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八朔少尉は乙女の枠におさまらない  作者: 卯月みそじ
第一章 八朔少尉、女学生になる
18/114

2-10


「ねえねえ、稲塚さん!」

「次音楽室だよ、稲塚さん!」

「稲塚さんって、なにか苦手なものってある?」


 仲直りをして以降、急に雫がたくさん話しかけてくるようになった。女性の友達とはこういうものか、と五十槻はまたひとつ知見を得る。なにかやたら苦手なものだの嫌いなものだのを聞かれているので、正直に「特にありません」と答えておく。


「そっか、特にないんだね……」


 なぜか少し落胆した様子で雫は言う。昼休憩、校庭へ向かう廊下。

 下足を履いて、弁当の包みを提げて五十槻たちは外へ出た。急に降り注ぐ日光に目を細めながら、いつも通りの足取りでいつものベンチへ向かう。(えんじゅ)の樹の影の下、ベンチへ腰かけて弁当の包みをほどく。


「いただきます」


 二人同時に手を合わせて、五十槻はさっそく弁当箱の麦飯を口へ運び始めた。今日は麦飯の他、鶏のささみと蒸した芋が入っている。横からじっ、と雫がそれを見つめている。


「い、稲塚さんのお弁当って、いつも同じ献立なんだね」


 雫の言葉に、五十槻はごくんと口の中のものを飲み込んでから発言する。


「ええ、食べられないものがたくさんあるので。決まったものを摂るようにと、主治医から」

「へ、へえ……」


 眼鏡の奥の瞳が、ぐっと緊張の色を帯びる。雫は上ずった声でさらに尋ねた。


「た、例えば……なにが食べられないの?」

「色々あるけれど……脂っこい物や甘い物は制限があって、滅多に食べられないかな。それと」


 五十槻はなんら疑いを持たずに開陳する。


「特に大豆は厳禁だと。アレルギーというのがあるらしく、万が一口に入れると命に係わる症状があるやもと……」


 雫は無言でそれを聞いている。五十槻はバカ正直に質問へ答えていて、「大豆製品全般も同様なので、醤油や豆腐に味噌もだめだそうです」などと淡々と続けている。


「そ、そうなんだ。教えてくれて、ありがとう」


 雫はお礼を言うにしては、暗く落ち込んだ顔で繰り返した。


「本当に、ありがとう……」


 五十槻はこれが女子の雑談か、などと思っている。やたら弱みを探られるのは新鮮である。しかし五十槻の中での友とは、生死をともにし全幅の信頼を預けるものなので、まさか悪用されようなどとは夢にも思わない。

 そんなのどかな昼休憩である。またしても早々弁当を食べ終わり、五十槻は箸を片付け弁当箱をしまった。雫の食の進みは遅く、目の前に赤いトンボが飛来しても気づかぬ様子。さすがに五十槻もおかしいと思い始めた。


「春岡さん、具合でも悪いのか?」

「へ?」

「目の前に虫が来ても反応しないなんて」

「わ、アキアカネ!」


 やっとトンボに気付き、わたわたと身じろぎし始める。そのときだった。


「あれは……」


 五十槻は人の気配に敏感に気付く。二人がいるベンチから少し離れた、花壇の方。

 また薬師寺昴と──高田恭子。


「あっ……」


 隣の雫が、悲痛な声を上げた。どうやらこの眼鏡の少女は、薬師寺昴に特別な思い入れでもあるのだろう。

 またしても五十槻たちが見ていることに気付いていない様子で、まるで男女の恋人のように二人は寄り添っている。

 不意に、花壇のそばで昴が跪いた。傍らに立つ恭子の手を取ると、気障な仕草で彼女の手の甲へ接吻を送る。いかにもロマンチックな恋人同士の光景だ。


「……うっ」


 雫がさらに耐え難いような、泣いているような声を発した。幾分ぎょっとしてそちらを見ると、雫は震える手で手早く弁当箱を仕舞っている。


「ごめん稲塚さん、私もう戻る!」

「春岡さん?」


 少女は弁当箱を抱えて立ち上がると、昴たちがいる方とは別の道筋を駆けていく。五十槻も慌てて後を追おうと立ち上がる。けれど。


(薬師寺昴──)


 いまのところ、禍隠に一番近そうな人物と目されている彼女。去り際にちらりと昴へ視線を投げかけた五十槻は、気付いた。

 昴は恭子の手に口づけたまま、こちらを見ている。

 いや、見つめている先は。


(春岡さん……?)


 去っていく春岡雫の、後ろ姿。


      ── ── ── ── ── ──


 校庭から教室へ戻ってみれば。

 雫は教室の自分の席にいた。机に突っ伏して、少し震えているようだ。


「春岡さん……」


 なんと声をかけていいやら分からない。どうやら五十槻が思っていた以上に、春岡雫の薬師寺昴への思慕の念は強そうだ。


「ご、ごめんなさい、稲塚さん……」


 くすんと鼻を鳴らしながら、雫は机から顔を上げた。眼鏡の下の目は、少し赤くなっている。

 こういうとき、どういう顔をしていいのか五十槻は本当に分からない。いつも通りの真顔で見つめるしかない。幼少のみぎりより、「常に泰然自若を保ち、ゆめ周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するなかれ」という教育を受けてきたせいである。最近は時々その泰然自若が崩れることもあるけれど。

 そんな五十槻の顔色に怖じることなく、雫は「心配かけちゃったね」と小さな声で続ける。


「あのね、私……」

「あらっ、おかえりなさい恭子さん! 遅かったじゃない!」


 なにかを言いかけた雫の声は、ひときわ明るい美千流の声にかき消された。廊下に立ってなさい事件以降、美千流は五十槻に絡んでこない。非常に助かる。

 美千流に出迎えられて教室へ入ってきた高田恭子は、真っ赤に上気した顔を手でパタパタ扇いで必死に冷まそうとしている。「間に合わないと思って走って来ちゃった」と愛嬌たっぷりに笑う彼女へ、美千流が「もう、ドジなんだから恭子さん」と上品な茶化しを入れている。

 薬師寺昴は、清澄美千流とエスの関係を保ちつつ、高田恭子とも交際をしているのか。

 雫には申し訳ないが、やはり節操なしだと思う五十槻である。さすがにもう口には出さない。

 雫によるとエスの関係とは人によって解釈が異なるらしいものの、この櫻ヶ原女学院、とりわけ昴の周辺においては、ほとんど恋人と同義であるようだ。すでに恋人のある者が別の相手と交際するのは、それは即ち浮気である。

 教師はいったい何をしているのだ、と五十槻は内心で風紀の乱れに対し義憤を覚えながら、なんとなく高田恭子を見た。


 さきほど昴に接吻された手の甲に、赤い痣。


「失礼」

「ぎゃあ! 稲塚いつき!」


 ゴキブリに出くわしたときと同じ発声で美千流が叫ぶ。構わず五十槻は歩み寄り、恭子の手を取った。


「ちょ、ちょっとなんなのよ!」

「これは……」


 周りの一軍女子から抗議の声が上がるが、気にせず五十槻は恭子の手をまじまじと観察した。恭子は恭子で、さきほど憧れの先輩に接吻を頂いた部位を本妻の前で観察されている。引っ込めようと必死だ。

 恭子の手の甲にある痣は、やはり美千流の手にあったものと同様の形状だ。凹凸はなく色は赤く、中央に並んだ二つの穴。


「もう、やめて!」


 たまりかねた恭子が叫ぶ。

 じゅうぶんに観察を終えたので、五十槻は仰せの通りに恭子の手を放した。周囲からは敵意の視線が突き刺さる。


「稲塚さん、どういうこと? 急に恭子さんに乱暴するなんて」

「最初に失礼と申し上げました」

「そういう問題じゃないでしょ! なんのつもりよ!」


 なんのつもりと言われても。でも、確かに突然手を取られたら誰だって驚くだろう。

 五十槻は恭子の方を向き、誠心誠意頭を下げた。彼女らの言う通り、無礼な行いだった。


「高田さん、驚かせてしまって、大変申し訳ない」

「……フン!」


 恭子は不機嫌に鼻を鳴らすと、美千流たちの輪へ戻っていった。一軍たちは五十槻を無視し、再び談笑に花を咲かせ始める。「あら、恭子さんもここに虫刺されできてるの? 私もなかなか治らなくて……」などと喋る美千流の声を背に、五十槻は頭を上げて、再び雫の席へ戻った。


「すまない春岡さん、何か言いかけていたのに」

「あ、うん……なんでもないの」


 雫はそう言って、再び俯いた。机を見つめながら「なんでもないの」と気弱な少女は繰り返した。


      ── ── ── ── ── ──


 放課後、階段の踊り場で。雫は清澄美千流へ、か細い声で、迷いながらやっとのことで伝えた。

 稲塚いつきの致命的な弱点を──。

 美千流の顔に、冷酷な笑みが浮かぶ。



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