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三
禍隠を見つけなければ。
軍人としての使命感に燃えながらも、女学校初日の五十槻はいまのところ、女学生としての生活に翻弄されていた。
「みなさん、次は音楽室で授業ですよ」
潜入初日二時間目は合唱の授業である。先生が弾くピアノの伴奏に合わせ、三年二組の歌う異国の唱歌は高らかに響く。ただし、ひとりを除いて。
「あ……あぁ?」
五十槻はアルトの声部に任じられたが、まず曲を知らない。そもそも国歌と軍歌しか知らない。頑張って歌ってみるが、どうしてもソプラノを歌う生徒の声につられてしまう。
「ふふっ、無様な歌声」
合唱のなかで誰かが嗤った。仰る通り、と五十槻はなおも慣れない合唱に奮戦する。歌っているとき、ふと隣の生徒と目が合った。眼鏡でおさげの、気の弱そうな生徒だ。眼鏡の少女は一瞬五十槻と目が合ったことに気づくと、気まずそうにそっぽを向いた。
「次の時間はお料理ですよ」
今度は調理室に集められ、みんなして割烹着を纏い。
「今日の献立は肉じゃがです。さあ皆さん、まず材料を切っていきましょう」
「先生、稲塚さんがすごい切り方してます」
「まあまあ稲塚さん。一瞬のうちにじゃがいもの皮をむいてはだめよ」
もっとお淑やかにね、とたしなめられて、五十槻は大人しく包丁を置いた。どこからともなく漏れるくすくす笑い。周りを見てみれば、みんなゆっくりと、丁寧にじゃがいもの皮をむいている。なるほど、女子とは速さよりもお淑やかであることを優先するのか。色々と誤解しながらなおも周りを観察していると、再び目が合う眼鏡のおさげ。やっぱりふい、と視線を逸らされる。
「さあ、お花のお稽古です。みなさん、できあがった方から作品を発表してください」
花を生けるのも五十槻は初めてだ。しかし勝手が分からない。五十槻が四苦八苦している間に、他の生徒は華やかな作品を次々に完成させていく。
「わあ……」
「さすが美千流さん……」
隣席の令嬢・清澄美千流は、白い清らかな菊に可愛らしい竜胆を寄せた、上品な作品を仕上げていた。
「まあ清澄さん、素晴らしい作品ね。題名を教えてくれますか?」
「ええ、『白獅子の君』です……」
美千流はぽっと頬を染めながら言う。
ほう……とクラス中からため息が漏れた。以前その名で呼ばれた本人は、ちょっとギクッとしている。
「続いて稲塚さん」
「はっ!」
五十槻もちょうど仕上がったばかりの花器を、ずずいっと前へ押し出す。その勢いで、剣山に中途半端に刺さっていた花がパタリと倒れた。花器の上にはまばらに草や花が盛られていて、まるで戦場跡の様相を呈している。
「え、えーと……稲塚さん。題名は?」
「はっ、『尽忠報国』です」
題名は特に考えてなかったので、ひとまず座右の銘を言っておく。たちまち生徒の間に生じるコソコソ話。「あんなぐちゃぐちゃなお花初めて見ましたわ」「おうちで何を習ってきたのかしら」「感性激ヤバですわ」……など。様々な意見がヒソヒソ語られるが、五十槻はそれらを真摯に受け止め、今後の学びに活かすことを胸に誓うのだった。
「…………」
眼鏡のあの子も、あっけに取られた顔でこちらを見ている。
そんなこんなでお昼休憩である。
現在のところ、ただ授業を受けただけでまったく収穫はない。自分の席で瞑目し、五十槻は静かに考えを巡らせる。
今日の授業は調理室や和室など、教室移動を伴う時間割だったため、思っていた以上に学院内を歩き回ることができた。しかし観察する限り、学舎には不審な点はないようである。
(やはり中尉が言っていたようにするしかないのか……)
このままでは埒があかない。だが、藤堂中尉の助言は、いささか五十槻には難易度が高かった。
──クラスメイトと昼食をともにして、親睦を深めてみてはどうだ。まずは友達を作りなさい。
中尉の言葉を胸中に反芻し、そして五十槻は苦悩した。同年代の女の子となんて、今まで一度も話したことなんかない。何をどう話して仲良くなり、そして禍隠の糸口を掴めばいい──?
五十槻が悩んでいる間にも、教室内の仲が良い者同士で、生徒たちが次々と食堂へ向かっていく。
(こうなれば玉砕覚悟だ)
皇国陸軍少尉・八朔五十槻。腹を括るのには慣れている。慣れ過ぎてつい最近、割腹未遂事件も起こしたばかり。
姉が作ってくれた弁当を抱え、ぐわらと椅子を引き席を立つと、そのまま右隣の席へ顔を向けた。
「清澄学級委員長!」
「なっ、突然なに!?」
隣席のたおやかな娘は、心底驚いた様子でこちらを振り返る。五十槻が彼女に声をかけたのは他でもない、一度禍隠に攫われたことがあるからだ。彼女との会話で、何らかの手がかりを掴めるかもしれない。
「恐れながら本日の昼食を、委員長とともにさせていただきたく存じます」
「まずその口調どうにかならないの!?」
美千流はぷりぷり怒りながら立ち上がる。猿猴の禍隠から助け出したあの晩は楚々とした態度だったのに、学校での彼女は五十槻に対し、常に棘がある。そもそも同一人物と認識されていないから、仕方がないことだが。正体を知られたくない五十槻としては、非常に助かる。
「ねえあなた、美千流さんに馴れ馴れしく話しかけないでくれる?」
「稲塚さん、あなた身の程をわきまえた方がいいわよ。この方はあの清澄財閥総帥の御令嬢なんだから」
美千流の両脇から腰巾着が二名現れた。中央に立つ美千流も気を取り直したのか、フフンと品よく冷笑を浮かべている。
「ごめんなさいね、稲塚さん。私、友人はしっかりと選ぶことにしていますの」
優雅な口調で言いながら、美千流は見下すような視線を五十槻に浴びせた。
「お歌もたどたどしいし、じゃがいもだってあんなに乱暴にむいていたでしょう? それにお花も不慣れなご様子……あなたみたいな方とお食事をご一緒したら、私お父さまに叱られてしまいますわ」
事実を淡々と語ったまで、という口調で、美千流はつらつらと述べる。両脇の腰巾着たちまでもが得意顔だ。
教室に残っていた生徒の大半から、くすくすと忍び笑いが漏れる。並みの女学生では居たたまれない空気である。このクラスで財閥令嬢の美千流に嫌われれば、人権など無いに等しいようなもの。同じ状況に陥った娘が、わっと泣きながら御不浄へ駆け込むのはよくある光景だった。
しかし五十槻は並みの女学生ではなかった。
「学級長。確かに身の程を顧みない発言でした。何卒ご容赦を」
転校生はまったく顔色を変えず、しかし誠実にさらりと詫びた。「では」と一礼し、弁当を脇に抱え颯爽とその場を辞していく。
「な……なんなの!」
あの真顔が無様に歪んで泣きだしたらさぞ面白いだろう、と思っていた美千流は、鼻を明かされた気分だ。素直に指摘を認めて非礼を詫びられたのに、こんなに腹が立つことがあるだろうか。
怒り心頭ぷんぷこぷんの令嬢の背後で、隅っこの席にいた少女が人知れず席を立った。
清澄嬢との昼食をあっさり諦めて、廊下を歩いていた五十槻を。
「稲塚さん!」
背後から少女の声が呼び止めた。振り返った五十槻のすぐそばへ走り寄ってきたのは、眼鏡でおさげのあの子だ。
教室からちょっと走っただけなのに、少女はぜえぜえと荒い呼吸をしている。
やっと息を整えて、少女は眼鏡の奥の目をしどろもどろさせながら言う。
「よ……よかったら、私とお昼ごはん食べませんか?」
少女の名前は、春岡雫といった。
残暑が去ったばかりの九月の青空の下。校庭にある槐の樹の下のベンチに腰掛けて、五十槻は雫と一緒に昼食を取っている。
この時間、みんな食堂で食事を取っているらしい。うららかな日差しの校庭に人気はなく、五十槻は姉の手作り弁当をほおばりながら涼しくなった微風を浴びていた。
「あ、あの……稲塚さんって、すごいんですね」
雫がおずおずと口を開く。いかにも気弱そうな少女は、眼鏡の奥の瞳を瞬かせて五十槻をほめた。
「みんな清澄さんが怖くて、なかなか逆らえないんです。でも稲塚さんは、初日から堂々としていて……」
雫はたどたどしい口調ながらも、心をこめて語った。どうやらこの娘は、清澄嬢に普段から冷遇されているらしい。
五十槻は昼食の麦飯を口に運びながら、その言葉を一心に聞いていた。
「私、稲塚さんのことを尊敬します……!」
「そう受け取っていただけましたら、それは日々の修養の賜物です。お気持ち有難く。ごちそうさま」
「食べ終わるのが早い……!」
少女は空の弁当箱にまで尊敬の眼差しを向けている。ふと、雫は自分の膝の上の弁当箱へ視線を戻した。俯いたまま、少女はぽつりとこぼす。
「私も、あなたみたいに気丈だったらな……」
少女の吐露に、五十槻は無神経な一言を述べる。
「なればいいではないですか」
さすがに気弱な雫も、少し唇を尖らせて不満そうな顔をした。
「か、簡単に言わないでください。性格なんて、そう易々と変えられないんだから……!」
「…………」
一理あると思った。簡単に自らの性情を変えられるなら、五十槻だってしとやかな令嬢を演じきって今ごろ美千流と昼食に行けただろう。なるほど、女子の世界は難しいし、人生はままならない。
「すまない春岡さん。確かに仰る通りだ、非礼を許してほしい」
「ううん。でも、そうよね。稲塚さんの言うことの方が正しいのよ、きっと……」
そう言って雫の横顔はいっそうの憂いを帯びた。厚めの眼鏡をかけているせいであまり目立たないが、可愛らしい顔立ちをしている。
「あっ」
突然、二人の目の前を横切るものがあった。とっさに五十槻は箸でそれを掴む。
ビビビビビッ! と羽を震わせ激しく抵抗するそれは、かなり大きいスズメバチだった。
「ま、まあ……! お箸で掴んじゃうなんて!」
雫の驚く声を隣に聞きながら、五十槻は薄紫の瞳で蜂を注視する。
スズメバチ。黄色と黒の警告色が鮮やかな毒虫である。毎年何人も死者が出るほど、強い毒と攻撃性を持つ。雫に危害が及んではいけないので遠くに逃がしてこようと、五十槻はベンチから腰を浮かした。けれど。
「ま、まって稲塚さん!」
むんず、と行燈袴が掴まれてしまった。さきほどとは様子が打って変わり、目をキラキラさせた雫が、五十槻の袴を掴みながらスズメバチへ興奮の視線を送っている。
「ちょっと観察させてもらえないかしら!」
変な娘である。五十槻が箸で掴んだままのスズメバチを、雫は上から下から横から、食い入るように観察している。
「虫が好きなんですか」と問えば「大好き!」と即答された。万が一にも蜂が逃げぬよう箸に込める力を保ったまま、そういう人もいるのかと五十槻は感心していた。
雫はそんな転校生に構わず、勝手に口角泡を飛ばしながら語る。
「見てこの綺麗な腹部の縞模様! この模様はキイロスズメバチだわ。街中の民家に巣を作るのは大抵この種類なの。他の種類に比べて狂暴な性格で、なんでも他の昆虫だけじゃなく、カエルとかヘビの死体まで食べちゃうらしいわ! それにね、見て、この綺麗な羽! はぁ、こうしてみると日に透けてまるで宝石みたいだわウフフフフ! それでね稲塚さん、この羽でブンブン飛び回って巣から離れたところにも現れるし、それで……」
五十槻は人生で初めてオタクの熱弁を聞いた。大変な早口で、何を言ってるのかさっぱり分からない。
圧倒されるまま、五十槻が蜂を掴み続けて十数分。やっと満足したらしい少女は、ようやく長広舌を終わらせてくれるようだ。
「ふぅ、いっぱいお話ししちゃった……! でも残念だわ。虫かごを持ってきていれば、この子をおうちに連れて帰れたのに」
「スズメバチを……?」
「私、標本を作ったりもしているの!」
少女は無邪気に言う。乙女の界隈に疎い五十槻から見ても、珍しい趣味だと思う。
やがて、昼休憩が終わる時刻。雫はスズメバチへ散々別れを惜しみ、五十槻はなるべく生徒が襲われないような場所へ蜂を放してやった。
そうして教室に戻る途上、雫はなんの前触れもなく、出し抜けにこう言いだした。
「ねえ稲塚さん。私決めた」
「何をでしょう?」
「もしよかったら、私の師匠になってくれないかしら! 稲塚さんの生き方を、私も真似してみたいの!」
「師匠……?」
思ってもみなかった提案に、五十槻はしばし黙考した。自分との会話を通して、雫が自らの境遇に前向きになれたのなら喜ばしいことだ。
けれど心の内では、自らの神へ助けを乞うように念じる。
掛まくも畏き祓神鳴大神に恐み恐み白く。
自分にはまったく女子というものが分かりません。
なぜか友達より先に弟子ができました──。




