序-1 八朔少尉は女の子
一
満月の夜にはしばしば悪鬼の類が現れると、古くから伝えられている。
こういった諸々の怪異を、八洲の國では古来よりまとめて『禍隠』と呼んでいた。
今宵の満月も例に漏れず、月下、高楼には禍隠の蛮声が谺している。
薄紫の瞳で亥の刻の月輪を眺めながら、少年──五十槻は柄にもなく不思議に思っていた。こんなに神々しい光の照らす夜なのに、どうして邪なものが現れるのだろう、と。
「神域展開完了!」
「翠峰楼内の一般市民退避しました!」
「コラそこ入るなァ! 新聞屋か貴様ァ!」
諸々の報告や怒号が入り乱れる中、五十槻は目線を月から高楼へおろす。
場所は卯東区新宮、翠峰楼。十二階建ての煉瓦造りの高楼で、皇都でも指折りの名所である。外壁を翡翠色のタイルで装飾していることから、翠峰楼の名を持つ。
高楼の最上部には避雷針が設置されている。遠目に見れば針のようにしか見えないその先端に、異形の影がしがみついていた。禍隠だ。
「八朔少尉!」
自分を呼ぶ声に、五十槻は空を仰ぐのをやめた。十五歳の幼気な面持ちが、我知らず軍人の顔になる。
少年の名は、八朔五十槻。月下に佇む年若い将校は、乙女とまごう美少年である。つやのある黒い髪に、薄紫の瞳、雪のように白い肌。老竹色の軍服に身を包み、腰には軍刀を佩いている。
こちらへ駆けて来る年上の兵卒へ、少年は凛々しい真顔を向ける。
「藤堂中尉がお呼びです」
連絡係の兵卒の挙手礼へ端然と答礼し、五十槻は踵を返した。
事件の発生は本日午後八時頃。卯東区の高級住宅街で、習い事の帰りに迎えの車を待っていた財閥令嬢・清澄美千流が、突如現れた禍隠にかどわかされたのだ。
禍隠には様々な形態が存在するが、今回現れたのは猿猴型と見られている。赤く長い体毛に暗い淵のような双眸を有し、長い尾を二本生やしている。人間の二倍近い巨躯を持つにも関わらず、非常に俊敏で跳躍力もある。
事件発生からすぐに令嬢の従者が通報し、管轄の小隊も速やかに駆けつけたものの、あれよあれよという間に禍隠は皇都の屋根という屋根を伝い逃走。行きついた先がこの翠峰楼の避雷針、というわけである。
所轄の部隊だけでは対応に窮したため、周辺の他部隊にも召集がかけられ、いまに至る。
そのかき集められた周辺部隊のうちの一つに、五十槻は所属している。八洲大皇国陸軍中央第一師団神事兵連隊、皇都守護大隊第一中隊が彼の所属だ。
つかつかと歩みを進め、五十槻は翠峰楼の切符売り場へたどり着いた。眺望が開けていて高楼の様子が一番把握しやすい立地のため、臨時の指揮所が敷かれている。
五十槻が近づくと、見知った顔が二、三こちらを向いた。そのうちの一番背の高い、飛びぬけて容姿の整った青年が、藤堂綜士郎中尉である。端正ではあるけれど冷淡そうな顔立ちに、切れ長の目元。色素の薄い鷹のような鋭い目が、五十槻の方へ向けられる。
「第三分隊隊長、八朔五十槻、参りました」
「うむ」
互いに礼を済ませ、藤堂中尉が口を開く。
「作戦が変わった」
語調は淡々としているが、表情は苦虫を噛み潰したようである。その面持ちのまま、藤堂はぎろりと隣に立つ男を睨んだ。
「やだな~、そんな睨まないでくださいよぉ。色男が台無しだよー?」
睨まれた男は怯むこともなく、剽軽な仕草で肩をすくめてみせる。五十槻もよく知っている人物で、名前を甲精一という。中肉中背で、戯画に描かれる狐のような細い目以外には、特にこれといった特徴のない男である。五十槻と同じ小隊に所属し、別分隊を率いている。階級は伍長。
今回、令嬢の救出に際し、能力的に最適任とされたのが甲伍長だった。伍長は先程からしきりに左の肩をさすっている。
「どうやら直前に肩を痛めたらしい」
「さっき急に関節外れちゃってさぁ。ごめんね、いつきチャン!」
「なるほど……」
五十槻はキツネ顔の伍長の人を食った言動に気を悪くするでもなく、作戦が変わった理由に得心した。怪我ならば仕方ない、という程度のこだわりのなさである。
ところで、この場で会話をしている三名の中で、一番階級が低いのはキツネ伍長である。上官へ対する礼儀のなさに関して彼は八洲一の誉れも高く、いまも隣の中尉から「さっきから上官に対してなんだその言葉遣いは!」「あだっ!」などと拳骨を喰らっている。五十槻がいままで兵営で何度も見たやりとりだ。しかしこれが残念なことに、藤堂中尉の拳骨を何発喰らっても、甲精一の素行不良はまったく改善しない。
「もう一度聞くが、サボりたくて仮病を使っているわけではないな?」
「いやもう本当だって! 確かに捕まってる女の子はその……あんまり好みじゃないけど。でも本当の本当! 信じてくださいよぉ中尉!」
「まったく……」
藤堂はなおも疑いの目でギロリと伍長を一瞥すると、今度は真剣な眼差しを五十槻へ向けた。
「そういうわけで、今回の令嬢救出、および禍隠討伐を少尉に頼みたい。もうこれ以上時間をかけられん」
「そうそう、捕まってるの女の子だしねぇ。エテ公になにされるやら」
禍隠には様々な種類が存在する。殺傷行為や家屋の破壊など、八洲の民草に何らかの危害を及ぼすのは共通だが、なかには人間に対して生殖を試みる種類もいるらしい。
「おい、いつまでかかってるんだ!」
突然、指揮所の後方にある、塀の向こう側から怒号が響いた。中年の男の声である。
「娘が攫われてどれくらい経つと思っている! 貴様らまさかただの歩兵部隊じゃあるまいな! 神籠はいないのか神籠は!」
聞こえてくる怒鳴り声の内容からして、攫われた令嬢の父であろう。どうやら一向に進まない救出作戦にしびれを切らし、指揮所に乗り込もうとしているようだ。「こら、そこをどかんか」「おやめください」と衛兵に押しとどめられている様子が、塀ごしにうかがえる。
禍隠が先述の危険な性質を持つことは、八洲国民、古来より周知の事実である。父からしてみれば、我が娘の命の危機でもあり、貞操の危機でもある。焦るのも当然だ。中尉に少尉、ついでに伍長は思わず顔を見合わせる。
「うへぇ、おやっさんすっげえ怒ってるよ?」
「親御さんの御心配も尤もだ。少尉、行けるか?」
中尉の問いかけに、五十槻は威儀を正し、はっきりとした口調で答える。
「はっ、いつでも御命令を」
「人命が最優先だ、必ずご令嬢をお救いしろ。頼んだぞ」
「身命を賭して」
身命を賭して。その言葉に偽りはなく、五十槻の使命は八洲の蒼生を守ること。
少年の返答を聞く中尉の顔は、なぜか少し険しかった。
それから準備のためにその場を辞した五十槻は、去り際に藤堂中尉が何事かを呟くのに気付いた。けれど周りが騒然としていて、何を言っているのかはまったく聞き取れなかった。
「……まったく、十五のガキにやらせる仕事じゃねぇんだよ、こんなの……」