外の方もいらっしゃるようですけれど?」
美千流と一部の生徒からの視線が、五十槻へ突き刺さる。しかし鋼の表情筋はものともせず、まったくもって馬耳東風の赴きである。
さて、五十槻は調理台の食材を眺めながら考えた。どう考えても大豆尽くしである。五十槻は医者の命で、大豆や大豆製品を食べてはならない。アレルギーがあると言われている。
この櫻ヶ原女学院で、五十槻が大豆を食べられないことを知っている人物は、一人だけだ。
春岡雫は同じ班にいる。いまも五十槻の隣に座っている。蒼白な顔で、俯いている。
教壇ではやたらと上機嫌な美千流が長広舌を振る舞っていた。そして、財閥令嬢は頃合いを見計らって、号令を発する。
「……というわけで、大豆製品は美容にもよいとされておりますの。ま、口上はこのくらいにして……さあ皆さん! 調理開始!」
包丁が材料を刻む音。沸騰する鍋の音。少女たちの笑い声。
五十槻たちの班は五人組で、うち三人は友達同士のようだった。五十槻と雫を気にせず、三人でかしましく、楽しく料理に興じている。五十槻と雫はお互いに無言で材料を切っていた。包丁を握る雫の手は震えている。
「あっ」
雫が手元を狂わせる。危うく彼女の指を鋭利な刃がかすめかけたので、五十槻は横からとっさに包丁の腹を掴んで止めた。
「あ、ありがとう……」
「いえ」
調理中の会話はそれだけ。そしてすべての班が料理を終える。
「さあさあ皆さん、できあがりましたね」
美千流はすっかり先生気どりである。得意げに胸を張り、すべての班の鍋や皿を確認すると、皆へ盛り付けを指示する。
「それではみなさん、料理を取り分けてください」
「すまない、清澄学級委員長」
そこで五十槻は挙手した。聞き入れてはもらえないと思うが、一応は聞いておくべきである。美千流の出方を。
「なにかしら、稲塚さん」
「自分は大豆製品が食べられない。医者から止められている」
紫の瞳は、美千流の射干玉の瞳を射抜くように見つめている。黒曜のように美しい目が、ひときわ冷酷な笑いを浮かべた。
「ねえ稲塚さん。みんなで一生懸命作ったお料理、食べられないの?」
やはりか。やっぱり最初からそのつもりだったのだ。材料を見た時から、そんなことだろうと思ってはいたが。
「みなさんどう思います? 稲塚さんは、前回の肉じゃがもお醤油が入ってるとかでお召し上がりにならなかったでしょう? お医者さまから止められてるだなんて、そんな大げさな嘘つかなくてもいいのよ、稲塚さん。どうせただの食わず嫌いじゃなくて?」
調理室のあちこちから、クスクス笑いが漏れ聞こえてくる。
「本当にお医者さまから止められているっていうなら、今すぐに診断書でもお持ちになってくださるかしら? どう、いまご用意できます?」
五十槻は首を横に振った。もちろんそんなもの持ち歩いていない。
さて、どうしたらいい。五十槻は当然、こんなクラスからさっさと出て行くことも考えた。しかし、それも美千流の思惑に添っているようで癪に障る。要は、彼女は五十槻に毒を食らわせようとしているのだ。本人としては嫌がらせくらいの気持ちであろうが、いま美千流が五十槻へ突き付けている事の重大さは、人の生死に関わるほどのものである。
美千流がどうやって五十槻の弱点を知り得たか、そんなものはとっくに答えが出ている。隣に座る、小柄で眼鏡でおさげの……。
「春岡さん。あなた稲塚さんの仲良しでしょ? あなたがお味噌汁をよそってくれたら、きっと稲塚さん喜んで食べてくれるんじゃないかしら?」
「え……!?」
美千流の押しつけがましい提案は、雫にとっても予想外だったらしい。少女は肩をビクリと震わせて、いっそう背を丸めて縮こまる。
「ほら、授業の時間が終わっちゃうじゃない。春岡さん、早く」
「で、でも……」
急かされて、雫は一瞬だけこちらを見た。もちろん眼鏡ごしの視線はすぐに逸らされる。気弱な様子に、美千流から「早く!」と苛立った声が飛ぶ。弾かれるように椅子を立った雫は、味噌汁の鍋へ向かった。
泣きそうな顔でおたまを取り、お椀に味噌汁をよそう。ふわっと味噌の香りと湯気が立った。
「い、稲塚さん……これ……」
必死で手の震えを抑えながら、雫は五十槻へお椀を差し出した。ふるふると揺れるお椀の中、味噌汁に浮かぶ豆腐と油揚げ、ネギが揺れている。
また雫が手元を狂わせる前に、五十槻はお椀を受け取った。美味しそうなにおいが鼻孔をくすぐる。
なみなみと毒液が盛られた椀を手に、五十槻は雫へ冷たく告げた。
「……春岡さん。自分は、友とは決して裏切らぬものと思っていた。自分は友に対して、そうありたいと思っていた。だからあなたを信頼して、アレルギーのこともお話ししたんだ」
「稲塚さん……」
「見損なったよ」
そう言って五十槻は椀をあおった。ごくり、ごくりと喉が鳴る。雫は両手を口元に当て、悲痛な顔でそれを見守っている。
フフ、と教壇の美千流が嗤った。食物アレルギーというのは、激烈な症状が出ると令嬢は聞いたことがある。顔がパンパンに膨れて、喉も呼吸ができなくなるほど腫れあがり、たいそう苦しむのだと。五分? 十分? どれだけ待てば稲塚いつきがそうなるのだろう。少女は冷酷な微笑で見守っている。
「……出汁がきいてうまい」
五十槻は緊迫感のない感想を述べながら、箸をとり豆腐や油揚げも口にする。クラス中が見守る中、五十槻は味噌汁の椀を干し、ついでに冷ややっこの皿も取った。
「清澄さん、どうせこれも食べろと言うんだろう」
「もちろん! いい食べっぷりね、稲塚さん」
三年二組一同、緊迫の面持ちで五十槻の食いっぷりを見つめている。五十槻は豆腐に醤油を回しかけ、箸で割りながら口に運んだ。久しぶりに口にした醤油はしょっぱかった。
「ごちそうさまでした」
そして完食である。空の器を美千流へ見せて、五十槻は涼しい顔をしている。
「……清澄委員長。これで満足だろうか」
「ふふふ、どうかしら? ねえ、気分はどう、稲塚さん? 苦手な大豆でできたものをいっぱい食べて」
「油揚げとは、なかなかどうして美味しいものだな。初めて口にした」
「あ、あっそ……」
思ってもみなかった感想だったのだろう。美千流は肩透かしを食らったようにちょっとずっこけた。
やれやれ、と食器を重ねつつ、五十槻はよく通る声でクラスの皆へ促した。
「各々がたも、冷めないうちに召し上がってはいかがでしょう」
そこで一同は、思い出したように料理を皿や椀へよそい始めた。そう、いまは調理実習。清澄美千流による、稲塚いつきへの一方的な私的制裁の場ではないのだ。
皆がわいわいと賑わいを取り戻し、食事を取り始めたところで五十槻は雫へも声をかける。
「春岡さんも食べるといい。これくらいの量なら昼食に差し支えない」
「い、稲塚さん、私……私……!」
「いいから食べなさい。話なら後にしよう」
「……はい」
少女は打ちひしがれた様子で、自分の椀に味噌汁を注いだ。あまり食が進まぬようで、ずず、と少しずつすすっている。
さて、と五十槻は考える。清澄美千流と春岡雫が裏でつながっていたのは、ちょっと意外であった。だが、雫の様子からして決して対等な関係ではないだろう。なにか弱みを握られて、五十槻のアレルギーを美千流に漏らしたか。
医者から止められているものを食べたにしては、五十槻は冷静である。
そんな彼女を、美千流は期待の眼差しでじっと見つめている。
(さあ、いつ発症するのかしら……稲塚いつき)
── ── ── ── ── ──
全員が試食を終え、食器を洗い、片づけて。
教室に戻り、二時間目が始まった。
美千流は時々隣席の五十槻をちらちら観察したが、にっくき真顔はいつも通り涼しげにしている。
三時間目が始まった。稲塚いつきのピンと伸びた背筋は保たれたまま。
四時間目。今日もまた数学の先生に挙手礼をしている。まったくもって普段通りである。
昼休みになると、美千流は春岡雫の手を取ってバビュンといつもの階段の踊り場へ向かった。
「ちょっと春岡雫! なにあいつ! ぴんぴんしてるじゃない!」
「ちょ、ちょっと分かんないです……!」
さっそく美千流は雫へ苦情を申し付ける。が、雫だって分からない。
「だ、だって本人の口から聞いたんです……! 嘘を言ってる風じゃなかったし……」
「それが嘘だった、ってことでしょ! もうっ、役立たずねあなた!」
財閥令嬢の剣幕に、雫はビクッと肩を震わせる。そして美千流から、雫が恐れていた一言が放たれた。
「こんなことじゃ、あなたの昴先輩は返してあげられないわね!」
「そういうことでしたか、清澄さん」
踊り場の下の方から、二人の耳に聞き覚えのある声が届く。階下からゆっくり階段を上ってきているのは、黒い髪に紫の瞳の女学生。
「げぇっ、稲塚いつき!」
「清澄さんはともかく。春岡さんも事情があったのかもしれませんが、人命を天秤にかけるのはやり過ぎでは?」
「えっ、あっ、あの……!」
突然現れた五十槻に、少女二人は狼狽した。もちろん五十槻は今現在もぴんぴんしているし、真顔なりに呆れている雰囲気を漂わせている。
「あ、あんた! 大豆食べると死んじゃうって言ってたそうじゃない! なんでまだ元気なのよ! なに? これから? これからなの?」
「そんなに人が死ぬのが楽しみですか?」
「うっ……」
美千流が閉口したところで、五十槻はあっさり真実を語った。
「医者から止められているのは事実ですが……実は小学校の時分に、無理矢理食べさせられたことがあるんです。当時の担任が、アレルギーに理解のない人で」
当時男子校の小学校に通っていた五十槻は、学校側へ主治医からの診断書を提出していたにも関わらず、「八洲男子のくせに伝統料理を食えないとは何事だ!」という過激思想の担任により、無理矢理豆腐だの煮豆だのを食べさせられたことがある。結果何も起こらず、主治医からは「これくらいの量なら大丈夫みたいだね。次から気を付けてね」のような軽い反応をもらい、担任は配置換えとなった。とはいえ、アレルギーを発症しなかったことが、かの教師の過激思想を肯定する一助になってやしないかと、五十槻はいまだにちょっと気にしている。
「だから、あの程度は口にしても問題ないことは分かってました。もしかしたら、大量に豆腐でも食べたら発症するのかもしれません。だからといって、豆腐を何丁も食べさせられるのは御免蒙りますが」
淡々とした語り口に、美千流は憤慨する。
「ん、んなっ! あなた私を騙したのね!」
「別に自分は清澄さんを騙していません。自分がアレルギーのことをお伝えしたのはあくまで春岡さんだ。清澄さんは、勝手にそれを聞き出しただけ」
「結果的に私が騙された形になってるのよ!」
「そういうのを、自意識過剰と言うのでは?」
「くっ……!」
自意識過剰。それは美千流自身が今朝、五十槻へ飛ばした悪態であった。美千流は二の句が継げなくなる。まさしく自業自得、身から出た錆の清澄美千流、十五歳。将来の夢はいまのところ、白獅子の君のお嫁さん。
「うっ……!」
泣き顔を矢絣の袖で隠し、美千流はその場から駆け出した。目指す先は……御不浄である。
ふぅ、と五十槻は息を吐く。口喧嘩で勝ったのはこれまでの生涯で初めてだ。相手が相手なので、ちょっと留飲が下がった五十槻である。
(祓神鳴様、お許しください。人を言い負かすのは罪深いことではありますが、僕はいまとてもスカッとしています……)
心の内で恐み恐みしている五十槻の横では、雫があっけに取られてぽかんとしている。
五十槻は神への言い訳を済ませると、雫へ手に持っていたものをぐい、と押し付けた。彼女の弁当である。
「春岡さん。すまないけど、席から弁当を持って来させてもらった」
「え、あの……」
「昼食を取ろう」




