2-6
六
「五十槻です。ただいま帰りました」
この挨拶を三日連続、実家の玄関ですることになるとは思わなかった。五十槻が八朔の屋敷に戻るときは、冠婚葬祭のいずれかである。泊りになることは珍しく、それが三日連続ともなると初の事態である。昨日までは帰宅のたびに姉ふたりが欣喜雀躍して迎えに現れ、女学生姿の五十槻に父は滂沱の涙を流したものである。
ところが今日は誰も出迎えがいない。別に五十槻はそれで気分を害したりしないが、何かあったのかと心配になる。そしてその心配は当たった。
「ぼ、坊ちゃん! お帰りなさい!」
「山沢さん」
慌てて玄関へ駆けつけた家従の山沢へ、五十槻はいつもの冷静な顔を向ける。山沢は今朝やっと、五十槻の女装に慣れてきたところである。山沢は落ち着き払った八朔家次期当主へ、心底慌てふためいた様子で告げた。
「大変です! お姉さまがたとご当主さまが!」
山沢に連れられ、父の書斎へ向かってみれば。部屋の入口から少し離れた場所に使用人の多くが群がっており、書斎からは姉ふたりが何事か叫ぶ声が聞こえる。逆に父の声は聞こえない。使用人がたむろしている中には、赤子を抱え、心配そうにしている和緒の姿もある。
「和緒さん、みなさん」
「坊ちゃん!」
「五十槻さん!」
歩み寄ると、すがるような視線が五十槻へ集中する。和緒の腕の中では、赤子が弱々しい鳴き声を上げていた。
一体何が、という五十槻の問いかけに、和緒が戸惑った様子で状況を説明する。
「それが……さきほど克樹さんがどこかから帰ってこられたのだけど、すごく憔悴したご様子で……」
心配した姉の皐月と奈月が、書斎へ引きこもろうとする父を説得し、親子だけで何かを話していたらしい。書斎の戸が閉まっていたため、周囲には何を話しているのかは分からなかった。
しばらく皆心配しつつも親子の成り行きに任せていたところ、急に皐月の怒声が響き渡ったという。そしてバタバタと争う音。あまりにも物騒な雰囲気に、家令が部屋の外から呼びかけてみるけれど、「皆さんには関係ありません! こちらから離れてください!」という奈月の一喝により、和緒も含めた八朔家の面々は、なすすべなくただ遠巻きに見守ることしかできなかった、とのことだ。
「状況は分かりました。皆さん、父と姉がご心配をおかけし、面目ない」
五十槻は落ち着いた声音で言うと、和緒の方を向く。
「和緒さんも、まだご体調が万全ではないでしょう。後のことは僕が引き受けますから、早くお休みください」
「ええ、そうね……この子もびっくりしているし……」
和緒は産後の肥立ちもよく、出産から数日しか経っていないのにもうあちこち歩きまわっている。それが五十槻にはちょっと心配だった。
集まっていた使用人たちを持ち場へ返し、それから和緒が女中に連れられて部屋に戻っていくのを見届けて、五十槻は父の書斎へと歩みを進めた。
失礼します、と書斎の戸を開けば、予想だにしない光景が広がっていた。
部屋中に散乱する書籍の類。哀れにも床に転がっている名物の壺。
そして長女・皐月に首元を掴まれ、娘の細腕により高々と掲げられ宙づりにされている父・克樹。
思ってもみない惨状に、五十槻の鋼の表情筋も幾分かひきつった。奈月は部屋の上手側で、凛然とした佇まいで座っている。
五十槻は冷静に問い質した。
「皐月姉さま。いったい何をされているのですか」
「ネックハンギングツリーよ」
「ね、ねっく……?」
「西洋の格闘術よ」
技の名前を聞いているのではない。幸いまだ父には息があるようだ。だいぶか細いが。
「五十槻、部屋の戸を閉めてそこへ座りなさい」
奈月が五十槻にも負けず劣らず落ち着いた声で指図した。いや、落ち着いてはいるが、五十槻には無い凄みが確かにある。五十槻は姉の言うことに黙々と従った。
五十槻が姉の指図通り、書斎の戸を閉じて座った直後。
「ぶはっ」
やっと父が解放された。急に息が戻ったからだろうか、顔を真っ赤にしてぜえぜえと息を荒げている。そんな父親などまったく眼中にない様子で、皐月が五十槻の前に立ちはだかった。
「五十槻! 私たちは洗いざらい聞いたわよ!」
「なにをでしょうか」
「く、くぬっ! ちょっとは慌てたりふためいたりしなさいな!」
「姉さまたちが何をお聞きになったのか、僕にはわかりませんので」
「いけしゃあしゃあと、この弟は……いえ!」
皐月はくわっと目を見開いた。
「妹!」
姉の放った一言に、五十槻は父を見た。紫の瞳に真っ直ぐな視線を向けられて、父は声を出さず手を合掌の形にして「すまない」の仕草をする。
ついに姉ふたりにも、本当の性別が知られてしまった。もっとも、問題なのは男だの女だのというより、長年偽りを信じさせていた不義理だ。罪悪感が急速に胸を満たす。五十槻は末子として申し訳なく思う。
「姉さまがた、僕は……」
「五十槻、お父さまから全部聞かせていただきました」
今度は次女の奈月が口を開く。皐月と奈月は正反対の気性で、皐月は激情家、反対に奈月は落ち着いた性格だ。一見、奈月と五十槻の性格は似ているが、奈月の落ち着きには若干の威圧感が含まれている。二人とも五十槻に似て整った顔立ちをしているが、八朔の紫眼を受け継いだのは五十槻だけ。父ですら紫眼を継がず、黒い瞳をしている。紫の瞳は神籠にだけ発現する形質なのだ。五十槻も神籠になる前は、ごくごく普通の瞳だったらしい。
奈月は淡々と語る。
「あなたが実は女の子だったこと。しかしあなたの誕生も含め、お父さまの代の八朔には男児がなく、焦った祝部に男児として育てるよう指図されたこと。それも、私たち家族や屋敷の者が生まれた赤子の性別を知る前に……。そして生後すぐ私たちと離れて暮らしている間に、あなたは神籠の力を引き継ぎましたね? それから小学校、特別士官学校を経て将校へ……これまでの生涯のすべてを、男として」
祝部とは、神實の家系専属の神職だ。それぞれの神實に応じた祖先神への祭儀、神籠の継承の儀などを司る。八朔家の祝部は普段皇都内におらず、八朔の本籍地である百雷山の麓の社殿で生活している。
奈月は言葉の矛先を、今度は父へ向けた。短い詰問だったが、圧のある口調だ。
「お父さま。この国では、男児のみが神籠となる資格を有するのではないのですか?」
奈月の追及は続く。
「そもそも、生まれたばかりの五十槻が親元を離され、士官の英才教育を受けることになったこと自体が異常です。男児としても異例の対応ではないですか。叔父様のときはそんなことはなかったのでしょう? それも、五十槻が女の子であったとなると……祝部はまるで、最初から五十槻が神籠に選ばれることが分かっていたかのように思えます。神籠の神託とは、あらかじめくだされているものなのか……やはり、恣意的なものなのか」
「それは……」
この場で一番立場の弱い家長が言いよどむ。それを皐月が横からなじりながら口を挟んだ。
「奈月、聞いても無駄よ! だって神籠の継承に関しては祝部以外には門外不出、当事者の神實にはなーんにも知らされないんだもの!」
皐月の言う通り、八朔の家の者は神籠を輩出する当事者でありながら、神籠の継承について、ほとんど内容を知らされていないし関与できないのだ。八朔の当主が代々の祝部から指示されているのは、男児を二人以上もうけるということ。長男は八朔家を継ぐ嫡子となり、次男以下が神籠の候補となる。
万一嫡流に第一子以降女児が二人続いた場合、三子目に男児が生まれたら嫡男と言えど神籠の候補である。神籠は危険な役目を負うので、命を落としやすい。長男が神籠に選ばれた場合の八朔家当主は、家を絶やさぬよう大慌てで次男以降の子作りに励んだり、また長男自身も若くして嫁を迎えさせられたりしていたようだ。分家筋がある時期はそこから養子を迎えたりもしていたが、現在八朔家の分家は絶えている。
そして神籠は一代につき一人が選ばれた。禍隠との戦いなどで先代の神籠が命を落とした場合、祝部がなんらかの形で神託を伺い、次代の神籠に選ばれた男児を百雷山へ登らせ、継承の儀式を行う。
先述のような細かい条件があるので、そのときそのときの都合に合わせ、祝部はある程度は神籠の選択に関して神意に介入できるのかもしれない。だが実際の神託や儀式がどう執り行われているかは八朔本家にはまったく明かされておらず、謎のままである。
五十槻は六歳のときに百雷山へ連れて行かれたらしいが、いまとなっては何も覚えていない。もちろん自分がなぜ選ばれたのかも分からない。
「祓神鳴さまは昔っから肝心の神籠には、なーんにも教えてくれないのよね。なんだって女の子を……それも五十槻を神籠に選んだっていうのよ……!」
皐月はすとんと五十槻の隣に腰をおろした。まだ女学生姿の五十槻へ、よよよとしなだれかかりながら肩を抱く。しかしふと、姉は素早い動作で突然五十槻のまたぐらに手を突っ込んだ。
「……姉上、なにを」
「黙って。一応確認」
五十槻は言われた通り、姉の確認作業の最中は無言を貫いた。やがて確認を終えた長女が、次女へ「無いわ!」と短く報告を上げる。奈月も納得した顔で頷いた。姉の手が下腹部から離れたので、五十槻は内心ほっとする。
しかし姉たちの本題はここからである。
「私は信じられないわ、お父さま! 見て! このかわいい五十槻を!」
皐月がぎゅっと五十槻を抱く。ちょうど顔に姉の豊満な部位が当たった。気まずくて顔を逸らすそばからぐいぐい押し付けられる。
「本当なら、こんな風に女学生の装いをして友達と笑い合って、楽しく、女の子らしく過ごしていたはずよ! それを、それを……!」
「どうして男に混じって軍人になんて……」
姉ふたりの声が湿り気を帯びる。皐月の目元から落ちた涙が、ぽたぽたと五十槻の行燈袴を濡らしている。奈月も手巾で目元をぬぐっていた。
娘たちから責め立てられている父も、同じくぽろりと涙をこぼす。元々涙もろい質に加え、五十槻の境遇もある。
「私だってそうだ。お前たちと同じように、手元に置いて女の子として幸せになってほしかった」
姉たちは何も言わなかった。五十槻が帰ってくる前に、父は洗いざらい彼女らに話している。五十槻の人生は生まれた瞬間に家族の手を離れ、祝部や軍の思惑に掠め取られてしまった。神實華族なんて華やかなのは立場だけで、自分の子ひとりどうにかすることもできないのだ。
当事者である五十槻も、何も言えず押し黙っている。自分のことで家族が言い争い、悲しんでいる。普段は顔を合わせる機会が少ないものの、それでも五十槻は父や姉、継母のことが好きだった。家に帰るたび、屈託なく向けられる笑顔に救われる思いだった。
「五十槻。今日私は、四馬神の神事兵連隊本部へ行ってきた」
父が末の愛娘へ語り掛ける。震える声を抑えながら続ける。
「荒瀬中佐にお会いしてきたんだ。父として、お前の除隊を直談判してきたよ」
落胆の強い声で言うので、結果なんて聞かなくても分かる。やはり父は「聞き入れてもらえなかった」と小さくつぶやいた。
「思っていた通り、荒瀬中佐はお前が女子だということをご存じだった。おそらくは百雷の祝部が陸軍に伝えているんだろう。中佐は詳しくは答えてくれなかったが……」
荒瀬中佐は八朔の当主に対し、五十槻の本当の性別を知りつつ身柄を預かっていることを、あっさり認めた。認めたうえで、長年その家族に心痛を強いていることを謝罪した。
けれど、五十槻をどうしても軍属から解放することはできないという。理由を聞いても、答えてくれるはずもない。
結局、八朔克樹と荒瀬史和中佐の面談は八朔側の完全敗北。他にも様々と追及したものの、暖簾に腕押しでのらりくらり荒瀬中佐にかわされ、ついに五十槻の身柄をなんとすることもできないまま、父は失意の帰宅。真っ青な顔で帰宅し自室へ引きこもろうとしたところを皐月と奈月に介入され、いまに至る……というわけだ。
「うぅ……すまん五十槻。無力な父を許しておくれ……」
「許すも何も、父上は何も悪くない……」
「うっうっ、五十槻はいい子ね……! ちょっと奈月、チリ紙ちょうだい」
「はい姉さん」
鼻水が出てきたらしい皐月がブーと盛大に鼻をかむ。しんみりした空気の中で、皐月がチリ紙を屑籠へ放り投げて口を開いた。
「ねえお父さま。潜入任務とやらが終わっても、このまま五十槻を櫻ヶ原に通わせましょうよ。軍になんか戻らなくていいわ!」
「ば、ばかもん! 除隊を白紙にされたのに、そんなことできるわけないだろう!」
「じゃあみんなで海外にでも逃げればどうかしら。和緒さんも赤ちゃんも連れて」
「奈月までなにを言い出すんだ……! この国の公安は優秀だ、きっと逃げられない」
神籠は貴重な人材なので、高禄と引き換えに厳重管理されている。海外逃亡なぞしてもし見つかったら、本人は収容施設行き、幇助した家族一同も刑務所送りは免れない。「私はお前たちも同じように大事なんだよ、皐月に奈月」と父は再び目に涙を浮かべるが、皐月からは「もう、根性なしね!」と辛辣な一言をぶつけられている。
「穏便に除隊を目指すとなると……我々は華族ですから、士官後三年経ってからの自主退職、でしょうね」
落ち着いた口調で奈月が言った。長女と父も「それが無難だ」と同意する。
「いまの時点で大体入隊後半年か……あと二年半。さすがに長いな……」
「その間に、達樹おじさんみたいなことがなければいいんだけど……」
「言うな奈月……」
達樹、という名が挙がると、書斎はいっそうしんみり静まり返った。五十槻はその名を聞くと、身が引き締まる思いがする。
静寂を破って、五十槻は口を開いた。
「……では、あと二年半は僕は軍人でいていいのですか」
父と姉たちはその言い方に「ん?」と首をひねる。
いていいのですか、とは?
「……もしかして五十槻、軍隊を続けたいの?」
「僕は神籠です。八洲の蒼生を守ることが務めだと言われて育ちました」
「言われた、じゃなくて。私たちはあなたがどうしたいのかを聞いているの」
どうしたいか、と真顔のまま呟いて、五十槻はじっと考えた。
そして気付く。自分の中には何にもない。意志だとか意向だとか、何をどうしたいだとか。何も。
先日は父から除隊を命じられるままに除隊願を提出し、それが却下されたら素直に軍属であり続けることを受け入れた。自分にはもしかしたら、意志なんてものはないのかもしれない。
それにしても、どうして「いていいのですか」という言葉が口をついてきたのか、よく分からない。
途端に黙りこくる末妹を、皐月が再び抱きしめ、奈月が手を握る。
「よーしよーし。長い男所帯の生活で、随分心がくたびれちゃったのね、きっと……」
「大丈夫ですよ五十槻。あなたには心強い姉が二人もいます。実家にいる間は、ゆっくり本来のあなたを取り戻していきましょうね」
本来の自分とは何ぞや。五十槻はさらにわけが分からなくなる。でも、姉ふたりに優しく構ってもらえるのは、ちょっとこそばゆくて、存外悪くない。
「ともかく。皐月に奈月よ、五十槻の性別については、まだ秘密にしておいてくれ。不本意ではあるが、この子はいまのところ軍人だ。下手に真実が広まっては立場を悪くするかもしれない」
父の忠告に、姉ふたりは無言で頷いた。秘密を知る者が、父と中尉のほかに二人増えた。
「ところでお前たち、そろそろ嫁ぎ先に戻らなくて大丈夫なのか?」
少し気力を取り戻した父からの質問に、姉たちからはつっけんどんな返事が飛ぶ。
「だいじょぶだいじょぶ。夫にはちゃんと言ってあるから」
「お父さま、私たちは毎日この家で五十槻や赤ちゃんに構うことができて、たいそうハッピーなんです。遠慮なくまだまだ居座りますからね。実家最高!」
「それよりお父さま、気分が持ち直したなら和緒さんのところに行ってあげて。だいぶ心配してらっしゃるはずだから」
「うむ、そうだな……」
だいぶ疲れた様子で、父が書斎を出て行った。
あとに残された姉妹たちは、なおも末の妹をぎゅうぎゅう抱きしめている。さすがに五十槻も恥ずかしさの方が勝ってきた。
「あの、姉さま。そろそろ離」
「いいのよ五十槻。気が済むまで姉の腕の中にいなさい」
「いえあの」
「それにしても、本当に今まで大変な人生だったわね……特に、月の物とかはどうしていたの?」
奈月の質問に、五十槻はふと、顔をきょとんとさせる。
「つきのもの、ってなんですか」
「えっ」
「はぁっ!?」
何か悪いことを聞いたのだろうか。五十槻の素朴な質問へ、姉たちは絶句したまま、凄い形相をしている。
気付けばかなり夜も更けている。次の日学校は休みだが、五十槻には用事がある。
「すみませんが姉上がた。明日は用事がありますので、失礼します。おやすみなさい」
「ア、ウン……」
「オヤスミナサイ……」
なにやら放心している様子の姉を残し、五十槻も書斎を出た。
──少なくともあと二年半、僕は軍人だ。それは間違いない。